七村紅緒と純白紗智
夜。夕食の後、茜に本を読んでもらった。
茜に頼むのは本当は恥ずかしい。自分の趣味を曝け出すことになるから。
けれど茜の声に耳を傾けているとき、私の周囲の闇はとても居心地がいい。闇の中には、私を傷付けるものは何もない。安心感にくるまれる。私はその時間がとても好きだった。茜の手を煩わせてしまうから、そう頻繁には頼めないが、聞き終わったときには、いつも今度は何を頼もうかとすぐに考え出す。
ひとつ思いついていた作品があった。
文芸部が過去に発刊してきた作品の中に純白先輩が書いた短編があるはずなのだ。
それをこれまで選んでこなかったのは、純白先輩が嫌がるからだった。先輩には珍しい弱みで、それを使ってからかうのは私からのちょっとした悪戯だった。読んでみたいと思う反面、読んだら悪戯も使えなくなるのがもったいなくて、これまで先延ばしにしてきた。
今はもう悪戯をする機会もない。
茜が本を棚に戻して部屋を出ていくと、私は一人になった。このところ、新しい友人たちと楽しい時間を過ごしていたから、部屋を満たす静寂がとても寂しく感じられる。そうして静寂が私の心まで満たすと私は純白先輩と彼のことを考えた。
お昼休みに取り乱した私は午後の授業をお休みした。黄路さんが先生に話を通してくれた。志安さんは私を黒薔薇館へと先導してくれた。
黒薔薇館で私と志安さんを迎えた茜とマジェンタは驚いていた。私が体調を崩したと聞いた二人は大慌てで、途端に申し訳なくなる。
「私も紅緒を看病するわ」
マジェンタはそう張り切ったけれど志安さんは寮に帰ろうと言った。
「紅緒は、今とても混乱してるんだ。今は一人にしてあげたほうがいい」
「でも心配だわ。近くにいるだけでも」
「マジェンタ。きみは近くにいると何かできることはないかって頑張ってしまう。今、紅緒に必要なのは静かな時間なんだよ。紅緒にその時間をあげてほしい」
マジェンタはまだ迷っていた。
「紅緒……」と私に呼びかけてくる。
「……ごめんなさい。マジェンタ。少しだけ、一人にして」
私の言葉でマジェンタが傷付くことが手に取るようにわかった。
「ごめんなさい。本当にごめんなさい」
「ううん。いいよ。でも紅緒。できることがあったらすぐに呼んでね」
「ええ。ありがとう」
マジェンタは別れ際に私を一度ぎゅっと抱きしめてくれた。マジェンタの体はとても暖かった。
私は時間をかけて、少しずつ落ち着きを取り戻した頭で再び考え出した。
彼は純白先輩だった。でもそれじゃおかしい。私は文芸部に彼の純白先輩の二人と一緒にいた。必ずあの部屋には二人いた。それに純白先輩の葬儀には彼と向かっている。
加えて、志安さんたちとの推理で彼は純白家から学院に出入りしている何者かだと判断していた。
けれど。けれど彼は純白先輩だった。つまりここから考えられることは一つ。
私が彼と呼んでいた……私の王子様が黒薔薇の会を率い、マジェンタや黄路さん、志安さんに慕われていた純白先輩だった。彼の名前は純白紗智だった。いや、黒川紗智か。どっちの名前で呼んだほうが彼が喜ぶのかわからない。
私が純白先輩と呼んでいた相手が、学院に出入りする純白家の関係者のほうだ。
彼が名前を名乗れないはずだ。私の前に自分のふりをしている人間が既にいるのだ。名乗れるはずがない。自分も純白だと言ってしまえば、純白紗智が二人になってしまう。
彼の死後。私にとっての純白先輩が彼のふりをして純白紗智の葬儀へ案内した。純白先輩が彼の葬儀に入ることができなかった理由はわからない。きっと家の事情なのだろう。けれど純白先輩が彼のために流した涙はたしかに熱かった。彼らがどのような関係だったのかはわからないが。
私は彼の死にさえ気づいていなかった。酷い裏切りのように感じられた。この館で昨日、三人と笑っていた。マジェンタに親愛を感じて彼を忘れていた。死んだことにさえ気づかずに。
なかったことにしてほしい。私があなたのことを忘れて笑っていたなんて。私はそんなつもりじゃ。あなたは去ってしまったけれど、きっとどこかで笑っているって。時々、純白先輩の死や文芸部でのことを思い出して胸を痛めても、それでも前を向いているって。そう思っていたのに。
こんなことってない。
彼の死が私の身体を突き抜けて、身体が裂かれるような痛みがした。私は声を出して泣いていた。自分の慟哭に遅れて気付いた。私が気付いたとき、茜が私を抱きしめていた。茜は何も言わず、私が声を出して泣くたびに抱きしめる腕の力が強くなった。
夜が来て、朝が来て、夜が来る。
私の時間はぐちゃぐちゃになって、次々に新しい日が来た。時間の感覚はおぼろげだった。
一度だけ灰谷先生が黒薔薇館にやってきた。
私は灰谷先生が来たときは、比較的落ち着いていて部屋で話をすることができた。
灰谷先生は明日から学院は夏休みに入ると言った。
そんなに時間が経っていることに驚いた。私は学院を二週間以上休んでいた。マジェンタは学院に復帰しているらしい。ただし、夏休みはずっと補習だそうだ。
「別にずっと学院にいる予定だったし。別にいいんだけどね」
と強がりを言っていたが、明らかに面白くなさそうだったという。灰谷先生がマジェンタの真似をして言うと、意外にもそれはマジェンタの特徴を捉えていて可笑しくて少し笑った。
他にも学期末の人気投票の結果何かを教えてくれた。灰谷先生に投票したかったのに、また投票できなかったのは申し訳なかった。赤星先生にも入れたい気持ちはあったが、身内票をもらって喜ぶ人ではないだろう。
「赤星くんも心配してるみたい。見舞いに行きなさいって言ってるんだけどね。中々いかなくて。恥ずかしがってるのかしらね。今度無理矢理にでも連れてきましょうか?」
「いえ、大丈夫です」
赤星先生が何を考えているのかは自然とわかった。
あの人はきっと私が立ち上がるのを待っている。派手に転けた私をじっと見ながら。
少しずつ時間の感覚が戻ってきて、私が昨日と今日と明日の区別がつくようになるのにさらに一週間ぐらいかかった。
私は部屋から出れるようになり、茜と一緒に庭園を散歩できるようになっていった。
空を見上げると闇の中には赤い染みのような太陽が浮かんでいた。輪郭はもろく崩れているようにも、内から膨らんでいるようにも見えた。
「暑いわね」
「ええ、もうすっかり夏になりました」
「そうね」
私は純白先輩の死を悲しみ、それを過去にして、彼の死を知ってまたそれを過去にしようとしていた。ぐっと歯を噛みしめる。また悲しみが心を支配しよと広がり始めた。
「お嬢様……!」
「大丈夫よ。大丈夫……」
私は深く息を吐いた。
茜の庭園との散歩を日課にして、問題なく出歩けるようになったのは8月も半ばだった。
「ねえ。茜」
「はい、なんでしょう」
茜は私が倒れてからいつでも私の声が届くところにいるようだった。彼女の心遣いが少し辛く思えることもあった。茜のことを家族だと、そういうふうに思えるようになっていなければ、私は茜にも遠慮して深い闇を未だに彷徨っていたかもしれない。
「支度を手伝ってくれる?」
「ええ、構いませんがどこに?」
「学院に行きます」
茜は少し間をあけてから答えた。
「わかりました」
「いつも、ありがとう」
「もったいないお言葉です」
支度を整えて、私は茜と数週間ぶりに学院への道を辿った。森を抜け校舎に入る。
「特別教室に向かって」
言うと茜はすっと方向を調整した。
特別教室の前で
「ありがとう。茜。午前中はここで過ごそうと思うわ。午後になったら迎えにきてくれる?」
「しかし……私も近くに残りましょうか」
「茜。学院にメイドがいるのは一応ルール違反なのよ。それに二学期が始まっても私と一緒授業を受けるつもり?」
「しかし」
「大丈夫よ。ありがとう。心配をたくさんかけたわ。今日は一人で過ごしてみるから、午後になったら忘れずに迎えに来て」
「……わかりました。必ず」
「ええ。本当にありがとう」
茜にはどれだけ感謝を伝えても足らないぐらい。彼女が去ってから、そういえば鍵がかかっていたらどうしようと不安になった。けれど、そうなったら職員室にいけばいいだけだ。夏休みだが、誰かはいるだろう。そう思い直して扉に手をかけるとあっさりと扉は開いた。
少しほっとして中に入ると、意外な声が私を迎えた。
「紅緒!? もう大丈夫なの!?」
久しぶりに聞いた友人の声はすぐに私に近寄ってきた。私は驚いて聞き返す。
「マジェンタ? どうしてここに?」
「あのね。……補習。赤星の奴。まさか夏休みも毎日補習にするなんて!」
「赤星先生。でしょ? でもどうしてここで?」
マジェンタは少し照れたように声を上擦らせた。
「だって、広い教室に一人ってけっこう寂しいんだもん。ここだったら、ちょうどいい大きさだし。紅緒のことも心配で、なんか他の場所より紅緒のそばにいられるような気がして」
私はマジェンタに抱きついていた。
「な、なに? どうしたの? まだ体調悪い?」
「違うわ。急にあなたに抱きつきたくなったの」
「え、そんなことあるの?」
「あるの」
マジェンタはやっぱり暖かい。
マジェンタへの親愛の気持ちはやはり嘘ではない。彼の死はまだ悲しい。どちらが偽物というのでもない。どちらも本物だ。
「マジェンタ。ありがとう」
「なになに? 私はこれどうしたらいい?」
「そのままでいて」
「わかった」
マジェンタがそう言って「気をつけ」をした。可笑しくて自然と笑っていた。「ふふふ」と笑い声が出てしまう。
「え、今度はなに? ほんとどういうこと?」
「なんでもない」
笑いながらマジェンタを抱きしめる。そうしていると少し気持ちが楽になった。
「マジェンタ。何の声だ?」
また扉が開いて、今度は赤星先生がそう言いながら入ってきた。
そうして、ぴたりと動きが止まったのが気配からわかる。
「えっと、何してるんだ?」
「マジェンタと抱き合ってるんですよ」
「ああ、そうだな。そう見える」
赤星先生は咳払いをしてから、「紅緒。来てたんだな」と言った。
「はい。ご心配をおかけしました」
「もういいのか?」
「すっかり。とは言えないかもしれませんが」
「そうか。何があったのかは知らん。だがまあ、頑張ったな」
「ええ。ありがとうございます」
「あと、なんだ。一応聞いておくんだが、マジェンタとお前はどういう仲だ?」
「友達です」
「友達か」
「ええ。女の子は仲の良い友達に抱きついたりするものなんです」
「そうか。うん。まあ、そうか」
「ええ。そうです。ね? マジェンタ」
「え、まあ、そうかな? かも? たぶん」
「……そうか。まあいい。紅緒。病み上がりであまり無理はするなよ?」
「はい、今日は午前中で帰ろうと思います」
「それがいいな」
「はい。ただ、明日から私も補習に参加していいですか?」
「お前が?」
「はい。私も学校をお休みしていました。少しでも遅れを取り戻したいですし」
「無理はしないな?」
「しません」
「え、じゃあ明日から紅緒と一緒なの?」
「マジェンタと部屋を分けたほうが集中できるか?」
「どうでしょう。最初はゆっくり始めるつもりなので。一緒でも大丈夫だと思います。気も紛れますし」
「わかった。じゃあ明日からお前もここで補習だ」
「やったー!」マジェンタが歓声を上げる。
「マジェンタの邪魔はするな。こいつの遅れてる勉強を追いつかせるチャンスなんだ」
「もちろんです。私が隣にいるからには、絶対にサボらせません」
「え?」
「よし。今日の午前中も見張りを頼む」
「承知しました」
赤星先生はそうして特別教室を出ていった。
私は扉がぴしゃりと閉まる音がするまで彼に向かって頭を下げた。
「さ、マジェンタ。勉強しましょう」
「えぇ……」
「わかるところなら教えてあげるから、ね? 一緒に頑張りましょう?」
「うーん。なんか騙された感じがあるなあ。でもまあ紅緒が言うなら」
「わかるようになったら勉強も楽しいわ」
「ほんとかなあ」
マジェンタは疑わしげな声を出す。
本当に勉強が嫌いなんだなと確信できる声だった。
「一緒にやったら楽しいわよ。いま、どこやってるの?」
「うん。えっとね、三角関数なんだけど」
「……。……数学かあ」
茜が迎えに来るまで私たちの進捗がたくさんあったとは、言い難かった。
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