語り始めるは昔日の罪科

 私が野良妖怪になるきっかけ。米田さんが発したその言葉を繰り返し反芻しながら、源吾郎は眼前の妖狐を凝視していた。普段の彼ならば不躾な事をと思うかもしれないが、今はそれどころではなかった。多くの思考が目まぐるしく渦を巻き、源吾郎はそれに気を取られていたのだ。

 米田玲香の来歴について、源吾郎は大雑把な事しか知らなかった。普通のホンドギツネが後天的に妖怪化し、妖狐としての生を歩むようになった。そして妖狐として暮らすにあたり、米田家という妖狐の一族に引き取られ、娘として暮らしていた。その米田家も、稲荷の眷属を輩出するという事で有名な一族だったようである。しかしその一方で、米田さん自身は一族から距離を置き、一人で生計を立てているではないか。

 一族から離れるにあたり、のっぴきならない事情があったに違いない。米田さんの表情と言葉から、源吾郎は即座にそんな結論に至っていた。

 米田さんが深刻で沈鬱な表情を浮かべていたから、というのももちろんある。だがそれ以上に、一族としての妖狐の特性が、件の結論に源吾郎を導いた。獣であるキツネとは異なり、妖狐は血族や一族の結束が高く、また集団を作り出すような社会性も持ち合わせている。それでいて、生物学的な血の繋がりのない狐を養子として引き取り家族と見做すような柔軟性も持ち合わせているのだ。

 そして同族同士の親密さと一族の絆の深さは、規律の厳しさやよそ者に対する排他的な態度とも密接なかかわりがあった。現に裏初午の時も、若菜の娘婿はテロの主犯として尻尾を斬り落とされ、そのまま罰せられたという話だったではないか。

 米田さんを見つめながら、源吾郎は軽く思案していた。米田さんが一族から離脱した理由が判然としなかったのだ。養女と言えども、彼女は妖狐の一族、それも稲荷を輩出する一族に名を連ねる存在だったのだ。そうした妖狐たちが、易々と一族の者が離脱する事を認めるとは思えない。それに悪事を働いて罰せられたのだとしたら――それこそ生命を奪う事すら辞さない手合いなのだから。

 同じ妖狐ではあるが、稲荷の眷属の方が野狐よりも残忍な一面を見せる事があるのだ。特に裏切り者や罪人に対しては。

 島崎君。米田さんは覚悟を決めたらしく、静かな声音で源吾郎に呼びかけていた。


「私自身は単なるキツネだったんだけど、妖怪化してからは妖狐の一族に引き取られたって話は覚えているかしら」

「存じておりますとも。しかも米田家は稲荷の眷属を輩出する一族だそうでして……その辺は僕もまだ疎かったので驚きました」


 即答した上につらつらと言葉を紡いでいった源吾郎であるが、はっとしておのれの口許を押さえた。米田家が稲荷の眷属を輩出していたという話は、三尾の北斗から聞かされた話に過ぎない。米田さん自身から聞いていない事を口にしてしまった不躾さと迂闊さを、源吾郎は一人噛み締めてもいたのだ。

 気まずさと共に謝罪しようとしたが、米田さんは大丈夫だと首を振るだけだった。


「ふふっ。良いのよ島崎君。あなたも勉強熱心だから、いずれは私がいた一族の事を知ったとしても何らおかしくは無いんですから。それに私だって、未だにと名乗っているのよ。一族から離れながらも、ある意味私も米田家を利用しているのかもしれないわ。女狐らしいでしょう?」


 米田さんの問いを、源吾郎は無言で流すほかなかった。苗字を持たぬ妖怪もたまに存在しているなどとよそ事を考えていたし、何より女狐という単語からイメージされるものたちと米田さんはマッチしないように思えたためだ。

 それにしても……源吾郎は言いかけて、そこで口をつぐんだ。今回は米田さんが語る側に回っているのだ。自分がでしゃばってしまってはならないではないか。源吾郎にしては強靭な精神力でもって、おのれの裡に渦巻く思いや言葉を胸の奥に抑え込んだ。

 そしてそれは、ありがたい事に米田さんにも伝わったらしい。彼女は深く息を吐き出すと、指を組み視線をさまよわせながら言葉を紡ぎ出した。


「野良妖怪になるきっかけだから、今回の話は米田家にいた頃の話になるわ。普通のキツネから妖怪化した時も、ある意味野良妖怪みたいな暮らしだったんでしょうけれど、あの時の事は別に語るべき事はないの。普通の獣と変わらなかったからね」


 野良妖怪になるきっかけが生じたのは、今から五十数年前に生じた出来事によるものなのだという。その頃の米田さんは単なるキツネでも寄る辺のない野良妖怪でもなく、養子ながらも米田家の長女として、養父母たちから大切にされていたそうだ。


「その頃は義弟おとうとや幼い義妹いもうともいたんだけど、養父母は私の事も本当の娘のように可愛がってくださっていたの。私もそんな暮らしを送り続けて何十年も経っていたし、そういうものだって受け止めていたのよね」


 米田さんはそこで言葉を切ると、湯気の立つラクピスを一口飲んでから言葉を続ける。


「歳の近い義弟おとうととも仲が良かったの。流石に実の姉ではない事はあの子も知っていたけれど、それでもあの子は私を姉のように慕ってくれていた――獣のキツネに過ぎなかった、この私の事をね」


 米田さんの義弟だというその妖狐の少年は、当時すでに二尾だったらしい。両親のみならず一族や他の妖狐たちからも才覚のある少年であると見做されていたのは言うまでもない。自分や雪羽の事があるから忘れがちであるが、五十歳未満で二尾になる個体というのはのだ。彼もまた、神童だの天才児だのと言われていたであろう事は源吾郎もうっすらと察する事が出来た。


「とはいっても、の方はちょっとワガママになって、私をからかったり、困らせたりする事もままあったかもしれないわ」

「弟が姉を困らせたりからかったりするなんて事もあるんですね」


 話の本筋ではないだろうに、源吾郎はついつい思った事を口にしてしまった。弟は決して姉には逆らえない。それは大自然の法則のようなものだと源吾郎は信じて疑わなかった。と言っても、そんな風に思う根拠というのは、長姉の双葉の言動や、二人の兄たちや自分と姉との関係性によるものなのだが。

 くそ真面目な源吾郎の呟きに、米田さんは僅かに微笑んだようだった。その眼差しは一瞬だけ源吾郎に焦点が合うが、すぐにここではないどこか遠くを眺めるようなものへと変化してしまう。


「私も私で、本当の姉じゃあないって負い目があったのよ。それにあの子も両親が妹にかかりきりな事とか、期待をかけられていてそれが重圧になりかけている事は、流石に私も気付いていたから……あの子は悪くないの。悪くなかった、の。

 ともかく、私と義弟は屋敷から少し離れた所にある山林に遊びに行ったの。それは義弟の提案で、私を引っ張る形になったんだけどね」


 そう語る米田さんの顔には、郷愁の色が覆いかぶさっていた。


「その山林って、もしかして……」


 そうよ。不穏な何かを察した源吾郎の呟きを、米田さんは目ざとく拾い上げた。


「妖力や霊力のようなものに満ちた所だったわ。イマドキの言葉で言えばパワースポットの一種ともいえるかもしれないわね。もちろん、そんな所だったから、気性の荒い妖怪や異形たちのねぐらでもあったわ。だからこそ、仔狐だけで行かないようにって言い含められていたんですけれど」


 そんな所にわざわざ出向くのがどういう事なのか、どういう結果に繋がるのか。米田さんの義弟だという妖狐はその事は解っていたのだろうか。その事を源吾郎がつらつらと考えている間にも、米田さんは言葉を続けた。


「もちろん、義弟は危険な妖怪が飛び出してくる事、襲い掛かって来る可能性がある事も知っていたわ。むしろ、を目当てにしていたし、そうなってほしいって思っていたくらいなの。だからこそ、あの山林に遊びに行くって聞かなかったんですから。

――恐ろしい妖怪を返り討ちにしたという実績があれば、皆もより自分を凄いって褒めてくれる。義弟はただ単にそう思っていたのでしょうね。もしかしたら、義姉あねである私に良い所を見せたいと思っていたのかもしれないわ。今ではもう解らないけどね。義弟はね、才能はあったけれど結局は年相応の子供だったのよ」


 不穏な気配が色濃くなりつつあるのを、源吾郎はひしひしと感じ取っていた。うっすらと物語の結末が見え隠れしてしまい、それに戸惑うたびにミルクティーを舐めていた。

 米田さんはずっと、義弟の事について過去形で語っているではないか。


「もしかしたら大方想像が付いているかもしれないけれど、義弟はその山林で死んでしまったの」


 米田さんの言葉は予想通りだった。だが彼女はそこで止まらなかった。まなじりを釣り上げ、ホットラクピスの入ったマグカップを握りしめながら言葉を絞り出したのだ。


。私が……

「そんな、米田さん!」


 源吾郎は思わず声を上げてしまった。ワタシガコロシタ。これは何かの聞き間違いだろうと思いたかった。だがそれは聞き間違いなどではない事は明らかだった。源吾郎とて聴力は良い方であるし、何より米田さんの表情から全てを察してしまったのだから。

 聞き間違いでも何でもない事を把握すると、源吾郎は熱を失ったかのように冷静な心持になった。個室と言えども喫茶店である。源吾郎が叫んだのが店員や他の客に聞こえてしまったのではないか。そんな懸念が沸き上がり、源吾郎は周囲に視線を走らせたのだ。

 そして源吾郎の視線は、最終的に米田さんの方に戻った。彼女は源吾郎と目が合うとひっそりと微笑んだ。先の言動からは想像もつかぬほど穏やかな笑顔である。源吾郎は言いようのない気まずさを感じ、目を伏せつつ詫びた。


「すみません米田さん。僕、びっくりして大きな声を出してしまいましたね……」

「良いのよ島崎君。そりゃあ、を言ったんだから驚くのも無理はないわ」


 あんな事と言い切れるのは何故なのだろう。妖怪として年功を重ねているからなのか、米田さんにとって遠い日の出来事だからなのだろうか。もしかすると、今でもその罪過に取り憑かれていて、それ故に敢えてあんな事と言ってのけただけなのだろうか。

 米田さんの心中が何であるのか、真実が何であるのかは定かではない。源吾郎はただ、これから語られる事に耳を傾け、受け止めるだけ。源吾郎が理解したのは、その事だけだった。

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