Ⅳ 絵空事
しかし事態は急変する。何もできないまま苛立ちだけが募る午後、突然容疑が晴れたので釈放すると言われたのだ。しかも迎えが来ているという。
「ゾハールさん⁉ 来てくれたの?」
ノールデン市の新市街、小高い丘の中腹に不気味な漆黒の屋敷がある。その主人が黒羽の主ことゾハールだった。柔和な紳士の顔をし、現在は友人の間柄ではあるが、過去にはフランとナユで人体実験をしようとしたり、今も能力を欲しがったりと、一筋縄にはいかない人物である。
「交渉と手続きに思いのほか時間がかかってしまいまして。ええ、待たせてしまいましたね」
ぴかぴかの蒸気車の横には、警察署から出てきた主人たちを、三十代くらいの執事が待っている。見るからに不満顔をしているがこれが通常運転だ。後部座席にフランとゾハール、助手席にルゥを乗せて車は走り出した。
「ゾハールさん、とても感謝なんだけど、どうしてここに?」
「モノリ殿からお二人が戻らない、何かあったに違いないと、切迫した様子で助けを依頼されましてね。エタンゼル市はマフィアの巣窟です。私のように長く生きているといろいろあるんですよ。ええ、マフィアと取引をしたこともありましてね、ええ。詳しくは伏せさせていただきたいのですが」
今見せている白髪交じりの理知的な中年男性の姿は、人間の血が濃い方のゾハールの姿だ。彼はもう一つ、黒羽の主の名に相応しい長い黒髪の魔物の姿を持つ。そして一つの体の中で二つに分かれてしまった人格が争うという苦しみを、人知れず抱えているのだった。魔物の長命を持つ高名な医学者でもあり、多くの情報網と人脈を持つのは確かだ。
「うん、聞かないでおくよ。ありがとう、どうやら僕たちは足止めされてたみたいでね」
「ええ、調べもせずに放火犯と決めつけですからね。警察も教会のグルです。本当ならデビッキ司教の審判が終わるまで、もう何日か稼ぎたかったのでしょうね、ええ。聖地では早速審判が始まったようですよ」
「裁判の内容は一体何なの?」
「それが私も信じがたいのですがね、ええ、デビッキ司教が屍体だと」
「は?」
不躾な声を上げたルゥに、運転席の執事が眉を上げる。
「本当なんですか? そのアホみたいな話」
「口を慎みなさい。ご主人様とフラン殿の会話です。貴殿が口を挟んで良いものではない」
執事にぴしゃりと言われて、ルゥもむきになって言い返す。
「言っとくけど、今回はおれ結構重要なんだからな! 留置場で足止めされたのもおれのせいだし!」
「一晩とはいえ、留置場はだいぶこたえたのでしょうね。貴殿のような旧市街育ちの悪ガキには良い薬です」
「辛かったのはおれじゃねぇよ! なんでフランさんが留置場に入れられなきゃならないんだ。くっそ!」
「論点がズレてます。相変わらず知能が低いですね」
「うるせぇ」
自分はいい。けれどフランは本来留置場などと縁のない人のはずだ。なのにあんな目に遭わされたのが悔しい。
「デビッキが甦らせられた屍体だというのは、ベインさんが言っていたんだよね。ということは証言者はベインさん?」
「ええ、そうです」
「彼はもうラグナ教の司祭じゃないのに、どうしてそんな訴えが容れられたの?」
「総主教が直々に認めたのですよ」
「それは妙だね」
「妙でしょう? ええ、妙なんです」
「しかも総主教庁の大神官にすら知らされていなかった。完全に総主教の独断だよね」
ブラウスの首元のボタンを外したフランの横顔が、バックミラーに映る。ゾハールに向けた左向きの顎と首筋が綺麗で、同じ男なのになぁと場違いなことを思いながら見入ってしまった。
「もう一つ。デビッキを屍体だとするなら、甦らせたのは一体誰だとベインさんは証明するつもりなんだろう」
「フラン殿は、総主教と言いたいのではありませんか」
「ゾハールさんもそう思う? 総主教がデビッキを甦らせたとなれば、ベインさんが行っている甦りもラグナ教で正当化されるよね」
「その流れで、ベインは復権を狙っているのかもしれません。ええ、そして既にベインと総主教の間で話は成立していると見るべきでしょうね。ええ」
「えっ、それじゃデビッキ司教はどうなるんですか?」
ルゥの問いに、車内が静まる。
聖職者の世界は完全な縦社会なのだ。トップの総主教が白と言えば、カラスですらも白くなる。
「教会内で総主教を敵に回してまで、デビッキに味方しようという人はいないだろうね」
「それじゃデビッキ司教に勝ち目はないってことですか?」
「勝ち目もなにも、そもそも彼は屍体なんかじゃない。趕屍の術では長生きはできないって聞いたでしょ。長くても二、三年の間に必ず理不尽な二度目の死が訪れるって。僕は彼と八年付き合ってるけど、死にそうになったところなんて一度も見たことないよ」
フランはそう言うが、ベインが勝ち目のない審判を訴え出るとは到底思えない。審判の場で一体どんな隠し玉を出すつもりだろうか。
不気味な不安が車内を重くした。
ノールデン市に着くと、火葬場でルゥだけが下りた。
「僕は聖ザナルーカ教会に行ってくるよ」
「デビッキ司教はいないのにですか?」
「ちょっとね。モノリが心配してるだろうから、ちゃんと説明してね」
「わかりました。夕飯は作っておきますね」
手を振って、蒸気車は新市街へと走り去った。
■□
誰もいない司教執務室に通されると、いつもは雑多に積まれた書類や書きかけの論文、たくさんの栞が挟まれた本や走り書きのメモが一つもない。
天井まで広がる大樹の本棚を持つこの部屋は、デビッキのほとんど全てと言っていい。やたらにさっぱりしているのは、長期の不在を意味しているのだろう。
デスクの上には、先日誕生日にプレゼントしたオイルランプ。そして「フラン君へ」と書かれた封筒が置かれている。開封すると、中身はアパルトマンの鍵と「権利書は部屋の中にあるから好きにしていいよ」とだけ書かれた便箋だった。
総主教になれば聖地で暮らすことになる。審判で有罪となれば司教の身分は剥奪され、ラグナ教会から追放される。どちらに転んでもここには戻って来られない。
「君は神になりたいの?」
一昨日の夜、ルゥの見舞いから帰る前に、この部屋に寄った。その時にたずねたのだ。
「おれは孤児院育ちで、総主教になるよう育てられたんだ。ガキの頃からずっと言われ続けて、それ以外は考えられなかったよ」
「じゃあ夢が叶うんだね。でも、その割にはあんまり嬉しそうに見えないんだけど」
「夢が叶うのとは違うかな。神になるのがそんなにいいもんじゃないっていうのも今は分かるし。それにさ」
「それに?」
「……彼女たちを置いて行かなきゃならないしね」
言葉をすり替えたと分かるが、それ以上は聞かなかった。するとこんなことを話し出したのだ。
「サイアスは神学院の同期なんだよ」
「うん、昔からの知り合いなんだろうなとは思ったよ」
「普通は十歳から入るんだけど、おれとあいつは七歳で入った。だから何かと張り合ってね。おれの一番古い記憶だ」
「神学院って司祭になるための難しい勉強をする学校だよね。二人ともすごいね。でも七歳が一番古いって、それより前の記憶は?」
「ないんだ。孤児院にいたはずなんだけどその記憶もないし、サイアスと神学院にいたことも確かなのに、過程を終える十三歳までのことは霞がかかったように思い出せない。今まで誰にも話した事ないんだけど」
「デビッキ……」
「思い出すべき過去がないのはいい時もあったし、埋まらない過去が風穴のようにむなしい時もあった」
デビッキの艶のある瞳がフランを見つめる。
「フラン君のもう一度だけでも会いたい人は、メイベル君? ベインの言う通りでさ、おれにはいないんだよ。もしかしたら亡くした記憶の中にいたのかなぁって」
「どうかな。君はいろんな人を蹴落としてここまで来たんでしょ。過去に幻想を求めない方がいいんじゃない」
「うわ、傷つくなぁ。絵空事でもいてくれたらって夢見てたのに。じゃあさ、一つお願いしていい?」
「やだ」
「ささやかな夢をぶち壊されたんだから、聞くぐらいしてくれてもいいじゃないの」
「聞くだけだよ」
「おれが死んだらさ、火葬してくれない?」
「なに言ってるの、君はラグナ教の高位聖職者で——」
「本気だよ。遺体をこっそり掘り返して、灰にしてほしいんだ。ベルジェモンドは売ってくれて構わないから」
呆気に取られてしまい、デビッキの顔を見つめるしかなかった。
「死んでまで神に縛られたくないんだよ。フラン君に焼かれて魂が解放されるなら最高だ」
ラグナ教では土が全てを浄化する。だから土葬が標準で、火葬は蛮行という価値観なのだ。
「火葬が増えたら治安が悪くなるとか、魔法の炎なんかで死者を冒涜するのかとか、さんざん僕に難癖つけてたのに?」
「八年前の話でしょ。今は焼かれたい男ナンバーワンのくせに」
「なにそれ。この地域に火葬場はうちしかないし」
「とにかく、頼むよ」
デビッキは笑っていない。それが余計に腹立たしい。
「いやだよ。聞くだけって言ったでしょ」
フランはつかつかとデスクへと近づき、机に両手をついて上半身を乗り出した。
「僕は教会には関係ないし、部外者だ。でも君のことが心配なんだよ。今からでも聖地に行くのをやめにすればいいじゃないか」
「まいったな。ほんとに、ベルジェモンドよりもきれいな目をしてるね。かわいいなぁ、食べちゃいたい」
ゆっくり立ち上がったデビッキに、手首をつかんで引き寄せられる。ペンだこが治らない指先がフランの髪をすっと撫で、露わになった耳元に顔が近づいた。それから吐息とともに声のトーンを落として囁かれる。
「今夜は二人っきりでゆっくり過ごしたいけど、明日は朝が早いんだ。この後家も片づけたいし。悪いけどもう帰ってくれる」
至近距離で視線が合う。その目は慈愛に溢れ、温かい。
「そんな目を向けないでよ。君らしくもない」
「また難癖つけていじめてほしかった? ん?」
「そうじゃな……痛っ!」
耳の端を噛まれていて、思わず突き放す。
「はぁっ、フラン君っていい匂い」
「ったくもう!」
しかし留まるのは許してもらえず、ドアの前まで見送られて立ち止まる。
「ねぇ、デビッキ、」
まだためらうフランの体を、デビッキはそっと扉の外へ押し出した。
「おやすみ。フラン君」
閉まる扉の間から最後に見たのは、光の御子の美しい微笑みだった。
アパルトマンの鍵を封筒に戻し、机の引き出しを全て開けていく。チェストや本棚も一つ一つ見た。何か糸口になるものを残しているのではないかと思ったが、探しても何もなかった。
「なにがこっそり灰にしてほしいだ」
それまで何もさせないつもりか。
「だとしても僕は、神さまの言う事なんて素直に聞かないからね」
主のいない部屋を見回して、フランは一人呟いた。
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