第2話 夏 桔梗
緑豊かな山あいの里は、古くから雷神に
「
と、誰もがそう口にし、遊びに夢中になっている子どもでさえ、
「おっといけねぇ。雷神様、今日も里を守ってください」
と、祠の前を素通りすることはなかった。
その里の領主、
「今年は、稲の実りが良いようですね。里の皆さん、本当にご苦労をおかけしています」
時には、田植えや稲刈りまでも手伝おうとし、お付きの者に慌てて制止されることも一度や二度ではない。そんな姫様だったので、里の者たちも「姫様」と気軽に声を掛ける者も多かった。
美しい姫様には、当然のように縁談話は次々と持ち込まれていた。
「殿、そろそろ萩様にご縁を結ばれてはいかがなものか」
家臣にそう進言されても、大事な萩を手放すことが惜しいのか、なかなか首を縦には振らない。
「いつかは、嫁に出さねばいけないことは、わかっておる。わかっておるのだが…」
はっきりしない友之進に、家臣も呆れるしかなかった。
萩が十七歳になって、間もなくの夏の夜。昼間の蒸し暑さもやっとおさまり、開け放たれた障子から、月明かりが部屋のなかに差し込む。
「まぁ、なんてきれいなお月様」
そのあまりにも美しい月夜に魅せられ、萩は庭へと足を進めた。雲のない夜空に、悠々と輝く満月。時折吹き抜ける夜風は、萩の頬を優しく撫でる。あまりの心地よさに、しばらく時間を忘れてしまう。
「姫様、そろそろご
「もう少しだけ、ゆっくり月を見ていたいの。下がってくださっていいわ」
誰にも邪魔されず、一人ゆっくり月に語りかけたい。そんな思いにさせられる夜だった。
月に住むといううさぎは、一人寂しくないのでしょうか。かぐや姫のお伴でも、していればいいのですが。そうそう、この国の王から、思いを寄せられたかぐや姫は、どれほど美しかったのでしょう。一度、お目にかかりたいです。そしてお尋ねしましょう。月から見えるこの里は、きっと美しい里でしょうね。
そんな幼い子どものようなことをつぶやいていると、どこからか、美しい
「どなたが、奏でていらっしゃるのかしら。里の者が…」
萩は、一瞬ためらったものの、琵琶の音色に誘われるまま、一人屋敷を抜け出した。一人での外出は、もちろん初めてのことだった。が、何の不安も感じないことに、萩自身も不思議に思う。琵琶の音色が、守ってくれているとまで思ってしまう。
「大丈夫、お月様も私を見守ってくれている」
琵琶の音に導かれるまま歩みを進めていくうちに、竹林を抜け、気が付くと萩は大きな池までたどり着いていた。
「こんなところに、池があったなんて…」
池の対岸にある大きな石に腰かけた者が、琵琶を奏でていた。美しく、それでいて悲哀を感じる琵琶の音色は、更に萩の心を鷲掴みにする。
演奏の妨げにならぬよう、少し距離を置いて琵琶の音色に耳を傾けていた萩は、頬を伝う涙に我に返った。
「私、どうして泣いているのかしら」
これほどまで演奏に
少しずつ歩みを進め、琵琶奏者との間を縮めていくと、それが若い男であることが察せられた。萩の兄たちよりも、その背中は広い。月明かりでもわかるほどの艶やかな
「
「申し訳ございません。私が邪魔をしてしまったのでしょうか。どうぞ、そのままお続けください」
その声に振り返って萩の顔を見ようともしない男は、まるで逃げるようにして立ち去ろうとした。その拍子に胸元に挟んであった
萩は、とっさに袱紗を拾おうと池に手を伸ばした。が、思った以上に袱紗は遠くに飛ばされていた。それでも何とか袱紗を拾い上げようと思い切り手を伸ばした瞬間、体勢が崩れた。
「あっ!」
池へ落ちるすんでのところの萩の腕を引き寄せたのは、琵琶を奏でていた男だった。勢いよく引き寄せられた萩は、その男の胸に倒れ込んでしまった。
「申し訳ございません」
驚いた萩は、慌ててその男から、体を離そうと顔を上げたその瞬間だった。その男の瞳の美しさに息を飲んだ。今夜の月に負けぬ輝きを放った瞳だった。
「袱紗など、惜しうない。池に落ちてしまったら、どうされる」
そう言われて、萩は我に返って、男の胸から身を離した。
「失礼いたしました」
「拾おうとしてくださったお気持ちだけで、十分感謝する」
そう言い残して、男は立ち去ろうとした。萩は、高鳴る胸を押さえながら、自分でも驚く言葉が口から出た。
「お、お待ちくださいませ。今一度、琵琶をお聴かせ願えませんか。私は、萩と申します」
男は、驚いたように振り返ると、優しく微笑んだ。
「私は、桔梗と申す。もう遅い。早く帰った方が良いのでは…」
「では、明日の夜の同じ刻限に、またここに参ります。是非、琵琶をお聴かせください」
萩の言葉に、桔梗は笑みを返すだけだった。桔梗の立ち去る姿を見届け、萩は我に返った。
「急いで帰らねば」
萩は、自分の鼓動の大きさに戸惑い、更に火照る頬を両手で抑えながら、屋敷への道を歩んでいた。もう一度、琵琶を聴きたい。と、思うと同時に、優しい桔梗の笑みを思い出すと、胸の奥が熱くなる。
「明日の夜、本当にお会いできるのかしら…」
そんな思いを抱きながら、屋敷に戻っても、なかなか寝付けない。目を閉じると、美しい月夜と琵琶の音色。そして桔梗の顔が浮かぶ。桔梗への淡い想いに、萩自身も戸惑っていた。
やっと迎えた朝だったが、早く夜が来ないかと待ち焦がれる。
「萩、今日は何事か落ち着きがないようですね。何か気になることでも?」
母に指南を受けて生ける花にも、萩の乱れた心が表れる。
「そのようなことはございません。いつもの萩でございます!」
「まぁ、そのようにむきにならずとも。さぁ、もう少し心を込めて生けましょう」
と言われても、萩の心はここに在らず。お茶を飲んでいても、食事をしていても、頭のなかは、琵琶と桔梗のことのみ。
「姫様、どこぞお体の具合が悪いのではないでしょうか」
とまで言われる始末。
「そのようなことはございません!」
むきになる萩に、周りの者はただ首をかしげるばかりだった。
待ちに待った夜がきた。萩は早めに寝所に入ると、人の気配が消えるのを息を殺して待った。かすかに琵琶の音が聴こえる。
「桔梗様、来てくださっている。早く行かねば」
気持ちは
「桔梗様に、早くお会いしたい」
そっと開けた障子の先に見える月が、大きな雲に隠れた。今が好機。闇に紛れて、屋敷を抜け出せる。冷たくなった指先をぐっと握りしめた萩は、やっとの思いで屋敷を抜け出すことができた。後は、池まで。高鳴る鼓動を押さえて、池へと急いだ。
桔梗は、昨夜と同じように池のほとりの石に腰かけ、琵琶を奏でていた。萩の気配を感じた桔梗は、琵琶を奏でながらゆっくり振り返った。その視線の先に萩の姿を認めると、優しく微笑んだ。小さく腰をかがめて会釈を返した萩は、桔梗の笑みに心が泡立つような感覚に戸惑った。
高鳴る鼓動が、桔梗に聞こえはしないかと、迷いながらも桔梗の近くまで歩みを進めた。が、それ以上桔梗に近づくことは、領域を侵すのではないかと思ってしまう。領主の娘である自分など、とうてい入り込めない尊貴なお立場の方かもしれないとまで思える。もう一度琵琶を聴かせて欲しいと言った自分が、恥ずかしく思えてくる。でも、聴きたい。両手を胸の前でぎゅっと握りしめた萩は、桔梗の琵琶の世界に落ちていくようだと思った。
琵琶の音色だけが、二人を繋ぐ。その時間が永遠に続けば良いのに、萩がいくらそう願おうとも、時は待ってはくれない。月が東天高くのぼると、桔梗は演奏を止めた。
「今宵は、ここまで。萩様、お送りいたしましょう」
「いえ、家はすぐそこです。家の者がすぐそこで待っていますので、どうぞ先にお帰りください」
「そうでしたか。では、気を付けてお帰りください」
領主の娘だと知られることを、萩はためらった。
去っていく桔梗の姿を見えなくなるまで見送ると、それまで聞こえなかった風で揺れる竹の葉音が、夜の闇に広がっていく。大胆なことをしている自分に驚き、また呆れてしまう。寝所にいない自分に、誰かが気が付いていたら何とするか。父上は、腰を抜かすかもしれない。母上からは、厳しいお叱りをうけるだろう。
幸いにも、誰一人萩の外出に気が付いた者は、いなかった。胸を撫でおろした萩は、昨夜とはうって変わり、桔梗の琵琶の音色を思い出しながら穏やかな気持ちで眠りについた。
翌日も、また同じように。そしてまたその次の日も。琵琶の音色が聴こえると、萩は、毎夜屋敷を抜け出し、桔梗の元へ足を運んでいた。言葉を交わすこともない。顔を合わせることもない。そんな日々が続いたが、萩は、それで十分だった。桔梗のそばで、桔梗の琵琶を一人、誰にも邪魔されず聴くことができる。
「これ以上幸せな時なんて、あろうはずがない」
逆に、雨の降る夜は、こんなに不幸な時間はないと思う。
「なんて憎らしい雨なんでしょう」
空を見あげて悔しがる萩に、お付きの者は首をかしげる。
「姫様、恵みの雨と申して、生きる上で雨はなくてはならぬものです」
「わかっています。わかってはいるけど、憎らしいのです」
こんな日は、桔梗様は何をなさっているのでしょうか。と、思いをはせることしかできない。そんな苦しい日を経ての、池での再会は心が躍る。
数日のち、桔梗が初めて萩に語りかけたのは、思いがけない言葉だった。
「明日の夜は、こちらには来られません。新月の夜は、出歩くのは危ない」
新月でなくとも、月明かりのない夜も今まで何度かあったはずなのに。いぶかしく思いながらも、初めて見せる桔梗の厳しい表情に、萩はただ黙ってうなずくしかなかった。
「承知いたしました。では、また明後日」
新月の夜は、草木も眠りについたかのような静寂をもたらす。そんな夜こそ、琵琶の音で心を慰めたい。もしかしたら桔梗も、同じ想いかもしれない。そう思ってしまうと、無性に桔梗に会いたくなる。琵琶が聴きたくなる。夜が更けると、萩は衝動が抑えられなくなった。
「お会いできなくても良い。池に、行きたい。桔梗様を感じられる池に…」
会えないと知りつつ、行灯を頼りに、池へと足を運んだ。
夜風が、心地よく感じられる。風に揺れる木の枝がきしむ音さえ、琵琶の音に聞こえてしまう。そんな自分が、おかしくてたまらない。くすっと笑い声さえ出てしまう。
月を観れば、うさぎやかぐや姫に思いをはせていたのは、ほんの数日前のこと。それが、今では月を観れば思い出すのは、桔梗のこと。物音を耳にすると、思い出すのはやはり桔梗が奏でる琵琶の音色。全く、私はどうかしてしまった。
足早に進む道中、一軒の家の戸が開いていることに、萩は気が付いた。
「あそこは、確か…おすみさんのお宅だったはず。家の明かりも見えないし…どうして…」
萩の身の回りの世話をしているおすみは、昨年病気で亭主を亡くしていた。子供もいない一人暮らしのおすみに、何かあったのではと、萩は声をかけた。
「おすみさん、何か…」
玄関から家の中を見ようと、行灯を差し出そうとしたその瞬間、家の中で、何かが倒れるような大きな物音が響いた。その音に驚いて落としてしまった行灯を、急いで拾い上げようと腰をかがめた萩の目の前を、二つの影が、駆け抜けていった。ほんの一瞬のことだった。慌てて拾い上げた行灯を掲げて、振り返った萩だったが、すでに辺りは漆黒の闇。何も見えない。星だけが輝いている。
何が起きたのか、萩は全く分からなかった。が、ただならぬ異変を感じた萩は、急いでおすみの家の中へ足を運んだ。行灯の明かりを頼りに、家の中をあらためると、目の前におすみが倒れている。
「おすみさん!」
思わず駆け寄ったが、すでに息絶えたおすみの血の気のなくなった顔を見て、そのまま萩は気を失ったしまった。が、遠ざかる意識の中に、覚えのある
翌朝、屋敷が大騒ぎになったのは、当然のこと。
「姫様がいない!一大事!」
友之進自ら、屋敷の中ありとらゆるところを探しまわっていると、「姫様が、見つかりましてございます」の一報が入った。
「どこじゃ、どこにおった!」
友之進の問いかけに、
「それが…。おすみのそばで…」
「おすみ?ああ、おすみの家にいたというのか?なぜ、おすみに家に?」
「その…おすみは…」
死体のそばで萩が気を失っていたという報告に、友之進以下、屋敷内がひっくり返るほど大騒動になった。
「萩は、大丈夫なのだな!」
「はい。傷ひとつ負ってはございません。ただ、お気を失っておられましので、今は、おやすみになっておられます」
おすみは、野犬か狼に襲われたらしいとのことだった。そういう無惨な死を迎える者は、この村で度々いた。おすみには申し訳ないが、愛おしい我が娘が襲われなかったことが、奇跡だったと友之進は、胸をなでおろした。
「夜間、姫が屋敷から出歩かぬよう、しっかり監視をしておけ!」
お付きの者の数が増え、屋敷の警護もより厳重になった。
萩は、床に臥せっていたが、具合がよくなり夜になると想いをはせるのは、桔梗のこと。が、厳重な監視をくぐり抜けて池まで行くのは、至難の業。屋敷の者が寝静まると、微かに聞こえるのは琵琶の音色。その音は、悲しげにまた情熱的に萩を包み込んだ。
「やはりあの女は、我らの正体を知ってしまったに違いない。それゆえ、若に会いに来ぬではありませぬか。あの時、首をかっ斬っておけばよかった」
そう言って、池のほとりで琵琶を奏でる桔梗の背後から、音もなく現れた一人の男。その額には、二本の角。
「いや、あの状態で、私たちの顔を見たとは思えぬ」
そう答えた桔梗の額にも、二本の角が出ていた。
二人は、鬼。
「若は甘すぎる。人間は、我らの正体を知れば、間違いなく殺しに来る。我らが最後の鬼族の生き残り。何として生き延びねばらぬ。さぁ、角を仕舞って帰りましょうぞ」
「わかっておる、鬼風。だが、もう少し琵琶を弾かせてくれぬか。萩が来るかもしれぬ」
三日月の夜空は、星の輝きと相まって一段と美しい。桔梗の奏でる琵琶の音色が、夜空に溶け込んでいく。桔梗の傍に立つ鬼風は、その空を見上げ、遠い昔を思い出していた。想う人の姿は見えぬとも、抱く想いは胸を熱くする。桔梗の心に抱く想いは、その琵琶の音色から十分感じ取られる。辛かろう。苦しかろう。耐えるしかない。耐えてくだされ。鬼風は、祈るしかなかった。
何日も眠れぬ夜を過ごした萩の憔悴に、友之進は心を痛めていた。
「慕っておったおすみを亡くし、萩もさぞ辛かろう。おすみの墓参りに出掛けてはどうだ」
勧められるまま、萩はお付きの者を伴い、重い足取りで屋敷を出た。
久しぶりの外歩き。
「姫様、朝の空気は、気持ちが良うございます」
「ええ…そうね」
「姫様、ほらあそこに蝶が…」
「そうね…」
伴の者が、いくら話しかけようと、萩の心は動かない。が、
「夜の闇が、悪いものを全部消してくれたかのように、朝の空気は澄んでいますね」
その言葉に、萩は思いついた。
「おすみの好きだったリンドウの花は、まだ咲いていないかしら」
初めて萩から声を掛けられた伴の者は、喜んで答えた。
「もう咲いております!今が盛りです」
「ここで待っていますから、リンドウの花を摘んできてくれますか」
「承知いたしました。必ずここでお待ちください。リンドウがたくさん咲いているところに、覚えがありますから」
そう言って立ち去った伴の者の姿が見えなくなると、萩は急いで池へと足を進めた。夜に出掛けることができぬのなら、昼間なら思うように動ける。こんなに簡単なことを、なぜ今まで思いつかなかったのだろうか。万が一の機会が、あるかもしれない。
竹林が見えると、胸が高鳴る。
「桔梗様がいらっしゃるかも…」
池には、桔梗の姿はない。わかっていたこととはいえ、時折さざ波がたつ池は、萩の寂しさを一層深くする。夜とは、全く違う景色の池は、もう二度と、桔梗には会えないのだということを物語っているように感じる。来なければ良かったという後悔が、胸に突き刺さる。
あふれ出る涙を拭い、伴の者と別れたところまで戻ることにした萩は、竹林を抜けた先に、見慣れない屋敷があることに気が付いた。何度も通った道にもかかわらず、池に行くことに意識が向いて、周囲の物に目が届かず、こんな大きな家を見落としていたとは…。自分が、滑稽にも思えた。
「でも…もしかして、桔梗様の…」
何の根拠もなかったが、桔梗の住む屋敷のように思えて仕方がない萩は、無礼を承知で屋敷内へと歩みを進めた。
質素ではあるものの、きれいに整えられた庭。掃き清められ、水が打たれた玄関。その場の空気も、すがすがしさえ感じられる。と、その庭の隅にあった小屋から出てきたのは、薪を抱えた大柄な男。鬼風だった。その鬼風の鋭い視線に、一瞬たじろいだが、
「勝手に申し訳ございません。こちら、もしかしたら桔梗さまのお屋敷ではございませんか」
鬼風の眼光に決して臆することなく、萩はそう言った。その真っ直ぐで純粋な瞳を目にした鬼風は、若が惹かれたのも、無理ないことかもしれない。そう思いつつ、二人を引き合わせることをためらっていた。このまま帰ってもらった方が、この娘のためだ。そう決めた鬼風だった。
「よくぞおいでくださいました」
その声に振り返った萩の目に飛び込んできたのは、優しい笑顔の桔梗だった。月の光の下の桔梗も美しいが、陽の下の桔梗の輝くような笑顔に、萩は思わず顔を伏せてしまった。
「突然お訪ねしましたこと、どうぞお許しください」
その声は、微かに震えていた。
「ようおいでくださいました。どうぞお入りください。鬼風、お茶を頼む」
鬼風が何を言いたいのか、その目を見ればわかる。萩を追い返すこともできる。が、「今日のところは、黙って私の言う通りにして欲しい」という思い。鬼風は、きっと理解してくれる。
鬼風も、桔梗が萩との再会を望んでいたことは十分に察していた。それゆえ、桔梗が、これからどれほど苦しい思いをするかも、鬼風は十分予見できた。お茶を淹れながら、鬼風は悩み苦しんだ。二人を、どう引き離せばよいか。
静かな時間が、ゆっくり流れる。聞きたいこと言いたいこと、互いに山ほどあった。が、茶を飲み庭を眺め、言葉を交わすことがなくとも、そのゆっくりとした時間が、この上なく幸せに感じた。いつまでもこうしていたいと思う萩だったが、伴の者がどれほど困っているか。姫を見失ったことで、友之進から厳しいお
「桔梗さま、お名残り惜しいのですが、今日はお暇させていただきます。実は、父上から夜に出歩いていたことを咎められ、夜に出歩くことは難しくなりました。また、こちらにお邪魔させていただいてもよろしいでしょうか。この次は、琵琶をお聞かせください」
「承知しました。では、鬼風に送らせることにしましょう」
鬼風を伴にし、萩は屋敷へと急いだ。鬼風は、萩の少し後ろから萩の背中を眺めつつ、この娘に桔梗を忘れさせるすべを考えていた。鬼族の知恵第一と言われた鬼風であっても、この難問に答えはみつからない。鬼族の秘薬にも、忘れさせるなどという薬はない。
ならば今ここで、この娘のい命をもらうか…。そう思った鬼風が、ぐっと角を出そうとした時だった。
「屋敷は、その目と鼻の先。ここまでで結構でございます」
鬼風を伴っていれば、鬼風に迷惑が掛かるかもしれない。しいては、桔梗にも害が及ぶかもしれないと、鬼風を帰らせることにした。
「承知しました。どうぞお気を付けておかえりください」
萩が、鬼風の殺気を感じ取ったのかと思うような間だった。ゆえに、今日のところは、このままで、まずは桔梗を説き伏せることからに。鬼風は、屋敷に戻ることにした。
鬼風の姿が見えなくなり、急いで屋敷へ向かおうと
「ほほう、これはこれは上玉だ。高く売れるぞ」
萩の叫び声を耳にした鬼風は、急いで戻ってきた。萩を取り囲む賊の多さに、一瞬迷いが生じた。このまま萩を見捨てるか。無理に引き離すことをしなくても、これで片が付く。が、萩の血の気の引いた顔を目にした鬼風は、ぎゅっと拳を握りしめた。
「若が悲しむことだけは、できぬ」
大きな唸り声をあげると、鬼風の額からは、二本の角。口は大きく裂け、鋭い牙がのぞく。首も太さを増し上肢の筋肉が盛り上がると同時に着物がはちきれ、人の倍にも及ぶ肢体が現れた。その様子を目にした賊は、言葉を失い腰を抜かし動けなくなった者もいた。抵抗しようとする者は、その大きな手で頭を掴まれ放り投げられる。中には、鋭い爪が頭に食い込む者もいる。さらに、逃げようとする者は、鬼風の手から噴き出す旋風に体が天高く舞いがったかと思うと、そこから地面に叩きつけられるように落下する。
「わが姿を見た者は、生かしてはおけぬ!」
鬼風のその声は、地から湧き出るような凄みを帯びていた。
萩は、目の前の惨劇に、顔を覆いただ震えるだけだった。
たくさんの死体が転がるところに、桔梗がやってきた。呆然とする萩に駆け寄った桔梗は、萩の肩に優しく手を添えて告げた。
「ご覧になった通りです。我らは鬼族。妖力を使えば、これくらいの者たちは、赤子の手をひねるようなもの。いいですか、あなたは何も見なかった。このままお帰りください。もう二度とお目にかかることはありません」
萩の返事を聞くことなく、桔梗と鬼風は、突風に舞い上がった砂煙のなかに消えてしまった。
「姫様、どこにいらっしゃったんですか。それはそれは心配…」
両手でリンドウの花を抱えた伴の者は、萩のただならぬ様子に言葉を失った。
「姫様、どうかなされたのでしょうか。姫様!」
駆け寄った伴の者の腕の中で、萩は泣きじゃくるだけだった。二人の足元に散乱するリンドウの花が、吹き付ける風に舞い上がっていた。
二度と桔梗に会えない。すべての物音が、琵琶の音色に聴こえてしまう。小鳥のさえずりも、心をかき乱す。ただ泣きくれる日々。食事ものどを通らぬようになり、床から体を起こすことさえできなくなった萩の目は、そこにはいない桔梗を見ていた。
友之進は、方々から医者を呼び集めたり、加持祈禱を頼んだり、果ては自ら薬草を探しに山に分け入ったり、萩の回復に力を尽くした。が、萩はいっこうに良くなる兆しが見えない。
殿様自身がわき目も降らずに動き回る様子を見て、村人たちはいろいろ噂をするようになった。
「萩姫様、物の怪に
「いやいや、お気がふれて、自分の名前さえわからんようだ」
「いくらお美しい姫様といえども、物の怪では嫁のもらい手はないわな」
萩を失った桔梗も、同じだった。一日庭木を眺めて過ごすだけ暮らし。萩と二人で眺めた庭は、あれほど輝いて見えたのに、今はただもの寂しいだけの庭。苦しむ桔梗の心を慰める琵琶を、鬼風は心を鬼にして取り上げた。
「今しばらくの辛抱です。人間の心は移ろいやすいもの。若のことも、きっと忘れるときが来るでしょう。それまでどうぞ琵琶を手にすることも、我慢なさってください」
萩と過ごした日々が、思い出される。夜になれば、なおのこと。月が満ちてくると、その思いは胸を押しつぶすほど膨れ上がる。萩は、今頃何をしているのだろう。私のことなど、忘れてしまっているのだろうか。鬼である自分を思い出して、恐れおののいているかもしれない。
「それでも、萩に会いたい」
満月の夜。鬼風が深い眠りについたのを見計らって、桔梗は池までやってきた。その手には、琵琶が握られていた。月夜を見上げて思い出すのは、萩の美しい微笑み。その笑みを思い出すと、胸がかきむしられるようだ。その苦しい思いをぶつけるように、琵琶を奏で始めた。狂おしいほどの音色が、月夜に響き渡る。
その微かな音色を、眠れぬ夜を過ごしていた萩は確かに聞き取った。
「間違いない。桔梗さまの琵琶の音」
萩が病に伏せているため、以前のような屋敷の強固な警護はなくなっていた。おぼつかない足取りで屋敷を抜け出すと、やっとの思いで萩は池にたどり着いた。その池のほとりに、懐かしい桔梗の姿を見つけた。
「桔梗さま…」
ふり絞るように出した萩の声を、桔梗は聞き逃さなかった。振り返った先に、愛おしい萩が力なく歩んでいる。慌てて駆け寄ろとした桔梗の姿を見て、萩はその両手を差し出した。その瞬間、力尽きて倒れかかった萩の体を、桔梗は、しっかり抱きとめた。そして、その萩のやせ細った体に驚いた。
「あなたさまが鬼であろうと何であろうと、お慕い申し上げます」
そう呟くと、萩は桔梗の腕の中で気を失った。
片手でも抱きかかえられそうなほど、やつれた萩を抱いて、桔梗は屋敷に戻った。屋敷の門前には、鬼風が不安そうな顔で桔梗の帰りを待っていた。
「やはりお連れでしたね。萩様の床を準備しましょう」
萩の穏やかな寝顔を見ながら、桔梗は意を決して言った。
「鬼風。私は、このまま萩と人間として暮らしたい」
「何をおっしゃるか!我ら鬼族は、月に一度、新月に人の生き血を飲まねば、妖力を失うどころか、人間と同じように歳を重ねる。かつて鬼族は人間と共存するために、人の血を飲むことを禁じたときもあったが、その結果がこのありさま。我らたった二人しか生き残らなかった。あの凄惨な過去を、何度もお話したはず。よもやお忘れか!」
「忘れてはおらぬ。我が母も人間だ。…私も、萩と共に人間として生きる。二度と…人間の血は飲まぬ。鬼風に、それを強要はしない…。どこへでも、行けばよい…。鬼風は…鬼族の誇りと共に生き抜いてくれれば良い。萩さえいれば…萩さえ」
嗚咽を堪えながら、必死に訴える桔梗の瞳の中に、遠い昔の愛おしい人の瞳を観たような気がした鬼風は、族長との誓い…もはやこれまでかと、覚悟を決めた。
「若をお守りすると、若の母さまとお約束した鬼風です。死ぬまで若に尽くさせていただきます」
夜が明け萩がいないことで、屋敷は天と地をひっくり返したような騒ぎとなっていた。屋敷内はもちろん、領内中の探索が始まった。
必死の形相で探し回る家臣たちの様子を見て、村人は噂した。
「もはや一人で歩けそうもない姫さまだ。物の怪に連れ去られたに違いない」
とか、
「鬼に喰われたんじゃないか」
とまで言う者もあらわれた。
必死の探索も、萩は見つからない。
「ええい!誰でもよい!姫を連れ帰ったも者に、姫を嫁にくれてやる」
友之進は、正気とも思えないお触れを出した。
「天下一の器量よしの姫様を、嫁にもらえるそうだ。誰でも構わぬと言うなら、わしらでも良いのか。たんまり持参金ももらえるぞ」
と、村人までもが、萩姫探しに躍起になった。
萩は、桔梗と再会して以来、すっかり気力も体力も回復し、以前の輝くような美しさを取り戻していた。桔梗との生活に、萩はこの上ない幸せを感じていた。慣れない家事も、鬼風に教えてもらいながら桔梗のためにと健気に尽くす姿に、桔梗も幸せをかみしめる毎日だった。
「ご飯が、上手に炊けるようになりましたね。萩様、よう頑張られた」
「うれしいです。鬼風さんに、もっともっと認めていただけるよう、萩は精進いたします」
素直な萩に、鬼風も心許せるようになった。
ところが、友之進が出した『姫さま探し』のお触れが、鬼風の耳に入った。
「誰でも良いから嫁にやるなどと、気がふれたとしか思えん。姫様を何だとお思いだ。全く呆れて物が言えぬとはこのことだ」
「そんなうわさ話が、あるのか?」
「いや、噂などではないようです。狂ったように姫を探しておると、皆が呆れておりました」
鬼風と桔梗が、そんな話を始めた。その会話を聞いて、萩はいよいよ黙ってはおられぬと、意を決した。台所仕事の手を休め、桔梗と鬼風の前に端座すると、ゆっくりと口を開いた。
「鬼風さん、実は…。その気がふれたとしか思えないお触れを出したのは、我が父上です。私は浅倉友之進の娘です。そのようなお触れが出てしまった以上、もう二度とこの屋敷から出ることはできなくなりました」
萩の告白に、桔梗も言葉を失った。萩の身元は、常々気になっていた。親御様は、心配なさっていないか。と、尋ねるたびに、「私には、親はおりません。もうどこにも帰るところは、ございません」と、わかりきった嘘をつく。桔梗自身も、その嘘に今しばらく騙さることにしようとしていた。
「気がふれたとは、言いすぎました。どうぞご勘弁ください」
「いいえ、父上は私のことになると正気を失うのです。いつもそうでしたから。そろそろ夕餉の支度にとりかかりますね」
そう言ってほほ笑んだ萩だった。二度と親の元には帰らぬと覚悟を決めたのだろうが、心の奥の寂しさは隠し通せないと、桔梗は感じとっていた。
「萩のことで、殿様は心を病んでいるということだ。そう思わないか、鬼風」
「人間の考えることは、よくわからないものです。誰にでも嫁にやると言って、その約束さえ簡単に
我が子を失った苦しみは、桔梗でも推察できる。このまま萩と暮らすことで、他の者が苦しい思いをすることに、桔梗は深く悩んだ。
「鬼風、私はとんでもない間違いを犯したのだろうか…。私も十分すぎるほど幸せな時を過ごすことができた。短い日々であったが、普通の人としての暮らしも堪能できた」
かいがいしく夕食の準備を整える萩の後ろ姿を見つめながら、桔梗は一つ大きく息を吸い込んだ。そして、萩を呼びよせると、優しく微笑みながら告げた。
「一度お屋敷に戻られたらいかがか。私の方から、改めて屋敷に出向いて、姫様を嫁にもらいたいと殿様にお願い申し上げたいと思う」
「嬉しいお言葉ですが、父上がそうやすやすとお許しくださるかどうか。私は二度と桔梗さまから離れとうございません」
萩の決意の固さは、その言葉からあふれていた。
「必ずお迎えに参ります。これは、母の形見です。これをあなたにお預けします」
そう言って、萩の手に古い櫛を握らせた。
「そこまで仰るなら。承知いたしました。今度お会いするまで、大切なお母さまの形見、預からせていただきます」
翌朝、萩はただならぬ物音に目を覚ました。何事かと急ぎ戸を開けると、武装した者たちが刀を振り上げて屋敷を取り囲んでいた。
「姫様、よくぞご無事で!」
そう叫んだのは、武勇に秀でた家臣の
「何事ですか!このような無礼、許されるとお思いか!」
萩の𠮟責に、みな一瞬たじろいた。
「何をおっしゃいますか。姫さまが捕らわれておるとの報告をうけ、助けに参った次第」
「捕らわれている?何という
振り返って部屋を見た萩は、その変わりように言葉を失った。萩が眠っていた部屋を残して、それ以外は荒れ果てた屋敷。お化け屋敷かと見間違うほどの荒れよう。桔梗の姿はもちろん、鬼風もいない。
「桔梗さま…」
萩は、力なくその場に座り込んでしまった。
屋敷に戻った萩は、桔梗から預かった櫛を握りしめ、ただただ桔梗が迎えに来る日を待ち望んでいた。きっとお迎えに来てくださる。今は、辛抱のとき。
姫様を探し出した阿門は、友之進から褒め称えられ、
「阿門が、婿ならこれ以上はない。さぁ、婚礼を急ぎ執り行おう。姫が、また物の怪に連れ去られぬよう。阿門ならば、安心して任せられる」
と、あっという間に婚礼の日取りが決まってしまった。
もう少し待ってもらえぬかという萩の懇願は、聞き届けてはもらえない。三日が過ぎ、十日も過ぎる。部屋に軟禁状態の萩の元には、何の知らせもない。「もしかして、父上に邪魔をされているのでは」とも考えた。が、そのような兆しはない。
夜になると、耳を澄まして琵琶の音が聴きとろうとする。が、悲しいことに耳に届くのは、木々の葉が風に揺られる音。寂しさに、心が壊れそうになる。
「どうして桔梗さまは、来てくださらないのか」
「私たちの幸せを、人の不幸の上に築くことはできない」と、桔梗は鬼風と共に旅に出た。悩み抜いた挙句、鬼族として生き抜くことを、決意した。最後の生き残りの鬼族として、その血を絶やすことは、亡くなった母の意にそぐわないと思い直したからだった。
『あなたの父上は、人間よって命を奪われてしまった。が、決して人を恨んではなりません。憎しみは、更なる憎しみを生んでしまう。いつか人と手を携えて、生きられる日が来る。そのときまで、鬼族の血を絶やしてはなりません』
そう言い続けていた母。鬼族ならば、何百年も生きられるというのに、人間とは何とはかない命なのだと、亡くなる母の手を握りしめて悔しい思いをしたが、桔梗もまた、人間の血が混ざっている。そのため、純血の鬼風に比べ、その何倍もの人の血が必要だった。
萩も、桔梗が何も告げずに立ち去ったその心を察し、阿門に嫁ぐ覚悟を決めた。
月日は流れ、萩は子を授かった。『藤乃』と名付けられた子は、萩に似た、美しい姫様だった。ところが、不思議なことに、藤乃は父親の阿門に抱かれると、泣いてぐする。それどころか、父に抱かれることを嫌うそぶりさえする。おまけに、周りの者も、
「娘は父親に似るというのに、阿門さまには似ておらぬ。誰のお子だろう」
と、陰口を囁く。
そういう噂は、すぐに広まるもの。当然、友之進の耳にも入ってしまう。真偽を確かめるため、萩に尋ねた。
「そなたの耳にも入っておろう。藤乃は、阿門の子どもではないという噂。まさかとは思うが、念のためだ。萩の口から聞かせてもらいたい。藤乃は、間違いなく阿門の子じゃな」
乳を飲む愛おしい我が子。それが例え鬼の子であろうと、蛇の子であろうと、愛おしさに変わりはない。萩は、友之進の目を真っ直ぐ見つめて言った。
「藤乃は、桔梗さまの子でございます。どうぞ、私をご処分ください。ただ、藤乃には何の罪もございません」
「何ということを…。すべて隠しておけぬ萩らしいといえば、それまでだが、阿門に顔向けができぬ」
友之進は、苦渋の決断をしなければならなかった。本来ならば、藤乃は里子に出すのが筋。が、大事な萩が我が子と引き離して、平静でいられるか。母と娘を引き離すことは、情け深い友之進としてはどうしてもできない。
「萩、藤乃と共に尼寺へ行ってくれ」
萩は、友之進に深く感謝をし、尼寺への幽閉に応じた。
一方、萩が子を産んだこと。そして、尼寺に幽閉されたという噂が、桔梗の耳にも入った。
「おそらく若のお子に違いありませぬ。尼寺に出されたことが、何よりの理由。鬼族の血をひく子ならば、迎えに行かねばなりません。若が育てることが、一番です」
鬼風にそう言われても、なかなか首を縦に振らないのは、萩を思ってのこと。
「萩の子だ。私の子ではない」
そう自分に言い聞かせても、親の情はふつふつと湧いてくる。
乳をせがんで力んで泣くと、我が子の額に微かに角が出てくる。まさに、桔梗の子、鬼の子である証。
「一度でよい、桔梗さまに藤乃を抱いてもらいたい」
と、月夜にそう願うことしかできない萩。
ところが、納得できないのは阿門だった。あの赤子さえいなければ、そう思う。愛しい萩を、何としても我が手元に置きたい。邪魔なのは、藤乃だけ。赤子一人処分するのは、容易いこと。だが、我が子に手をかけた者を、夫として認めてはもらえないだろう。阿門は、思案を重ねた。
秋も、ずいぶん深まってきた。虫の音が、心地良い子守歌に聞こえる。尼寺の生活にも慣れ、萩の心もようやく落ち着きを取り戻していた。桔梗との幸せだった時が、心の支えにもなっていた。
今、桔梗さまは何をなさっているかしら。そんな思いを抱いていると、尼僧が声をかけた。
「萩姫さま、殿様からの使いでございます。急ぎお屋敷に、お一人でお戻りくださいとのこと」
「すでに日も暮れかかっております。急ぎと申されても」
殿様からと言われれば、戻らねばならないのは当然のこと。とはいえ、間もなく日も暮れる。ススキの穂が、ゆるゆるなびいているのが見える。嫌な予感がしてならない萩は、藤乃を一人残して行くことをためらった。
「この子は、誰にも懐いておりません。私がいないと、火がついたように泣き続けるのです。どうか、この子も一緒に…」
藤乃は、萩の腕の中で、すやすや眠っている。
「しかし…赤子を夜風にさらすのは、どうかと思われます。しかも、お使いの者は、どうしても姫様一人でと仰っています」
そう言われると、ますます藤乃を一人にする訳にはいかない。
「ならば私は、屋敷には参りません」
その一言で、使いの者は藤乃と共に出ることをしぶしぶ承諾した。
藤乃を抱いた萩の籠に、冷たい秋風が吹きつける。萩は、外の物音に耳を澄ませていた。少しでも不審な物音がすれば、懐刀にすぐ手が伸ばせるよう籠の中にひそませておいた。と、それまで鳴き続けていた秋の虫の声が、ぴたりと止んだ。萩の胸の鼓動が、どくどくと高鳴ってくる。
すると、どうしたことかそれまですやすや眠っていた藤乃が、突然ぐっと大きく目を見開いた。と同時に、籠がぴたりと止まった。萩は、懐刀に手を伸ばした。そして、籠をゆっくり開けると、いつの間にか使いの者の姿はなく、代わりに数人の盗賊が籠を囲んでいた。
萩を乗せた籠が出たあと、尼寺に押し入り藤乃を連れ去ることを命じられていた賊だったが、阿門の使いから更に高額の金を約束され、急遽、籠に乗った萩から藤乃を奪うことを命じられた。
「赤子一人、女から奪うことなんざぁ、お安い御用。女には傷一つ負わせやしませんぜ」
「さあさあ、籠から降りてもらおうか。命が惜しくば、金目の物を出せ!」
と言う賊の視線の先は、萩の胸に抱かれた藤乃。この者たちは目的は、金品ではない。藤乃だ。誰の差し金か…。物取りと見せかけて、藤乃を奪おうとしている。この命に代えても、藤乃は守る!萩の背中に、冷たい汗が一筋ながれた。
辺りはすっかり日が暮れて、月明かりしか頼りにはならない。萩は、右手で懐刀を握りしめ、もう一方の手で藤乃を抱き、ゆっくりと籠から降りた。
その瞬間、突風が吹き抜け砂埃が大きく舞い上がった。みな、一瞬目を閉じた、そのわずかの間に、萩の目の前に現れたのは、桔梗だった。あまりの突然のことに、萩は言葉を失った。
桔梗は、会うことは叶わなくとも、毎夜尼寺近くまで足を運んで、萩と藤乃の安穏を祈っていたのだった。
「き、貴様…」
驚いた賊たちは、月明かりでもわかる桔梗の鋭い眼光に、じりじりと後ずさりをする。が、赤子と引き換えに、一生遊び暮らせる金が待っている。簡単に怯むわけにはいかない。
「邪魔だてするなら、貴様もまとめて命をもらう!」
「萩、赤子と逃げなさい。ここは、私に!」
目の前には、夢にまでみた桔梗。できるものなら、離れたくない。が、胸の中には命より大切な藤乃。
「わかりました。桔梗さま、必ず私たちを迎えにきてください!必ず!」
そう言って走り去ろうとする萩の行方をさえぎろうと、賊が立ちはだかった。
「赤子さえ渡してくれりゃあいいんだ。姫さまには指一本触れるなとのお達しだからな」
そう言って賊が、藤乃に手を差し出そうとした。その言葉が、桔梗の怒りに火をつけた。大きな唸り声をあげた桔梗の額からは、二本の角が。口からは、鋭い牙が伸び、逆立つ髪の毛が、まるで生き物のようにうねった。その姿にみな恐れおののき、腰が引ける。
「この化け物め!みな、逃げんじゃねえぞ!数は、こっちの方が上だ!やっちまえ!」
わなわな震えながら、刀を手にする賊たちだった。
萩から何としても藤乃を奪おうとする者たちと、桔梗に襲いかかる者たちを、一人二人倒していく桔梗だが、体中に刀傷をうけてしまう。藤乃の泣き声が、桔梗の闘志を奮い立たせていたが、最後の一人を討ち取ったときには、桔梗の命は消えようとしていた。
膝から崩れ落ちた桔梗の元に駆け寄った萩は、
「桔梗さま、藤乃です。あなたのお子です。どうぞ抱いてあげてください」
藤乃を桔梗の胸元へと差し出した。最後の力を振り絞って藤乃を抱こうとした両腕は、力なく宙をおよぎ、萩の胸に倒れ込んだ。そして二度と、その体は動くことはなかった。閉じられた両目から一筋の涙が流れ落ちると、鬼の形相は消え、桔梗の顔に微かな笑みが浮かんだ。萩の悲しい泣き声が、夜空に響き渡った。
「遅かった…」
いつの間にか、鬼風が桔梗の足元にひざまずいていた。肩を震わせて嗚咽を堪える鬼風。
「獣の血では、十分な妖力を使えないと、あれほど人の血を飲むようにと…」
その鬼風の姿を見て、萩は決意した。我が胸で、何事もなかったかのようにすやすやと眠る藤乃。愛おしい我が子の顔が、涙で滲んで見えない。袖口で涙を拭うと、寝顔をしばらく見つめた萩は、大きく一つ深呼吸をして立ち上がった。
「鬼風さま。お願いがございます。藤乃を、桔梗さまの子を、育ててはくださいませぬか。この子と離れるということは、この身が切り裂かれるようもの。ですが、このまま我が手元にいては、いつ何時、命を狙われるか…。この子は、鬼族の血を引いています。どうか、鬼風さまの手で、この子を育ててください。そして、この櫛も…」
そう言うと、萩は鬼風の腕に藤乃と、桔梗から預かった櫛を手渡し、鬼風の返事を待つことなく走り去っていった。
鬼風の腕の中で、小さな寝息を立てる藤乃。
「若に、よう似ておる。お前は、必ず幸せになるのだ。母の思いを決して無駄にはせぬように」
鬼風は、我が身に言い聞かせるようにそう言うと、横たわる桔梗の体を右肩に担ぎ、左手で藤乃を抱くと、一陣の突風の中に姿を消した。
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