第24話
浮遊島を飛び出すと日が傾いたように世界は橙色に包まれていた。
天からの眺めは格別なものであるが、島全体を見渡せば外れに森が見えた。
そこだけが切り取られたように人の往来が窺えず、ただ威風放つ木々が屹立している。
出来心というわけではないが、何故かそのときそこに足が向いていた。
それはきっと好奇心なのかもしれない。知りたいという欲求が心をその森へ歩かせたのだ。
森の麓に降り立つとようやく木の高さがわかった。
予想よりもそれは遥かに大きく、虫の鳴き声が耳に轟いた。
ああ、まるで自然のオーケストラだ。
そうグノスィは感じた。
鬱蒼とした森の中を歩いていると、前方に奇妙な空き地があるのが目に入った。一歩一歩近づくと、その景色はますます息を呑むほど美しい。グノスィは木々の間から飛び出し、目の前に広がる風景に目を奪われた。
見渡す限り鮮やかな緑の畑が広がり、捻じれた地平線には山々が連なっている。上部の海が明かりを反射してオレンジ色の光を放っている。そよ風が草を揺らし、景色全体に波紋を広げている。
グノスィは口をあんぐりと開けて、永遠に続くかのように、その美しい光景に見入っていた。すると、まるで合図があったかのように、野生の馬の群れが、たてがみや尾を風になびかせながら、野原を駆け抜けていった。
彼はこの楽園をもっと探検してみたいという衝動に駆られた。野原を横切り、山へ向かって歩き出した。歩いていると足元はスポンジのように柔らかく、まるでクッションのような絨毯のようだ。空気は野草の甘い香りに包まれ、鳥のさえずりが谷間に響いている。
山に近づくにつれ、彼は畑の中を流れる小さな小川に気がついた。その流れに沿って上流に向かうと、山の陰にひっそりと佇む滝を見つけた。滝の水は岩の崖を流れ落ち、霧の中で虹のような輝きを放っている。
近くの岩に腰を下ろしただひたすら滝を見つめ、その静けさに身を任せた。まるで時間が止まったような不思議な場所で、それを発見したのは幸運にも自分一人であった。
そう思っていた。しかし神は他人にも愛想を振りまいてしまう。
神の寵愛を独り占めはできないように、この美しい場所にも人は訪れてしまうのだ。
『すみません、お時間はありますか?』
崖の上から不気味な声が降り注いできた。ノイズが走ったように聞き取りずらい。見るとその正体は白髪の男であった。
思わず息をのんだ。なぜなら彼の目は真っ黒で瞳孔も虹彩もない。肌は不自然なほど青白く、ほとんど半透明でボロボロの黒いコートを着ている。まるで飲み込まれそうだった。
息を荒げて後退する。彼から感じられたのは恐怖以外なく、人間であろうはずもないその姿に
彼は後退しながら時間を確認する。だが当然ながら辺りに時計は見当たらない。そうするうちに男は突然前に突進し、彼の手首を掴んで引き寄せた。引き離そうとするが男の握力は鋼鉄のようだった。
そして男は顔を近づけて叫んだ。
『君は運命の人だ』
その言葉とともに彼の目は異次元の光で輝いていた。
『終末をもたらす手助けをする者だ!』
つんざく悪臭が体を通り抜けるとともに彼の姿は草原の上から消え去っていた。
彼が消えてしばらく経っても心臓は激しく鼓動している。
だが不思議と恐怖はなくなっていた。それは彼が夢で見た男に似ていたからだろう。面影が残っていたことが幸いした。
やがて徐々に光は薄くなり、風景に長い影を落とすようになった。
私はそろそろこの不思議の国を出て、現実の世界に戻らなければならない。先ほどの出来事が何を意味したかはわからないが、私には帰る場所ができた。
あの黒髪の少女は今何をしているだろうか。ふわふわとした思考を森が彷徨うようにして出口へと導いてくれた。気づけば街はいつもの活気に溢れていた。
各々が装飾の異なる狐の仮面を施して談笑している。店頭の赤い提灯が吹き付ける風で胴体を揺らしている。
振り返ると森は入ったときよりも小さく見えた。そればかりか上からは見えなかった滝も本当に私は見たのだろうか。
それも今に思えば些細なことかもしれない。とはいえ少し心にしこりが残ったことも確かであった。
夢はいつの間にか現実を侵食し始める。未来も過去も映し出す夢はどこかで今も私たちを見ているだろう。
だから私は、この日を忘れることはあってはならない、そんな気がしたのだ。
♢♢♢
その後何事もなく帰宅した私は疲労が重なったのか、風呂から出るとすぐに眠ってしまった。
夜明け前の暗闇で床の感触を確かめながら慎重に歩く。
起こさないようにと音を立てないようにしようと思った矢先、異変に気づいた。
静かすぎる。
寝息が聞こえないのだ。すなわち部屋には誰も居ないということで。
それは混乱へと誘った。
「──ルルっ!」
電気をつけて布団が綺麗に畳まれていることを確認すると不安よりも安心が勝った。
誘拐の可能性は消えたからだ。
彼女は自分で行動し始めたのだ。これは良い傾向だろう。
(……では私も一つ散歩でもしてみよう)
家や街灯の光を便りに街を彷徨い歩く。
煤の匂いを背にただ海へと続く坂道を下っていく。
海は暗がりで真っ黒に映り、まるで夜空を体現しているかのようだ。
肌寒いこの時間帯の静けさは心地よく、吐息が白く冬を思わせるその頃だった。
世界はこんなにも美しいと何故気づかなかったのか。
一時を楽しもう。この小さな余暇を。
始まりまでの緩やかな時間を。
あっという間に坂は途切れ、桟橋に辿り着いた。潮の香りが鼻の中を通過する。
橋の付け根まで歩くと穏やかな波が目に入った。
腰を地につけ海を見ても自身の顔は光が足らずに見えない。
一人になると必ずグノスィは独白にふけっていた。それは過去の反省ではなく未来への眼差し。
残ってしまったピアスが入った箱を片手に彼は上手くいかないと嘆く。
赤らみ始めた景色を眺めながら青い海に視線を落とす。ようやく薄っすらと顔が見えた。かと思えば波でよくわからなくなる。まるで今のグノスィの心境を表しているようだ。
「何黄昏れているんだ、少年?」
背後から聞こえた声に反応して振り返る。
数メートル離れたところに彼は居た。ここまで近づかれても全く気づかなかった。
まるで昨日の亡霊のようだ。だが声ははっきりと聞こえるし、邪悪な感じもない。
それに顔もただの好青年のように見える。ただ彼はそこまで年上に見えないのに私を少年と呼んだ。それだけは不可解だ。
「誰ですか、あなたは」
「俺はバーナード・リッチ。困ってんだろ?」
「何がですか?」
「迷ってんだろ?」
「だから何がですか?」
人の話を聞かない人だ。思わず苛立ってしまう。
「どこに行きたいんだ?」
「さっきから何の話を──」
彼は前に居たと思っていたのに目を離した隙に背後に回っていた。
「どうしたいんだ、お前は?」
彼は一貫して質問だけを投げかけてくる。
「何なんだ、あんたは!」
「一番駄目なのは黒かと思えばお門違いだったな。一番迷子になってたのは青だった。これも宿命かね」
ぶつぶつと聞こえない声量で呟く彼にもはや不快感は抑えられなかった。
「私に何をしたいんだ、あんたは!!」
「やっぱりそうだよな、青はそうなんだな。おい、少年。よく聞け。今頭の中ごちゃごちゃしてるだろ?」
何か納得したように何度か頷いてから彼はグノスィに再び問いかけた。
「────っ!」
「その反応は間違ってなかったってことだな」
「なに、が……」
「二代目の青、お前はどうして人間のために戦う? 何故立ち上がった?」
──どうしてだろうか。初めはきっと些細な理由だったはずだ。人間の扱いを知って怒りを抱いた、それだけだった。だけど様々な人種と出会ってそれは少し違うと感じた。
彼らと話せば気前よく言葉を返してくれる。彼らと対面すれば同じ人としてこちらを見てくれた。
一体どうして私はこんなことをしているのか。別に世界はそこまで酷く汚れていないように見えるのに。
私はなおも戦おうとしている。それは言葉では決して言い表せないものだ。
本能が、感情が、何かが、私の根源にある知性が、そう語っている気がする。
何かが私に欠けているのか。
──いや、違うな。私はきっと、きっと。
「居場所が欲しいんだ。誰かに私を見ていて欲しい、それだけが理由だと思う」
「……頭はスッキリしたか?」
彼の言葉にハッとさせられる。今まで見ていたものが急にクリアに見え始めた。
大いに悩んでいた。森の中を迷子になっていたんだ。
枯れ葉となり先が見えるようになった。
「橙のエネアドピアスを寄越しな。それは俺が一番上手く使える」
彼の言葉は何故か説得力があった。自信に満ち溢れていた。
だから私は迷わず彼にそれを手渡した。斜陽の如く明るく差し込む光を浴びながら。
「俺はお前が誰かなんて興味はない。だがな。またお前が迷ったときは俺が必ず引き戻してやる。約束だ」
彼はそう言ってから煌めく笑顔とともに陽炎となって消えた。
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