二十六人目 馬

 私ね、馬が好きなの。

 村で馬を育てていてね、立派な馬だったの。

 荷物を牽引する馬だから足も太くてね。

 私はその時いくつだったのかしら。まだ一人前じゃなかったことは確かね。

 それでも馬の世話を一人で任されるくらいの年齢のだったとは思うの。

 私が育てていた馬はね、黒々とした馬でね。遠くから見ると影絵のような見た目をしているの。それくらい、真っ黒だったのよ。

 馬って人間が思っている以上に繊細なの。少しの物音でも怯えるし、馬のことをよく思っていない人には懐かないし。

 ただ、あの子はそんな素振りを私に見せたことがなかったの。

 名前はつけていないわ。ふふ。だって、いつか別れを告げる馬だもの。名前を付けたら寂しくなるじゃない。

 その子はね、軍馬になる予定の馬だったの。戦場を駆ける馬。

 だけどね、結局、軍馬にはならなかったの。病気で亡くなってしまったのよ。

 ……私の村はね、あまり言いたくないのだけど、死んだ馬の頭を飾る風習と、夜這いの風習がある村だったの。

 あの子が亡くなった時、首を切って飾ることが決まっていたんだけどね、私、嫌だって言ったの。そしたら、夜這いと引き換えにしてやるって言われたの。

 夜這いは大抵は取り決めされるのだけどね、私は嫌だ、と言っていたから。あの子の首と引き換えにって言われて、私、分かった、って言ってしまったの。

 それくらい、あの子が大事だったのよね……。

 死んだあの子が火葬されるまで、私、あの子の傍にいて、ずっとずっと撫でていた。

 あの子が火葬されて、私、その日から夜が来るのが怖かった。

 夜が来ることの怖さを、この年になっても、ずっと覚えている。物音一つするだけで怖いのよ。

 薄っぺらい布団の中で震えながら、ああ、今の私、馬みたいって、怯えていた。

 ある時ね、引き戸の開く音がしたの。ああ、私、もう駄目なんだって。あの時程、この世の終わりを感じたことはなかった。

 布団をつかまれた時、蹄の音がしたの。

 男女の悲鳴が聞こえて、私、跳ね起きたの。そしたら、開けたままの引き戸の先に、首のない馬がいたの。

 首がなかったけど、私、あの子だって分かった。

 同時に、あの人達、約束を守ってくれなかったんだと、体の内から怒りが湧いた。

 夜の中でも分かる、黒々としたあの子の姿を見た私、大事なものだけ引っつかんで、草履を履いて、外に出たわ。

 腰を抜かして地べたに座る伯母と、向かいの兄ちゃんの呆然とした顔が忘れられない。その顔を見た時、私、怒りが消えて、悲しさが湧き上がってきたの。

 私は、物なんだって。物でしかなかったんだって。

 私の名前を呼ぶ声を無視して、首のない馬の下に走った。

 ……今、思うと本当に、無謀だった。

 軽やかに駆ける黒々とした馬の後ろを必死になって走ったわ。捕まったら終わる。捕まったら私は殺されるって思いながら、村の外に繋がる林道を走り続けたわ。

 喉の奥に血の味を感じながら、走って走って、やがて涙が出て来てね、泣きながら走ったわ。

 もう、わんわんと泣いた。

 全部、悲しかったからね。

 どこまで走ったのかしら……。もう走れない、と思った時、あの子が止まってね、乗れ、と言うかのようにこちらを見るの。

 首がないのに、黒くて艶やかな目がこちらを、じっと見ているのが分かるのよ。

 馬の乗り方は覚えている。本当は乗っちゃ駄目だったんだけど、周囲の乗り方を見て覚えたの。こっそり乗ったら、その日のうちにばれて、父に張り倒されたけどね。

 私、そうっと近づいて、あの子に触れたの。

 そしたらまた、泣けて来てね。

 触れた毛並みがね、あの子そのものだったの。

 あの子に跨って、そこからは、覚えていない。

 気付いたら、どこかの町の、活版印刷所の前にいたの。

 そこの女将さんに働かせてくださいってお願いしたの。後はもう、ご覧の通り。

 本当に、あの時、逃げて良かった。

 ……でもね、今も思うの。あの時の足の速さを考えても、県を跨ぐって不可能でしょう。あの子が私を乗せて連れて来てくれた活版印刷所はね、私の住む村から県を二つ、越えた場所だったのよ。

 近くだと連れ戻されるって分かっていたのかもしれないね……。

 私の村、今もひっそりとあるわ。夜這いは今はもう、やっていない。あの後ね、従姉妹の姉さんからどうやったのか電報が来てね、とある駅で会うことにしたの。

 そしたら、私が逃げたあの夜、十数人、死んだんだって。

 ……どの遺体も首だけが見つからなくて、首のないまま、火葬したんですって。

 姉さんがね、ぽつりと言ったの。

 死んだ人、夜這いを決めていた人達と、嬉々として夜這いをしていた男女だけだったんですって。

 ……その近くにね、あの子の首がぽつん、とあったそうよ。

 これは後から分かったんだけど、その十数人、あの子の首を切った人達でもあったの。燃やすんだから分からない。夜這いの済んだ後で馬の首を飾ればいいって笑っていたのを見ていた人がいるらしくてね、だから殺されたんだろうね、って。

 伯母と、むかいの兄ちゃんは、生きている。

 実は、あの二人ね、私を逃がそうとしていたんだって。伯母の年の離れた兄が活版印刷所で働いていて、そこで働かせてもらう手筈だったんだって。

 そうそう。私が働かせてくださいって頼んだあの活版印刷所。だから電報が来たのよ。

 私、それ聞いて、安堵して、その場で泣いちゃった。

 ……あの子、私の為に出てきてくれたんだなって。そして私、護られていたんだなって……。

 あの子の首は、私が引き取って、今はとある場所に埋葬してあるの。

 とても綺麗な花の咲く場所でね。そこに行くと、蹄の音が聞こえるらしいのよ。きっとあの子の蹄の音ね。

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