第9話
新学期が始まってしばらくすると、僕はよく秋野の家に呼ばれるようになった。そのまま秋野の部屋のベッドで身体を重ねることもあったし、全くそういう雰囲気にならないこともあった。たまに秋野の母親の料理をご馳走になることもあった。僕はその母親の前では徹底的に平身低頭の姿勢を貫き、失礼と粗相のないように細心の注意を払った。最初は気まずくて仕方がなかったが、母親は娘に対して絶大な信頼を寄せているようで、その娘が選んだ男である僕のことも表面上は信頼しているようだったので、回数を重ねるごとに気まずさは薄れていった。もちろん、父親が家にいる状況で夕食をご馳走になったことは一度もなかった。
「お母さん、尾白くんが来るといつもすっごく喜んでくれるの。ほら、私って昔からあんまり男の子と仲良くできるタイプじゃなかったから、余計にね」
秋野は嬉しそうにそう言っているが、僕は正直、秋野の母親が本当に僕の存在を快く思っているかどうか疑問だった。
秋野の母親も、娘と同様に芯の強そうな人だった。まず、あの母親は部屋着で僕の前に姿を現したことがない。すっぴん姿も見たことがない。父親が弁護士だし、いつの時間に行っても母親は家にいるのでおそらく専業主婦なのだろうが、彼女が僕の前で生活感を垣間見せたことはなかった。ずっと外向けの笑顔を貼り付けているし、なぜか娘と同じ歳である僕に対して敬語を絶やさない。出される夕食も、豪勢とまではいかないが、その日に思い付きで作ったようなクオリティのものが出てきたことは一度もなかった。
あの母親は絶対に僕の前で隙を見せない。
高校生になったところで、僕もまだまだガキなのだと思い知らされる。あの母親の笑顔の裏にある思惑が全く掴めない。あの柔和な両目に、僕の姿はどう映っているのか、全く見当もつかないのだ。
実はあの母親は、僕という男についての何もかもを見抜いているのではないかと勘繰ってしまうこともあった。僕が秋野と付き合い始めてからも京香を中心に物事を考える癖が抜けていないこと、およそ考えうる限り最悪の形で秋野との初体験を済ませてしまったこと、秋野との行為中にいつも京香の裸体が脳内に浮かんできてしまうこと、一日の内に秋野のことを考える回数より京香のことを考える回数のほうが多いこと。そういった僕の罪状の数々を、あの母親は笑顔の裏で全て把握していて、決定的な証拠を見つけて僕を秋野から引きはがすチャンスを常に狙っているのではないかと、一人で勝手に考えてしまうことがあった。
「お母さん、尾白くんのことを相当気に入っているみたいだから、その……このまま結婚、とかもあり得ちゃったり……」
秋野は頬を朱に染めて俯いた。
なぜ秋野がここまで好意を寄せてくれるのか、僕には皆目わからなくなっていた。あの夏祭りの日に行為を終えたとき、もう秋野との関係は完全に終わったのだと思った。取り返しのつかないことをしてしまったのだから当然だ。僕の人生が台無しになってもおかしくなかった。けれど秋野は、あれからも普通に接してくれた。むしろそれまで以上の好意を向けてくれるようになった。
僕のような気持ち悪くて情けない人間のことをどうして好きになれるのか、僕には理解ができない。
秋野のことが、微妙に信用できない。
けれど、秋野以外に僕のような人間を愛してくれる人なんてどこにもいない気がする。
「まあ、ゆくゆくはそういうこともあるんじゃないか」
僕が言うと、秋野はわかりやすくぱっと表情を明るくした。頬を赤くしたまま嬉しそうに笑って、「じ、じゃあ、また明日、学校で、ね?」と僕の耳元で囁くように言った。僕が笑顔で頷くと、秋野は満足そうな顔で家の玄関へと消えていった。秋野の姿が見えなくなってから、上がっていた口角を機械的に元に戻して、静かな住宅街を歩き出す。すっかり夜が更けていた。
街灯のほとんどない田舎道の中で、コンビニという建物が発する白い光は暴力的なまでによく目立つ。数十メートル前からそのコンビニは僕の視界の三割を占領しているので、嫌でも目が吸い寄せられてしまう。だけど僕は秋野家で夕食をいただいたばかりで腹は減っていなかったし、喉も乾いていなかった。だから無駄に広い駐車場を眺めながらコンビニの前を素通りしようとしたのだが、僕は咄嗟に駐車場の塀の裏に身を隠した。
花山院京香が、コンビニの前でたむろしていた。店内の明かりが、京香のシルエットをくっきりと浮かび上がらせていた。
京香は気の抜けきった無表情で、つまらなさそうに地面を見つめていた。このコンビニの前を通らなければ家に帰れないけれど、今は死んでも京香と顔を合わせたくない。すると、コンビニの中からあの男——夏祭りで京香とキスをしていたあの男が、白いビニール袋を持って出てきた。
京香は男に気付くと、すぐに顔面に笑顔を貼り付けた。そのまま男に駆け寄っていったが、男は乱暴に京香の腕を掴んで、店の裏手、店内の光が届かない場所まで京香を引っ張っていった。
「…………」
男は京香の顔面を一発殴って、京香の髪を掴み上げて、京香に向かって何事かをまくし立てていた。そこまで大きい声ではなかったので、話の内容は何もわからなかった。すると、京香は髪を掴まれたまま頭を激しく振って、男の股の間に蹴りを入れた。男が怯んだ隙に髪を振りほどき、男の鳩尾に拳を入れ込んだ。男は低く呻いた後、唾を吐いてその場に倒れこんだ。京香はそのまま男の頭に足をのせて、何かをまくしたてるように喋っていた。しばらくした後、男はおもむろに立ち上がって、小走りで駐車場から去って行った。
「…………はぁ?」
意味が分からなかった。
男の姿が見えなくなったあと、京香は全くの無表情でスクールバックを持ち直して、コンビニの敷地内から出て、道を歩き始めた。僕も、京香の後に続くようにして歩き始める。
僕は家の方向に沿って歩いているだけだ。その道にたまたま京香が歩いているというだけ。
前方の京香はふらふらと覚束ない足取りだった。夢遊病患者のようにも見える。この様子なら、僕が京香の前に出ていっても、京香は僕だと気付かないんじゃないか。と思ったけれど、京香が橋の上で立ち止まったとき、僕も合わせて立ち止まった。
この街で最も大きい川にある、アスファルトで舗装された橋の上。京香は橋の柵に手をかけて、下の川の流れを見つめていた。真夜中の街を流れる真っ黒な川を、無表情で見つめていた。
ひと際大きな冷たい風が吹いて、京香の長い髪もはらはらと揺れた。髪が崩れても構わず、京香はじっと川を見つめている。その黒い瞳は何も映していなかった。
不意に、京香は表情を変えないまま、足を大きく上げて柵の上にあがった。柵の上に立っても、まだ川の流れを見つめている。
「……すぅ」
京香が深呼吸をして、目を閉じた。
京香がこれから何をしようとしているのか、わからないほど僕も馬鹿ではなかった。
逡巡する頭を振り払って、僕は足を一歩踏み出す。そのまま橋の上を駆けていく。
何の躊躇もなく、僕は京香の手を強く握っていた。
「…………」
京香は目を丸くして、何も言わずに僕の目を見た。しばらくの間見つめられて、僕は思わず視線を下向ける。
「……えっと……、こ、んばんは……」
「…………」
「その、何してんのかなって、思って」
「…………」
京香は黙ったまま、眠るように目を閉じて、橋の側へと倒れこんできた。僕が慌てて抱きかかえると、京香は安心しきったような顔で、柔らかく微笑んだ。
「尾白くんはそれでも、私を助けてくれるんですね」
そのとき、橋の上の道路を一台の車が通り過ぎていった。一瞬車のライトに照らされた京香の頬がきらりと光って、泣いているのかと思ったけれど、すぐに僕の頬が冷気にさされた。そのままぽつぽつと冷気の数は増え、やがて大雨が降ってきて、僕は急いで京香の手を引っ張って橋の下へと隠れた。
河川敷の橋の下で、膝を抱えて座る。隣の京香とは人一人分くらいの距離が空いていた。
京香はそっぽを向いて、自分の濡れた髪を手櫛で梳いていた。
「あの、さ……だ、大丈夫?」
「大丈夫じゃ、ないです」
「そ、そっか……」
「私が大丈夫じゃないって言ったら、尾白くんは助けてくれますよね」
「……わからないよ」
「でも、尾白くんはいつでも私を助けてくれたじゃないですか。中学生のときも、この前も、今日だって」
「僕は、別に助けたつもりはないよ」
「…………」
はぁ、と京香が大きなため息を吐くのが聞こえた。
大雨が橋を打ちつける音と、目の前の川が流れる音で、夜の河川敷はとても騒々しかった。
「尾白くんは、私が欲しいんですか?」
「……ごめん、わからない」
「ただの親切心で助けたんじゃないのなら、尾白くんは私が欲しくて助けたんじゃないんですか?」
「京香が欲しかったんじゃない。京香とはもう二度と会いたくないと思ってた。もう関わるべきじゃないと思ってた。僕は秋野と幸せになれればそれでいいと思ってたんだ。でも今日、橋の下を落ちていく京香をあのまま見過ごすことはどうしてもできなかった」
「……尾白くんが私の死を邪魔したんだから、尾白くんが私のこれからの人生の責任をとってください……と私が言ったら、尾白くんは困りますか?」
「困るな、とても」
「そうですよね。私も、責任をとる能力のない人に責任をとらせることはできません」
京香は一度もこちらに顔を向けない。まるで独り言を呟くように言葉を発している。
「結局、私はずっと尾白くんを利用していたんです。尾白くんがくれる温かさが欲しくて、ずっと尾白くんを騙していたんです。私はずるい人間なんです。だから今回も、うまくできなくて……」
「僕は騙されたなんて思ってない。あのときの僕は確かに、京香のことが好きだったよ」
中学生の僕は、花山院京香が好きだった。
京香が震える喉で嘆息した。
「もう、ダメなんですよね。尾白くんはもう、私とは一緒にいてはくれない。私はもう、尾白くんに甘えていられない」
「…………」
「結局、ひとりで生きていくしかないんですよね……」
ほぼ無意識に、僕は京香の後ろから抱きついていた。京香はごく自然に、僕の腕に顔を埋めていた。
「セックスなんかしても人と人は繋がれないんです。何もわかり合えないんです。気持ちよくなんかない。あったかくもない。安心できない。性の快楽なんかいらない。私はずっと、人肌の温かさが欲しかっただけなんです。私はまだ子供なんです。人肌恋しいだけなんです。だから、私を優しく抱きしめて、温かさを分けてくれる人が欲しかっただけなんです。キスもセックスも愛の告白も結婚も、何もしたくないんです。ただ、私を抱きしめてくれる人がそばにいてくれればそれだけで良かった……」
「…………」
今僕が抱きしめている相手は、あの、僕が好きだった花山院京香ではない。
それなのに、僕はより強くこの女の子を抱きしめている。
花山院京香はずっと僕を騙していた。僕の知らないところで、僕の知らない数多の男と交わっていた。だから僕は花山院京香から離れていった。
けれど僕は今、目の前で泣いている女の子を抱きしめている。
今の僕は、何をどう考えて、花山院京香を抱きしめているのだろう。
自分のことがわからない。
「もう、嫌だ。嫌なんです。家のことなんてどうでもいいんです。お父さんのことだってどうでもいい。尾白くんのことだって、本当はどうでもいいんです。何もかも捨ててしまいたい。人も物も全部捨てて、何もない世界に行きたい。でも独りになるのも嫌なんです。私は独りじゃ生きていけないんです。ずっと誰かの隣で眠っていたいんです」
人は独りじゃ生きていけない。だけど、人は独りで生きていかなければならない。
僕も京香も、いつか独りになる。
大人になる。
「ダメですよ。私はもうダメなんです。こんなに弱虫で、脆くて、卑怯で、ずるくて、意地悪で……、もう、生きてる価値なんて……」
「……大丈夫。大丈夫だよ」
僕と京香の体温が混ざり合っていく。京香の体温が僕の心にまで届く。
「京香の弱さは、全部僕が知ってるから、大丈夫だよ」
京香は一瞬だけ息を止めた。それから数瞬の後、それまで顔を埋めていた僕の腕に、思いっきり噛みついた。ぽろぽろと目から涙を流しながら、牙をたてて、制服のうえから僕の腕を噛んだ。
京香は腕に噛みつきながら、うーうーと唸っていた。正直かなり痛かった。血も出ているような気がした。だけど僕は腕を引かなかった。これはきっと何らかの京香の主張なのだ。今まで主張を許されてこなかった京香の、もしかすれば人生初めての自らの主張なのかもしれない。その神秘的な儀式を邪魔したくなかった。
橋の上に降る雨は、より一層激しさを増していた。
「私は……私は、尾白くんが欲しいです」
「僕は、京香のものにはなれないよ」
「どうして、ですか」
京香は髪の毛先から雨粒を落として、目からぽろぽろと涙を落して、口からだらりと涎を落としていた。これが京香の本当の姿なのだ、と思った。京香は雨も涙も涎も自分では拭えないような、まだ幼気な子供なのだ。
京香は僕より先に大人になってしまったのだとあのとき絶望した。だけどそれは間違いだった。京香は今も子供なのだ。男を知っても女を知っても、僕たちはまだまだ子供だ。
「僕は、今の京香を好きにはなれないから」
「…………」
京香は一度鼻をすすった。そして、自分の顔面を僕の腕で拭った。
京香は、ゆらり、と立ち上がった。
「……そうですか」
京香は僕に背を向けて、呟くように言った。
「私が尾白くんのことを好きだと思ったことは、一度もありませんでしたよ」
京香は僕に顔を向けないまま、大雨がけぶる中を、ゆっくりと落ち着いた足取りで歩いていった。僕はしばらく、その後ろ姿をじっと見つめていた。
傘を持っていないし、雨は激しさを増すばかりで止む気配がないので、僕も仕方なく大雨の中を歩いて帰ることにした。すぐに僕の全身は雨で冷たく濡れそぼってしまったが、左腕だけは、京香の涙と涎と僕の血によって、ずっと生温かかった。
清々しい、というと少し違うが、何か憑き物がとれたような気分だった。僕の心の中に何かが増えたのか、あるいは何かが消えたのかわからないけれど、変化があったのは確かだった。
これで本当に、僕はもう二度と京香に会うことはないのだ。そうしなければ僕たちは前に進めない。関わるべきではなかった僕たちが関わってしまったことによってできた歪みは、これで完全に修復された。
京香の顔も声も、できるだけ早く忘れるべきなんだ。
「ねぇ。……ねぇってば、尾白くん」
顔を俯かせて歩いていた僕の肩がびくっと震えた。まさか、と思って振り返ると、赤い傘をさした秋野が立っていた。
「尾白くん、私の部屋に携帯、忘れてたよ」
秋野がコバルトブルーの二つ折りの携帯を僕に差し出した。僕が受け取ろうと手を伸ばすと、京香が手を引いたので、僕の手は虚空を掴んだ。
「あのさ、尾白くん。こんな大雨の中、傘もささずに帰ろうとしてるの?」
「……うん」
「雨宿りしようとか、思わなかったの?」
「……うん」
「嘘でしょ。さっき橋の下で雨宿りしてたよね?」
「……うん」
秋野はゆっくりと息を吸って、大きく吐いた。
「さっき、花山院さんとあそこで何をしてたの?」
「……違うんだよ」
「何が違うの?」
「違う。秋野が思っているようなことは、何もない」
「私が思っているようなことって何?」
「……違う。とにかく違うんだよ。僕は何もしてない」
「あの女に何を言われたの?」
「別に何も言われてない」
「ねぇ、どうしてさっきから私の目を見てくれないの?」
そこで僕は初めて自分の顔を上げた。傘を差しているのに、秋野の頬は濡れていた。
「私はちゃんと、尾白くんのことが好きだよ」
言って、秋野は僕の左腕を掴んで、自分の胸に押し当てた。柔らかい感触が指先を伝う。
最初に触ったとき、高校生みたいな胸だと思った。大きくはないが、かといって全く手応えがないわけでもない。
「私は誰でもいいわけじゃないよ。尾白くんがいいんだよ。尾白くんに告白されたあの日から、こんなに尾白くんのことが好きになっちゃったんだよ。ねぇ、どうしよう。ねぇ尾白くん、私はどうしたらいいの」
僕は目を閉じた。大雨が降りしきる音と、橋の下を流れる川の水音と、秋野の呼吸音が頭の中で響いて聞こえる。
後ろ髪から落ちた冷たい雨の雫が、つーっと背筋を伝っていった。
一度、深呼吸をする。
僕は無理矢理自分の口角を上げて、笑顔を作った。
作り笑顔こそが最も人の心を揺り動かすのだと、僕はあの人に教わった。
「僕も秋野のことが好きだ、本当に、とっても」
言ってから、僕は秋野の唇を食べた。秋野が驚いて傘を地面に落としていたが、構わなかった。大雨が降りしきる橋の上で、僕たちは唇を重ね合わせた。
その二週間後、僕たちは破局した。理由についてはあまりよく覚えていない。僕から別れようと切り出したのか、あるいは、いつもの情緒不安定を起こした秋野と言い合いになって、その勢いで別れることになってしまったのか、そのどちらかだったと思う。
何にせよ、僕たちがそう長続きしないだろうことは、あの夏祭りの時点でなんとなくわかっていた。
秋野と別れてからも変わらず高校に通い続けて、県内では進学校として名の通っている僕の高校の指導に従って大学受験を終えて、東京の大学に進学して、東京で就職した。
それからの僕の人生は、特筆すべき点のない普通のものだったと思う。
僕の人生には、もう、花山院京香のような女は登場しなかったのだから。
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