Ⅱ ルートB

「着替えは終わりましたか?」


 バルドのでかい軍靴を履いていると、外から少女の声がする。


「ナユ君?」

「はい。今なら人の気配はありませんので出てきてください」


 蓋を少し押し上げ、周囲を警戒しながら外に出た。


「くっさいな、この服も靴もやばい」


 ゴミ箱の生臭さと良い勝負で、まるで獣だ。靴下だけは新しいのを用意してくれていて、一命を取り留めた。


「えっ、ついこの間洗濯したばかりなのに……。軍帽をしっかりかぶるようにと、バルドさんが言っていました」


「わかってる。できるだけ髪も隠したよ」


 バルドは黒髪で、デビッキは明るいメープルシロップ色だ。ついでに無精髭もない。似ているのは上背だけで、果たしてこれで人の目を誤魔化せるかどうか疑問ではある。


「行きますよ。わたしの手を引いているように見せて、ついてきてください」

「ついてきてって、分かるの?」


「何十回も歩きましたから。わたしとバルドさんは八日前からいるんですよ。路上で演奏もしていました」


 なるほど、珍しい弦楽器を奏でる銀髪の美しい少女に、軍服姿の罪人兵士。良くも悪くもインパクトのある見た目だ。これなら中身が入れ替わっていても気づかれにくいだろう。


「八日前っていうと、神官のフィン君が勅書を持って来た日か。そんな前からってさすがフラン君だなぁ。完全に一本取られたな」


 ナユの柔らかい手を引きながら、交差点だよと伝える。渡ったり曲がったりして、三つ目の交差点に来た時だった。


「きゃっ!」


 走ってきた男と出会い頭にぶつかり、突き飛ばされたナユが転倒したのだ。


「ナユ君! だいじょうぶ?」


 助け起こすデビッキの背後で、ぶつかってきた男が「危ねえだろ」と文句を言っている。どうやら罪人兵士の軍服を見下しているようだ。


「気をつけてくれ」


 何気なく言ったつもりだった。だが。


「……お前、その声」


 『君は声でばれるんだから』とフランに言われていたのを今更思い出す。しまったと思い軍帽の下からちらっと仰ぎ見ると、相手の男は守備兵の服装をしていた。


「帽子を取れ。顔を見せてみろ」


 どうする。ナユを抱えて走るか。守備兵相手に足で勝てるだろうか。いや、ナユまで危険に晒す必要はないだろう。

 デビッキは軍帽のつばに手をかけた。


「逃げた罪人がいたぞーっ! 向こうで取り押さえた! 手を貸してくれっ!」


 1ブロック先で大声が上がった。守備兵に向けて手をぶんぶん振り回している、あの小さいのは……。

 守備兵は迷いを見せたが、呼ばれた方へと走っていった。


「ルゥ君だったね」


「ルゥさんだけじゃありません。聖ザナルーカ教会の司祭さんも来ていて、囮になって走り回ってます」


「えっ」


「だからデビッキ司教はあきらめてはダメなんです。もし次に何かあったら、一人で走ってください。行き先はパンレモ通りです」


 デビッキの手を借りて立ち上がると、ナユは「もう一度交差点のところへ戻してください」と告げた。


「正体がばれたかもしれないのでルートBに変更します。こっち!」


 と、交差点を曲がらずに渡って進む。すぐに大通りから折れ、更に細道へと入っていく。ナユのスピードはデビッキが早足になるくらいで、空間認知能力の高さには驚くばかりだ。


「ドアへ! スリーズ亭と書いてありますか?」

「うん、あるよ」


「入ってください。わたしはここで」


 ナユは一人で離れていった。周りを見回して、声を出してはいけないと思い、デビッキは言葉を飲み込む。


 狭くて低いドアを開けると、飲食店の勝手口のようだった。人気のない厨房を警戒しながら抜けると「こっちの予備ルートになったんだな」と奥の客席側から声がかかる。


「罪人兵士姿もいいじゃないか。その顔で何を着ても似合うんだろうけど」

「……先輩。驚いたな」


 カウンター席から立ち上がったのは、白い祭服、長身に丸メガネのノアムだ。かつて聖ザナルーカ教会で主席司祭の座を争い、デビッキが司教になってからドレーヌ大聖堂の主席司祭に栄転させている。


 司教と主席司祭の間には天と地ほどの格差があり、年齢や経験はもはや意味を成さないのだが、この男からは未だ敬語を使われたことがない。そんな燻ぶった仲なのだ。


「お前のためじゃないよ。大神官に命じられたとはいえ、火葬場の二人にはひどいことしちゃったからね。その罪滅ぼしさ」


「ひどいことって?」

「その話は後で。これに着替えろ」


 渡されたのは見慣れた白い祭服に、目に痛いような山吹色の幄衣あくいだ。


「げっ、総主教庁じゃん。こんなのどうやって手に入れた?」

「オレはお前と違ってちゃんと方々に媚び売ってるから、これくらい朝飯前なの」


 脱いだ軍服はそのままでいいと言う。


「デビッキ。お前が何を考えてるかなんて知らんが、あのまま死んでたら解決してたのか?」


「ああ。それしかなかった。なのにまさか、こんな別の問題が起こるなんて思いもしなかったよ」


 革靴の紐を結びながら、上目遣いにノアムの顔を見上げる。一応感謝の言葉と受け取ってくれたようだ。


「オレじゃなくてフランさんにな」


 フランなら「礼なんていらないよ」と言うだろうなと思ったが、言わずにおいた。


 店から外に出ると、総主教庁の神官らしく殊勝な顔で二人して歩く。ナユが口にしたパンレモ通りへ向かっているのだろう。道行く人からは軽く会釈される。

 しばらく進んでから、ノアムがフランに対して何をやらかしたのかもう一度聞こうとして、ふと、何かが足にまとわりついた違和感がした。


「……!?」


 気のせいではない。石畳から関節の太い蜘蛛の八本足が伸びていて、革靴の上からしっかりつかまれている。こけそうになりノアムにしがみつくと、ノアムがすぐに聖護札でかき消した。


「縛封の術か!」


 相手の動きを縛る、悪魔祓いの高等法術だ。


「ベイン……!」


 二人の行く先を塞ぐようにベインと配下の黒僧服が立ちはだかる。どうやら追跡されていたようだ。


 ベインが聖護札を構える。


「おいおいおい、いきなりかよこんなところで⁉︎」


 言いながらノアムも札に気を込める。


縛糸ヴァーリ

封壁キールズ!」


 ノアムの障壁がベインの攻撃を弾くが、圧されて二、三歩下がった。


「デビッキ、お前聖護札持ってないよな?」


「あるわけないだろう。処刑されるところだったし。ていうかあいつ街中でぶっ放すって、どういう神経してるんだ?」


「まともじゃないことは確かだ」


 周囲を見回すと他に人はいないが、それにしてもだ。


 聖護札は本人の紋様でないと力を媒介しない。だから他人の札ではいくらデビッキといえど法術は使えない。


「先輩、封壁キールズ地浄デリダを合わせて」

「は?」


封壁キールズを溜めて地浄デリダと一緒に放つんだよ。え、もしかしてできないとか? ほら、次来るぞ」


 ノアムの目が鋭くなる。メガネのブリッジを中指で押し上げて、聖護札に気を込める。


地浄デリダッ!」


 やったこともない技を聞いただけで成功させるとはさすがのセンスだ。思わずデビッキも「よっし!」と拳を作った。


 しかしベインの方も一段階上げてきていて、ノアムにもデビッキにもビリっとした痛みと激しい耳鳴りがきた。


「うわ、いやらしい術を使うなぁ」

「なんかこう、ねっちねちだね。奴の性格そのものな感じ」


「次は攻めるぞ」


 言うなり、ノアムがベインへ向け駆け出す。だがベインが取り出したのは聖護札ではなく銃だった。


「そんなのありかよ!?」


 銃声が三発響き、慌てて身を翻す。どこも当たっていない。


「ノアム!」


 しかしノアムがうずくまっている。上腕が赤く染まっていた。抱え込んで、寸胴型の頑丈な郵便ポストの陰に隠れる。


「あああぁ、もうなんでオレが痛い目に遭わなきゃならないんだよぅ」


 意識ははっきりしているし、かすり傷だ。弾は抜けている。山吹色の幄衣あくいを脱いで、傷口をぎゅっと締めた。


「今の銃声を聞いて守備兵が来るだろうから、助けてもらって。聖護札、借りるよ」


「借りるってお前……?」


 手に付着したノアムの血で、聖護札に指で紋様を重ねて描く。普段使うのとは全く違う、指一本で描いた単純な図柄だ。


「見境がないな。おれに関わるものなら誰でも傷つけていいと思ってるのか」


 ポストの陰から出て正対すると、ベインが笑う。両方の口角が裂けたような気味の悪い笑い顔だ。


「お前こそそういう人間ではないか。今まで平気で他者を蹴落とし、利用してきただろう。司祭ノアムも例外ではあるまい」


「ラスパイユのことを言いたいのか? おれは精神は削っても命は脅かさない。ラスパイユを死なせたのは彼自身の心だ」


「その名を口にするな! お前が余計なことをしなければあんなことにならなかった……。お前さえ、お前さえ存在しなければッ!」


「神に背いたのはお前たち二人だ」


 ベインが激情のままに攻撃を叩きつけてくる。地を這う雷のような殺気と呪縛だ。


 法術は邪から人と現世を守るために、聖人たちが編み出したものだ。人を傷つけるなど、断じて神の思し召しではない。


「おれは神と人に愛されし光の御子だ」


 聖護札を石畳に突いて、瞬時に気を込める。


虹暈レデューン!」


 ノアムが札に溜めていた力が、ベインの殺気へと向かう。ぶつかり合うとカッと眩しい光を放ち、今度はデビッキの込めた気が蓮の花のような形に広がり、一気に押し戻す。


「グアアァァッ!」


 反撃をもろに食らって、ベインが吹っ飛び倒れる。周囲の黒僧服たちが駆け寄った。


 背後に座っているノアムが、よく聞こえる盛大な舌打ちをしている。


「……おい。他人の札を使って合わせ技って何だよ」

「まぁ、成功したのは今が初めてだけど」


「はぁっ⁉ さらっと即席で常識覆しやがったのかよ⁉ お前クソだな! やっぱ死ね!」


「いやぁ、ずっと研究はしてたんだけどこれ、術者の力が同等じゃないとうまくいかなくて。だから今まで成功したためしがなかったんだけど、先輩とならいけると思ったから。論文は連名にしとくからさ。あと、ここは先輩が倒したってことで頼むよ。じゃ」


 ノアムの前でこれをやってのけてしまうのは、さすがにちょっと気が引けたのだが、仕方あるまい。また嫌われただろうなと思いながら、その場を後にした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る