鎖骨
白原 糸
序章
序章 鎖骨
国を守りし
勇めや勇め国の為
骨と成りてぞ勇ましき
紅染むる若桜
宜成る骨にまた誓う
国を守りし盾成れば
進めや進め国の為
骨と朽ちてぞ名を馳せる
我がもののふの誉れなれ
宜成る君の名を上げて
国の誉れの君が名を
上げてぞ刻む我こそも
骨と残らぬ戦場に
駆けてぞ止まぬ歓声を
宜成る骨を日の本に
国の誉れを身に受けて
玉と砕けや諸共に
骨と朽ちても名は残る
日本帝国万歳と
軍歌『宜成る骨』作詞作曲、年代共に不明
※
骨の形を確かめるように、彼の指が私の鎖骨に触れる。継ぎ目がないかを確かめるように鎖骨に触れる彼の手はまるで、骨に服従するかのように離れることはない。
常に熱を持つ私の体には、冷たい手が心地よかった。
私は幼い頃から病弱であった。あまりにも体が弱いために七つを迎える前に死ぬだろうと言われていた。
幸いにも私は病弱なままであるが、どうにか育ち、七つを迎えた。だけど、病弱であることに変わりはなかった。
それでも七つの子どもである。私は一度、親に黙って彼と共に外に抜け出したことがある。彼の名誉の為に言うが、抜け出したのは、私の我が儘だ。彼は何度も止めたが、私に根負けしてしまった。
久方ぶりの外は私にとっては、楽しいものであった。私は誰の目もないのを良いことに走り回った。いつもならば危ないですからと兄や大人に抱えあげられる私は、走り回れるのが楽しくてならなかった。
彼が止める声を何度も振り払いながら、私は心行くまで走り続けた。
そして、とうとう、熱にふらついた私は転んだのだ。左の肩を打ち付けるようにして地面に叩きつけられた。軽やかな音の後で激しい痛みが襲い、私はうずくまったまま、動けなくなった。
青ざめた彼が大人を呼ぼうとするのを止めて、私は彼の袖を引いたまま、動かなかった。
行かないで、怒られる、ということを私は彼に言っていたそうだ。彼は近くにいた大人に助けを求めると、痛みに呻く私を慰め続けた。
あの後、私は高熱と共に七日ほど寝込んだ。
私が抜け出したことはかなりの大騒ぎとなった。私の我が儘のせいで女中はおろか、彼と彼の父にまで累が及んでしまった。
彼の父は私の父の部下であり、幼馴染みであった。
父は近衛師団の少佐であり、彼の父は中尉であった。示しを付ける意味で彼は私の父に叱られた。
父が彼を叱りつける声が聞こえてくると、私は外に出るなと言い含められていたにも関わらず、耐えきれずに障子を開けて、縁側に出た。熱にうなされながらも外に出ようとする私を女中は何度も止めたのだそうだ。
それでも、私が悪いのです、と何度も繰り返して外に出ようとし、最後には女中を振り切って客間に来たので父はとうとう、降参したそうだ。
父はそのときのことを嬉々と語る。真っ赤な顔をしながらも凛々しい表情を浮かべ、友の為に馳せ参じた、と酒の席で語るのだそうだ。
その時のことはあまり覚えていないが、父の、病弱ながらもその心意気や益荒男よ、という言葉は覚えている。そして、彼が許されたことも覚えている。
彼が許されたことで安堵した私はあの後、気を失うように倒れたのだという。
そして、私は痛感した。私の我が儘は私ではなく、他の者が叱られるのだと。それは自分が怒られるよりも悲しく、辛かった。私が勝手をしたとしても、怒られるのは私ではなく、周囲の人であることを、私は七つにして突きつけられたのだ。
以来、私は我が儘を言わなくなった。
私は、小学校にも行ったことがない。何をするにしても全て、家の中だった。
散髪も他人が来ると私が高熱を出してしまうためにままならず、髪は伸ばしっぱなしであった。
おかげで腰まである長い髪を切るのは二人の兄と、彼の役目であった。
そして、私が髪を切るのは、兄達が家にいる時と、彼が遊びに来たときだった。
そういえば、いつからだったろうか。
彼が私の鎖骨に触れ始めたのは。
彼が幼年学校に行ってからしばらくしてのことだったのだろうか。軍服を纏う彼の眩しさに目を細めながら、彼の思い出話を聞いていたときだったのか。
ああ、そうだ。私が彼の母校の百日祭の歌を歌っていた時だった。
――宜成る骨は日の本の……
と歌ったところで彼が、腕なる骨だよ、と言ったのだ。私は何故か宜成る骨と歌っていた。腕なる骨と歌うところを何故、宜成ると歌ったのか分からなかったが、間違えた気恥ずかしさに、はにかんだ。
すると彼は「服従する骨、か」と言って私の顔を覗き込んだ。
凛々しくつり上がった眉毛と、形の良い二重の切れ長の目。整った鼻梁と、薄い唇。年若い女中が格好良いと顔を赤らめる彼の顔が近くに来た時、私は目を丸くした。
「鎖骨は、もう痛まないのか」
私は目を丸くしながらも頷いた。
「いつの話だと思っているの。もう、とっくに治っているよ」
ほら、と私は肩を上げた。
「……触ってもいいか?」
「え?」
彼の申し出に私は間の抜けた声をあげた。だが、彼は真摯な表情で言ったのだ。
「本当にくっついたのか、確かめたい」
私は、断われなかった。
断わることが出来なかったのは、彼に対する自責の念が今も尚、残っていたからだ。
幼い記憶に今も残る。叱られている彼の姿。あんなに怖い父の声を浴びながら、姿勢正しく座り、涙ひとつ流さずに俯いていた。
あの日の彼の姿に押されるようにして、私は答えてしまった。
「いいよ」
すると彼の大きな手が伸びた。着物の上から触られるのだと思っていた私は息を止めた。
彼は着物の襟の中に右手を差し入れて、そのまま私の、左の鎖骨に触れたのだ。
常に熱を持つ私の体には、彼の手が酷く冷たかった。冷たさに体を硬直させた私を気にすることなく、彼はそのまま鎖骨に触れた。
骨の形を確かめるように、親指で鎖骨を撫で、そうして次に人差し指、中指、薬指、小指で私の鎖骨の形を確かめた。
継ぎ目がないかを確かめるように彼の指が私の鎖骨に優しく触れる。
まるで、女性に触れるかのような優しい手つきであった。私は何故、彼が鎖骨に触ろうとしたのか、分からなかった。
私の鎖骨に触れながら彼は歌を歌った。
「宜成る骨は日の本の……」
私の間違えた言葉をなぞるように艶のある声で朗々と歌う彼に、私は目を丸くして、思わず笑ってしまった。
「腕なる骨、だろうに」
あえて指摘すると、彼は私の鎖骨に触れたまま、笑んだ。
「宜成る骨の方が好きだ」
そう言った彼の声音は真剣そのもので、私は何だかくすぐったいような心地であった。
「間違えて歌わないようにしたまえ。詞を間違えるのは作詞者に失礼だ」
彼の手は私の鎖骨にまだ触れていた。彼は無言のまま、それでも私の注意に答えるように鎖骨をなぞるのみだった。
以来、彼は私の下に訪れる度に鎖骨に触るようになった。骨の形を確かめるように触れる彼の手に、私は羨ましさを覚える。
その手の、私とは違う、男の厚みのある手を、私は羨ましく思う。私には到底手に入らぬ、健康な手だ。その手が私の鎖骨に触れている。それは彼の満足するまで続くのであった。
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