余韻
@Tkmicnkw0830
「余韻」
ソフトクリーム機内部のポンプが激しく脈打ち、それがあまりにも心臓そのものみたいに見えた日だった。ファミレスでのバイトが終わるとそのまま流れ作業で着替えを済ませ、裏口から外へ出て鉄製の階段を錆びついた音を立てながら下った。午後十時すぎの繁華街は酔ってふらついた人間が道の真ん中を堂々と歩き、まるで終電後のように夜更けじみていた。
駅への裏路地を進んで、大通りに出ると夜に跳ねる光の粒が隙間なく漂っている。それがいかにも、鬱陶しくて摺り足で歩いてゆく。
そして赤信号の待ち時間が表示されたメモリがいつ見ても最大値になっているような気がする横断歩道で今日も変わらず立ち止まった。大型トラックが目の前を通過し、地面を微かな振動が伝う。質の悪い風が僕の前髪を揺らしつつ、人混みの間をすり抜けていく。
こんな繁華街は、人の入れ替わりは激しいけれど、騒ぎ方のマニュアルがあるかのように思える。昨日誰かが酔い潰れていた道端に、今日は別の誰かが同じように横たわっている。昨日と同じように誰かが不機嫌そうにパチンコ店から勢いよく飛び出し、昨日とはまた別の客に、昨日も言われたようなイチャモンをつけられる。そしてまた明日は別の構成員によって繁華街の騒がしさが繰り返されていく。どうしてわざわざこんな場所で働いているのかも、自分でもあまり分からなくなってくる。
「一時間二千円ですー!どうですかー?」
横断歩道から見える繁華街の入り口にはアイドルみたいな格好をしたガールズバーのキャッチが何人もいる。彼女らは全員、マニュアル化されたような甲高い声を出して、必死に客を寄せている。そしてそれにまんまと着いていく人たちが今日もたくさん存在する。僕は毎日繰り返される、押し売りされているようなその圧迫感が嫌で、変わらず無視をする。
けれど今日はいつもと少しだけ違った。赤信号の待ち時間のメモリが残り二つになった時に、僕はそのキャッチの中で一人だけ離れて立っていた女性に目が行った。その人は控え目な猫耳を付けつつも、色彩豊かな店の看板を右手でダラんと下げて気だるそうに立っている。そして行き交う人々を呼び止めようともせず、多くの人が彼女の横を通過する。可愛らしくて目立つ格好をしているのに、なぜか気が抜けたような表情をしていた。そのギャップが不思議で、一体どんな感情であの場所に立っているんだろうかと興味を惹かれる。なんだか、この人だけは繁華街のマニュアルとは違う何者かであると不意に思った。
僕の背中が青信号で照らされている感覚がありながらも、そんな彼女の姿から目が離せずにいた。そうして油断している時に、彼女と目が合ってしまった。僕は慌てて目を逸らす。しかし彼女はそんな僕に手招きをした。どうしてか、自分でもよく分からないがその刹那、初めてキャッチに着いて行きたいと思った。点滅する青信号の光が頬に当たりつつ、目の前の横断歩道を渡らずに、引き返した。
引き返したはいいものの、彼女らの方へ自ら近づいていくのが何だか無性に恥ずかしく、俯いたままで歩みを進めた。でも、どうして僕は一人でこんなに緊張しているのかとふと我に返る。結局、ただ一人の客として、どうせよく分からない店へと連れて行かれるだけの話なのに。彼女は単なるキャッチに過ぎないのに、それ以外の何かを期待しているのか。そう考えると自分が感じている緊張感が我ながら滑稽だと思った。
それから、瞳に風が吹き付けて、一度目を閉じてから、近づいた彼女の姿をはっきりと見つめる。その時、僕は驚いた。あまりにも彼女が可愛くて一瞬だけ呼吸ができなかった。鼻先がするりと尖り、優しい猫目で、薄汚い繁華街にしっとりと佇む彼女が白浮きしているみたいで、彼女以外の風景がぼやけて見えた。まさしく人を寄せ付けるために生まれた人間のようだった。
そんな彼女は僕と目が合うと満足気に微笑んだ後、店の看板を両手で握り直す。最初から分かっていたけれど、やっぱり客として呼び寄せられたに過ぎないのだと理解する。
「お兄さん素敵ですね。」
「え?」
でも僕はそんな彼女の第一声に拍子抜けをした。
「今日は私と一緒に居ませんか?」
「いや、あの、、」
彼女はじっと僕のことを見ながらそう言うが、その言葉には体温が無く、まるでうろ覚えのセリフのように聞こえた。だから途轍もないボッタクリの店にでも連れて行かれるのではないかと恐れた。
「それはどういう、、そういう設定ですか?」
「設定とかじゃなくて、、なんかお兄さんが素敵で好きになったので。」
「いや、そんなわけ、、、」
真っ直ぐに「このガールズバーに来てください」と言われたら客としてそれで終わりだったのに、僅かな期待感が頭の隅から溢れ出てくる。でも、なんというかやっぱり拭いきれない違和感が彼女の言葉にはあった。
「色恋営業ってことですか?」
僕は、はっきりとそう言った。すると彼女は何かのスイッチが切れて諦めたようにふっと笑う。
「やっぱり、今日はもうダメですね。」
そうして絞り出されたその言葉には、はっきりと体温があった。
「なんか上手くいかなくて恥ずかしいので、ちょっと話聞いてくれないですか?」
訳はわからないけれど、細い指先が触れて、そのまま彼女は僕をどこかへ連れて行こうとする。
「お店には、、行きたくないですよ?」
「はい。もう大丈夫です。」
彼女の意思は分からなかった。でも猫耳をつけたまま人混みををかき分けて小走りで、揺れる彼女の背中に自然と心がついて行く。とても不思議だった。
「あそこに立って客引きをしている時の私には全部マニュアルがあるんですよ。」
彼女は星の見えない真っ暗な夜空に向かって言葉を放つ。
「マニュアル?」
結局、オフィスビルに見下ろされるサンクンガーデンで、僕らの足は止まった。冷たく硬いベンチに二人で座って、汗ばんだ彼女は襟元をパタパタとし、風を仰いでいた。そしてチェックのスカートに軽く手を添えて僕に「ついてきてくれてありがとうございます。」と少し掠れた声で言った。
「今日お兄さんに言った言葉が全部セリフで決まってて。あ、年齢関係なくお兄さんって呼ぶことも決まってます。それで本気で好意を寄せているんだと装って集客するっていうのが仕事なんです。」
「やっぱり、そうですよね。なんか棒読みだった気がして。」
「いっつもはもっと上手いんですよ?でも今日はもう疲れちゃって。」
彼女は首を傾げながら「スランプかも」と一人呟く。それがあまりにも可愛くて笑ってしまいそうになる。
「それは自分から始めた仕事なんですか?」
「いや、最初は私もバーの中で働いてたんですけど、いくらなんでも性格が暗すぎるって評判が悪くて。店の人から時給を上げるからこのセリフを言って集客する係になってほしいってお願いされて。そしてあそこに飛ばされました。」
「そうだったんですね。」
それをお願いする店側も、そして受け入れる彼女も、どうかしてると思う。
「でもそれがもう限界かもしれないって思って。君には全然通用しなかったけど、君以外はみんな本気な顔をして私の言葉を鵜呑みにするんです。だからもう私の中で人を本気で好きになることがどんな感情だったかも分からなくなってて。」
「確かに言葉は消耗品かもしれないですね。あなたの場合は好きって言葉を多用し過ぎて麻痺してなんの感覚も無いまま、とりあえず口から溢れ出ているみたいな。」
彼女は深く頷きながら、僕の方に少し体を寄せる。
「そうですまさに。好きと言ってもドキドキなんてしないし、言葉が体と繋がってないっていうか。」
「それに、こんなこと続けていたら私、そのうち誰かに刺されそうですからね。」
「確かにそうかもしれないですね。」
彼女はそう言いながら呑気に笑った。まるで殺されても仕方がないと悟っているかのようだった。
「だからもう、辞めてやるんです。」
「すぐにですか?」
「明日、いや明後日ぐらいには辞めます。」
結局、こんな風に辞める日を先延ばしにしてここまできたんじゃないかと思う。彼女は自分の見た目を利用してそれだけで生きていられる。そういう恵まれた人は口では達者だけれど、見た目による恩恵に死ぬまで縋り続けるんだろうと頭のどこかで思っている。
「じゃあ辞める日には、また僕に会ってくださいね。あそこの近くのファミレスで毎日働いてるので。」
「そうしましょう。」
湿気を帯びた晩春の風が肌に当たる。きっと彼女は明日も明後日も明明後日も、そして一年後もあの場所で麻痺した言葉を使い続けるんだろうと思った。だから「辞めれるもんなら辞めてみろ」と僕は心の中で呟いた。
次の日、あの横断歩道からは彼女の声だけが聞こえていた。その姿自体は酔ったサラリーマンたちに囲まれていてあんまり見えなかった。でもいい歳した大人が彼女一人に夢中になっていてみっともないことは分かった。三人のサラリーマンが小さな彼女の手のひらを、それぞれ分け合うようにして握り、彼女はそれを強引に引っ張っていく。そして店の入り口付近まで連れて行くと、店内へと続く下り階段へサラリーマンたちを強引に押し込んでいた。人をモノのように扱う仕事内容に思わず笑ってしまうと同時に、初めからそんなに人を雑に扱うような人間ではなかったのだろうと思う。彼女は強く握られ尽くした右の手のひらを掲げて夜風に晒す。そして、その瞬間に僕の存在にようやく気がついた。すると咄嗟に穢れた右手を後ろに隠して、真っ新な左手で僕に手を振ってみせる。彼女は本当に今の仕事が限界なんだと、その痛々しさに気がついて、悲しさが心に詰まった。
彼女がバイトを辞めると言った約束の日は、流れるようにやってきた。金曜日の繁華街はあまりに混沌とする。ファミレスのバイトでは店長が発熱しながらも厨房に立ち、溜息がうるさかったので「大変ですね」と心配する素振りを見せてあげたのに、何故か八つ当たりをされた。それからフライドポテトがいつもよりも数本少なかっただけで三十分近くも店員を拘束して文句を言うような質の悪い客で溢れかえった。
だから、排気ガスの澱んだ匂いや、あいも変わらずマニュアル化された耳にへばりつく声で客を呼び寄せる人たちにはより一層うんざりした。それに、その空間には彼女の姿は見当たらなかった。今日みたいな日はこの世界の悪口を二人で言いたいと思っていたから、僕は彼女の姿を探し始めた。
そしてちょうどその時、雑居ビルの階段からあの猫耳の先端が見えた。彼女は今日も風に靡く横髪を耳にかけて、虚な目で世界を眺める。その瞬間「会えてよかった。」と純粋に思った。
僕は彼女へ近づき、手を振る。すると彼女は恥ずかしそうに、同時に何か後ろめたそうな顔で体をゆっくりと左右に揺らす。
「結局お前、辞めてないじゃないかって。思ってますよねきっと。」
「思ってないですよむしろ、何も言わず辞めて居なくなる方が嫌でした。」
彼女は少し安堵したように笑いつつも、泣き出してしまいそうな儚さを内包していた。
「辞めようと思ってたんですよ。気持ちだけは本気で。でもそれも言い訳になりますけど。」
「昨日も会ったじゃないですか、でも実はその前からちょっと見てたんですよ。君が三人いっぺんに店に押し込んでるところ。」
彼女は苦笑いをし、昨日握られていた右手をふと眺めた。
「悪い意味じゃなくて、本当に凄いなって思って。この場所にいる誰よりも人を寄せ付けるのが上手い訳じゃないですか。だからきっと他の仕事でも上手くいくんじゃないかって勝手に思います。」
「そう言ってくれて嬉しいんですけど、あの人たち私の手を三等分してギュッて握ってきて、気色悪かった光景を思い出しちゃいました。」
どれほど気色悪くても、それこそが彼女の求められる仕事であること。
「どうやったら辞める決意を持てるかな、逃げたいですもう。」
彼女のゆらゆらと揺れる瞳を見ていると言葉よりも何よりも、その全てに惹かれてゆく。名前も知らない、誰にでも偽りの愛を振り撒くこの人と、何かで繋がり合う予感がした。
「じゃあこうするとかどうですか?」
僕はそっと手を伸ばして、彼女の頭に添えた。猫耳カチューシャに指が触れると彼女は一度瞬きをして、静かに目を伏せた。それを外すと、カチューシャの跡で少し潰れた毛先がさわさわと夜風で揺れている。ただそうしただけで、まるで別人のように思えた。
「わぁ、、」
彼女は甘く、感嘆の声を漏らす。
「凄いです。なんか軽いです、心が。」
「じゃあもっと早く外せば良かったですね。」
ただ猫耳を外しただけなのに、まるで本物の拘束具を外されたぐらいに、彼女の表情は自然で明るいものになっていく。
「どうせ一人ではいつまで経ってもやめれないと思うので、今辞めます。」
「いいと思いますけど、そんな急に辞める決心がつくんですね。猫耳カチューシャって呪縛か何かですか?」
僕はそっと握ったカチューシャを返そうと手を差し伸べたが、それを彼女は「持っててください」と拒否した。
「まあこれも店の人に勝手に付けられたものなので、他の誰かに外してもらうのを待っていたのかもしれないです。」
「じゃあ僕は重要な役割だったわけですね。」
「そう。」と彼女は呟く。大通りの片隅でこんな話をしていた僕らの横を数えきれないほどの人々が無関心で通り過ぎていく。その一方で、他のキャッチの女性たちはチラチラと僕らの様子を見ていた。
「そしたらもう、逃げましょう。私の家、近いのでついて来てください。」
「分かりました。」
流れで彼女の家に行くことになって、漏れ出してしまいそうなほどの高揚感があった。そしてふわりと浮遊しているような夢見心地になる。勇者だけが剣を引き抜けるように、僕だけが彼女の呪縛を解けるのだと思った。
彼女の家は繁華街から少し離れた閑静な住宅街の中の、オートロック式のマンションだった。おそらく同年代であるはずなのに、僕のアパートには付いてすらいないエレベーターに乗りながら少しだけ虚しくなった。だから彼女はあの仕事で辞めたくても辞められないくらいの、相当の給料を貰っていたのだろうと想像がつく。
「どうぞ上がってください。」
「お邪魔します。」
ドアを開けて室内へ案内されると、そこには真っ白な玄関が広がっていた。そして天井照明が廊下の表面にうっすらと反射し、リビングへと繋がっていく。埃の一つもない床は冷たかった。
彼女の部屋は、あまりにも無機質だった。小さな木製の机と、それから丁寧に畳まれた布団。そして全身が映り込む姿見鏡が置かれていた。カーペットも敷かれていないその部屋は新品の白さではなく漂白されて出来た白色のようだった。
「何にも無いんですよ、私の部屋は。」
「ミニマリストとかそういうことですか?」
僕がそう言うと、彼女は少し考えて「そう言うことにしましょう。」と笑った。
ソファすらない部屋で彼女にクッションを渡されて、それに座ると中綿の少ないクッション越しに冷たく硬い床を感じた。
「こうやって生活していくのって大変じゃ無いですか?」
「なんかいつの間にか、こんな感じの部屋になってました。」
部屋は自分の生き方を物理的に表すと思う。だから、自然にこの部屋が完成するまでの間、彼女は一体どのように生きて来たのだろうと不思議な気持ちになる。この部屋で生活感を感じるところといえばベランダに干してある洗濯物くらいだった。
「そうだ、ちょうど今から洗濯回すので。今着てるのを洗濯機の中に入れちゃってください。」
「いや、別に大丈夫ですよ。汗もかいてないので。」
そう遠慮すると彼女は急に、僕のTシャツの裾をつまみ上げて鼻に近づけた。彼女の柔らかな髪が二の腕に触れて、心が身体中を跳ね回った。
「なんかちょっとだけ油っぽい匂いしますよ。」
「ファミレスの制服に油の匂いが染み付いてるんですよ。それがこっちにも移ったのかも。」
「じゃあ尚更、洗濯しちゃいましょう。」
どうしてそんなに洗ってしまいたいのか僕には分からなかったけれど、とりあえずTシャツと、あとバイトの制服も一緒に洗濯機に放り込み、彼女が貸してくれた服を着た。それは綻ぶ花のように、甘い香りがした。
そして着替え終わると彼女は扇風機の前に座っていた。だから僕も横に座り、ふわりとした風を浴びる。洗面所からはカタカタと洗濯機の作動音が響いている。
「そういえば、名前はなんて言うんですか?」
同じ匂いのする服を着た彼女はそう聞いてきた。
「青山終人って言います。終わる人って書いて終人。」
「珍しいですね。」
僕は今でもこんな名前をつけた両親の意図を理解しかねている。
「あなたは?」
「黒島夢乃です。」
儚さと柔らかさが混ざり合った彼女らしい名前だと思った。
「僕も「夢」とかそんな幸せそうな名前が良かったです。」
「確かに名前だけは我ながら幸せそうですよね。」
「生まれた瞬間に終わった人って名付けるのはセンスが皆無なんですよ。」
そう言うと彼女が笑ってくれたので、僕も笑った。
夢乃さんは僕と同い年の二十一歳だった。僕たちの唯一の共通点でありながら、同じだけの時間を生きているのに、二人の生き方がまるで違うことが不思議でもあった。
なぜか嬉しそうに、洗濯物を抱えてベランダに運んでいく彼女を見ながら、僕らはどういう関係になろうとしているのだろうかと考える。僕の服を洗濯されたということは夢乃さんの家にこのまま泊まることになるんだろうけど、彼女は自分の寝室とは別の部屋に僕の布団を用意してくれた。だから体の関係にもならなかった。下心があったわけではないけれど、僕は一体、何をしにこの部屋にやって来たのか、自分でも分からなかった。
結局、別々にお風呂に入って別々の空間で眠りに入った。夢乃さんの身体に触れることもなかった。でもそれが別に残念だったわけでもなかった。「おやすみなさい。」と笑顔で言う彼女はそんな大きな不思議さで包まれていた。
翌朝目覚めると、畳まれた洗濯物から甘い柔軟剤の香りがした。そして僕の服から油の匂いは消えていた。
「ありがとうございます。結局、泊めてもらっちゃったし洗濯もしてもらって。」
「バイト辞めれたのは君のおかげなので、もっとお礼をしたいくらいです。」
光の差し込む朝に見る彼女はあの時よりもずっと幼く、少女のようだった。もっと夢乃さんの家に居たかったけれど、昼過ぎから大学に行かなくては行けなかったので、名残惜しさを抱えながら支度をした。これからどんな関係になるのか、もしくはもう二度と会わなくなるのか、それは全て彼女次第だ。僕にはどんな関係性でも受け入れられる自信があった。
「初めてこんないい香りで大学に行きます。いつもは雑に洗濯してて。」
真っ白な玄関先で僕を見送る夢乃さんは微笑んだ。
「その香りが消えちゃったら、またここに来てくださいね。」
彼女の言葉が僕を静かに包み込んだ。もう二度と会わないかもしれないと名残惜しさを感じていたのは僕だけだったと気づき、堪らなく幸せな気分になった。強引に水で洗い流してでも、その香りを消してまた夢乃さんに会いたいと思った。
「はい、また来ます。」
彼女の見た目、儚さ、そして不思議さ。そのどれもが混ざり合い僕は惹かれた。夢乃さんがキャッチしたのは数多のガールズバーの客と、僕の心そのものだった。
それから、僕はバイトが終わると必ず彼女の家に向かうようになった。繁華街の喧騒を逃れて、世界の隙間のような彼女の部屋がとても心地よかった。
そして夢乃さんは変わらず、僕の制服と私服を丁寧に洗ってくれた。
「バイトの制服はもう、油の匂い落ちないんですね。芯まで染みつきすぎて。」
彼女は一日経てば油の匂いで柔軟剤の匂いが消えてしまう制服を嫌がった。でも、僕はこの制服の匂いに慣れているので無臭に感じていた。
「僕、超が付くほどの苦学生なんです。奨学金を借りてるけど、ギリギリの生活で。だからもうバイトをするしかないんですよね。」
「じゃあこれは毎日、頑張ってる証なんですね。」
「そうなります。」
彼女はそう言うが、頑張っていると言うよりも諦めて悟っている感覚が強かった。毎日を繰り返すことに必死になっていて、繰り返す毎日が嫌いと贅沢に呟く人間は癪に障る。
「だったらずっとここにいてくれて良いんですよ?そしたら生活費もかからないから。」
夢乃さんは僕の目を見ながらそう言ってくれた。どうして彼女はこんなにも優しくしてくれるのかと思う。そして一方でどうしてこんなに余裕があるのだろうかとも思う。彼女は仕事から逃げて相当の収入を失ったはずなのに。
「失礼かもしれないですけど。夢乃さんはどうしてそんなに焦らずに生きれるんですか?」
だから僕は我慢できずにそう聞いてしまう。
「だってもう、焦る必要もないので。」
余計なお世話ではあるが、少しは焦ってほしいと思った。じゃないとこんなに必死こいて生きている自分があまりにも情けなく思えてしまうから。
洗濯物を丁寧に畳む彼女の華奢な背中が幻想のように、ぼやけて見えてくる。時計の針は深夜0時を回った。夢乃さんと一緒に時間を過ごすと、次第に自分まで焦る必要のない人間であるように錯覚を犯してしまう。でも僕はきっと死ぬまで焦りながら生きてゆく、そういう遺伝子を持って生まれたのだと思う。
「私は君のこと見放したりしないので。別に焦らないで良いんじゃないですか?」
余裕たっぷりの彼女の言葉がまた僕を包み込む。
「なんか、僕たちってきっと恋人にはならないんでしょうね。」
「それよりももっと、深い関係になるかもしれないですね。」
そんなことを話しながら、今日も僕らの部屋はゆっくりと眠りに落ちてゆく。
夢乃さんと恋人にはならないだろうというふわりとした予感がしたのは多分、彼女にはもう既に完成された生き方があったからだと思う。あまりに無機質な部屋で朝を迎えて、何事にも焦ることもなく、そしていつかはその素敵な見た目を使ってまた違う仕事で生活費を稼ぐのだろう。僕はそんな彼女の生き方に合わせることはできないと思う。
でも、恋人にならなくても夢乃さんと過ごす時間はこの上なく幸せで繰り返す毎日の中で唯一の彩りになった。どうして夢乃さんは僕のことを毎日受け入れてくれるのかと不思議になりつつも、彼女に嫌われない限りはここにいようと思った。
そして同時に、毎日必死になってバイトをすることに嫌気が差して段々とシフトの日が減っていった。ずっと彼女の家に居続ければ確かに生活費は掛からなかったし、居候することは少し情けなくもあったけど結局は甘えてしまった。
週末になると必ずと言って良いほど店長から「出勤できないか?」という旨の連絡が届き、それをやんわり断っていると、そのうち直接電話がかかってきて「もう少しシフトの日を増やしてほしい」と懇願された。今まで学生とは思えないほどに連勤してきたので少しくらいは休んでも良いかと思い、夢乃さんの前で「一度実家に帰ることになりました。」と嘘の電話をした。すると店長は「あぁ、、そうか」と諦めたような声を発して自然と電話は切れた。その疲労が溜まったような掠れた声に少し罪悪感を抱きながらも、してやったりと言う顔で僕を見る彼女と目が合うとそんなこともどうでも良くなり、弾けるように笑った。
そうしてバイトをしなくなり大学にも行くか行かないかも怪しい状態になり、夢乃さんと出会ってから三週間が経った。僕はますます彼女に惹かれていき、その姿が脳内を埋め尽くしていった。
ただ、一緒に生活すると彼女にはいくつかの口癖があることに気がついた。例えば「結局どうにでもなる。」とか「無理して生きようとするから辛くなる。」とか「私がどう生きているかは誰も興味ない。」だとか、良く言えば余裕たっぷりに生きているのかもしれないけれど僕には彼女が世界に対してひどく無気力なのだと思えた。そして彼女は不自然なほどに明日以降の予定を立てなかった。目を覚ましたら偶然、次の日がやってきていたかのように、彼女は毎日を生きている。そう言うところが気になってしまい、徐々に彼女が脆く危うい存在に見えていった。
夕飯としてコンビニの惣菜を二人で静かに食べて、空いたプラスチックの容器をゴミ箱に押し込んだ。たくさんのゴミが詰まり、蓋が閉まり切らないほどになった。
「ゴミ箱いっぱいなので変えておきますね。不燃ごみの回収日とかは決まってるんですか?」
リビングで洗濯物を畳む夢乃さんにそう聞く。
「分かんないです。いつもあんまり気にしてなかったですね。」
「そうなんですか。」
やっぱりそうかと、僕は思う。彼女は何曜日にゴミ出しをするべきかを知らないし、明日は何時に起きるのか、何を食べるのか。そういうことを全く考えようとしない。だから明日、突然一人になりたいと言われてもそれほど驚かないと思う。
そんな漠然とした不安感を抱いたまま彼女の後ろ姿を見ていると、こんなあやふやな居候するだけの関係を脱却したくなる。夢乃さんの明日に不可欠な存在になりたいと強く思う。
だから僕はキッチンから駆け寄って彼女の身体に初めて触れた。抱擁とは言えないけれどお互いの体温と身体の振動が伝わり、高揚した。
「どうしたんですか?」
夢乃さんは大して驚きもせず、僕の身体を受け入れる。
「前に恋人にならない気がするって言いましたけど、実はそんなこともないのかもしれないと思って。」
少なくとも僕は、こうして身体を触れ合うことが正しい関係なのではないかと少し思った。
「やっぱりこれじゃないと思います。」
「え?」
でもそんな彼女の言葉が四角く冷たい部屋にこぼれ落ちる。
「恋人になるために出会ったんじゃないと思います。」
「じゃあ何のために?」
あっさりと断られてしまい、僕には恥ずかしさが募る。
「嫌なことから一緒に逃げるために。」
夢乃さんはそう言って振り返り、彼女に触れていた僕の両手がゆっくりと離れ落ちる。
「君がもしもどうしようもなく辛い状況にいたとしたら、私はそこから一緒に逃げるのを手伝います。君が私にしてくれたみたいに。」
「嫌なことから一緒に逃げるための関係なんですか?」
「そうですきっと、幸せになれますよ。」
果たして逃げた先には何があるのか。そして一人では逃げられない現実から二人で助け合って逃げていくような関係を一体何と呼ぶ?
バイト先からの連絡は鳴り止み、大学にも行かず、ますます僕らは閉鎖的になっていった。夢乃さんに「恋人になるために出会ったんじゃない」とはっきりと言われてから、僕の心は複雑に揺れていった。「一緒に逃げるための関係」と彼女は言ったけれど最初はその関係の意味が分からなかった。でも、僕はバイトと大学を行き来するような今までの退屈な暮らしからもう既に逃げて彼女の家に居候しているんだと気がついた。
焼きたてのパンを食べ終えて、窓を開け、朝の外気を吸い込んだ時に、僕はそんな自分の気づきを夢乃さんに打ち明けた。すると彼女は
「逃げるって言うから少し後ろめたくも思えるんで、ちょっと現実から離れたってことにしましょう。」
と言った。
「一度現実から離れただけだとしても、いつかは戻らなくてはいけないじゃないですか。大学に行かなくてはいけないし、お金も稼がないといけないし。今はいいけど、夢乃さんだってそうでしょ?」
彼女の途方もない余裕に触れて、現実逃避する時間も素晴らしかったけど、それは限られた時間だからこそ輝くはずだと思う。
「でも、私は戻らないです。現実から逃げ続けますよ。」
彼女のその言葉からは上手く言えないけれど、強烈な決意みたいなものが滲み出ていた。
「だけど、逃げ続けた先には希望も何も無いと思わないですか?」
「それでいいんですよ。逃げ続けた先にはただ全ての終わりだけがあって、いつかはそこに辿り着くんです。」
笑顔でそう語ってゆく彼女、僕の頭の中には途轍もなく不穏な予感が立ち込めてくる。
「もしかしたら、君が持ってる余裕って僕が想像していたものとは全然違う気がします。」
「そうなんですかね。」
朝、眉は少し薄く幼く見える彼女が呑気にあくびする。その大きく空いた口を塞いでしまいたくなるほど、僕の心は乱れ始める。
「客引きの時もそうでしたけど、君の勘は鋭いと思うので。もう気づいていますか?」
夢乃さんは立ち上がって部屋に立てかけられた姿見鏡の前に座り、鏡に反射した僕に向かってそう問いかけた。
「気づいてますか?」
黙っていた僕に、彼女はもう一度問いかけてくる。
「もしかして。もう、死んでしまおうなんて思っていないですよね。」
僕は自分の言葉が否定されるのを心から願った。微かに震えていたのは僕の声だけではなく、彼女の瞳孔もそうだった。
「死にたいと思ってます。でも、ひとりぼっちではなくて。君と一緒に世界から逃げたいです。」
ああ、最悪だと心の底から思った。洗濯機の音すらしない空虚な部屋で失意の底へ沈んでいく。それなのに、彼女は綺麗な瞳で僕を見つめている。
「嫌ですか?」
「嫌です、そんなことできる訳もないので。」
初めて会ったあの日、猫耳をつけた彼女に手招きされた瞬間。僕は客としてではなく、勿論好意を向けられたわけでもなく、一緒に死ぬ為の人間として寄せられたなら、そう考えると全ての理想が砕け散るような虚しさが苦しかった。
「どんな方法でも良いです。一度恋人になってから死ぬでも良いですよ。」
「そんなつもりで今日まで君と一緒にいたわけじゃないんです、、、」
ただ僕は彼女の外見に惹かれ続けていただけだった。
「そうですよね。」
彼女の言葉は余りに重く、身体を締め付けてくる。
「ごめんなさい。多分ですけど、今日でもう夢乃さんとは会わないです。君がもし一人で死んでしまっても罪悪感を感じたくないから、無関係で居たいです。」
「ひとりではどうせ死ねないんですよ、、、きっと。」
「じゃあ、死にたいなんて言うな」と叫びたくなったけれど、頭の中ではもう既に彼女と他人になる準備を進めていたから、僕は何も言わなかった。
「君がまた会ってくれるまでは死なないです。待ってます。」
「それなら、自然に生きれるようになっててください。」
彼女が死にたいなんて言い出さなければ僕だってここに居続けたかった。でも窓から見える快晴の空を眺めると、この部屋はまるで深海のようだった。早いうちに水面へ這い上がらなくては彼女と一緒に僕まで窒息死してしまう。
だから、僕は大した礼も言わずに夢乃さんの家を脱出した。死の香りを纏った彼女は玄関まで見送ってくれたが、身体の隅から無意識に、彼女を拒絶していた。
厄介な人にのめり込んでしまったと後悔しながら、自宅へと歩く。彼女と出会わなければよかったと、その刹那に思った。
彼女の家を出てからすぐに、岩手の両親から連絡が届いた。それは遠い親戚の訃報だった。僕は数度会った程度の関係だったので「土日を使って葬儀に来て。」と言われた時は少し憂鬱だった。でもしつこく頭から離れなかった夢乃さんのことを振り払うためのいい機会かとも思い、新幹線で実家に帰省した。
実家の引き戸を開けると懐かしさと言うよりも世界から取り残されたような変わらぬ空気が外界へと流れ出してきた。そして奥からやってきて聞こえた母の少し冷たい声質も変わっていなかった。
「久しぶり、こういう時にしか帰ってこないから。」
「そりゃ、自由にどこか行ける暇がないからね。」
「無理は禁物よ。もう少しはこっちにも顔出してね。」
もう少し僕に金銭的な余裕があったら顔ぐらい、いくらでも出していたと思う。
「余裕ができたらそうする。」
「なんか、いつもそんなこと言ってるけどね。」
どうして母は僕の金銭面での困窮をそんなに他人事のように捉えるのだろうと思った。両親が豊かな生活を送れていないから、僕もそんな風になってしまうわけだし、貧しさとか、苦労とか、品のなさとか、そんな部分は遺伝のようなもので不可避だ。そんな母親の後ろ姿にはやっぱり嫌悪感が生まれてゆく。
親戚の葬儀はお通夜は無く、明日の告別式だけだった。夜には父と母と久しぶりに食卓を囲んだ。年季の入った木製のテーブルにそこまで彩りのない料理が運ばれてくる。それらを大した会話もせずに口に運んでいく。外の風は少し強く、窓枠がカタカタと揺れながら音を立てる。口にした煮物は素朴ながら美味しかった。でも、どうしても実家の空間は冷たくモノクロに見える。掛け時計や飾り棚に置かれる見知らぬ地域のお土産など、部屋の装飾品は幼少期から停滞している。そんな実家を変わらない居場所として愛でれないのは、僕自身がひねくれているのかも知れない。
ただ唯一、テーブルの隅には母が先月から始めたというフラワーアレンジ教室で作成した作品が遠慮なく置かれていた。蜜のような花々の芳香が素朴な夕食の匂いと混ざり合う。それが無性に嫌だった。
翌日の告別式は家族葬の形式であっさりとしたものだった。喪服に包まれた親戚が十数人と、亡くなった親戚が入居していた老人ホームの従業員も制服姿で葬儀場に集まった。祭壇花の中央に置かれた遺影を見ても、故人との思い出を頭の奥から引っ張り出すことはできなかった。この人に一度でも頭を撫でられたりしたのだろうかと、静寂な空間でふと思う。
そうしてあまり感情が動かぬまま気づくと葬式は終わりに近づき、生身の故人を見送る最後の時間がやってきた。各々に何輪もの花束が渡され、棺桶の隅々までその花束をゆっくりと置いて敷き詰めていく。僕は眠るように目を閉じていた顔の横にそっと花束を飾った。
その時に、ようやく故人に対してうっすらとした面影を感じた。同時に僕の心には微かな悲しみが生まれた。だからこの世から消えてなくなる前にと、僕の指先が故人の頬に軽く触れた。
しかし指先で触れたその瞬間、蝋人形のような皮膚の硬さと想像もできないほどの冷たさに驚愕した。病院で、それも老衰で亡くなった故人は綺麗な死に方をして、しかもその身体をすごく丁寧に扱われて、棺桶に横たわっているのだと思う。どれだけ綺麗に死んで、どれだけ丁寧に死化粧をしても、死んでしまえば惨めで、その作り物のような身体から感じる嫌悪感は拭いきれない。
それなのに自殺なんてしてしまえば、触れようとも思えないほど無残な単なる残骸として世界から散ってゆく。そんなのはやっぱり受け入れられるはずもない。
その後故人は灰になり、残った塊は親族で壺の中に入れ込んだ。そうして葬式が終わると、親戚たちはこれまで我慢していた笑顔を解放させるように、そこらで賑やかな声が飛び交った。久しぶりに会った親戚が次々と「昔のこと覚えているか?」とか「東京の人って感じになったね」とか「どんな会社に就くんだ?」だとか僕に矢継ぎ早に質問を投げかけて来た。数分前まではあんなに悲しそうな顔をしていたのに、まるでそれが嘘のようだった。
そして最後には全員分の弁当と飲み物が支給されて会食が始まった。故人の白木位牌と骨壷は会場の隅にぽつんと置かれ、両親含め親戚はビールを注ぎ合い乾杯をする。一人の死が導いた親戚同士の再会の場。楽しげに思い出話を繰り返す親戚たちを見ていると、本当に故人を偲ぶために集まったのか、それともこうして酒を飲んで談笑するために集まったのかどっちなのか分からなくなってくる。
気がつくと僕が触れていた空のコップにも黄金色したビールが注がれている。「ありがとうございます。」ととりあえずは礼を言っておくが、僕にはさっきの皮膚の冷たさが指先に感覚として残っていてこれを飲み干せる気もしなかった。
晴天を忘れたような田舎の寂れた葬儀場で、コップが空になってはビールが注がれ、あちこちで絶えない笑い声が漏れ出し、親戚は皆、一人の死に対する悲しみよりも僕に再会できたことを喜ぶ。隅に置かれた骨壷の中の骨のように、死への悲しみはあっけなくも灰になる。
こんな場所では死にたくないと、愛想笑いの奥で強く思った。
そんな葬式終わりの夕方に、慌ただしくも僕は東京に帰る予定だった。なので最寄駅までは両親が車で送ってくれた。
「立派な息子さんだって、みんな言ってたよ。ありがとうな。」
父は僕の肩に触れながらそう言う。父はよく言えば優しい、でも悪く言えば威厳がない。
「何をしているかってよりも、東京で生活しているだけで立派に見えているのかな。」
「お前はちゃんと東京で生きてるんだからそれだけで十分だ。」
東京で生きている、それは普通のこと。当たり前のこと。本当は女性の家に居候していたことなんて、目の前の両親は知る由もない。
「もう少し顔を見せてくれたら尚いいんだけどね。」
母はまたそんなことを口にする。でもやっぱり僕は人が死なない限りはわざわざここに戻ってこようとはこれからも思わない気がする。
新幹線に乗り換える主要駅までのガラガラの電車内で、僕はそっと座席に座り、次に戻ってくるのはいつだろうと考える。窓の外では注ぐ夕日は田んぼに反射していた。この町は囲われた山のせいでおそらく日照時間も短い。
嫌と言うほど変わらない故郷の全て、遺体の惨めさ、そして霧のように希薄な死への悲しみ。
東京へ戻るとまた一週間が始まり、僕はもう一度この世界で真面目に生き直そうと誓い、彼女の家に入り浸っていた時のような自堕落な生活から脱却しようとした。ただ生活の中の彩りが消えた、その茫漠とした喪失感が心には確かに存在した。
そんな喪失感をどのように扱えばいいのか、それが分からないままふわふわと生活していた。毎朝一人で目覚める度に、期待する香りが僕の部屋には存在していない。散らかった部屋には必死に生きた生活の残り香が漂い続けていた。
でも単純に、銀行口座のあまりにか細い残高を見ていると自分が苦学生であることを自覚し、働かなくてはいけないと思うようになる。彼女の前で実家に帰ると嘘の電話をして以来一ヶ月は働いていなくて、居候ではなくて一人で生きていけばお金が消えてゆくということを今更になって実感した。
だから僕は初日のような緊張感を抱えながらあの繁華街のファミレスへ久しぶりに出勤した。相変わらず夕方の繁華街は、街全体が夜間に発光する準備に勤しんでいた。
僕は鉄製の錆びた階段を上がり裏口の扉を開けようとする。でも正しい暗証番号を打っているはずなのに、なぜかドアノブは回ってくれなかった。どれだけ丁寧に押し直しても開かないその扉の前で困惑していると、後ろの階段から、あまり見たことのない人が上がってきた。その人が何の戸惑いもなく暗証番号を入力すると扉は自然に開き、僕も一緒に入った。このファミレスで、たった一ヶ月の間に何かが変化したような、そんな予感がした。
従業員室は冷房が効いていてひんやりとしていた。奥の椅子にはさっき裏口を開けてくれたよく知らない人とその隣に、同い年の同僚も座っていて暇そうに携帯をいじっていた。「久しぶり」という意味を込めてその同僚に目で挨拶をすると、なぜか視線を逸らされた。そのそっけない態度に困惑しつつ、僕は共同ロッカーに荷物を放り込んだ。
「久しぶり、、だね。」
「ああ。」
同僚の短い返答はあまりにも冷たくて、僕には得体の知れない不安感が迫り来る。
「て言うかさ、よくこれたね。」
「え、、、」
同僚がそう言うと、隣に座っていた知らない人間も僕に軽蔑したような視線を浴びせてくる。そんな二人の言動の意味が分からなかった。
「あの人新しい店長の前田さん。挨拶しておきなよ。」
「うん、、分かった。」
よく見るとパソコンが置かれたデスクにも知らない人間が座っていた。店長が新しく赴任してきたことすらも僕は知らされていなかった。とりあえず言われるがままに、キーボードを打つその新店長の元へ歩み寄った。
「あの、バイトの青山です。よろしくお願いします。」
「君が青山くんだったか、前の店長から聞いてます。僕は前田って言います。」
前の店長よりも一回りくらい年下の前田店長は作り上げたような爽やかさを纏い、その言葉には圧を感じる人だった。
「急だったからね。僕も分からないことがあると思うから色々とよろしくね。」
「前の店長は、、どこに行ったんですか?」
僕が何気なくそう言葉を放つと、ただでさえ静かだった従業員室の空気がより一層緊迫した。
「その事も聞いてなかったのか、、」
「はい。何も聞いてなかったです。」
目の前の人間が必死に言葉を選んで伝えようとしていることに気づき、言いようもない不安感の輪郭が徐々にはっきりと映り、それが僕に襲いかかってくると身構えた。
「精神的にちょっと病んじゃって。あの、、、」
前田店長は声を発しながらも尚、言葉に詰まる。
「どうやら自殺未遂をしたみたいで。」
その言葉を告げられた僕は思ったよりも冷静でいた。「一命は取り留めたみたいだったからそれはよかったんだけどね。」と前田店長は付け加える。店長は今もどこかで天井を眺めているのかとただ漠然と思う。
「生きてはいるんですね。」
まさしくそれだけが僕の精神を安定させる唯一の手綱となる。死んではいない、死のうとしただけ。あの日のような冷たい蝋人形みたいな状態にはなっていない。まだ暖かい店長の身体は呼吸を続けている。
「うん。まあ君たちが責任を感じる必要はどこにもないからさ。」
「そうですね。」と僕は呟く。気づけば従業員室には僕と前田店長以外誰もいなくなっていた。誰かが「死ね」と店長に言ったわけでもない、何より死んでいないのだから僕らが感じる責任は確かに存在していないように思える。でも、僕の脳内では夢乃さんの家でしつこく鳴り続けた店長からの携帯の着信音が耳鳴りのように繰り返し再生される。実家に帰省すると嘘をついた時の店長の掠れた声も一緒に蘇る。
そして「よくこれたね。」と言う数分前の同僚の言葉も同時にリフレインする。そこでようやく僕は彼らの態度の意味を理解した。僕はきっと自殺未遂の責任を押し付けられているのだと。それはあまりにも耐えられないと思い、急いで制服に着替えて泣きそうな気持ちを抱えたまま、厨房へと降りていった。
すれ違う他の従業員が僕にどんな目線を浴びせているのか、それは分からなかった、分かりたくもなかった。厨房へ降りるとさっきの同僚は食洗機の蓋をガシャンと閉めてこちらを見ていた。
「よく来れたね、なんて第一声で言うなよ。」
「もう、店長のこと知ってると思ってたからね。」
僕はあえて同僚とは物理的に距離を空けたまま、話すことにした。
「君が店長からの着信を無視し始めて三日か、四日後かな。もう限界だってキャパオーバーになって、次の日から来なくなったよ。」
「だからって、全てが僕のせいになるか?」
食洗機の中の皿が洗剤や水流に揉まれている。それと同じように僕の精神がかき混ぜられてゆく。
「君がここからいなくなった時期と、店長が限界を迎えた時期が重なったのは事故かも知れないよ。でも事故なら許されると言うわけでもない。」
事故がどうとか言っているけれど、この人たちは自分の中に少しでもある罪悪感を全て僕に押し付けて楽になりたいたいだけなのだと思う。
「そもそも自殺は自殺で。わざわざ理由とか、誰のせいとか決めつけて他殺みたいにする義務なんてないだろ。それに、、、誰一人として死んですらいないし。生きてさえいれば何も終わりじゃない。」
生きているはずなのに、まるで死んでしまったかのように僕を責め立てる。わざわざそんなことをする意味が分からなかった。
「君の制服から香るようになったあの甘い香り、ものすごく嫌いだったな。」
「え?」
同僚は薄ら笑いを浮かべながら、唐突にそう言った。午後五時を過ぎて店内は少しずつ騒がしく動き出す。
「だから何?」
「香水なのか柔軟剤なのか知らないけど、あの甘い匂いを纏い出してからさ、遅刻はするし仕事は雑になるし。わかりやすかったんだよ、君の変わり様が。ただ余計なことせずに働いておけばよかったものを。」
「余計な事って、、、」
余計な事。それは夢乃さんと過ごしたあの時間。
僕の心に複雑な気持ちが募る一方で、徐々に店前の通行人が増えていた。そして前田店長は厨房に降りてきて夜ピークに備えて店内の指揮を高める。
「資材とか足りないもの今のうちに準備してね、後で資材切れとかやめてよー。」
そんな言葉に顔馴染みの大学生や高校生、外国人留学生は前と変わらぬ様子で返事をする。そして同僚も前田店長に肩をそっと叩かれ、それに対して笑顔で「頑張ります。」と対応していた。僕はそんな表情を見ていると憤りを覚える。
「お前もだけどさ、みんな何事もなかったかのように働いているね。」
帽子からはみ出た同僚の薄茶色の前髪が空調の風でふてぶてしく靡いていた。
「だって、店長の自殺未遂は君のせいだったってみんなが納得できたから。」
その突き放すような言葉はあまりに強く、全身が痛い。精神的には立っているのがやっとだった。
「でも君がまたここに来たから、みんな店長のこと思い出しちゃうかも知れないね。せっかく忘れられたところなのに。」
僕はもう、反論する気力すら無くなってしまった。同僚は冷凍のフライドポテトをフライヤーバスケットに入れて油に落とす。そしてポテトを全て包み込む無数の泡をただひたすらに見つめていた。
店長の件で一度乱れたこのファミレスの空間は、僕に全ての責任を押し付けることで再生された。そこに当然僕の居場所はない。もはや調和にそぐわない異物になる。もしも、このファミレスの空間が世界そのものだったら、それこそ僕は自殺しているのかも知れない。
でも幸運なことに、このファミレスは世界のほんの一部でしかない。異物になり続けてまでここに居続ける必要性はどこにもない。だからもう、今日限りでこのバイトを辞めるんだと誓った。
鉄板に落とした卵には小さな殻が入っていたが、それを取ろうという気にもならず、そのまま焼かれて固まり、異物が入った目玉焼きがお客さんの元へ運ばれている。退勤するまでそんな目玉焼きを何個も作った。そんなことで気持ちの辛さを紛らわせようとしている自分がひどく虚しかった。
そうしてもう二度と戻らない空間から汗ばみつつ逃げ出した僕は、今日も星のない空を見上げる。そして、ふと自殺未遂は卑怯だと思った。この世界のどこかに今も生きているのに、まるで死んでしまったかのように周りの人間に罪悪感を与えるのだから。
生活費を賄うためのバイトから逃げた後、一体どこに向かおうとしているのか。その行先は自分ではっきりと分かる。結局、僕はこんな現実から一緒に逃げるために彼女に助けてもらおうとしている。
バイトのみんなはきっと喜ぶと思う。纏めて押し付けた罪悪感を抱えたまま、異物である僕がいなくなるんだから。そして無事に正常化されるんだから。
しわくちゃな制服だけをデスクの上に返却してバイトを飛んだ、そんな夜が明けて土曜日がやってきた。
夢乃さんの自殺願望から目を背けるために、距離を置いたこの一週間ほどで、僕には偶然にも死を体感する機会が立て続けに訪れた。親戚の葬式では死んだ体の惨めさ、周りの人間が持つ悲しみの呆気なさが僕の脳内に残った。そして店長の自殺未遂は、人間が自殺したら周囲の人はどのように変化し、振る舞うのか。それが明らかになる予行練習だったと思う。この世界はこれほど陰湿なものだったのかと、朝一番に浴びた風から思う。
彼女の家へ向かうことは悔しいというか、情けなくもあった。もう二度と会わないんだと自信満々に飛び出したくせに、バイト先では居場所がなくなり、十分な生活費もない。かといって新しいバイトを見つける気も起きないので、彼女に生活を支援してもらうしかない。親にはいくらせがんでも渡されるのはちんけな小銭だけだ。
今思えば夢乃さんは元々死ぬつもりでいたから、お金を節約するという概念をとうに捨てていて僕のためにも惜しまずに使ってくれていた。彼女の貯金が底を着く時、それがもしかしたら彼女が死ぬ時なのかも分からないのに、それを理解した上で居候しに行く。こんな姿を両親には見せれないと思った。
彼女のマンションに着いて、インターフォンに微かに震える指先で部屋番号を入力する。そして向こうとつながった瞬間に彼女が何らかの声を発して、目の前のガラスドアは開いた。とりあえず生きてくれてよかったと強く思った。
エレベーターを使い、ドアの前に立って、そのさらりとした玄関ドアをさする。このドアが開いたその瞬間に、また夢乃さんと無関係ではいられなくなる。どうにか自然に生きれる人間になってはいないかと願った。
そんな風に考えていて玄関の前でまごついていると、ドアは向こうから開いた。
「もう、待ってましたよ。」
唐突に聞こえた声と、やっぱり見惚れてしまう表情に僕は軽く動揺した。
「あの、、」
「なんですか?」
「一緒に死ぬ覚悟ができたとかそういう訳じゃないんです。」
まずは一番にそれを伝えると夢乃さんはゆっくりと頷いた。
「むしろ君を生かし続けるために来ました。」
「そういう訳ですか。」
彼女は特に表情を変えることもせず、僕の手を引いた。そして玄関のドアは勢いよく閉まった。
夢乃さんの部屋は変わらず生活感が無いままで、今日は来ているスウェットすらも真っ白だった。僕が前に座っていたクッションはおそらく、一ミリも動いていないままだと思う。何も変わらない、避けきれない運命のようなものを何となく感じる。
「あの日から今日まではどんな感じで生きていたんですか?」
姿見鏡の僅かな汚れを拭き取ろうとする夢乃さんにそう投げかけた。
「疲れましたよ。君にもう一度会うまでは生きなくてはいけない訳だから。でもいつ帰ってくるか分からないし、もしかしたら帰ってこないかもしれないし。」
彼女は当然のようにそう答えた。生きなくてはいけないという不思議な言葉を使いながら。
「自然に生きれた訳じゃ無いんですね。」
「自然に生きるって?」
ふんわりとした僕の認識が、夢乃さんには上手く伝わらない。
「何というか、身近な幸せを喜んだり、生きてる意味なんて考えることもなく。そして何より自分で人生を終わらせようとしない、、みたいな。」
「繰り返す毎日を受け入れるってことなんですかね。」
彼女は何とか理解しようとしてくれる。
「とにかく、自ら死ぬようなことが何よりも不自然です。」
彼女のような見た目の人は尚更。色んな人の理想の上に立っているのだから、それなのに死にたい気持ちを持つことは不自然で仕方ない。
「そうだ、そういえば僕は昨日バイトをやめたんですよ。」
「え、どうしてですか?」
硬い床に敷かれたクッションに座り直し、昨日のことを夢乃さんに打ち明ける。
「店長が精神的に病んで自殺未遂をして。」
彼女は僕の言葉に目を見開く。まるで同胞の人間に出会ったかのように。
「ここにずっといて僕がバイトに行かなくなってから店長は限界を迎えたみたいで。別に何をしたわけでもないのに、それだけでバイトの人たちは自殺未遂の責任を僕に押し付けようとしてきて。」
「生きてはいるんですね。」
「そうです。生きてはいるのに周りの人は本当に死んでしまったように僕を責めるんです。だからもうこんな所に居場所はないって思ってやめました。」
夢乃さんは僕の正面に座り込み、まるで貴重な証言を聞くように真剣な表情でいた。
「店長本人は死んだら全てが終わりだと思いながらそういう行為に走ったんでしょうけど、周りの人達からしたらその瞬間が不幸の始まりです。」
「悲しかったってことですか?」
「そんなに悲しくはなかったです。でも誰か一人が責任を取らなくてはいけなくなるんです。そうじゃないと全員が不幸な気持ちになるから。だからみんなその責任を一人に押し付けることに必死になってました。」
「だからもう、もし君が死んでしまったら耐えられる精神状態じゃないです。」
僕は夢乃さんの瞳に訴える。自殺なんてあまりにも無責任だと。
「もし私が死んでも君のせいにはならないですよ。絶対に。」
「その原因は本人が決めることじゃないんです。関係ない人達が勝手に決めるんです。」
そう告げると彼女は少し悲しそうな顔をした。
「だから君が思ってるほど上手いこと幸せにはなれないと思います。」
洗濯機の作動音は今日も変わらず耳に届く。
「死ぬことを考えるよりも、自然に生きる練習をしましょう。」
「どうすればいいですか?」
僕はとりあえず部屋を見渡してみる。そこでまず目に入ったのが未使用に近いキッチンだった。
「料理でも作りましょうか、二人で。」
「分かりました。」
夢乃さんは少し驚いた顔をしたのち、微笑んだ。
冷蔵庫を開けると中央に二等分されたうちの半分のケーキが置いてあった。それを「君のために取っておきました。」と彼女は言い、僕はとても嬉しくなった。でもケーキ以外にはほとんど何もなかったので、まずは二人でスーパーへ買い出しに行くことになった。
窓の外では雨が降り出していたので、彼女の傘を借りて外へ飛び出した。雨で湿ったアスファルトに足音がピチャピチャと音を立てる。「何を作りますか?」と笑顔で聞く夢乃さんの語尾は少し跳ねていた。
「重かったですねえ。」
僕は台所に大きく膨らんだレジ袋を置く。彼女の白い手首の皮膚にレジ袋の持ち手部分が跡をつける。
「じゃあ早速作りましょう。」
僕はレジ袋の中身を冷蔵庫に閉まって手を洗う。彼女は唐揚げを作りたいと言った。それがお袋の味だったようで、親の愛情は人並みに受けているのかと思った。
「お母さんにもらったレシピがあるんですよ、ほら。」
夢乃さんは棚から小さなメモ帳を取り出して、僕に見せた。イラストと共に作業工程が事細かに記されていてとても分かりやすかった。
それを基に二人で協力して唐揚げを作る。まな板の上で具材を丁寧に切り分けたり、計量カップのメモリを凝視しながら調味料を入れる。そんな彼女の姿から死の香りは全くしなかった。調味料に浸された鶏肉を冷蔵庫にしまう時に見せる夢乃さんの嬉しそうな表情。これこそが自然に生きることだと思った。
そして三十分ほど漬け込むために時間を置いて、調理を再開させた。
「そういえば、市販の鶏肉で鳥刺作って救急車で運ばれた人のニュースをネットで見ました。」
夢乃さんは冷蔵庫で漬け込んでおいた鶏肉が入ったボウルを取り出しながらそう言った。
「そんな人もいるんですね。」
僕は片栗粉をトレイに出しながら何となく返答する。
「生の鶏肉って言ったら毒みたいなものじゃないですか、これを食べたら病院送りって。そんな毒が身近にあるのってなんか不思議です。」
「不思議ですか?」
「かろうじで食べていないだけですよね。そう考えると怖くなってきます。」
夢乃さんはさっきまで普通に持っていたボウルを乱雑に置き、蛇口を捻って流水で手を洗い出した。
「なんか嫌です、毒がボウルに入っているのが。」
僕は少しうんざりしながらも彼女の濡れた掌にそっと触れてあげた。
「でもそんなこと言ったら包丁だって指先を簡単に切っちゃうだろうし、この炊飯器のコードでも首を絞めることはできるだろうし。それを気にしてたらキリが無いですよ。」
そう言うと夢乃さんは初めて僕の手を握り返した。
「なんか、かろうじで生きているけど、危ういことばっかりだなって思わないですか?」
そう不安そうに呟く夢乃さんを見て、この人は日々の中で幸せよりも危うさを見つけ出してしまうんだろうと思った。それが自殺願望に繋がっているのかは分からないけれど。
だけど小さなテーブルに出来上がった料理を並べていくうちに彼女はさっきの自然な笑顔を持った人間へと戻っていった。そう言う表情を見ていると安心してくるし、ずっとこれが続けばいいと思う。
向かい合って座り、スーパーで買った割り箸を使って出来立ての唐揚げを口に運んだ。繊細な味付けと絶妙な衣の弾ける音、そして温かさがそれらを包み込み、僕は自然と笑顔になった。彼女は「懐かしい」と言って自分たちで母の料理を再現できた喜びを語った。雨上がりの夕日が窓の外から差し込む。こんな彼女との自然な営みの時間が増えるようにまずは二人分の箸を買おう、そして冷蔵庫いっぱいに好きな食べ物を詰め込もうと思った。
「明日は何をしますか?」
唐揚げを食べ終わると、今まで明日の予定を一度も立てなかった夢乃さんが、そう聞いてくれた。
「今日みたいな日は好きですか?」
「なんかすごく新鮮でした。やっぱり一人でずっといるのは良く無いですね。」
それは僕も同じで、二人でいると心は軽くなっていくことを実感する。
「じゃあ、明日はどこかへ出かけますか?」
「そうしましょう。」
お互いにある程度の距離を保ちながらも、確かに支えあっているような感覚。恋人とはまた違うけれども、それでも心地よかった。
二人で食器を洗い、別々にお風呂に入り、二人で扇風機の風を浴びて、別々に寝る。僕は夢乃さんの家で生活を支えてもらう。その代わりに僕は彼女にずっと生きていたいと思ってもらえるようにする。
翌日は梅雨が終わるその最後の悪あがきのような朝だった。夢乃さんが洗濯してくれたシャツを来て外へ出る。どこに向かうのかは歩きながら決めることにした。彼女は「誰かと出かけるのは久しぶり」と言い、雨の香りを感じながら歩いていた。僕にはそれを懐かしんでいるようにも見えた。でも死にたい気持ちを抱えた夢乃さんが狭い歩道を歩いていると何だか危なっかしくて、右手をずっとつないでおきたくもなる。
繁華街とは逆方向に歩いていくと休日でも人はそこまで多くなく、傘に雨粒が跳ねる音がしっとりと心地良く耳に届く。大通りに立ち並ぶ雑貨店やカフェにその都度、彼女は惹かれている。「どこに向かっているんですか?」と彼女に聞かれた時、ようやく目指す場所が決まった。
大通りを曲がった先の急勾配の下り坂を僕らは下っていく。坂を下るにつれて大通りの車の音が遠くに聞こえてくる。
「この辺りは街全体が窪地になっているんです。」
「そうなんですね。」
彼女と二人でゆっくりと歩き、その窪地の街へと入り込んでゆく。
「そして窪地の底になる位置に池があるんです。なんか素敵じゃないですか?」
「そう思います。」
「あんまり刺さってなさそうですね。」
僕は夢乃さんのふわりとした返答に笑いつつもそう言う。「そんなことないですよ。」と否定する彼女はやっぱり可愛らしかった。
坂を降り切ると密集した住宅街の脇に石畳の階段が何段も歪曲しながら続いてゆく。錆びた手摺に触れながら一歩ずつ跳ねるように降りていく彼女の後ろ姿を見ていると僕も気分が上がってくる。
「ほら、見えますか?この下った先に池があるんですよ。」
「本当ですね。」
窪地の底に位置するその場所には露天風呂くらいの小さな池がある。池の水面は雨の滴で絶えず揺れ続ける。ただ静かに、この街の大きな水溜りのように存在している。
「この場所すごい好きかもしれないです。さっきまでの騒がしさとは切り離されているみたいな。」
夢乃さんは水面に浮かぶ波紋を眺めて、そう言ってくれる。
「そうなんです。分かってくれてよかった。」
「どうしてこんな場所知ってるんですか?」
「この池を待ち合わせに使う人がいたんですよ。窪地の底で待ってるよって言いながら。」
大学一年生の頃、僕に「好き」と告白してくれた同級生がその待ち合わせの言葉を使っていた。
「すごい、その人は粋ですね。」
夢乃さんは感心した表情をして、「私も使おうかな。」と一人呟いた。
思い返せば、僕は告白してくれた同級生自体にはそこまで惹かれていなかった。でもその言葉と、この静かな池の雰囲気が好きになって、なんだか分からないけどとりあえず一ヶ月だけ付き合ったのを覚えている。
一方で彼女はただひたすらに水面に映る草木をぼんやりと眺めていた。そのまま吸い込まれていきそうなくらい無心で。
「楽しいですか?」
僕はそんな彼女の様子が不安になり、そっと声を掛ける。
「うん。楽しいです。でも、、、」
「でも?」
夢乃さんの少し丸みを帯びた横顔を、見つめる。雨粒が傘の露先を伝い、彼女の髪先を少しずつ湿らせる。
「この景色から目が離れていかないです。何となくですけど、もう一度ここにくることはできないだろうなって、そんな予感がするので。」
「別にいつだって、明日でも来れるじゃないですか。」
彼女の精神がまたあちら側へ転がっているのが、僕には分かる。
「明日死にたくなるかも知れないっていう、、思いがあります。きっと意味わかんないでしょうけど。」
明日死にたくなるという感情は確かに理解できない。でも理解できないからこそ、僕は自分の気持ちを伝えるしか方法がない。
「何度だって来れますよ。僕が絶対に連れて行きます、またここに。」
夢乃さんにどれだけ精神論者だと思われてもいい。そもそも自然に生き続けることに合理的な理由なんてない。ただ死ぬという選択肢を選んでいないだけだ。
「嬉しいです。でも私、今、この瞬間はちっとも死にたくなんてないです。」
彼女はそうして崩れそうな笑顔を見せる。彼女の自殺願望は発作のようなものなんだろうかと思う。だからずっと死にたいわけじゃないのかも知れない。
「一度君が死にたい理由をはっきりと聞いてみたいです。」
「そうですね。でも楽しい休日が台無しになっちゃいそうなので。明日か明後日にしましょう。」
彼女が今日という日を楽しい休日と認識していることが嬉しかった。少なくとも今この瞬間は死にたいと思っていない夢乃さんの姿はいつもに増して愛おしく思える。
その後もしつこく止まない雨の中、窪地の街を出て、行きに見た雑貨屋や本屋にふらっと立ち寄った。夢乃さんは時々不安に満ちたような表情をするけれど、気に入った切子グラスを店内の照明に照らしたりする時には見惚れてしまうほど澄んだ瞳をしていた。
彼女には未だ得体の知れない死への願望がどうしようもなく残っていることは分かった。でも一緒に料理を作ったり、外の空気を全身で浴びたり。そのどれもが楽しくて、幸せな週末だったなと、僕は思った。
週末が終わると僕は夢乃さんの家を出て一度自宅へ戻った。あそこにずっと居てしまえばまた大学へいく気も失せると思い、堕落しないようにと外界へ飛び出した。彼女は僕がちゃんと戻ってくるかどうか不安だったようで「ここにずっと居てほしい。」と腕を相当の力で掴まれた。その時に自分は恋人として愛されているのではないかという錯覚を起こした。でも本当は心中相手として求められているだけだと言うことは頭の奥底で理解していた。
大学では久しぶりに外の世界に接したような気分になった。百数十人が入り混じるような大教室では誰しもが「目の前の人間が明日死ぬかも知れない」なんて微塵も考えることなく雑に言葉を交換し合う。数ヶ月後の予定を平気で立てる余裕があり、同時に数年後の将来を考えて行動する人間も溢れている。何だかそんな活気に溢れた空間が新鮮に思えたが、世界ではこれが普通だったと、ただ強く思う。
退屈な講義が終わり、通勤ラッシュの電車内のように混み合ったエレベーターに乗り込んでそのまま、立派なエントランスを飛び出した。続いていく明日からの日々を常に意識することが美徳とされる大学の空間にいると精神的な疲労感を感じた。だからそこに適応するにはもう少し身体を慣らす必要があると思った。
そうして外へ出ると目の前の大通りではちょうど大規模なデモ行進が行われていた。その人たちが掲げていたのは「同性婚の合法化」であった。同じ色のTシャツを着て汗を滲ませながら、多様性を謳い堂々と公道を練り歩く。持参されたスピーカーからは陽気な音楽が流れて、歩いている人々は沿道で傍観する僕らに手を振ってくる。そんなパレードぶったデモ行進は騒がしくも続いてゆく。「本当に愛する人と結婚できない苦しみ」を声高らかにアピールして、彼らは満足げな顔をしていた。同性愛者が結婚できないのは法律や制度、それから人々が持つ家族観に対するステレオタイプのせい。
けれど僕だって「愛おしい人と恋愛できない苦しみ」を持っている。僕が彼女と恋愛できないのは、彼女自身の自殺願望、ただそれだけのせい。
同性愛者よりもさらにマイノリティの人間がそばにいるからこそ僕にはデモ行進の参加者の気持ちが理解できる。でも恥ずかしげもなく自らの感情を曝け出す度胸がない。そして叫んだとて、彼女の本質は変わってくれない。
デモ行進が過ぎ去った幹線道路はまた正常に車が行き交うようになる。彼らが練り歩く前と後で、結局この世界は何一つとして変わっていないと思う。
大学の最寄駅から夢乃さんが住む町の駅までは各駅停車で十分もかからずに着いてしまう。終点のひとつ前の、この駅のホームに降り立つ人はサラリーマンが多い。僕も同じ路線沿いに住んでいて大体の家賃相場は分かるので、彼女はどれほど金に恵まれているのだろうかとつくづく嫉妬じみた嫌な気持ちになる。彼女のマンションの近くには予約必須の日本料理屋やビストロが立ち並ぶ。そして彼女の部屋のベランダからは繁華街の商業ビルがほど近くに見えるが、この辺りは閑静な住宅街で全体的に上品さを纏っている。
そんな街を歩いて今日も一人で生きている夢乃さんに会いにいくことは、とうに日常になっていた。
二日ぶりにインターフォンを鳴らすと、ドアの向こうから小走りでやってくる彼女の足音が聞こえて、安堵する。弾むようなその足音には温もりを感じた。
「ちゃんと帰ってきました。」
ドアが開いて、微笑む顔を見せる彼女は今日も愛らしい。僕はこの人と恋愛したいとやっぱり今でも思う。
「一度だけ、帰ってこないんじゃないかって疑いました。あの走れメロスみたいに。」
「最後、お互いに殴るやつですよね。」
「そうです」と彼女は頷く。部屋に入ると、今日もまっさらなこの空間には冷房が効いていた。早いものでもう七月になり、エアコンから流れる冷たく乾いた空気が心地いい時期になった。
「あ、そうだ。よかったらこれ使ってください。」
僕は手土産として駅前で買った箸を夢乃さんに手渡した。
「ありがとうございます。また料理でも、たくさん作りましょうね。」
「そうですね。でもなんかキッチン周りに少し物が増えましたね。」
キッチン周りにはいくつかの調味料が置かれていて冷蔵庫にも買い出しのメモが貼られている。冷蔵庫を開けると卵や味噌、それから牛乳などもポツポツと置かれていた。
「前は本当に空っぽだったのに、なんか良いですね。」
「君が来るから、それまでにちょっと用意しておきましたよ。」
彼女のその伝え方に胸がときめく。
「明日のために食べ物を用意する。これこそまさに自然に生きるっていうことだと思います。」
「じゃあ私にもその自然に生きるとやらが、ちょっとわかってきたってことですかね。」
そんなことを言う夢乃さんは週末よりも心が軽そうだった。もしかしたら死にたい気持ちが薄まりつつあるんじゃないかと、僕は淡い希望を抱いた。
「うん。きっとそうです。」
このまま時間が進めば、どこにでもあるような幸せな空間が出来上がり、死の香りさえ充満しなければ、きっと恋人にもなれると思う。
今日僕は彼女の自殺願望の真相を聞くために、ここまで会いにきた。でもそれを聞く気が失せるほどに、彼女が僕と会う今日のために準備してくれたことが嬉しくて堪らなかった。
けれどテレビも何もなく、静寂なこの部屋ではそれを誤魔化し続ける方法がなかった。
「最初に、死にたい気持ちのこと話しておいても良いですか?」
「そうですね、、、」
彼女はソワソワしながらそう聞いてくる。どうせ死にたい気持ちが無くなっていないのなら、辛いことは最初に終わらせておいた方がいいと僕も思った。
早速、真四角な部屋の中央で、お互いクッションに座りながら理由を打ち明ける準備と、それを受け止める心の準備を進めてゆく。でも得体の知れない彼女の死への感情に対峙して、それを自分自身で噛み砕いて理解しきる自信はあまり無い。
「まず私は常に死にたいと思っているわけじゃ無いです。」
彼女の方から言葉が吐き出される。
「ある時急に、ああ死にたいかもって思うんです。」
「発作的にですか?」
「うん、そんな感じです。何の前触れもなく朝起きた瞬間にそう思う時もあります。」
それが無意識に起こると言うのが、僕には想像も付かない。
「全く死にたいとは思わない日もあります。何となく生きていられる日が。でもそういう日には明日になったらまた死にたいと思ってしまうかも知れないという不安がひどいです。」
窪地の街の池で彼女が語った「明日死にたくなるかも知れない」という言葉を思い出す。
「そして死にたいと思う日は、どうせ死ぬんだからってなんか心が軽くなって精神的にはすごく楽になるんです。それがきっと良く無いことなんでしょうけど。」
「いつ死にたくなるかわからない不安を抱える日よりも、どうせ死ぬんだからって世界に投げやりになって、余裕感を持てる日の方が私は心地よくて。それならずっと死にたいと思い続けた方がいい気がして、今に至ります。」
はっきりとその真相を聞くと彼女の自殺願望について少し共感できることが、逆に苦しかった。
「じゃあ今日はどっちの日ですか?」
「今日は死にたい日です。」
彼女は迷うことなくそう答える。確かにその朗らかな笑顔からは余裕感が感じ取れる。死にたいと今まさに思っている、そんな彼女の言葉や温もりをどのように扱えばいいのか。それが僕にはわからない。
「そういう、死にたい気持ちが出るようになったのは、いつからだったんですか?」
「中学生くらいですかね。でも何か辛いことがあったとか、そんなわけじゃなくて唐突に。」
「死にたい気持ちを他の誰かに言ったことはありますか?」
とりあえず彼女の気持ちを多面的に見つめて明らかにするために、質問を続けた。
「君が初めてです。これまでは誰一人に漏らしたことは無かったです。」
「どうして僕には言ったんですか?」
「良い意味で偶然ですかね。私がもうこの自殺願望を隠し通すのが限界だった時に君と運よく会えたから。」
それはきっと僕に特別な魅力があったわけでもないことを意味するのだと思う。
「そしたら、あの時僕じゃない誰かと先に出会っていたら、その人を選んでいたんですか、、」
「でも運命ってきっとそういうことですよね。無数のタラレバの上にあるのが。」
無数のタラレバ、あの時彼女を無視して横断歩道を渡っていれば。猫耳を外してあげなければ。バイト先で居場所を無くさなければ、今こうして彼女と二人でいないということはわかる。
「まあ、きっとそうですね。」
薄手のカーテンから夏の日光が木漏れ日のように差し込む。僕らが出会ったのが運命だと言えども、僕が彼女の元から永遠に離れることになったら、きっとまた彼女は別の人間と死に陶酔するのだと思う。僕はたまたま、彼女が死にたいと思ったタイミングで目の前に現れた人間に過ぎないから。その偶然は、何だか店長の自殺未遂と似ていると思った。
「でも僕思うんですけど、、良いですか?」
「うん。言ってください。」
目の前にいる彼女に与える言葉を選ぶのには少し時間がかかる。死にたい気持ちを抱えていると思うと僕の些細な言葉で崩れてしまわないかと不安になるから。
「君は本当に死にたいというよりも、気持ちを楽にして生きるために、死にたい気持ちを持っていますよね。」
「緊張したり不安に襲われた時に脳内にアドレナインって出るじゃ無いですか。それと同じように君はあえて死にたい気持ちを抱くことで、余裕感をもたらす幸せなホルモンが脳内に分泌されて。そして日々感じている不安感が解消されていますよね。だったら君はずっと死なないんじゃ無いですか?幸せに生きるために、死にたいと思っているんだから。」
僕は彼女のセンシティブな部分に持論をぶつけることが怖くもあったけれど、すっきりとした気持ちにもなった。彼女の表情を慎重に確認すると、少し口元を引き結んだ顔をしていた。
「確かに、自殺願望で心が軽くなっているので幸せなホルモンみたいなものが出ている気がします。でも単純な話で、そんな脳内の刺激を繰り返していると耐性ができてそのうち効かなくなってきます。そしたら、もう死にたいという気持ちだけじゃどうにもなくなると思うんです。」
そう言われてしまえば、僕には返す言葉が見当たらなかった。ただ沈黙し、彼女の自殺願望の手強さを実感した。
「そうですよね、今日は君の死にたい理由を教えてもらう日でしたもんね、、」
受け入れられるかは置いておいて、自殺願望の構造を知れたことに意味があるんだと思う。少なくとも自殺したいと思うだけで、心が軽くなるうちは死なないと言うこと。
「私も怖いです。自分のことを打ち明け続けたら君はもうここにはいてくれないんじゃ無いかって。」
夢乃さんは弱々しく、そう言う。
「今更君から離れても、他人にはなれないのでどこにも行きません。」
どこにいるのかも、何をしているのかも、はたまた生きているのかも分からないまま。それでも夢乃さんのことを想い続けてしまったら、それは耐えられないと思う。だからもう離れようという気にもならない。
そう伝えた時の彼女の嬉しさを隠しきれない表情が、また運命になる。
「今日は何か夜ご飯でも作りますか?」と聞いたが、死にたい日の夢乃さんはあまり手の込んだ料理を作りたがらなかった。お母さんが昔作っていた料理なんかは尚更嫌だと言う。だから二人でコンビニに行き、安くて大きいだけの菓子パンを買った。
「死にたい日にはただ甘いものを食べていたい。余計な思い出とかがないと良い。」と彼女は話して、パンを頬張った。僕もパンに塗された砂糖の甘ったるさを感じながら
「もしも最後の晩餐があったら何を食べたいですか?」
と聞くと彼女は少し考えた後に
「その時に、一度も食べたことのない食べ物だったら何でも良いです。」
と答えた。もしも同じ質問を死にたくない日にしたらどう答えるのだろうかと僕は思った。
そして死にたい日には洗濯もしたがらなかった。
「洗濯機を回して、ベランダに干したら翌朝洗濯物を回収して畳むまで終わらないじゃないですか。次の日まで掛かる作業をやる気にはならないです。」
「でもそしたら、僕がバイトしてた時の制服を毎日洗ってくれてたのは無理してたんですか?きっと死にたい日も何日かありましたよね?」
毎晩洗濯をしてくれて、翌朝丁寧に畳んでくれたことを思い出して、申し訳なくなった。
「それは君のおかげで客引きを辞めれたっていう恩があったので、頑張りました。」
「そういうことだったんですか。」
彼女は今でも「あのバイトを辞めれたのは君のおかげ」とたまに口にする。だからこそ、あの役割が彼女にとってどれほど苦痛だったかが、僕には分かる。
お風呂上がり、さっきコンビニで一緒に買ったペットボトルの麦茶を飲みながら彼女は
「明日も大学に行くんですか?」
と聞いてきた。
「明日も行きます。でも、あと一週間もしたら夏休みになるんです。」
「本当ですか、じゃあずっとここにいれますね。」
当然のようにそう言ってくる彼女の言葉は重たくも愛おしかった。
「でも、実家に帰省とかはしないんですか?確か岩手?でしたよね?」
「少し前に親戚の葬式があって、その時に帰ったので夏は帰らないです。帰ってこいって言われない限りは帰りたく無いし。」
「そうなんですね。」
どうして帰りたく無いのかと言うことも彼女は聞くことなく、そっと受け入れてくれる。
「夢乃さんは?帰省とかしないんですか?」
「私は帰省とかないですよ。だってこのマンションに両親住んでますもん。」
「え?そうなんですか?」
彼女は床を指差して、「ちょうどこの部屋の真下です。」と言う。死にたい気持ちを抱える彼女のこんなに近くに両親が住んでいるなんて、思いもしなかった。
「真下?ここが元々実家っていうことですか?」
「いや、上京して一人暮らしするって言ったら両親も同じマンションについてくることが勝手に条件になってて、真下の部屋とは私も思いませんでしたけどね。」
監視され続けているようで厄介そうな両親だなと少し思った。
「でも言い方悪いかも知れないですけど、君はもっと一人ぼっちで生きているのかと思ってました。相談できる存在がこんなに近くにいるんですね。」
そう言うと、夢乃さんは唐突に床に手のひらを叩きつけた。その重い音がじんと響き渡り、僕は驚いた。
「物理的に近づけばそれでいい思っている親ほど、本質的には分かり合えないんですよ。」
彼女のその言葉はリアリティに溢れていて、とても印象深かった。
「夢乃さんが死にたいと思っていることも、両親は知らないんですか?」
「そうですよ。君と一緒に暮らしていることも。何もかも知らないままで、今も呑気に生活してます。」
「でも僕、一度くらいは君の両親に見られてるんじゃないですか?もしそうだったら嫌です。」
夢乃さんと僕の二人だけの空間だと思っていたのに、どうやらそうでもないという不安が沸々と沸いてくる。
「大丈夫です。仮に見ていたとしても、両親は元々私にあんまり興味がない人たちなので。」
彼女は笑いながら、あたかも当然のようにそんなことを言う。そして手のひらを床にもう一度叩きつけて、鈍い音が再び響いてゆく。
「どうして?君のことが心配だからこんなに近くに住んでいるんじゃないんですか?」
「違うんです。私の両親ってお互いのことがとにかく大好きで、自分達の幸せしか考えられないから、実家ではいつも二人だけの世界があって居心地が悪かったんですよ。なんていうか、両親と言うよりも見知らぬ恋人同士が同棲する部屋に無理やり放り込まれたみたいな。」
「そういう幼稚な両親に私が与えられた数少ない愛情が、近い場所に住むっていうことで。今まで私のことを散々放置してきたから、せめて物理的に近い場所に居てあげようっていう最低限の気遣いがあったと思うんですよ。でもそれ安直だし、幼稚だし、ありがた迷惑だし。」
彼女の口から溢れ出したその言葉たちにはどれもうっすらと恨みが塗られていた。そして四分の一ほど残っていた麦茶を飲み干して、呆れた顔をする。
「それでも、お母さんの料理だけは大好きだったですけどね。」
「そうだったんですね。」
そんな自分の家族に対するうっすらとした嫌悪感も夢乃さんの自殺願望を引き起こした一因なのかと思ったけれど、彼女は「それは多分違います。」と言った。何か明確な要因があるわけじゃない自殺願望はあまりにも厄介だと思った。死んでしまったら全てが台無しになると言うのに、彼女はそれを過剰に美化する。
今日も一日が終わり、僕たちは別々の部屋で眠りにつく。どうしたら彼女は死への幻想をやめてくれるのか、どうしたらバッドエンドだと気づいてくれるのか。そう言うことを考えながら薄暗い部屋で真っ白な天井を眺める。もうそれならいっそのこと、誰か僕らの目の前で無惨に死んでくれないかと思う。そうすれば夢乃さんでも死の醜さを理解できるかも知れない。
明日の夢乃さんは死にたい日なのか、それとも生きたい日なのか。そんなことを考えながら僕は掛け布団を強く握る。
それから大学が夏休みに入るまでの一週間のうち、夢乃さんが死にたい日は四日間、死にたくない日は三日間だった。発作的に自殺願望を抱いてしまうという事情を理解していると、朝一番の話し方からなんとなく今日はどっちの日なのかが判別できるようになった。死にたい日は基本的にふわりと柔らかい表情でいる。そして何に対しても焦ることなく、ずっと家にいて非常に無気力にも見える。
一方で死にたくない日には「あそこに行きたい」とか「あれを食べたい」だとか口にして、忙しなく生き急いでいるみたいだった。でも時には思い詰めたような表情をする。それはまるで余命宣告をされた人のように儚さを纏っていた。
死にたい日の朗らかな表情と、死にたくない日の活発さが混合すればいいとつくづく思っていたが、そうも行かぬまま、真夏が近づいてくる。
死にたくない日には二人でゲームセンターへ足を運んだ。平日の昼間、僕ら以外にはほぼ人が居らず貸切状態だった。奥へと連なるクレーンゲームを一つ一つ吟味しながら進み、いざ挑戦した台ではクレーンのアームのあまりのか弱さにうんざりとする夢乃さんの背中。それでも懲りずにお金を投入し、位置を調整しながらアームの落下ボタンを押す指先。そして勢いよく落下してくる駄菓子と、それを喜ぶ夢乃さん。
これでいい、このまま時間が進んでくれればそれで満足だった。彼女は「明日もここに来たいです。」と僕の腕を掴みながら言った。僕は嬉しくなり、「明日も明後日も、来ましょう。」と答えた。でも次の日の朝には死にたい日の夢乃さんが部屋の真ん中にぽつんと座り込み、僕に「おはようございます。」と呟いた。だから結局、もう一度ゲームセンターに行くことは出来なかった。
大学の今学期最後の授業は昼過ぎに終わり、夢乃さんの家へそのまま向かうと、彼女は何かを頬張りながら玄関の扉を開けてくれた。それは単なる甘いパンではなくてこの前のクレーンゲームでとった駄菓子だった。
「今日は死にたくない日ですねきっと。」
「流石、よく分かりますね。」
やっぱり僕にはわかる。その目の色ひとつでもきっと見分けがつくと思う。今日も変わらない部屋の隅に重たいリュックをそっと置く。
「そう言えばさっき、もしかしたら君の両親かもって人に会いました。」
僕はタオルで汗ばんだ額を拭いて、彼女に言った。
「どんな人でしたか?」
「仲が良さそうな夫婦でした。わざわざエレベーターの開くボタンをずっと押してくれて、僕が乗り込むのを待っていてくれました。」
その人たちはこの部屋がある四階の一階下で降りて、その時も僕に丁寧に会釈をしてくれた。
「それじゃあ私の両親じゃないですね。そんな気の利いた行動できる人たちじゃないので。」
彼女は冷たくそう言う。でも僕はきっとあれが夢乃さんの両親だったんじゃないかと思う。なんとなくだけれど、女性の方の声質が彼女と似ていた。
「案外、子供が一番自分の親のことを過小評価しているかもしれないですよ。」
「うーん。どうなんでしょうね、、」
彼女は苦笑いをし、「でもやっぱり違うと思う。」と言った。
今日は死にたくない日なのでベランダには洗濯物が干されていて、それらがヒラヒラと風に靡いていた。そしてその向こうには見ているだけで暑さが伝わるほどの青い空が広がっている。
「死なないうちに、綺麗な海を見たいなって最近思います。」
彼女は寝転がりながら、天井に向かって言葉を放つ。同時に死なないうちにという言葉が脳内に引っかかる。
「海ですか。いいですね。」
「車を借りて海岸線を走って、潮風を浴びて。」
夢乃さんの横に僕もそっと寝転がりながら、夏の海に思い耽る彼女のその体温を感じた。
「お金がないですね、海まで行く。」
バイトもせずに人の家に居候して生活するような僕には最も単純に、金銭的問題が立ち塞がる。
「大丈夫ですよ、私にはまだあるので。」
「気づいたら無くなってしまいますよ。」
彼女もあれ以来働いていないので、貯金は減る一方になる。それはもはやお金だけではなく、彼女の命そのものにも見える。心残りなく死ぬためにお金を消費している最中だとしたら、そう考えるとこんなに甘えている場合ではないと強く思う。
「夢乃さんは、働かなくてもいいんですか?」
「そりゃ、生き続けるならいつかは働かなきゃだめです。」
「そうですよね、、」
生き続けるにはお金が必要だというあまりにも自明のことを僕は実感する。お互いにそんな危機感を抱きながらも、隣同士で寝転がり、時折彼女の毛先が僕の頬に触れる。僕もひどいほど呑気だと思った。
「死にたい女の配信として、生活の様子を垂れ流したらそれなりに稼げる気はするんですけどね。」
彼女は唐突にそう口にする。
「自殺ビジネスじゃないですか。」
自殺ビジネスという僕のよくわからない言葉もそのまま部屋にふわりと浮かぶ。
「私今まで本当に適当な仕事しかやってこなかったんですよ。なんていうか自慢じゃないですけど見た目で稼ぐみたいな。」
「客引きの前はなんだったんですか?」
「ガールズバーもそうですし。ヘアモデルとか。あとは水商売の体験入店も何回か。」
僕もそんな見た目を持った人生を味わってみたいと思った。楽な人生とまでは言わないけれど、生きてさえいれば仕事に困ることはない。
「だからもう、それ以外になんの経験もないです。」
「どうしましょうか。」
やっぱり死にたくない日の夢乃さんの方が天真爛漫で好きだ。彼女は付きまとう自殺願望が不安で、それならいっそのこと「どうせ死ぬから。」と感情を誤魔化すことで楽になる。そしていつかはその誤魔化しが効力を失って、僕の前から消えてしまうという。でも彼女は生きてさえいれば、僕みたいに自然と魅了される人間がいるし、仕事だってあるだろうし。だからこそ、夢乃さんが生きること自体に、途轍もない価値がある。
そして僕はふと、自殺願望を持ちながらも、それでも生き続ける彼女の姿が美しいのではないかと思った。
「何だろう、自殺ビジネスってそんなに悪いものじゃない気がします。」
彼女は「え?」と少し驚いたような声を出す。
「君の自殺願望はいつまでも無くならないことは分かりました。だからこそ生きることに価値があると思います。死にたい気持ちを抱えながらも明日を迎える姿に感化される人はいると思います。」
「そうなんですかね。」
「でもだからと言って君の日常をネットに公開するとかそういうのは違うと思います。お金が発生するだけじゃなくて、君が幸福感を得れるものを。そしてあわよくば自殺願望が消えて、そんなビジネスもせずに自然に生きれるように。」
僕は寝転びながら考えた。彼女にずっと生き続けたいという活力を与えるもの。そしてそれに付随してお金が発生するもの。そんなシステムがあるだろうかと目を閉じながら想像した。
「あの、例えばですけど。」
「はい。」
そして何とか浮かんだぼんやりとした構想を彼女に伝えることにした。
「箱庭療法とか、あとはフラワーセラピーとか何かを作ることで自分の精神を映し出すものってあるじゃないですか。」
「うん。」
「だから、この何もない部屋を箱庭にして、君みたいに死にたい気持ちを抱えた人も、そうじゃない人もたくさん募って、みんなで幸せに生きるための空間にするんです。」
「それもっと詳しく聞きたいです。」
彼女はふっと笑う。僕はその笑顔が嬉しくて、起き上がって未熟な計画を恥ずかしげもなく伝える。
「有料日記の形式でこの部屋、要するに箱庭をみんなで装飾しましょうっていう計画で、例えば誰かが心の癒しとして置いているものとか、あとは思い出のものとか。色んなものを送ってもらったり、これを部屋に置くと良いですよって助言を貰ったり。そうして集まったモノを並べて箱庭を彩っていくんです。そうすればこの部屋と同じように君の心も豊かになって、計画の参加者に死にたい気持ちを抱える人がいたら、少しだけでも生きる支えになるんじゃないですかね。」
彼女は長々と伝えられた僕の計画を熱心に聞いてくれる。
「でも、そんなものでお金もらえますかね。」
「箱庭が完成した時に、君が幸せな姿を見せたらそれで良いと思います。君は見た目で稼いでいるって言うけど、それはつまり生きてさえいればお金をもらえるということなので。」
夢乃さんは幸せに生きていればそれだけでいいと思った。彼女も「物は試しですね」と言って僕の提案をすんなりと受け入れてくれた。どうしても生きてほしいという願いから、静かで無機質なこの部屋で二人で生きていくために自殺ビジネスを始めることにした。
その一歩として僕は早速月額制の日記投稿サイトに登録した。そして、まずは彼女のあまりにモノが少ない砂の上のような部屋の写真を掲載する。それとこの計画の説明文も一緒に添えた。
「死にたい気持ちを抱えた彼女の部屋には何もモノがありません。ここは誰しもの【箱庭】です。自分が心の支えにしているモノを送ってください。もしくは【箱庭】を豊かに装飾するためのアイデアをください。どんなに些細なものでも構いません。彼女が生き続けられるように、皆さんと一緒にこの【箱庭】を鮮やかなものに作り上げたいです。同じように死にたい気持ちを抱える人も是非この計画に参加してください。きっと生きる支えになるはずです。」
毎日更新する箱庭の様子は誰でも無料で閲覧できるようにする。そしてそれに加えて五〇〇円の月額制で夢乃さん自身の言葉を記した日記を登録者のみが閲覧できるようにした。とにかく僕は箱庭計画を正常に運営し続けて、彼女にはそのまま生きてもらう。有料登録者が百人集まってようやく五万円。稼げるお金は僅かであるが、これこそが最善の自殺ビジネスだと思った。
そうして出来上がった計画の紹介ページを彼女に見せると「ガラクタいっぱい送られてくるんじゃないですか?」と笑った。でも少しずつ装飾されていくその過程に意味があるからどんなにちっぽけなモノでもいい。真夏の暑さから逃れた真っ新な砂の上、ただ二人がぽつんと佇む空間で、八月一日。箱庭計画が静かに始まった。
淡い期待感が頭に沈澱し続けて、これからどうなるかと気になって仕方がなかった箱庭計画は次の日から想像以上に順調に進んだ。穏やかで平和な日記サイトの中では僕たちの日記が異彩を放っていたようで、日に日に閲覧数が増加した。そして三日目にして初めてのコメントが届き、それに続いて僕たちの生活を応援してくれるコメントが目に入った。姿の見えない他人から届いた言葉をこんなにも温かく感じたのは、これが初めてだった。
同時に箱庭を装飾するためのアドバイスをくれる、そんなこの計画の参加者も生まれた。
「まずはアートフラワーが良いと思いますよ。花を見れば癒されるし、造花だから枯れることもありません。」
花が朽ちていかなければ、必衰を連想させない。だからこそ枯れない造花であることには大きな意味があると思った。そのコメントを夢乃さんに見せてあげると「こんなに早く参加してくれる人がいるんですね。」と驚いていた。この世界のどこかにいる参加者の慈しみを忘れぬうちに、彼女の手を引いて箱庭の外へと飛び出した。
駅前にある古い建物を改装して営業している雑貨店はしんとしていた。歩くたびに彼女の履いていたサンダルがペタペタと音を立てる。店内全体が日陰のように薄暗く、そのさらに奥に薄く桃色がかった薔薇のアートフラワーが花瓶にそっと刺さっている。
「これ、すごい素敵ですね。」
彼女はそのアートフラワーを花瓶ごと持ち上げて花びらの香りを嗅ごうと顔を近づける。
「いや、無臭ですよね。」
「香りがしないタイプの花ってことですか?」
彼女はアートフラワーが作り物であることを知らないみたいだった。だから僕は面白くなり、「そういうタイプの花です。」と首を傾げながら何度か匂いを嗅ごうとする彼女に言った。
雑貨店ではそのアートフラワーに加えてオルゴールも一緒に購入した。ゼンマイを巻くとカノンがゆったりと奏でられて、ゼンマイが解け切るまではその淡い旋律がリフレインする。それが僕には変わらずに繰り返される日常の美しさのように思えた。
家に戻ると早速部屋の中央にある木製の丸机に買ってきたアートフラワーとオルゴールを飾った。その瞬間水面に一滴だけ絵の具を垂らして、その鮮やかな色がじんわりと広がっていく時のような感覚がした。
「こうやって少しずつ箱庭を彩っていく訳です。どうですか?僕は楽しかったですけど。」
「確かに、なんか大きな作品を作っているみたいな気分で新鮮です。」
夢乃さんはそう言ってオルゴールのゼンマイを回した。旋律は繰り返されたのち、眠るようにゆったりと鳴り止む。
「じゃあ今日の箱庭を撮っておきますね。」
「はい。」
机の上に置かれたアートフラワー、オルゴール、そしてオルゴールに触れる彼女の指先を写した。
「【8月4日】先日は貴重なアドバイスをありがとうございました。頂いたアドバイスを踏まえて、今日は箱庭にアートフラワーとオルゴールを飾りました。枯れることない花びらとか、繰り返される旋律とか、そういうものが変わらない日常みたいで良いなと思いました。」
「じゃあ君の携帯の方でログインして、有料日記も書いてください。もしもあんまり良いと思わなかったらそれでも良いので正直な気持ちをお願いします。」
夢乃さんは頷き、自分の携帯を開く。そして彼女の気持ちが打ち込まれる。
「書きました。」
この彼女の気持ちを正直に書き表した日記が有料会員のみが閲覧できるものとなる。
「この私の日記の方は君も見ますか?」
「ううん、見ないです。」
まだ有料会員は一人もいないので、誰にも読まれることのない文章がネットの海へと放り出される。彼女の正直な気持ちは未知数なので僕も怖い。それでもきっと前向きな言葉が書かれているだろうと僕は信じた。
夏休みも他にやる事がないので、僕は箱庭計画にどんどんと夢中になった。毎日箱庭の様子を掲載し、それに寄せられるコメントを一つ一つ読んでいき、全て読み終わったら数分置いて、新しいコメントが届いていないかソワソワしながら待った。夢乃さんのために始めた計画だったけど、まるで自分の為にやっているかのように楽しかった。
アートフラワーの次に提案されたのが、「箱庭の中に五感を満たすこと」だった。アートフラワーは視覚的な装飾になり、オルゴールは聴覚的なものとして意味をなす。
そのアイデアをもとにまずは嗅覚を満たすことにした。どれにしようかと彼女と一緒に駅前の雑貨店を物色していると、カヌレ型のアロマストーンを見つけた。石膏で作られた白い塊の中央には窪みがあり、そこにアロマオイルを数滴垂らすことで芳香が部屋の中に充満するみたいだった。
「こういうのを部屋に置いている人、自分の部屋に他人を呼ぶ準備が万端だなって思わないですか?」
アロマストーンを指先で触りながら、彼女は言った。
「確かに。人を招くための空間に仕上がってるって感じがしますよね。」
「それに比べて私の部屋なんてお粗末で。まあ君しか招かないんで良いんですけどね。」
僕もアロマストーンに触れると表面はざらついていて、ひんやりとしていた。
「これから色々飾り付けるんですよ。」
「そうですよね。」
そのままアロマストーンを手に取って、柑橘系のオイルも一緒に買った。アートフラワーを買った時と同じ店員がレジを打ち、僕がなけなしの金で支払った。
それを彼女の部屋の机に置き、アロマを窪みに垂らすと図々しくもなく控え目な香りが箱庭にしっとりと充満した。優しく目には見えない彩りが付け加えられて、僕らは柑橘の香りをせーので吸い込んだ。
「【8月9日】今日はアロマストーンを購入して箱庭に嗅覚の彩りを加えました。写真では伝わりませんが香りが充満すると自然と心が軽くなります。彼女もとても嬉しそうです。アドバイスをくれた方はありがとうございます。~~以下有料日記」
そして触覚は何にしようかと迷っている時に、初めての贈り物が届いた。あらかじめ登録して日記にも共有しておいた郵便私書箱で贈り物は受け取れるシステムになっている。心を踊らせながら受け取りに行くと想像よりも大きな段ボールが届いていた。それを抱えながら彼女の家に戻り、中を開けると重みのある厚手のブランケットが梱包されていた。この真夏には全く適さないものだったけれど、初めての贈り物が僕にとっては本当に嬉しかった。彼女にブランケットを手渡すと、一度それに包まった後、「暑苦しいです」と言って笑った。でもそのブランケットの肌触りは気に入ったようでカーペットのように床に敷いて、その上に座り込んでいた。そして気づくと彼女の目が虚うつろとし、そのまま転がってゆっくりと寝落ちした。そんな姿があまりにも愛おしかった。
「【8月10日】今日は初めての贈り物としてブランケットが届きました。包まるには暑すぎるかもしれないけれど、この部屋にはカーペットすら敷かれていなかったので、こういうものが足元にあるだけで温かい気持ちになります。彼女もそのブランケットの上で気持ちよさそうに寝ています。とても心地の良い触覚を本当にありがとうございました。~以下有料日記」
一日ずつ箱庭に五感を満たしていき、残ったのは味覚だけとなった。昨日の日記に送られたコメントは既に二十を超えていた。それらを見ながら何か良いアイデアは無いかと考える。温かいコメントを眺めていると自然に、多幸感が溢れてくる。箱庭計画の参加者も同じような気持ちでいてくれたら良いと思った。
そうしてコメントを見ていくと「毎日食べるくらい大好きな食べ物を空き瓶とかに入れて置いたらインテリアとしてもオススメです。彼女さんがそれを楽しみにして生き続けられたら良いと思います。」というものがあったので、
「夢乃さんって毎日でも食べれるくらい好きなものってありますか?」
一度エアコンを切って窓を開け、既に熱された朝の空気と換気する彼女にそう聞いた。
「えー、なんだろうか。あ、、ハッカ飴だったら毎日食べれます。」
「ハッカ飴好きなんですね。分かりました。」
「どうして聞いたんですか?」
彼女は少し嬉しそうに、その質問の意図を知りたがった。
「箱庭計画でコメントが来てたんです。好きな食べ物を空瓶に入れて毎日食べれるようにしたらいいって。」
「これも箱庭計画ですか。」
そうポツリと呟く彼女の表情が少しだけ曇った気がして、僅かに嫌な予感がした。
「もしかして、迷惑だったりしますか?」
「いやそんな訳じゃないです。ただ単純に、私のために毎日時間を消費していて申し訳ないなって。」
なんだそんな事かと僕は思い、安心する。
「僕自身もやってて楽しいんですよ。毎日ちょっとずつ箱庭が色付いていって、その写真を掲載したら何十件もコメントが届いて、そのどれもが優しくて。だから君は僕のことなんて気にせず、ただ箱庭の真ん中で幸せに生きてください。」
「じゃあもっと幸せな空間にしてくださいね。」
そう言って彼女は窓を閉めた。あっという間に室温が上がった部屋にエアコンの乾いた冷風が再び送られる。幸せな空間とは何か、それはあまりにも漠然としすぎていて、人によって定義も異なる。だからこそ不特定多数の参加者の思う幸せをかき集めることで、一つの正解を生み出すことになると思っている。
僕は一人でスーパーへ行き、ハッカ飴を二袋購入した。そして昨日ちょうど空いたジャムの瓶を水道水でよく洗って、その中にハッカ飴を詰めれるだけ詰めておいた。
「どうですか?これで毎日食べられますよ。」
瓶はキッチンカウンターの隅にそっと置いておいた。
「なんかオシャレにも見えますね。それに聞いてください、初めての有料会員さんができましたよ。」
「本当ですか?」
彼女は嬉しそうに携帯の画面を見せてくれる。彼女が書く日記がようやく誰かの元に届くようになるのかと思うと、僕も喜びが込み上げてくる。
「僕たちの生活にお金を払ってくれる人が居るって事ですもんね。」
「記念に私、顔出ししておきますか?」
彼女は笑いながらそう提案した。
「まだ早いですよ。いざという時にお願いします。」
夢乃さんの姿も一緒に映せば、きっと有料会員なんて即座に増えるだろうけど、それだったら客引きとやっていることが変わらなくなってしまう。だから顔を見せなくても彼女が生きる明日を楽しみにしてくれる人がいるのが、とてもありがたいと思う。
「【8月11日】今日は彼女が好きだと言うハッカ飴を空瓶に入れて、毎日食べれるようにしました。視覚はアートフラワー、聴覚はオルゴール、嗅覚はアロマストーン、触覚はブランケット、そして味覚がハッカ飴となり、箱庭に五感が満たされました。これまでに色々なアイデアをくれた方、モノを贈ってくれた方。本当にありがとうございます。これからも、もっと彩り溢れる箱庭にするためにご協力をお願いします。~以下有料日記」
あっという間に八月は中盤に差し掛かり、お盆になっても箱庭計画は好調を維持していた。閲覧数とコメント、それから有料会員も増えていき、毎日何人もの参加者がどうすれば夢乃さんが生き続けたいと思える空間になるのかと言うことを考えてくれている。数十人の有料会員ではこれがビジネスだとも到底言えない額しか発生しないけれど、一度たりとも彼女の姿を載せていないのに、疑うこともなく僕たちのために時間とお金を費やしてくれることがとにかくありがたかった。なのでこの箱庭計画に一番貢献してくれた参加者には最低限なんらかの形で恩返しをしようと思っている。
僕は時々自分の家へと帰る、その最寄駅に向かうまでの暑苦しい駅のホームとか、皆がうっすらと不機嫌で窮屈な電車内でも日記を確認すれば、そんなこともどうでも良くなる。それと同じように、彼女も毎日の中で死にたくない日が占める割合が多くなったと思う。僕がコメントを参考にして提案するアイデアを彼女は積極的に受け入れてくれる。死にたい日だったら「そんなのどうでもいい。」と言って受け流されていたと思う。これを自殺願望という発作が治まってきたんだと楽観的に捉えて良いのか、それは分からないけれど箱庭計画を始めた僕の選択は間違っていなかったということだけは確信している。
そして五感を満たした後、贈り物もいくつか届いていた。例えば動物のぬいぐるみが五つほどセットになったものとか、海外のおしゃれなポスターとか、あとはCDプレイヤーとか見知らぬ国の人形とか。それと水槽だけが単体で送られてきたりもした。中々使い道に困るモノもあり「なんかリサイクルショップみたいですね。」と彼女は笑っていた。でもそれぞれのモノに参加者の幸せが詰まっていると考えると全てに愛着が湧いてきて、僕は彼女が寝た後に、一人で部屋にそれらを並べていた。
今日も新たな贈り物が届いたと通知が来たので郵便私書箱に受け取りに行った。今回そこに入っていた段ボールはかなり重く、軽くゆすると何かがぶつかり合うような音がする。何が入っているんだろうかと気になりながら、炎天下の中マンションへ戻った。でも重量感のある段ボールを持ち続けた僕の腕は玄関でちょうど限界を迎えて、そのまま床に落としてしまった。
「どうしたんですか?」
段ボールが床に落下して響いた音によって、彼女が心配そうな顔をしてやってくる。
「なんか無茶苦茶重たいものが送られてきました。」
「私も持ちますね。」
そうして二人でリビングまでそれを運び、ゆっくりと床に置いた。丁寧に貼られたガムテープを剥がし、段ボールを開けるとそこに入っていたのは十冊以上の本だった。それらの本は新品ではなく、カバーのないものもある。
「ええ、すごいこんなにいっぱい。」
彼女は段ボールいっぱいに敷き詰められた本の背の部分に触れてゆく。
「もう売っちゃおうとしてたやつなんですかね。それにしても沢山。」
「でもなんかこれ、全部に栞が挟まってないですか?」
僕はその一つ一つの本に短冊みたいな栞が挟まっていることに気づいた。彼女も
「本当ですね。」と言い、一冊手にとって、それが挟まっているページを開いた。
「ねえ、見てくださいこれ。」
すると彼女は感嘆し、瞳を輝かしながら栞を手渡してきた。それには何やら文章が書いてあった。
【このページの主人公のセリフが特におすすめです。】
そしてそのセリフが書かれた本文にはうっすらと線が引かれている。
「優しすぎないですか?これ送ってくれた人。」
「全部の本にこれを挟んでくれてるんですかね。」
一冊ずつ栞が挟まったページを開けてゆくと、その全てにおすすめのセリフや「私はこのヒロインの感情をこういう風に解釈しました。」とかそういうコメントが書かれていた。
「これ本当にすごいですね。どうしてこんな事までしてくれるんだろう。」
彼女はその一つ一つを丁寧に読んでいき、その度にお薦めされたセリフを口に出す。
「【人非人でもいいじゃないの。私たちは、生きてさえすればいいのよ。】ですって。昔の小説はよく分かんないけど、なんか素敵ですね。」
「ヴィヨンの妻の最後のセリフですよね。覚えてます。」
「ええ、すごい。これだけで分かるんですね。」
本を読むことが好きなんじゃなくて、読書をする自分が好きで、こんな古い小説を読み漁っていた時期がある。だから特徴的なセリフは覚えていても結局、小説自体がどんな内容だったのかも実はあんまり覚えていない。
「送ってくれた人たちには私がどんな人かもわからない訳じゃないですか。もしくは死にたい人間がいることも全てが嘘で、ただ物乞いをしているという可能性だってあるのに。どうしてこんなに他人のことを労われるんでしょうね。」
「君がもしも本当に死んでしまった時に、自分が何もしてあげられなかった責任を感じたくないっていう予防的な思いがあると思います。でもそれは悪い意味じゃなくて、前に店長が自殺未遂をした時に、全然関係の無い人たちも罪悪感を抱いていたって話したじゃ無いですか。その時は過度に責任感を抱く人たちが嫌いでしたけど、そういう責任感から生まれる優しさがあるんだなって気づきました。」
だからあの時、バイト先の人たちが抱いていたような過度な責任も、ある意味では優しさと捉えられると今では思う。
「じゃあ私がもし死んだら、罪悪感を抱いてしまう人が沢山いるってことですね。」
「そういうことです。でも、誰もそんな気持ちになりたく無いから君には生きてほしいんです。だからみんな優しいんですよ。」
彼女の瞳はわずかに潤み、静かにページを捲っていく。その度に、箱庭には単なるモノだけではなく、参加者の優しさが重なっているんだと思った。
そして全ての本を取り出して空になった段ボール、その底にもう一枚メモ帳サイズの紙が入ってきたことに気がついた。何かと思い手に取るとそこには
「初めまして、今回このようなものを送らせていただきました坂井と申します。色々なジャンルから小説を厳選しましたので、気に入っていただけたら幸いです。
この箱庭計画を始めて見た時、こんな素晴らしい計画を実行してくれる人が自分の周りにもいてくれたら良かったと思いました。実は私自身も自殺願望を抱いていた経験があります。当時は誰にも相談できずになんとか一人の力だけで解決しようと必死にもがいて、なんとか今ではそんな感情を抱かずに済むようになったと思っています。
私は今、人との繋がりをテーマにした古本屋で働いています。ここでは本を売る時に、今回挟んでおいた栞みたいに、この物語に対する思い入れを書いてもらうというシステムになっています。そしてその本を購入した人は前の持ち主のメッセージを読むことができるんです。そうすることで本を通して、人と人とで繋がりが生まれます。
とても心地いい店ですので、もし興味がありましたら、是非ご来店ください。」
そんなメッセージと共に古本屋の情報が書かれている。
「栞書店」というその店に、最初は二人で行こうと思った。でもここは敢えて僕が一人で行って実際に自殺願望から脱却した人の貴重な話を聞きにいくことにした。だからこのメッセージは彼女に見られぬよう、ポケットにしまい込んだ。
「【8月18日】今日は沢山の小説を頂きました。箱庭にはそれらを置いておく場所がないので、床にそのまま重ねて置いてしまっていますが、そのうち収納できる本棚を用意できたら良いと思います。箱庭計画を始めて彼女は今日が一番嬉しそうでした。送ってくれた方にはもう本当に感謝しかありません。どうもありがとうございます。~以下有料日記」
玉川上水が近くに流れる東京の西側に足を運んだのはこれが初めてだった。昔ながらの町工場や商店街の中にお洒落なカフェや古着屋が点在し、新旧の空気感が混ざり合う。グーグルマップを見ながら「栞書店」を目指して歩いていくと、脇の古びた建物の内からは甘いお菓子の匂いが漂い、行列が外へと伸びている。僕の実家の近くにも沢山ありそうな、老朽化が進んだ建物がそのような活気を含んでいる、そういう様子がとても新鮮だった。
「栞書店」も外観は大きな倉庫のようだった。店内は薄暗く、外からでは営業しているのかもよく分からない。ただ、隠れ家のような静けさに包まれていることだけは分かった。僕は心理カウンセリングでも受けにいくような気持ちで、スチール製の引き戸をゆっくりと開けた。
「いらっしゃいませ。」
店内からは時間を経たインクと紙の匂いがふわりとやってきた。そして緑のエプロンをかけた女性が一人だけ立っていて、僕を笑顔で迎えてくれる。
「あの、、坂井さんですか?」
僕がそう問いかけるとその人は瞳を大きく見開き、そっと歩み寄ってくる。
「え、もしかして?」
「あなたに小説を送っていただいた青山と言います。先日は、本当にありがとうございました。」
十五畳ほどのこじんまりとした店内には長机と椅子も置いてある。坂井さんは興奮した面持ちで「どうぞ座って置いてください。」と言い、奥から冷たいジャスミン茶を出してくれた。
「いやまさか、こんなに早くきてくれるとは思わなかったです。」
坂井さんも隣の席に座り、なんか照れてしまうほど真っ直ぐに僕の目を見て話す。
「彼女はすごく喜んでいたし、僕も幸せな気分になれたので、早めにお礼を伝えておきたくて。」
「それなら良かったです。急にあんな大量に送りつけて本当は迷惑だったんじゃないかって心配になってたので。」
「迷惑なんてそんな。こんな優しい人いるんだって驚いたくらいです。」
そう伝えると坂井さんはぎゅっと笑った。この人も昔は夢乃さんと同じように自殺願望を抱えていたということが不思議に思えるほど素敵な笑顔だった。
「青山さん下の名前はなんて言うんですか?」
「終わる人と書いて、終人って言います。」
人に名前を紹介する時は毎回「終わる人」と言う説明をして、その度に少し暗い気持ちになる。でもそれに対して坂井さんは「素敵な名前ですね。」と言った。
「今日は彼女さんは一緒じゃないんですね。」
「そうです。あの、今日はもちろんお礼をしに来たというのもあるんですけど、それと同じくらい坂井さんの自殺願望についても聞いておきたいんです。」
自殺願望を抱えた人間が、どうしたらこのように自然に働いて、笑えるようになるのか。その方法を知りたかった。
「いいですよ。彼女さんとはまた違う種類の自殺願望かもしれないですけどね。」
「すみません。こんな出会ってすぐに聞くことじゃないとは分かっているんですけど。」
脱却したはずの自殺願望をもう一度ほじくり返してしまうことは配慮に欠けるとは自分でも思う。だけど、この人を見ていると何処までも頼りたくなってしまう。
「私の自殺願望はそもそも、自分自身に価値が見出せなかったことから生まれたんですよね。」
僕はその言葉一つ一つを録音しておきたいくらい、集中して話に耳を傾けた。
「なぜそうなったかについては物凄くシンプルで私、親が離婚してシングルマザーに育てられたんですけど、とにかく母にはガラクタみたいに扱われていたんですよ。家では散々邪魔とかいうくせに他人の前では母親ずらして、これが私の愛娘です。なんて誇りやがって。酷かったです。」
「でも、そんな母は私が高校を卒業してすぐに、交通事故で亡くなりまして。」
坂井さんはまるで他人事のようにそう言う。そんな唐突な話の展開に驚きながらも、その続きをしっかりと受け入れる。
「そして葬式が行われたときの母の参列者が虚しいほど少なかったんです。本当に数人が並ぶだけで、あっさりと終わって。その時ああ、やっぱり母は人から愛されるような人間じゃなかったんだなと思う一方で、そんな遺伝子を受け継いだ私自身も同じように死んでも悲しむ人がほとんど居ない、無価値な人間なんだろうなって悲観的になりました。それに加えて私は一人っ子だったので、もう世界に家族と呼べる人が一人も居ないのか、という悲しみも相まって死にたいと思うようになりました。それが四年前、十九歳の時ですね。」
坂井さんはもう十何年も前のことを回想するように、すんなりと話してくれた。
「そうだったんですね。それが今はもう死にたいとは思わないんですか?」
「うん、まあでも時間と共に自然に薄れただけかもしれません。今でもたまに自殺願望に似た悲しみがふと襲ってくる時もあります。そういう時にはもし誰かの命の恩人になれたら、自分に価値が無いなんて感情が無くなるのにって思います。」
うっすらと微笑みながらそう言い「そんな都合よく命の恩人にはなれないですけどね。」と呟いた。確かに、誰かの命を救えばその瞬間に、不変的な価値が与えられると思う。
彼女が話していた通り、坂井さんには自殺願望を引き起こした具体的な出来事があった。それが夢乃さんの自殺願望とは大きな違いとなる部分だった。
「坂井さんには、先天的な自殺願望っていうものが理解できますか?何の前触れもなく死にたいという気持ちが発作的に溢れ出してくることが。」
「先天的?」
「彼女がそうやって言うんです。何かがあったわけじゃなくて突然、自殺願望が生まれたって。原因が無いのなら、ただ時間が解決してくれる問題じゃないんですよねきっと。」
坂井さんはゆっくりと考える。栞書店には他に客が来る気配すらなかった。
「私は理由のない自殺願望なんて存在しないと思ってます。」
僕の目を見ながらそう言い切ってくれたことに、どこか安心する気持ちになった。
「そうですよね。」
「でも、理由なんてないって思った方がきっと楽ですよね。だから本当は自分の中で死にたい理由がはっきりと分かっていてもそれがあまりにも辛いから、これは先天的な自殺願望なんだって誤魔化しているのかもって少し思いました。」
その言葉に対して、僕は複雑な感情を抱く。もしも夢乃さんに明確な死にたい理由があるのなら、その理由を解決してしまえばそれで良くなる。でも、耐えられないほど辛い現実から逃れるために死にたいのならば、それはあまりにも痛々しい。それだったら何となく自殺願望を抱いていてほしいと思う。
「まあ会ってもない人の事を好き勝手言うのもアレなんで。次は彼女さんも一緒に来てほしいです。」
「そうですね、彼女もきっとここが好きだと思います。」
コの字型に置かれた本棚いっぱいに並んだ本はジャンル分けもされておらず、小説や、学術書、それから分厚い辞書のようなものまで統一性がない。「気になるものがあったら手に取ってみてください。」と言われたので、とりあえず目に入った小説を手に取ると、メッセージが書かれた栞が挟まっている。この本を通してどんな事を感じたのか、またはどんな感情の時に読むのが良いのか。そんな前の持ち主の思いが乗っかり、新品には無い繋がりが、栞書店の一冊にはある。
「古本じゃなきゃ、この繋がりって成り立たない訳じゃないですか。こういうコンセプトって本当にすごいなって思います。」
「ありがとうございます。でも、箱庭計画とある意味似ている部分があって、私は誰しもの本棚をこの場所に作っているんだと思うんですよ。」
誰しもの本棚。確かにその表現は上手く当てはまる。
「本棚だから、もしここで買った本が面白くなかったら返品できるシステムにしているんです。でもその代わり「あまり面白くなかった。」でもいいから栞にはメッセージを書いてもらう事を条件にして。」
「凄い素敵ですね。もっと早くここを知りたかったです。」
そう言うと坂井さんは嬉しそうに笑った。僕よりも二つほどしか歳が変わらないのに、自由気ままにこの世界を生きているように見える。是非、夢乃さんにはこう言う風に生きてほしいと思う。そして同時に僕もこの人みたいに生きたいと思う。
「坂井さんはこの店の店主って言うことなんですか?」
「いや違います。コンセプトとかは私が始めたものなんですけど、店主というか店のオーナーが居て、私はまあ立場的にはバイトみたいなものです。」
少し恥ずかしそうに「店主なんてそんな訳ないですよ。」という坂井さんはさっきよりもやや幼く見えた。
「でも本当に、彼女にはあなたみたいに生きてもらいたいです。」
「いや私なんて大した人間ではないですけど、そう言ってもらえるなら箱庭計画を全力で応援し続けますね。」
僕の心にはただひたすらに、希望の灯火が宿っていた。箱庭計画が導いたのはモノだけではなく、人でもあると坂井さんの親しみやすい瞳を見て思った。
その後、僕は自宅から持参した小説を実際に売った。何度も繰り返し読んだ大好きな小説でも、いざ栞にどんなところがオススメなのかを書くとなると意外にもすんなりとはいかなかった。そうして何とか書き表した僕の思い入れが小説に挟み込まれて、それが無秩序な本棚に立てかけられた瞬間、僕は小さな幸福感を抱いた。箱庭計画の参加者もこんな気持ちだったのかと僕は初めて理解した。
「有料日記の会員が五十人を超えましたよ。」と夢乃さんは僕に報告をする。栞書店に訪れた以降も箱庭計画は注目を集め続けて、着実に彩られてゆく。
「有料日記はどんな人が見てくれているんですか?」
スマホの画面をスクロールしてゆく彼女にそう聞いた。
「私みたいに自殺願望がある人も結構います。」
「そうなんですね。」
そうして彼女を中心に自殺願望がある人同士でコミュニティーを築くことが良いことなのか、悪いことなのか分からない。
「でもね、中には自殺願望があるなんて嘘なんじゃないか、死にたい証拠を見せてみろなんて言ってくる人もいます。」
「どの界隈にもそういう人は一定数いますよね。」
「他の人がみんな優しいから、余計目立つんですよ。」
彼女は「自殺願望が嘘な訳ないのに」と呟く。嘘であってくれてもいいんだと、僕は静かに思う。
そして僕も箱庭計画に寄せられたコメントを確認してみる。今日も沢山の人たちが応援してくれていることを実感しつつも、「彼氏さんの支えが実る事を祈っています。」みたいなコメントを目にして、当然のように僕らが恋人同士だと認識されていることに気づく。恋人ではないと否定しても、「じゃあどんな関係なんだ」と聞かれた時に上手く答えられる自信がないので、そんなコメントを否定することもなく、ただ流してゆく。
僕は元々夢乃さんにとって「一緒に死にたいと思える人間」として選ばれた。その理由もただ、あのタイミングで彼女に出会ったから。良く言えば運命的、悪く言えば偶然に過ぎない。でも僕はきっといつまでも彼女を生かそうとする。僕が隣にいる限り、彼女は死にたくても死ねなくなる。それでは夢乃さんの中に僕が側に居る価値があるのだろうかと不安になってしまう。
昨日よりも色彩豊かに、モノが溢れていく箱庭。その真ん中に彼女と一緒にいるとそんな不安感を抱いている。「一緒に死ぬ」以外で僕がそばに居続ける意味が彼女の中で生じている事を願いながら、重ね塗りの青色した空を眺める。箱庭はきっと完成に近づいているのだと思う。
「死にたい気持ちはまだありますか?」
お風呂上がりに、僕はそう聞いた。ブランケットの上に二人で寝転がり、扇風機の風が交互に前髪を浮かす。
「あるけど死ぬことがすごく面倒臭いものになりましたね。なんか部屋には名残惜しいモノばっかりだし。何より悲しむ他人が沢山いるんですよね。」
「わざわざ面倒臭い思いをしてまで死ななくてもいいから、ただ生きているって人も案外いると思います。」
彼女の中で「死ぬことが面倒臭いもの」とそのように価値観が揺らいだのならそれだけでも箱庭計画が正解だったと思える。何となく死ぬ意味もないから生きる、彼女にもそう言うことができるようになったのかも知れない。そうなったのは多数の参加者と、間違いなく坂井さんのお陰だろうと思う。
確かに迷いながらも、箱庭計画を順調に進めることができた。そうして八月は流れるように終わった。
「【8月31日】今月の一日から始めた箱庭計画も今日で一ヶ月が経ちました。これほどまでに多くの人が参加してくれて、僕たちは本当に感謝しかありません。写真の通り皆さんの贈り物やアドバイスをもとに用意したモノで箱庭は彩られ、前のような寂しさはもうありません。今になって初日の箱庭の写真を振り返ってみると良くもまあこんなに無機質な部屋で生きていたなと不思議に思うほどです。
彼女も死に対する思いが少しずつ変化していき、以前ほどに死に固執する様子も無くなりました。全力で生きろなんて誰も言いません。ただ何となく、生きてくれればそれでいいんです。それが彼女にも伝わったんだと思います。
来月からも皆さんの温かい気持ちをお待ちしております。~以下有料日記」
八月末には彼女の口座に有料日記の月額料が振り込まれていた。五〇人の月額料から諸々の手数料が引かれた二万円ほどだったが、それでも貰えるだけで有難かった。お金が振り込まれたことに二人して嬉しくなって、夜風を浴びに外へ飛び出した。涼しい微風を浴びながら、彼女は「やりましたね。」と無邪気に笑った。
九月になっても甚だしい残暑が続いていた。箱庭には今までのように誰かに使い古されたモノではなく、新品のモノがプレゼントされるようになった。たとえば北欧のブランドのマグカップや、小さな観葉植物など。もちろん嬉しかったけれど、何だか貰いすぎて申し訳なくもなってくる。だから、その貰ったマグカップで温かいレモンティーを飲みながら、参加者への恩返しをどのような形で行えばいいのか考えた。息を吹きかけて懸命にレモンティーを冷まそうとする彼女の横顔は、何気ない幸せそのものだった。
そんな彼女は徐々に気温が落ち着いて秋が近づくにつれて、頻繁に外出するようになった。勿論二人でどこかへ行く時もあるけれど、僕が起床する前に準備を済ませて、目を覚ました頃には既にどこかへ出かけていることもあった。そんな時は彼女の気持ちの変わりように嬉しくなりつつもどこか寂しい気持ちになった。子供が離れてしまった親のような気持ちだった。帰ってきた時に今日はどこに行ったのかと聞いても、何となくはぐらかし、微笑むばかりだった。
そして彼女が外出する時には、僕も栞書店へと度々訪れるようになった。坂井さんには「いつになったら彼女さんをつれてきてくれるんですか?」と言われながらも、懲りずに一人で時間を過ごした。少しずつ入れ替わる本棚の古本を開きながら、夢乃さんの最近の様子を相談する。そして僕らが恋人ではないこと、彼女が僕と一緒に死ぬことを望んでいたことを打ち明けた。すると坂井さんは
「感情じゃなくて、命で繋がっているんですね。」と言った。夢乃さんは僕と一緒に死にたい、一方で僕は夢乃さんと一緒に生きたい。そんな命に関連したお互いの願望を基に、僕らは生きている。でも「命で繋がっている」なんて言い表せるほど美しいものではないと強く思う。だけど、そんな風に僕たちの生活を美化して言い表してくれる存在を知らぬ間に求めていた気がする。
「僕なんてただの大学生がこんな精神をすり減らすような経験をしなくてもいいと思うんですよ。もっとありふれた恋愛をするべきだと。でも何か、坂井さんに言われると今までの全ての行動が正解みたいに思えます。」
「正解みたいと言うか、正解そのものですよ。一人の命をこんなにも大切に救おうとしてるんですから。」
坂井さんは古本屋の店員だからか、その言葉がどれも心に染み付いていく。唐突に襲ってくる数多への不安。親が僕の現状を知ったらどうするか、夢乃さんとの関係性がいつまで続いてゆくのか、そして彼女がいつまで生きてくれるのか。そう言うものを取っ払うために僕は栞書店へ今日も遥々と足を運んだんだと思う。
「あ、そうだ。少し荷物になるかも知れないですけど。新しく私がチョイスした本を用意したので持っていってください。」
坂井さんは奥から紙袋に入った数冊の本を手渡してくれる。
「そんな、貰ってばっかりじゃ悪いので払いますよ。」
「いいんですよ。箱庭にこれを置いてくれれば私も嬉しいので。」
こんなにも優しい人がどうして「自分には価値がない」という感情を今でも抱かなくてはならないのだろうと思う。紙袋の手提げ越しに、坂井さんの優しさが伝わったような気がした。
「ありがとうございます。本当に、何らかの形で恩返しします。」
坂井さんは嬉しそうに笑う。口だけではなく、心の奥からそう思う。恩返しがどれだけ坂井さんの中で僅かな意味しか与えなくても、自己満足だと言われても構わないから。
そうして栞書店を出ると空は茜色に染まってゆく。遠くの方をぼんやり見ながら駅の方へと歩いていると夢乃さんから連絡が来た。「ICカードの残高が足りなくなったのに、財布を忘れて改札から出れないです。助けてください。」と、彼女の珍しい一面を見た。それを知って僕は急ごうとはしたものの、彼女が足止めを食らっている自宅の最寄り駅までは結局一時間ほどかかってしまった。
「めっちゃ待ちましたよね、多分。」
「あぁ、、待ってました。」
ようやく到着して、声をかけると彼女はもう疲れ切った様子だった。知らないバンドTシャツは軽く汗ばみ、いつもの柔軟剤の香りが漂う。側から見れば何の変哲もない活発な女性のようだった。とりあえず千円札を夢乃さんに手渡して、一緒に改札を抜け出した。
「今日はどこに行ってたんですか?」
地下鉄の出口へと歩きながら、彼女は僕が持っている紙袋を見て聞いた。でも、何だか坂井さんに会ってきたことは言いたくない気分だった。
「色々です。」
「色々って何ですかもう。」
彼女は笑いながらそう言う。地上に出ると既に、空気が夜に切り替わっていた。
「夢乃さんも最近沢山外に出ていますよね。」
「そうですね、箱庭計画のおかげで人との繋がりができたんです。」
「それは、良かったですね。」
彼女がどんな人と繋がったのかが、僕には少し気がかりだが、それはお互い様だと思う。ただ、こうしてお互いに疲労を感じながら、帰路に着く。この時間は箱庭計画を始める前には無かった。
「もうそろそろ大学は始まっちゃうんですか?」
「来週から始まりますね。」
彼女は「残念です。」と言う。でも結局大学が始まっても、夢乃さんが生活の中心にいることには変わり無い。
「て言うか思うんですけど。なんで僕たちってずっと敬語なんでしょうね。」
「それ私もたまに思います。でも、距離がある敬語じゃ無いですよね。なんていうか、お互いを丁寧に包み込むみたいな敬語ですよね。」
友達でもなく、恋人でもなく、心中相手でもなく。曖昧な関係性は、二人の敬語によってあやふやに包み込まれている。でも確かに、それが嫌だとは思わない。むしろ心地いいとも思う。
「私も君も、この関係性が壊れないように無意識にも丁寧に生きているんでしょうね。」
彼女のそんな言葉に、心の奥の方から虚しさがズンと込み上げ、僕は紙袋の取手を強く握る。触れるだけで壊れてしまいそうな関係性の中で、暮らしているんだと言うことを実感する。
「まあいいんです。僕らは命で繋がっているから。」
僕は詰まりそうな悲しさを紛らわす為に、坂井さんの言葉を口にした。すると彼女は少し驚いた顔をしたのち、「そうですね。」と呟いた。手を繋ぐこともない、二人の隙間を夜の風が後ろから通り過ぎてゆく。
駅前のロータリーまで歩くと、それぞれ足早に散ってゆくサラリーマンたちの横で、アコースティックギターを首から下げた路上ミュージシャンが自信満々に歌声を披露していた。
「ああ言う人たちの自分を表現する勇気ってどこからやって来るんでしょうね。」
彼女はボソッと漏らすように言う。
「あんな感じで目立つのは苦手ですか?」
「苦手です。だから、あれくらい目立つ仕事をしてたのが今となっては怖いくらいです。」
過去の客引きでの苦い経験を彼女は思い出し、真っ暗な空を見上げる。僕はその右手を繋いであげたくてたまらないけれど、ただ彼女の小さな掌に目をやるだけだった。
「それに比べて、今は幸せですね。」
「本当ですか?」
「うん、もちろん。終人君のおかげで。」
「初めて、僕の名前を呼びましたね。」
名前を呼んでくれた嬉しさと、路上ミュージシャンの遠慮のない歌声が混ざり合う。
「君の名前の意味は、私の悲しみを終わらせた人っていうことにしましょう。」
僕は幸福感が体全体から溢れ出しそうで仕方がなかった。心の中で夢乃さんを抱きしめた。もう一生死にたいなんて言ってほしくないと思った。
翌日も、夢乃さんは朝から外出した。「どこに行くんですか?」と聞いても曖昧な答えしか渡してくれなかった。僕は食パンをトースターで焼いて一人で齧り付く。彼女が開放的になったのは良いことだけれど、この豊かに装飾された箱庭で一人きりでいる時間が訪れると複雑な気持ちになる。ここにある全てのモノ、アートフラワーも海外のポスターも空の水槽も、お洒落なマグカップだって、彼女の為に用意されたものだ。箱庭は僕が一人で生きるために作られた空間ではない。夢乃さんが生きやすくなるようにこれだけ鮮やかに彩られたのに、肝心の彼女が居ないとそれが全て意味のない物のように思える。僕はテーブルの上に置いてあるオルゴールを鳴らしてみた。
「どこに行ったんだろう。」
居場所のわからない彼女を思いながら、真っ白い天井に目掛けて言葉を浮かべた。そして僕は箱庭をカメラで撮影し、今日も変わらず、箱庭計画を進める。
「【9月14日】今日の箱庭はこんな感じです。本当に素晴らしい空間になったと思います。どんなに小さなモノでもそれぞれに皆さんの温かさがあって、僕らは幸せです。彼女は以前よりも開放的になり、最近よく外出するようになりました。」
一人で文章を打ち終えてそっとスマホを置く。最近は日記を投稿するとその瞬間に何人もの閲覧者が訪れて、コメントの通知も来るようになった。
「良かったですね。部屋を装飾するのも勿論大事ですが、外出することはもっと大事なのかも知れないですね。」
彼女の行動をポジティブに捉えてくれる人がいる。
「自分が送った本が丁寧に置かれていて嬉しい。読んでくれましたか?」
このコメントは坂井さんのものだと言うことが分かる。振り返ると箱庭計画を始めて三日目くらいの日記から坂井さんはコメントを寄せてくれていた。
僕は無心で集まるコメントを読み漁って、その度に幸せを吸収する。夢乃さんが明日も生きようと思える箱庭を、僕はちゃんと完成させたいと思う。でも、同時にこの箱庭日記も終わってしまえば生活に物足りなさが募ってしまう気がする。
そんなことを考えていて、オルゴールから奏でられたカノンが静かに止んだ時。スマホをスクロールする指先に力が入り、思わず固まった。
「やっぱり有料日記の内容はこの人には見れないんだろうか。」
「彼氏さんがやっていることが正しいはずなのに、むしろ逆効果になっていることが、なんか悲しい。絶対に正しいはずなんだけども。」
こんなコメントを目にして、僕はひどく動揺する。息が詰まりそうになる。忘れかけていた、でも心の奥底でずっと不安感が宿っていた、有料日記の内容のこと。逆効果とはどう言う意味なんだろうか。彼女は毎日どんな言葉を記しているのか。心が震えてきて、どうにかして有料日記を確認したかったけれど、それは彼女が管理しているので僕のアカウントからは見れない。だからすぐに新しいアカウントを作り、月額五百円の料金ボタンを押した。これから僕は何を知ることになるのか、得体の知れない恐怖で汗が滲み出てくる。
「【8月4日】箱庭計画というものが始まった。ここでは嘘をつくべきではないと思うので、正直な気持ちを綴ると、不安感が拭えない。何もない部屋ってそんなにおかしい事なの?私自身がこの方が心地良いと思ったから、あえて無機質な空間を作り上げたのに。
花は枯れるからこそ綺麗。繰り返す旋律は頭の中にへばりついて離れない。やっぱり私は繰り返すモノ、変化しないモノが苦手だ。でも私のために時間を使ってくれているのだから、一度は全てを受け入れようと思う。」
「【8月11日】死にたい日には、何を食べても同じような味がしていた。何を匂っても、何に触れても、それに付随して感情が動くこともなかった。でもそれで良かった。死のうとするその瞬間に、漂う香りとか、音色とかそんなものが懐かしく感じたら私はきっと躊躇してしまうと思うから。この部屋は私の五感の全てを支配してくる。死の直前で躊躇させる為のものばかりだ。」
「【8月13日】他人の匂いが染みついたぬいぐるみが部屋に堂々と置かれる。なんだか燃やしてしまいたい。他人の生き方なんてやっぱり参考にならない。ぬいぐるみを置けば死にたい気持ちを抑えられるなんて、そんな甘いもんじゃない。」
「【8月14日】どうして、部屋が装飾されていくことを喜べないんだろうか。私の生活空間に、他人の想いが乗ったモノが蓄積していくのが嫌でたまらない。もう放っておいてくれって思う。でも、こんなことを思っていることは彼には絶対に伝えたくない。それはこの箱庭が完成した時に、私自身も自分がどんな感情になるのか知りたいから。もしかしたら、「なんて幸せな空間なんだ」って思えるようになって、生まれ変わったように死にたい気持ちも沈静するかも知れないから。食わず嫌いはしません。とにかく私はそんな奇跡のような結果を期待して眠ります。彼はまだ一人で部屋に何かを装飾しているみたい。」
彼女が寝た後に、喜ぶだろうなと思って洒落た海外のポスターを壁に貼り付けた夜を思い出す。
「【8月18日】沢山の本を送ってくれた方、有難うございます。これほど大きな優しさに触れたのはおそらく人生で初めてです。その優しさ自体には感謝というよりも尊敬します。でも、この本のおかげで死にたくても死ねなくなりました。私が死んでしまったら送り主の気遣いが全て無駄になってしまうと思うと生き続けるしかない。過大な愛は時に重く、そして迷惑。」
「【8月31日】箱庭計画が始まり、一ヶ月が経ちました。私の部屋はもはや他人の部屋のようです。私は不思議です、どうして皆さんが見知らぬ人間の生死にそれほど関心が持てるのかが。私がこの世界から消えることで、皆さんの生活に影響の一つでもあるのでしょうか?
でも、誰しもの期待通りに生きていけないことが私自身も辛いです。「本を送ってもらった。ああ幸せ。死にたいなんて思うのやめた。」と感情が上手い具合に転換していけば良かったのに。皆さんの優しさは伝わります。でもそれを喜べない私はなんて世界からずれているんだろうと思うんです。きっと私にとって優しさとはただ放置されることだったのかも知れません。こんな私の感情を理解してくれる方に私は出会いたいです。9月になったらもっと外へ出ます。皆さんの優しさが並べられた箱庭から少し逃げると思います。」
僕は日付が段々と今日へ近づいてゆく有料日記が怖くて堪らなかったけれど、もう震える指先はスマホの画面から離れていかない。ただ涙も出ない瞳は、夢乃さんの正直な思いを受け止め続ける。
「【9月4日】嗅ぎ飽きたアロマストーンの香りがなんだか嫌で箱庭から逃げ出した。外の世界はどこか新鮮だった。でも熱を帯びたアスファルトやすれ違う人の香水の香り、繁華街の喧騒に、吐き出される排気ガス。この世界自体も、誰しもの手で作られた大きな箱庭だと思う。逆に言えば、私たちは自分の部屋に小さな世界を作り上げていたのかも知れない。」
「【9月6日】私みたいに、死にたい気持ちを抱えたままで、それでも生き続けている人は多いのですね。9月だと言うのに死ぬほど暑いですが、新たな出会いを見つけたので今日も外へ出ます。」
「【9月13日】私の自殺願望を止めることなく、自然なことだと捉えてくれる人に出会ってしまいました。その人は私にとっては救世主のように思えました。箱庭計画があっても死にたい気持ちを消滅させることができない私には、もうどんな方法も残されていないのかも知れませんね。はっきりと言います、私は皆さんの優しさを無駄にしています。だから私のことはもう、放っておいてください。それこそが私には特別な優しさに見えるのです。」
今日は9月14日。僕の手からスマホが滑り落ちる。それすらも握っている力が入らなかった。静かな箱庭では、観葉植物の葉が空調の風でそよぐ。こんなにも虚しいことはないと強く思う。この箱庭計画を僕は心から素晴らしいと思い、全力で取り組み、多幸感に溢れていた。でも、夢乃さんには幸福感の一つも与えなかった。彼女にとって唯一良かった部分といえば、箱庭が嫌で外の世界に飛び出した時に、分かち合える人間に出会えた事だろう。自殺願望から切り離す為に、集められた全ての人間の優しさは今まさに砕け散る音がした。
有料日記には正直な気持ちを書いてほしいと言ったけれど、あまりに愚直だったことを知る。同時に自分自身の日記の能天気さが恥ずかしかった。
そう思っていた時に、僕は夢乃さんが今、何処で誰と何をしているのかが猛烈に気がかりになる。だから床に落下したスマホをもう一度拾い上げて、彼女の連絡先を探す。深呼吸しても落ち着くことない鼓動で苦しみながら、僕は電話をかけた。
コール音が何度リフレインしようとも、彼女が出てくれるまで切るつもりも無かった。僕は祈るような気持ちで、彼女の声を切望した。
「もしもし。」
多少の物音と共に、いつもと変わりない夢乃さんの声がスマホ越しに届く。それに対して素直に安心した。
「あの、、、何処にいるんですか。誰と何を、、」
「え?」
昂った感情で、散らかった僕の言葉に彼女は少し動揺したようだった。
「有料日記見ちゃいました。もう夢乃さんが何をしているか怖いんですよ。」
「ああ、そういう事でしたか。」
彼女は特に焦る様子も見せない。堂々と有料日記に正直な感情を書いていたのだから、そのうち僕が目にすることも想定内だったんだろう。
「今日の夜にちゃんと正直な気持ちを直接伝えます。最近好きになった中華屋さんがあるんです。だからそこで会いましょう。」
「とりあえず話せるなら、、分かりました。」
僕は電話を切った。そして硬い床に転がり込む。この悲しさについて、僕に悪い部分があったのかも知れないとふと思う。それは箱庭計画に寄せられる大量のコメントで少なからず自分の承認欲求が満たされていたことだ。本来は夢乃さんのため、夢乃さんが生きやすくなるために始めたものなのに、僕の方が熱中するようになって日記に対する参加者の反応に快感を覚えていた。それはもう、インスタグラムに写真を載せているのと大差なかったと思う。
途轍もなく虚しく、悲しい。でも彼女のことを不思議と責める気持ちにはならない。僕自身がもっと違う方法があったんじゃないかとばかり思う。こんなことになるのなら、箱庭計画なんて実行するんじゃなかった。
この世界自体が大きな箱庭。そしてこの部屋は小さな世界。そこから逃げ出そうとする彼女。僕はこの世界に一人取り残されている。いずれ消滅する世界。「生きやすい世界って何?」僕は独り言を、箱庭にそっと置く。
閑散とした夜の商店街を力なく歩いてゆく。気持ちは沈んだままだけど、夢乃さんの姿を確認したい一心で、言われた中華屋へと向かう。頭上ではいくつもの電線が交錯し、街灯の弱い光が足元を照らす。スナック店の前にはゴミ袋が山のように積み重ねられた、細い商店街を進むとそれらしい店が見えてきた。
早歩きで店前まで行くと、エアコンの室外機の横に彼女はしゃがみ込んでいた。その姿を見つけるとホッとして彼女の横に僕も座り込んだ。
「もう、会えないかもって思うくらい心配でした。」
「待ってましたよ。」
彼女はしゃがんだままで、僕を見つめる。
「色々聞いておきたいことがありすぎるんですけど、とりあえず入りますか?」
「うん。あ、でも少し待ってください。会ってほしい人がいるんです。」
「え?」
「絶対に、終人君には紹介しないといけない人が。」
彼女はそう言いながら微笑み、僕の両手に触れる。その時の掌の温度が何だか冷たく感じた。今から会わされるのはおそらく、箱庭計画を通して彼女が繋がった人間だろう。僕は嫌気が差すが仕方ないと諦めた。
そのまま数分間店先で、会話をすることなく待っていると商店街の入り口に小柄な人の姿が見えて、それに彼女は手を振った。その人が僕らに近づいていく時間で、一体どんな顔をして、会えばいいのか分からなかった。
「すみません、ほんとお待たせしちゃって。」
そして僕らの前にやってきたのは、とても幼く見える女性だった。多分僕よりも年下で薄茶色がかった髪の毛を後ろで結んでいる。
「彼が青山終人くんね。」
夢乃さんに急に紹介されて、僕は少し驚き、「初めまして。」と辿々しい口調で挨拶をする。
「私、押田詞乃って言います。夢乃さんの、、あれ?事情はもう説明した感じ?」
「いやまだ。後でちゃんとね。」
「そっか、危ない。」
二人は目を合わせて頷く。僕の知らないところで何らかの約束が交わされているようで嫌な予感がした。押田さんからは夢乃さんと同じような柔軟剤の香りがした。
夢乃さんを先頭にして店内に入ると狭苦しいテーブル席にちらほらと客が座り、厨房からの中華鍋を振る音と古いテレビから流れる野球中継の音が響いていた。あまり愛想の良くない店員に案内されて、テーブル席に二人と向き合う形で硬い椅子に座った。
「詞乃はほら、また今日も酢豚定食でしょ?」
「当然、もうそれを食べにきたんだから。」
小さく写真が掲載されたメニューを見ながら、二人は仲睦まじく会話していた。夢乃さんが敬語ではなく、フランクな話し方をしているのがとても新鮮だった。
「終人くんは?どうしますか?」
そして僕には敬語でそう投げかけられる。
「あ、えっと。蟹玉定食にします。」
正直に言うと、それほど食欲があったわけではないけれど、流れでそう答えた。夢乃さんは「蟹玉も美味しいよね」と押田さんに向かって言う。その時に見える横顔は別人のようで寂しかった。
料理は驚くほど早く運ばれてきた。けれどもどの店員も対応がそっけなく、また来てほしいとは微塵も思っていないような接客だった。僕は湯気の立つ蟹玉の端をスプーンで掬い、口に運ぶ。素直にそれは美味しくて少しだけ気持ちが上がった。二人も微笑みながら各々の料理を口にする。僕はつくづく夢乃さんと二人だったら良かったのにと思った。
「私たちのこと。ちゃんと話しますね。」
その言葉と共に、僕らのテーブルからはスッと笑顔が消える。夢乃さんはずっとそのことを話し出すタイミングを探っていたようで、僅かに震える声でそう言った。僕は「はい。」とだけ返事をして冷静を装う。
「詞乃は、箱庭計画の有料日記にコメントをしてくれた人なんです。三人目くらいの会員者で毎回私に寄り添ったメッセージを送ってくれて。」
押田さんは照れ臭そうな顔をした。
「そして連絡先を交換するようになって、頻繁に会う約束もするようになって。」
僕はあえて、箸で蟹玉のグリンピースを摘み上げる。
「詩乃は私と一緒に死にたいんです。」
そして平然を装ったまま、熱い卵を口に運ぶ。夢乃さんの言葉のせいで味はしなかった。
「私と一緒に死にたい。その気持ちで生きているんですって。」
「それで?」
「私、そんな人に出会えるなんて思わなかったから。じゃあ死んでしまおうよって舞い上がっていたんですよ。でも、君を無視して死ぬなんてそんなことできる訳ないから。」
彼女は俯き、言葉に詰まる。その横で押田さんが彼女の肩をさすりだす。そして「大丈夫」と小声で呟き。夢乃さんは再び僕の方を見つめた。
「だから、今日終人くんに言いたいのは。この人と一緒なら死んでもいいですか?」
何となくそう言われることを予想していたから、それほど動揺はしなかった。けれども「はい」か「いいえ」か即座に答えられる訳も無かったので、僕はもはや無味無臭の蟹玉を咀嚼して飲み込む。そして深い息だけを吐き出した。
「私が死ぬことには君は何一つ責任はないです。君には罪悪感も感じてほしくないので、ただゆっくりと私のことを忘れて、「私のことなんてどうでもいい」と思えるようになった時に死にたいです。ただの他人が死んだと思えるように。」
バイト先の店長の自殺未遂で抱いた罪悪感、それで僕が再び傷付かぬように彼女なりの遣いをしたつもりなんだろうけど、そう言うことじゃないと強く思う。心はすでに絞められているように苦しい。ただ一つの反応すらも、僕は声にする気力がない。
「でも、私は夢乃さんにとって二番手なんですよ。私よりも圧倒的に終人さんと死にたいと思っているです。だから終人さんが羨ましいですよ。私は夢乃さんにとっての代替案ですから。でもそれでも良いんです。」
そう言われているけど、微塵も嬉しくない。どうして夢乃さんと押田さんの頭の中には「一緒に死にたい人」というカテゴライズがあるのだろうかと心底不思議に思う。
「押田さんは恋とかするんですか?」
僕はようやく使えるようになった声で目の前の人間に対して、そう質問する。
「私は恋はしないのかもしれないです。どうしてですか?」
「例えば、「心から愛する人と一緒に死ぬ喜び」は何となく僕でも理解できるんですよ。煮詰まった愛情の先に心中があるのは物語でもよく目にするので。でも、あなたは夢乃さんと出会ってまだ一ヶ月くらいしか経っていないじゃないですか。一緒に死にさえできれば誰だって良いんですか?」
この気持ちは夢乃さんにも同時にぶつけた。僕がダメだったから第二候補を立てるなんて発想がどうしても理解できない。
「誰でも良い訳ではないです。でも、私たちが持っているのは先天的な自殺願望なので、誰と死ぬかよりも、とにかく死ぬことを重要視してしまうんです。」
押田さんの口からも先天的な自殺願望という言葉が吐き出される。生まれながらにして死にたいと思いながら生きている。やっぱりそんな人が存在することは俄には信じ難い。
「私たちにとって生かされ続けることが、多くの人にとっての死を強要されること、というのは少し言い過ぎかもしれないですけど、似たような苦しみがあるんです。」
そう言われて再び言葉が出なくなると共に、町の中華屋でこんな会話をしている自分達の異質さに気づいてふと我に帰った。三人とも半分ほど残した料理には湯気が立たず、残飯のように見える。
「だからもう、終人くんにも私を生かし続ける努力をしてほしくないんです。」
夢乃さんは祈るような目で僕にそう言う。逆に言えばそれは「彼女を死なせる勇気」を持ってほしいと言うことだ。
「終人さんがそばに居たら、幸せになる人がたくさんいると思います。」
そんなの当たり前だと思う。一丁前に評価してくる目の前の人間が僕は嫌だった。
「そう、君はもっと違う人と幸せになるべきだと思いました。」
興味もない野球中継をぼやけた瞳でじっと見つめる。僕は何となく違和感を覚える。二人でいる時の夢乃さんはもう少し自分の自殺願望を隠そうとしていたと思う。でも今となっては恥ずかしげもなく堂々と死への願望を語っている。まるで自分達がマジョリティーであるかのように振る舞う。先天的な自殺願望を抱えた人間が二人いて、そうでない僕が一人いる。この三人の狭い世界では僕の方がマイノリティーであり異常者のようになる。
「君が変わってくれたら、全てが幸せになるのに。」
僕は本当に心からそう思う。やっぱりおかしい。どうして生きることすらもできないのか。先天的な自殺願望なんて、思い込みじゃないのか。
「私にはもう、変わる方法なんてないんです。」
夢乃さんのその言葉に初めて苛立った。もっと自分が異常者だと認識しながら生きてゆけ。死にたい同志を見つけて、マジョリティーぶるんじゃなくて、この大きな現実世界で正常者になれと心の中で叫んだ。
「じゃあもしも、僕が夢乃さんと死にたいと言ったらどうしますか?」
そんなことを口にすると押田さんは少しドキッとした表情をする。
「君と死にます。」
夢乃さんは即答する。全く嬉しくもない筈なのに、僅かに優越感のようなものが心に宿る。
「夢乃さんと死ねなかったら押田さんはどうしますか?」
「また違う人と死ぬんです。」
僕は苦笑いをする。この人の身体の中には生に対する希望が一ミリも無いのだと思う。呆れるというか、ただ異常者だと感じる。
「私たちはもう、呼吸するだけの死体なのかもしれないです。」
押田さんのそんな言葉は飛び交うオーダーの声に混ざり、中華屋にふわりと浮いてゆく。「呼吸するだけの死体」そんな気色の悪い言葉を誤魔化すために、僕は冷めた蟹玉をかき込んだ。
中華屋を出て商店街を歩いてゆくと、自然と彼女ら二人が前を歩き、僕はその背中を見つめていた。二人の笑い声が聞こえる度に、夢乃さんを略奪されたような気持ちになる。夢乃さんにとって最も価値のある存在は、恋人でも親友でもなく、心中相手なのだから。
そんな僕にとっての邪魔者とは僕らの最寄駅の二つ手前の駅で別れた。ガラガラの車内で突如二人の時間が訪れると、どうしようもなく複雑な気持ちに苛まれる。何を話せばいいのか分からない。何よりも、彼女が嫌がって逃げ出した箱庭に、どのような気持ちで帰ればいいのか、そんな不安が揺れる電車内で絶えず僕に付き纏った。
彼女が玄関ドアの鍵を差し込み、ドアを開けるとアロマストーンから柑橘系の香りが玄関先まで香る。そしてリビングには大小様々な観葉植物、ぬいぐるみ、積み重なった小説、海外のポスター、オルゴールにアートフラワー、空の水槽、瓶に詰められたハッカ飴。箱庭を彩るモノが多少の秩序を保って並べられている。彼女はこの全てが嫌で堪らないんだと僕はもう理解している。
「箱庭計画のこと、もっと君に相談しながら進めればよかったとは思いますけど。でも君が一緒に死ぬ存在を見つけるために始めたんじゃ無いんです。」
僕は夢乃さんの背中に向かって、言葉を放つ。
「言い訳じゃなくて、私も死にたいなんて思わずに生きれるようになりたかったんです。でも、生まれながらの自殺願望は消えそうもなく、諦めてしまいました。」
彼女は僕に背を向けたまま、声を震わせる。
「押田さんに出会ってから、僕のことなんてどうでも良くなったんですか?」
「そんな訳ないです。君の存在自体が、私が自然に生きれるようになる為の、最後の頼みの綱でした。」
夢乃さんは振り返り、涙がこぼれ落ちそうな瞳で僕を見つめる。その表情を向けられると僕が彼女に抱いていた苛立ちが吸収されてしまいそうになる。
「生きてさえいれば良いのに、私にはそれさえもできないので。」
僕は何度もそう思った。生きてさえいればいいと。でも彼女の口からそれを言葉にされると痛々しく思える。
「じゃあ、僕はもう君から離れれば良いですか?」
「嫌、、何です。でもそれは、、、」
その時、彼女は初めて僕の前で涙を流した。平然とした顔で頬を伝う涙はそのまま彼女の掌を湿らせる。
「詞乃と一緒に居ると、自分の自殺願望って普通なんだって思うんですけど、やっぱり私は異常ですね。君と二人きりになると分かります。」
「うん。君はおかしいです。ものすごく異常です。でもだからこそ自分と同じ境遇の人と触れ合って、二人の世界では普通になりたかったんですよね。」
僕は空気が湿った箱庭で、夢乃さんに寄り添う。何だかもう、苛立ちも何もかも無くなってしまった。彼女は小さく頷き、「ごめんなさい。」と声を絞り出す。
「君にはもう、本当に生き続けるという選択肢が無いんですか?誰かと共に死ぬと言うことしか無いんですか?」
「はい、そうです、、」
はっきりと僕はそう言われる。じゃあ、これから徐々に夢乃さんと距離を置いて、段々と他人に近づいていって、無関心になれる時を待つというのか。でもそんな上手いこと彼女を忘れられないことは今の段階でも分かる。
「夢乃さんから離れて、君が生きているのかも死んでいるのかも分からない。それなのに忘れられないままになるくらいなら、もう君と一緒に死んだ方がマシかもしれないです。」
僕がその言葉をどれだけ本気で言ったのかは自分でもよく分からないけれど、それを聞いた彼女の瞳は刹那にして輝きを見せた。
「ねえ、そうしてください。私と一緒に死にましょう。」
彼女はそうして僕に抱擁をする。温かい体温が伝わり、高揚した。そしてその瞬間に、本気で彼女と死んでしまいたいという思いが、脳裏を通過していた。それに対して僕は危機感を覚えた。
「箱庭にいるのは息苦しかったんですか?」
僕は洗濯物を畳む夢乃さんにそう問いかける。
「息苦しいっていうか、心が休まらないって言うか。」
「僕も一人で過ごす時間が増えてから少し気付きました。他人の部屋に放り込まれたみたいだって。」
そう言うと彼女は気まずそうに笑う。
「有料日記じゃなくて、直接君に言うべきだったんですけど。」
「でも、君の本心を知らぬまま箱庭計画を続けた一ヶ月半くらいが僕はすごく楽しかったんです。」
僕は彼女の横に座り、改めて箱庭を眺める。彼女はこの箱庭計画で自分は自然に生き続けることが出来ないことを理解したのだとしたら、それは箱庭診断とでも言うべきだろうか。
「あ、これ。久しぶりに見ました。」
そうして眺めているうちに、棚からはみ出していた猫耳カチューシャを見つけた。それは僕たちが出会った日にあの繁華街の入り口で彼女が着けていたものだ。僕はそれをそっと手に取って、彼女の無造作な髪に少しだけ触れたのち、着けてあげる。
「どうですか?」
彼女は恥ずかしそうにしつつも、やっぱり似合っていた。
「自然と寄せられてしまいそうな、そんな感じです。」
「やっぱり私の適役はこれなんですかね。」
僕は彼女の可憐さに見惚れると同時に、たまらなく悲しくなる。
「適役、、」
「ん?」
悲しさのせいで言葉に詰まってしまう。
「死ぬこと以外は、全て適役ですよ。」
再び箱庭には湿った空気が充満してしまう。彼女に生きてほしいと思うだけで、泣きそうな気分になってくる。僕にとって人を愛することが、彼女にとって人と死ぬことなんだろうと思う。僕という存在に生き続ける為の最後の希望としての価値があったとしても、死ぬことを決めた彼女にはもうその価値すらも必要ない。
彼女が死ぬ悲しみを抱かぬように、僕らはこれからゆっくりと離れていくのかもしれない。逆らえない運命が僕らの間に入り込んで、お互いを遮断する。
でも、嫌だ。悲しみを抱かないほど、彼女に無関心になれる日なんて何年待っても訪れない。そもそも彼女が死んだ日に、そのことを誰が僕に教えてくれるか。もう二度と会えないのに、心の中から消えない存在はきっと怖い。
「おやすみなさい。」
今日も別々の部屋で一日を終わらせる前に、震えた声で言葉を渡す。
「また明日。」
あと何回、彼女は僕の隣で笑ってくれるのだろうか。いつまでその笑顔を見ていて良いのか。
翌朝、彼女は当たり前のように僕よりも早く起床して、家を出ていった。リビングには坂井さんから受け取った小説が開かれたままで放置されていた。栞に書いてあるメッセージを夢乃さんはどんな気持ちで眺めていたのかと思う。
押田さんに会いにいく日の彼女は悪い意味で堂々としている。いつまでも生きていて欲しいと願う僕と一緒にいると、彼女は自分の異常性を実感してしまい、異常から逃れて普通になるために、唯一の同志に今日も会いに行った。
彼女が出ていった箱庭で一人、大きな無気力感に襲われる。こんな僕の生活の相談に乗ってくれる友達は居ないし、親にもこんなこと言える訳が無い。もうあと数日で大学が始まると言うのに、いつまでも自堕落な生活を続けてしまう気がする。
僕に与えられた選択肢が、彼女から離れて記憶から抹消することか、彼女と一緒に死んでしまうことの二つしかないことに深く絶望する。
スマホのカメラを構えると、豊かな箱庭と窓の向こうの青々とした空が映る。でもシャッターを押す気にはならなかった。そして何となくスマホをスクロールしている内に、僕はただ一人、自分の気持ちを相談できる相手がいることに気がついた。それが自殺未遂をした店長だった。
バイト時代に頻繁にかかってきた店長の連絡先は電話帳に今でも残っていた。出てくれるかは分からないけれど、とにかく誰かに話を聞いてもらえないと一人で煮詰まりそうで限界だった。だから僕は迷うことなく発信ボタンを押した。
「はい。もしもし。」
僅かな沈黙の後、あまりにすんなりと応答があった。それに僕は驚き、用意していた言葉もうまく言えなかった。
「あ、、あの。えっと僕です。青山です、、」
「ああ、青山か。名前登録してなかったから誰かと思った。」
店長はハキハキとした口調で話し、突然の電話をすんなりと受け入れた。
「急に掛けてしまってすみません。もうバイトも辞めたんですがどうしても話しておきたいことがあって。」
「ああ、そうか。」
「もう電話をするのも今日限りなので、店長に相談します。」
僕は息を整え、自殺に最も近づいた人間へ自らの気持ちを吐き出す。
「僕は今、事情があって自殺願望を抱えた人と生活しています。色々な事をしてその人に生き続けてもらおうとしたのですが、もう無理だと言うんです。でもどうしても死んでほしくないです。僕は一体どうすれば良いんでしょうか?どうすれば生き続けると思ってくれるんでしょうか?」
僕が言葉を渡したのちに、数秒間の沈黙が続いた。
「その人はもう止めても無駄だってことは分かる。坂道を転がり落ちていくみたいにどんどん加速して。だから、、」
再び、店長の声は止まる。電話先で大きく息を吸い込んだのが伝わった。
「自殺未遂を成功させること。」
「自殺未遂?」
「そう。本気で自殺を試みながら、失敗する。」
自殺未遂を成功させるという一見矛盾した表現が僕の脳内で反芻する。
「考えようによっては一度死から蘇って、生まれ変わったようなものだから、未遂で成功だったんじゃないかって思う。」
「そうですか。」
同時にあの時、バイトの同僚は店長がまるで本当に死んでしまったかのように責任を感じていたことも思い出す。
「まさか人にこんな話をするとは思わなかったけど。」
「すみません。失礼な事を聞いてしまって。でも謝りたくもあったんです。店長がどうにかなってしまう前に僕達がもっと力になるべきだったんじゃないかと。」
「そんなことはいいんだよ。どうせいつかは耐えられなくなるんだから。」
自殺というものが本人以外の努力でどうにかできるものではないということが今ははっきりと分かる。
「今はどんな感じで暮らしているんですか?」
「精神病棟に入って、自殺しないように監視されながら生きている。」
店長の声色的に、自殺未遂を経て生まれ変わって不自由ない生活をしているものだと勝手に思っていた。
「それで成功なんですか、、、」
「でも生まれ変わったとは思う。人間から水槽の中の魚に。」
「ああ、、、」
水槽の中の魚。水中は人間のままでは生きてゆけない空間。生き続けるために魚に生まれ変わる。でもそうすることでしか彼女を救うことはできないと言う。
「分かりました。声を聞かせてくれて、本当にありがとうございます。」
「ああ、ありがとう。」
黒く塗りつぶされたような結末を何となく悟りながら、店長との通話は終わった。でも同時に僕の中で新たな選択肢が追加されたことも確かだった。そしてその三つ目の選択肢が自分の中で圧倒的に有力であることも実感していた。
久しぶりに店長の声を聞いた僕は彼女の家を飛び出して、意味もなく繁華街へと足を運んだ。
繁華街では外国人観光客の姿がよく目についた。彼女と初めて出会った交差点、そこから見える繁華街の入り口には今日も昼間から甲高い声で客を呼び寄せる人たちが立っている。数ヶ月前までは彼女もあそこに立っていたとは思えなかった。
そしてさらに奥には僕がバイトしていたファミレスの看板も目に入る。辞めて以来近づく事すらしなかった場所に、恐れながらも近づいていた。
すりガラス越しに店内を見つめてみると、厨房の奥であの新しい店長を見慣れた顔が囲んでいた。客が入店すれば店員が愛想良く向かい入れて、また別の客が満足げな顔で退店する。そしてその空間は何の違和感もなく動かされている。死の香りなんてするわけもなくきっちりと正常化されている。
僕は箱庭の真ん中で虚しさに耽っている。そして店長は精神病棟という名の水槽で必死にもがく。全ての責任を僕の背中に押し付けて、ここで起きた自殺未遂の残り香は風と共に外へと吐き出される。どうしてこうならなくてはいけないのかと思う。
酷い虚しさの中で、僕は歩いてゆく。秋の風に僅かに押されながら死に場所を探しているような気分になる。昼間から繁華街の喧騒はうるさい。冷静な判断を捨てて、水中で眠るように死ねたならどれほど心地良いかと思う。
いやダメだ。僕らは決して死ぬのではない。生まれ変わるのだ。生と死の境目でもがいて正常に愛を育めるような人間に生まれ変わる。彼女が自殺願望を捨て去るために、その記憶全てが飛んでしまってもいい。一度極限まで死に近づいて、そこから奇跡的に生還して。また彼女と二人で新たな生活を始めたい。そのような決意が人混みの中心で生まれてしまった。それを実行するために、準備を進めた。僕はもうあまりの虚しさから、自暴自棄に近い精神状態に陥った。
栞書店は今日もひっそりと営業している。繁華街からこっちの地域へ移動するとその静かさに心地よさを感じる。点在している飲食店は繁華街のように強引に客を寄せる事もない。
「お邪魔します。」
栞書店の引き戸は相変わらずやけに大きな音を立てる。
「青山さん、良いところに。暇すぎるので会話相手が欲しいと思ってたところです。」
「そうなんですね。」
相変わらず、坂井さんはまるでここが自宅であるかのように自然体で僕を向かい入れる。
「て言うか昨日、箱庭日記更新してないなって思って。これまで一日も欠かしてなかったのに。」
無邪気な顔でそう言われると、すぐには言葉を返せない。もうその全てが無意味になっていることも目の前の彼女は知らない。
「なんていうか。毎日同じ部屋の写真を撮ってて飽きたというか。マンネリ化したって言うか、、そんな感じです、、」
「ああ、そう言う事だったんですね。」
僕の即席の言い訳も、疑う事なく受け入れてくれる。
「じゃあそれなら、私良いこと思いつきました。」
そう言うと坂井さんは裏に一度戻り、本格的な一眼レフを手にして戻ってきた。
「私大学時代に、写真サークルに入っていたんです。だから、私に二人の写真を撮らせてください。それを箱庭日記に上げるというのはどうですか?」
「ああ、なるほど。」
今更写真なんか撮ってもらっても意味がいないという思いもありながら、坂井さんの形のない優しさに触れて、心は温かくなる。
「箱庭日記に私が送った本が映るたび、自分って誰かの役に立てているんだなって思うんですよ。自殺願望を完全には捨てきれていない私にとっては、そんな感情がものすごく大切なんです。」
一眼レフの望遠レンズに触れながら、しみじみとそう言う。
「もう十分すぎるくらい僕達を支えてくれてますけど、でもせっかくなら撮ってもらおうかな。」
「本当ですか。やった。」
坂井さんは「やっと彼女さんに会える。」と嬉しそうに呟いていた。現実はこの人が想像しているものと正反対に進んでいるのに、この能天気さは少し前の自分自身を見ているようだった。だから坂井さんも夢乃さんの有料日記は見ていないんだと思う。
「じゃあ、近くの玉川上水の小橋でどうですか?私あそこが好きでよく撮りに行くんです。」
「分かりました。そこで待ち合わせですね。」
「栞書店が十九時に閉まるので、二十時くらいですかね。」
坂井さんの言葉の語尾は跳ね上がり、彼女の高揚感が感じ取れる。
今日の二十時、玉川上水の橋の上で、坂井さんと約束を交わした。
「きっと特別な時間になる気がしますね。」
僕はそう呟く。きっと、あまりにも特別すぎる時間になると思う。
栞書店を出た後は、そのまま久しぶりに自宅へと戻った。数日前に干した洗濯物がベランダに放置され続けて、まるで時間が止まったような部屋は何だか不思議だった。時計の針は十五時を指す。それほど時間がある訳でもない。だから、こんなことに躊躇している場合ではない。
僕は一人静寂とした部屋で、夢乃さんに電話をかける。
「もしもし。」
「どうしましたか。」
今日も彼女は変わらない様子でいる。今誰とどこにいるのかはもうどうでもいい。
「あの、今日の夜。どんな予定があったとしても僕と一緒にいてください。」
「え?」
彼女は驚きと、僅かな喜びに包まれたような声を発する。
「一緒に死にましょう。」
「え、、、」
しばらくの間、沈黙が流れる。それを打ち切るために、僕は再び言葉を送る。
「もう、君と死にたいと思いました。」
「本当に?嘘じゃないですか?」
「嘘じゃないです。でもその代わり、僕が選んだ方法で逝きたいです。」
彼女の声は明るく踊り出す。自分が今日死ぬと分かった瞬間に喜ぶ、彼女の感情がもはや怖かった。
「方法は何だって良いです。君と一緒なら。」
どうしてそれほどまでに、僕と死にたいのだろうと、不思議に思う。
「どこにいるんですか?今すぐ会いに行きます。」
「今は自宅の方にいます。」
「分かりました。」
電話が切れた瞬間に、多大な達成感と同時に途方もない緊張感がやってくる。ただ僕にはもう後戻りをすることなど考えられなかった。
僕は何となくコンビニに行き、銘柄もよく分からないタバコを買った。タバコなんて一度も吸ったことないのに、僕は何をしているのだろうと思った。
そしてアパートへと戻ると、もうすでに夢乃さんは玄関扉の前でしゃがみ込んで待っていた。錆びた手すりの向こうから西日が差し込んで、彼女は僕の姿を見つけて微笑む。
「早いですね。」
「君の気が変わらないうちに、詩乃のことはもう置いてきました。」
そんな雑な扱いをしても関係が破綻しない彼女らのことが僕は不思議だった。
「とりあえす入ってください。」
僕は初めて、夢乃さんを自分の部屋へと招き入れる。部屋には読みっぱなしの小説や、いつかの旅行で買ったお土産も誰にも渡さぬまま、置いてある。
「何だか、全てが途中みたいな部屋ですね。」
「君と出会ってから、時間が止まったままです。」
そう言うと彼女は少し悲しそうな顔をした。きっとこんな散らかった部屋は嫌なんだろうと思う。
「私と出会わなければ、死にたいなんて思わなかったんですもんね。」
「そうです、でも。もう今更そんな事を言っても仕方がないんで。」
僕と死にたいと言っているくせに、彼女はそう言いながら罪悪感に包まれたような表情をする。
「私のせいで、君は色んなものを無くしましたよね。挙句の果てには私と一緒に死ぬことになって。」
「全てが君のせいですよ。僕は単純に君と恋愛したかっただけなのかも知れない。でもいくら時間を使っても君は死にたいままで。そんな夢乃さんのことが僕は嫌いになったのかも知れないです。」
僕がはっきりとそう言うと、彼女は泣きそうになり顔を背けた。
「そうして嫌いになっても、無関心にはなれない。もう君を忘れて一切の悲しみから逃れたいので、君と死ぬんです。」
「僕はいつまでも君と生きたかった、死にたいなんて微塵も思っていなかった。なのに君のせいで死にたいと思ってしまった。全てが君の責任ですけど、それでも、君は僕と死にたいって思いますか?」
この瞬間が、最後の質問だった。これでダメならばもう本当に自殺未遂を成功させるしか方法はないのだと思った。
「はい。死にたいです。君と死ねるのが夢みたいです。」
彼女は葛藤することもなく、真っ直ぐと言葉にする。その潔さが清々しく、逆に諦めるしかないとキッパリと思えた。
「だったらもう仕方ないんです。最後は幸せに死にましょう。」
「ごめんなさい、ありがとう。」
薄汚れたカーペットの上で、嬉し涙か、悲し涙か、そのどちらかを流す夢乃さんの頭をそっと撫でた。そんな死に取り憑かれている彼女を浄化する為に、僕は慰める。
「僕は川がいいと思うんです。」
「何処だっていいです。君と一緒ならついていきます。」
彼女の濡れた瞳が僕を見つめる。時刻は一六時を過ぎようとしている。
「今夜の二十時に、玉川上水で一緒に死にましょう。」
濁った墨のような風が肌に吹き付ける。そうして僕らは揺れるように歩いてゆく。どこかに落ちてしまいそうな気分だった。
「私たちの箱庭。完成しないまま死んでしまうのは少し残念ですね。」
「未完成の作品ということにしておけば良いんじゃないですか?」
そう言うと彼女は笑う。この人は本気で死ぬつもりでいるのに呑気なものだと思った。
「でも、私たち以外にも誰か一人くらいは、この川で死んでいますよね。」
「うん、きっと何人かは。」
僕もひょっとしたら死んでしまうかも分からないのに、呑気だった。彼女の淡い色したシャツを眺める。そして目の前を穏やかに川の水が流れてゆく。どうにか二人が死なないようにと願いながら唇を噛む。
「私、どうして一緒に死ぬなら君が良いと思っているのか、実は自分でもよく分からないんです。」
「そうなんですか?」
「はい。でも絶対に君が良いんですよね。誰よりも君が。」
そう言われて、僕は素直に照れる。
「そういう、この人が良いって言う気持ち、普通は愛って呼ぶんですけどね。」
「もしも生まれ変わったら、次はちゃんと愛を持てる人になりたいです。」
もしもではなく、今から生まれ変わる。死の淵から生還して、目を覚ました時にはきっと彼女は愛を持った人間になれる。
「きっと持てると思います。」
ただ流れるように時間は過ぎる。十九時五十分の玉川上水は人の姿もほとんどない。まるで世界の端っこ、僕らだけの空間のように思える。
「ああ、そうだ。最後の晩餐食べてなかったですね。」
「今日までに味わったことがないものだったら何でも良いって言ってましたよね。」
そう言うと彼女は無言で頷く。僕はポケットを弄ってさっき買ったタバコとライターを差し出した。
「私、最後の晩餐タバコですか?まあでも、それもいいか」
彼女は笑いながら、不器用な手つきでタバコの先に火を灯す。ゆらゆらとした白い煙が上空へと上がり、副流煙が僕の体内に入り込む。
「タバコってこんなに美味しくなかったんですね。」
「ごめんなさい、こんな晩餐しかなくて。」
「いやでも、美味しくないものの方が未練が残らずに済むのでね。」
笑う彼女の口先から、白い煙が溢れ出す。僕はただそれを見続けて灰が落ち切るのを待つ。「君も一緒に吸えばいい。」と言われても、どうしてもそれを口にはしたくなかった。
そしてタバコの火は五分ほどで燃え尽きて、時間が迫るにつれて、僕らは自然とお互いの目を見つめ合う。
「じゃあもう良いですか?」
「はい。」
どうしてこの人はこんなにも躊躇をせずに、死に向かえるのだろうと思う。その瞬間を迎えるためだけに生きてきたような、そんな真っ直ぐさが彼女にはある。
「これで体を結びつけたいんですけど良いですか?絶対に離れないように。」
彼女はポケットからアクリルの紐を取り出した。
「これは必要ないと思います。」
「離れたりしないですか?」
「お互いが死ぬために、心で繋がっているので要らないです。」
「そうですね、確かにそうかも。」
彼女はそう笑いながら、紐を草木へ捨てる。体を縛られたりなんかしたら僕は本当に死んでしまう。
「せーので飛び込みますか?それとも、、」
「少しずつ。」
僕らは橋を飛び越えて、川辺に座ったのち、ぬるい川へ足を入水させる。そしてゆっくりと足を川の底へと沈めてゆく。川底はぬかるんでいて、そのまま立つとバランスを崩しやすい。想像よりも深い川の中で、僕は僅かな恐怖を抱いた。彼女はそれでも嬉しそうに川の真ん中へと僕を誘導する。
「紐はいらないですけど、抱きつかせてください。」
そう言って彼女は水の中で僕の体に密着する。濡れた彼女の肌がしっとりと触れる。悪い意味で夢のようだった。
「ちょっと苦しいですよ。」
「ごめんなさい、でも離れたくないから。」
そう言って更に僕らの体は近づいてゆく。
「なんかあっけないですね。」
川の水は既に、喉元まで達する。パニックにならぬよう、心を落ち着かせるためにあえてそんな事を口にした。
「もう、何も心配する事ないんですよ。」
彼女はそう言う。僕の体は確かに川底へと引き摺り込まれてゆく。僕らは多分大丈夫だ、生きてられる。でも勿論本当に死んでしまうかも知れない。僕はあえてそんなリスキーな方法を選択した。必ず助かると確信していたら、それは自殺未遂とは呼べないからだ。本気で死に挑み、死ぬ可能性を残した上で、生き延びる。それこそが正解なんだと信じている。
「ねえ、もう喋れるのも今のうちですよ。」
彼女は水面のギリギリでそう言う。
「うん。もうちょっとだけ話したいです。」
僕は川の水が口に入らぬよう、顔を上げながら話す。
「生まれ変わったら、次は僕と恋人になりましょう。」
「今世は私のために死んでくれるんだから、次は死ぬほど愛します。」
「それなら良かったです。」
二十時がやって来た。その瞬間、彼女は勢いよく僕を引き摺り込んだ。そして水が口に入ってくる。そして鼻先が水中に、視界も歪んでゆく。僕は水中で彼女と一つになる。
真っ暗、深海のよう。必死にもがく。信じられないほどに重く、苦しい。轟音が耳にこだまする。彼女の顔なんて見れやしない。ああ、本当に死んでしまう。やっぱりこんなの違う。死んでゆく。呼吸が止まる。川の水を吸い込んで、醜い死体になる。意識は遠のいてゆく。だめ、苦しい。もう、、終わり。全ての終わり。
「青山さんっ、、青山さんっ!!」
深々と眠っている時に呼びかけられる声よりも更に遠くから僕の名前を呼ぶ声が聞こえた気がした。もしかしたら走馬灯かとも思ったけれど、そうではなかった。僕を呼ぶのは必然的な奇跡だった。
僕の手は強く引かれている。早く起きろと叩き起こされているような感覚だった。そして僕は微睡からゆっくりと目覚めた。彼女がどうなっているのかは分からない。ただ僕の体の一部のようにくっついて離れない。
「死んじゃダメ!!!」
そう、死んでしまっては駄目。強引に腕は引っ張られる。僕はかろうじで残る体力を振り絞って川岸を掴んで、顔を水面へと出す。彼女の重みで再び倒れそうになったが、浅瀬の川だったことが幸運で、僕は立ち上がった。そして抱きつく彼女を抱えたまま、一緒に川から脱出する。
「ねえ、青山さんどう言うこと?ていうかとりあえず彼女さんのこと。」
僕らを助けてくれた坂井さんは、そのままぐったりと僕に寄りかかっていた夢乃さんのことをまず一番に心配した。そして彼女を抱えて呼吸を確認する。どうやら気を失っているようだった。坂井さんは夢乃さんを横向きに寝かせて気道を確保した。そして救急車も呼んでくれた。
「失神しているだけだとは思いますけど、、、」
「ありがとうございます。」
「いや、ありがとうじゃなくて。写真を撮るという約束は?私が少しでも遅れていたら死んでいたじゃないですか。」
坂井さんは脳が揺れるほどに、僕の肩をゆする。
「ごめんなさい。彼女と一緒にいるうちに揺らいじゃったんです。でも、きっと本気で死のうとは思っていなかったです。衝動的なもので。だから本当に助けてくれてありがとうございました。」
そう言うと深いため息が僕らの目の前で吐き出される。困り顔をする坂井さんは今の僕には紛れもない救世主そのものに見える。
「私こんな姿で、彼女さんと初めて会うの嫌です。」
「ごめんなさい。」
坂井さんが首から下げた一眼レフがふと目に付く。そのレンズには僕らを殺しかけた川の水滴が付着している。
そうして濡れた衣服が乾かぬ間に、救急車のサイレンが遠くの方からこだまする。僕は夢乃さんの身体にそっと触れてみる。眠っているように力がないが、確かに呼吸をしている。彼女は今、どんな世界を見ているのか。僕と死んだ先の世界を夢見ているのかも知れない。
「まさか、私がこんな場面に遭遇するなんて思わなかったし、死にそうなくらい焦りましたけど。でも、、」
坂井さんは、そっと夢乃さんの濡れた頬をさすりながら言葉を紡ぐ。
「私だけで人の命を救った瞬間って、きっとこの先もないですよね。」
「絶対にないと思います。」
「人の命を救うと、こんな感情になるんですね。」
その言葉は力強く、夜空に放たれた。坂井さんは夢乃さんの手と、僕の手を両手で握る。
「だから、ありがとうとは絶対に言わないですけど。私はなんか嬉しいです。」
坂井さんは箱庭計画の参加者の中で誰よりも、素敵な贈り物をくれた。いつか必ず恩返しをしなくてはいけないと何度も思った。自分には価値がないんじゃないかと思い、自殺願望を抱いていた坂井さんに僕が渡せる恩返しはこんなものしかなかった。
僕が夢乃さんと本気で死に挑んだのは、自殺未遂を成功させて生まれ変わるという意味ともう一つ、坂井さんに僕たち二人分の命を救う機会を与えるという意味があった。
「もしも誰かの命の恩人になれたら、自分に価値がないなんて感情が無くなる。」と初めて会った日に彼女が口にした言葉を覚えている。僕らを死から引き戻し、文字通り僕らにとっての命の恩人になるという非日常の場面を坂井さんに送る。それこそが箱庭計画の恩返しだった。
川は穏やかに、水中で僕らがもがいた形跡を徐々に消しながら流れてゆく。救急車は草木の向こうの路肩に止まり、数人の救急隊員がこちらへやってきた。坂井さんには「心中しかけたとなるとややこしいから。」と言われたので、僕は一度その場から離れて、坂井さんに状況説明をお願いした。担架で運ばれてゆく彼女、もうひょっとしたら意識が戻っているのかも知れない。僕はその一部始終を遠くの方からやけに冷静に眺めていた。彼女と、そして付き添いとして坂井さんを運んだ救急車は去っていった。僕は静けさが戻った川岸に、再び歩き出す。川の中から這い上がった時に掴んだ草木は少し潰れている。その近くに夢乃さんが投げ捨てた紐も落ちていた。
僕はとんでも無いことをしたのだと一人になってふと思う。そしてこれこそが自殺未遂かと実感する。まるで別人のように、数分前の自分の行動が恐ろしくて堪らなくなる。どうして躊躇もせずに、彼女と入水したのだろうかと。僕はあまりの虚しさから精神的にきっと壊れていた。でも自殺未遂を経て、正常な自分へと戻った気がする。
次に夢乃さんに会うその時には、恋人になりたいと思った。
結局、彼女は数日間入院し、安静にすることになったらしい。おそらく彼女の両親もお見舞いには来るだろうし、自殺未遂をした事実を知られたく無いので、とりあえず彼女から連絡が来るまでは、会いに行かないことにした。
それまでの間、僕は何もなかったかのような顔をして新学期の大学へ登校した。相変わらず楽観的で、将来への希望に満ち溢れた同級生。でも心なしか、以前よりも彼らのことを青臭いとは思わなくなった気がする。僕だって単なる大学生、何にも深いことを気にすることなく、漠然とした夢を語り、将来性のない恋をしたって良い。そう思えるようになったのは、一度あの川の中で身体中、心も丸ごと洗い流されたからだと思う。
そして自宅で生活をし、彼女と出会ってから止まったままの自分の部屋を再生させる。久しぶりに掃除をし、積み重なった通販の段ボールもまとめて処分したりして、なんとか人を招けるレベルの整頓を施した。夢乃さんのマンションに比べたら、嫌になる程狭いけれど、次は僕の部屋で一緒に生活しようかなんて、妄想も少しした。
それから、実家の両親と電話もした。「変わらずやってるか?」という父の声に、なんの違和感もなく「うん。元気にやってる。」と僕は答える。僕が数日前に死にかけたということが嘘のように、両親と話すのが楽しかった。人が死なない限りはきっと地元にも帰らないなんて、前は思っていたけれど、今では両親に会いに行きたいとすら思う。
僕は明らかに自殺未遂を経て、変化した。やはり一度生と死の境目に立ち、そこから生き延びると、毎朝部屋に入り込む日差しや夜中に点滅する信号機、それから化粧水の僅かな香りなんかも貴重なものに見えてくる。親にだってもう二度と会えなかったかもしれない、そう思う度に、かろうじで死ななくてよかったという特殊な幸福感に包まれていた。
確かに変化した心を持ちながら、彼女からの連絡が届いたのはあの日から四日後だった。
「会いたいです。早くきてください。」
至ってシンプルな彼女のこんな言葉を僕はずっと待っていた。彼女もきっと同じように変化しているだろうということを信じて疑わなかった。「先天的な自殺願望なんてなかった」無邪気な笑顔でそう言う夢乃さんのことを本気で想像し、共に生き続けることを妄想する。まだ当たってもいない宝くじで何を買おうかと考えている時のようだった。
放課後に教えてもらった病院へ向かい、彼女が入院する三階の病室へと階段を駆け上がる。病院特有の香りが鼻につき、ビニール素材の床では滑りそうになった。
「失礼します。」
そして病室の扉をゆっくりと開く、その瞬間に僕の足はぴたりと止まる。僕の声に振り返るのは病室のベットの横で彼女に触れる押田さんだった。あの中華屋以来の再会に、僕は少しひよってしまう。あの人が彼女の一番近くにいることだけで、なんだか嫌な予感がしてしまう。
押田さんは自然に僕の名前を呼び、丸椅子を自分の隣に用意してくれて、僕はそれに座る。僕はすっかりと目を覚ました夢乃さんの様子をじっと見る。彼女はどのようにして生まれ変わったのか。それを知りたかった。けれども彼女は未だ無色でこれから色付けられるのを待っているような、そんな表情だった。
「私も事情は知っているので大丈夫です。」
押田さんは僕に小声でそう言う。
「そうですか。」
「一度外で話しませんか?色々、終人さんに聞きたいこともあるので。」
「そうですね。」
「じゃあ、ちょっとごめん。少しだけ話してくるね。」
「うん。わかったよ。」
夢乃さんに確認をとった後、二人で病室を出てロビーの角のベンチへ腰掛ける。
「私、本当に成功して欲しかったんです。」
「え?」
「まさか未遂に終わるなんて、残念ですよね。終人さんも。」
この人は自殺未遂をはっきりと失敗と捉える人なんだと改めて実感する。
「うん。まあはい。」
押田さんは真面目な顔をして、僕を憂いでくる。
「夢乃、終人さんと死ねると分かった瞬間に、もう用済みみたいな顔をして私のこと置いていって。ひどい話ですよね。もう彼の気が変わらないうちにって。終人さんのことになると強引なんです。」
彼女は笑い話として、自分が第二候補であることを恥ずかしげもなく話す。
「確かに強引でしたよね。」
「でも、君も死を厭わなくなって、そして二人が望むまま死ねたら全てが幸せだったわけじゃないですか。」
僕は否定も肯定もできぬまま、沈黙する。
「邪魔者っていますよね。綺麗事ばかり言って全てを台無しにする人。夢乃と終人さんの気持ちも考えずに、勝手に命を救った自分に価値を見出す人。」
あの日、水の中で坂井さんに助けてもらった右腕の感覚が、微かに蘇り痺れる。
「本当に、邪魔をするなって言ってやりたいです。どこの誰だか知らないですけど。」
僕はもう、押田さんの口を強引に塞いでやりたかった。どうして命を救った人間が救世主ではなく、邪魔者になってしまうのか。
「でも、僕たちを邪魔してやろうとか、きっとそう言うわけじゃなくて。ただ目の前の消えかけた命を守ろうとしてくれただけなんです。だから、どっちが正しいとかもなくて。」
「やっぱり優しいですね。こういう所が私が終人さんにずっと勝てない理由なのかもしれないです。」
僕が優しいんじゃない。ただ目の前の人間が、この世界からずれているのだと思う。そんな人間と会話していると、徐々に苛立ちが隠せなくなってくる。
「こんなこと言うのもなんですけど、君はもうちょっと生きる努力をしたらどうですか?」
「え?」
自動販売機で飲み物を買いに立ち上がる時に、つい本音が漏れ出てしまった。でももう口に出してしまえばどうでも良くなる。
「僕らよりも年下ですよね?死ぬ前にもっとたくさんやるべきことがあるんじゃないですか?」
「でも、終人さんだって結局は死のうと思ったわけですから。」
地味で飾り気の無い服を着る押田さんを見つめながら、この人の強烈な死への執着にどうしても抵抗感を抱く。
「それはもう、仕方なく。どうしようも無く悲しかったからそう思った訳で。夢乃さんだって少しは生き続けようと言う努力をしてくれましたよ。」
自動販売機のボタンを押し、音を立てて落下した冷たいお茶に手を伸ばす。
「大体、箱庭計画だって、彼女に生きてもらおうとするための計画だったのに。死ぬことしか考えていないような君が計画の邪魔をしたんです。」
坂井さんのことを邪魔者扱いされたことが、僕はどうしても許せなかったのかもしれない。ペットボトルのお茶を片手に、少し彼女と距離を開けてベンチに座り直す。
「でも、夢乃が私と初めて会った日になんて言ったか知ってますか?」
「知りません。」
彼女はそう言って不敵な笑みをこぼし出す。僕は必死で不安に駆られる気持ちを隠した。
「助けてくれてありがとう、ですよ。」
そう言われて、僕は恥ずかしくなるほどに、何も言えなくなってしまう。
「箱庭計画で、変わっていく自分の生活空間が嫌でたまらくなって。そんな夢乃を私は助けたんです。」
「違うでしょ。助けたんじゃなくて死に誘導しただけ。絶対に生きることが正しいはずなのに、死ぬことが救済になるって馬鹿みたいな事を言ってる。」
死にたい人がいたら、生かすことが「助ける」という事。死にたい人に、そのまま死を選ばせることは「破滅」になる。なのに、目の前の人間はさも救世主のような顔で僕に言葉を伝えてくる。
「終人さん、」
「なんですか?」
「本当は死にたいなんてちっとも思っていなかったんですね。」
僕の本心はあっさりと見破られた。でも、もはやそんな事はどうでも良かった。僕は別にこの人の為に、自殺未遂をした訳では無いから。
そして僕ら二人は少し距離を空けたまま、病室へと戻り、夢乃さんのそばに座り直す。僕は改めて彼女と話すのが怖かった。彼女は押田さんと一緒になると死に対する願望を恥ずかしげも無く語り出すからだ。二人が楽しげに話すタメ口も、僕にとってはまるで異国の言葉のように交わり難さを感じる。この三人の世界では僕がおかしいんだと無意識に突きつけられているような気持ちになる。
「そういえばさ、夢乃たちを助けた人はどこに行ったの?」
押田さんは窓の外を眺める夢乃さんにそう聞く。
「えっとね。」
彼女は少し眉間を寄せる。
「なんか、私が救ってあげました感が嫌だったから、帰ってもらった。」
「そうだよね。余計なことするなって話だよね。」
二人が目を合わせて頷き合う。そして押田さんの僅かな視線も感じとった。
「ねえ終人くん。」
そして夢乃さんは僕を手招きする。
「やっぱり君には生の香りが強すぎるのかもしれないですね。」
「そう、だから手を差し伸べてくる人がいるんですよ。」
続けて押田さんが皮肉じみた言い方をする。「生の香り」がどんなものなのか僕にはわからず、ただあの時濡れた僕らの手を握った坂井さんの表情が脳裏に浮かぶ。
「夢乃さん。」
「何ですか?」
「僕らはそれでも死の間際までは行ったと思うんですけど、どんな気分でしたか?」
ベットの上でまっさらな顔をして、寝そべったままの彼女にそう聞いてみる。
「うーん。でも幸せでした。もう一度君の姿を見るとは思わなかったけど。」
彼女は笑い「最高の夢の途中で叩き起こされたような気分」と付け加えた。その時点でもう自殺未遂を成功とは思っていないことをなんとなく悟ってしまう。
そして病院の窓から見える空は澱みつつ、湿気た匂いが届く。その数十秒後には溢れるように雨が降りしきった。徐々に濡らされていく周辺世界を僕らは傍観する。
「でも、あのまま死んでいたら川に流されて何処かに引っかかって止まって。今頃こんな雨に打たれてたかもしれない。そう思うと今生きてて良かったと思いませんか?」
僕は荒ぶる鼓動を抑えつつ、聞いた。自分でも諦めが悪いとは思っている。
「確かに、生きてて良かったと思います。」
病室には予想外の答えが放たれて、僕は驚くと同時に心の中で歓喜した。夢乃さんはその言葉と共に、いかにも自然な笑顔を見せる。押田さんは「え?」と思わず声に出し拍子抜けしたような表情をしている。
「本当に、、?」
「だって、もう一度死に直すことができるんだから。」
死に直すと言う奇妙な表現を夢乃さんはまるでありふれた言葉のように使う。
「うん、そうだね。今回は強引すぎたよねきっと。次はまた準備してさ。」
押田さんはまた余計な言葉を挟み込む。
「生き直す、、じゃ無いですか?」
僕は俯きながら、そう言葉にする。この世界に限っては異質な僕の言葉がまたもや病室に沈黙を作る。
「もう、そんなモタモタしてたら。今度は私が夢乃さんを取っちゃいますよ。」
押田さんのやけに陽気な声が響く。そして余裕そうに笑う。それがなんだか腹立たしかった。生に希望を抱く僕が嘲笑されているようだった。押田さんはいつまでも夢乃さんを僕に譲り続けるわけもなく、今すぐにでも僕を排除したがっている。
「ねえ、今日はもう帰りますね」
窓には水滴が付着するほどの雨だったが、それでもここから離れたいと思った。自分自身が異質だと感じるこの感覚。バイトの空間と似てしまっていた。
「あ、もう帰るんですか?私はもうちょっと居ようかな。」
押田さんは僕が帰るのを待ち望んでいた気がする。
「もうちょっと終人くんの顔を見ていたかったですけど。」
「退院したら、また会いましょう。」
彼女の甘い言葉を受け流して、僕は病室を出た。あまりに複雑な思いが心につまり切って苦しく、これからもうどうしたら良いのか分からなくなった。ただ、「夢乃さんは何一つとして生まれ変わってもいない。」それだけは確かだった。
病院の自動ドアの先では雨が降り頻る。僕はカバンの奥から折り畳み傘を取り出して外へと飛び出した。そして数歩、歩いた先で僕は立ち止まる。見つめる先、向こうのバス停に坂井さんの姿があった。
「あの日以来ですね。」
屋根付きのバス停の、ベンチの端に一人で座る坂井さんに僕は声をかけに行く。僕に気づいて彼女はふと自然な笑顔を見せる。
「今日、初めて彼女に会ってきました。」
「そうなんですね。どんなことを話したんですか?」
「今生きてて良かったって言ってくれたんです。でもそれはこれから生き続けていくという意味ではなくて、もう一度自殺するチャンスがあるっていうことですけど。」
傘の持ち手部分を握る力が徐々に強くなりつつ、視線は地面の水溜まりへと移っていく。
「でも、、なんだか生きてて良かったと言う言葉だけは嬉しかったんです。」
坂井さんはベンチの自分の隣にポンポンと触れ、僕はそこに座る。
「確かに言ってました。次はあなたみたいな人に邪魔されないように死ぬからって。」
「夢乃さんが、、?」
坂井さんが「はい。」と頷くと共に、夢乃さんがそんな酷いことを言った事実を認めたくないと言う強い思いが生まれる。
「そんなこと平気で言ってしまう彼女は嫌いなんです。押田さんって分かりますか?あの人は彼女といつでも死ぬ覚悟ができているよく分からない人なんですけど。押田さんが側にいる時、二人ともが自殺願望を持つ自分達が正常みたいに振る舞うんです。」
「こちら側がおかしいみたいなスタンスですよね。」
僕は彼女らの異常性を共感してくれる存在に心底、安心する。
「そうです、僕らが変わったら良いって。押田さんは特にそう言うんですよ。でも僕達の方が正しいに決まっているじゃ無いですか。」
「命を救った人に、邪魔者なんて言われる筋合いないですよね。」
「本当に、そう思います。」
僕は自分が正常だと思い直すために、必死になって言葉を交換し合う。屋根に当たる雨音は一層強くなり、なんだか自分の心が浄化されているような気分になる。
「でも、二人でいる時には夢乃さんはそんな感じでは無いんです。自分が死にたいことも最初は隠していたし、何よりも自分は異常なんだってことも自覚していて。だからこそ僕は彼女と一緒に生きていたいと思えたわけだし。」
「青山さんはあの時、最初から死ぬ気なかったんですか?」
坂井さんにはしっかりと正直なことを伝えるべきだと思い、打ち明けることにした。
「一度自殺未遂したら、生まれ変わったように彼女の死にたい気持ちがなくなるんじゃなかって本気で思って。だから本当に身勝手ですけど、最初から坂井さんに助けてもらう前提で、入水しました。」
「そうだったんですね。」
坂井さんはあの時の様子を思い出すように、遠くの澱みきった空を眺めた。
「確かに死にたいと思ったわけではなかったです。でも死ぬ可能性を考えれないほど、異常でした。だから僕はもう坂井さんを救世主そのものだと思ってます。彼女にもそんな風に思ってもらいたかったんですけど。」
「青山さんは普通に生きていれば幸せになれる人なので。そんなに全てを捧げなくて良いと思いますよ。」
「そう言うことも、やっと今になって分かってきたような気もしていて。」
自殺未遂を経ても、彼女の本質になんの変化も無かったことで、とうとう彼女を生かし続けるという情熱が冷めてしまった感覚が確かにする。
「私が夢乃さんの代わりになるとか、そんなこと言えたら良かったんですけど。」
坂井さんは零すようにそう言い、その言葉に僕の心臓は過敏に反応する。
「私が青山さんとどっかに行ってしまったら、夢乃さんに呪われてしまう気がするんですよね。どこまでお前は邪魔をするんだって。」
「でも、僕だってきっと。押田さんに邪魔をされて、そのうち夢乃さんを奪われるんです。」
夢乃さんはきっと僕ではなく、押田さんと一緒に居る方が生きやすい。そして同時に僕も坂井さんと一緒にいる方が自分自身が正常でいられる。
「だから、、もう少しだけ僕と会ってください。夢乃さんとはもう生きれないと思うので。」
「もちろん、いつだって会うことはできます。」
そう口にした時に、大量の雨水を被ったバスが到着した。坂井さんは立ち上がってバスに乗り込もうとする。僕は少し弱まった雨の中、傘を差してバス停から離れる。
「箱庭日記、できたら続けてください。」
最後に坂井さんはそう言った。僕はそれに曖昧な返答をした。彼女を乗せたバスは大通りへと右折していく。ただなんとなく、僕もそのバスに乗れば良かったと思う。
自殺願望を捨てきれない夢乃さんと生き続けることが僕にとっての夢だとしたら、坂井さんに心を寄せたりすることが明らかに現実的だと思った。死にたいと、常日頃から思い続ける人間と生活し続けることは、自分の精神や身体そのものをすり減らすものだと今更になって思う。自殺未遂を行うに至った自分自身がその何よりの証拠だった。
夢乃さんの代わりとして、坂井さんと一緒に生活しようなんて言わない。それだったら心中相手の第二希望を立てる夢乃さんと同じようなことになってしまう。ただ、僕らは正しいんだと思いたい。そのために、心で繋がっていたいと思う。届かぬ夢を追いかけたまま、現実を喪失することがないように、僕は心で願った。歩き出すと、止みかけた雨が再び降りしきり、現実世界を濡らしてゆく。
彼女が入院して三日目に僕はお見舞いに行ってから、退院するまでの二日間は病院に訪れなかった。僕が来なくなった分、きっと押田さんが病室を独占しているのだと思う。
彼女が入院している病院は、大学から自宅へ戻る時の電車内で窓の向こうにちょうど現れる。外から見える病室の沢山の窓、それぞれが僕には世界のように見える。彼女の病室もまた一つの世界になる。自殺願望を正常とするための、夢乃さんと押田さんだけの仮設世界がそこにはある。構成員はただ二人だけ。僕にはその世界に居座る権利がない。電車の窓の奥に別の景色が映るまでの数秒間で、そんな虚しさを抱く。
けれども、だからこそ僕はもう、彼女と同じ世界には生きてないんだと思う。彼女が仮設世界で生き続けるのならば、僕は現実世界で生きるしかない。彼女はいないけれど、どうせいつかは仮設世界そのものが消滅してしまうのだと、僕は悟った。
「結婚式場で働こうと思った動機を聞いても良いですか?」
広いバックヤードにはスタッフの制服がハンガーラックにずらりと並び、結婚式で使いそうな造花も段ボールいっぱいに詰められていた。
「人の幸せな瞬間に関わりたいって、何となくですけど思ったからです。」
「まあそうだよね、それが一番ですよね。」
採用担当の西野さんは四十代くらいの女性で、そう言いながら優しく笑った。
「ちなみに、接客業とかの経験はありますか?」
「ファミレスでバイトしていたので、多少はあります。」
「分かると思いますけど、接客については相当厳しいのでね。」
僕は深く頷く。結婚式という幸せな空間を作り上げるために、どれほど接客態度の気を使わなくてはいけないのかは想像がつく。
「うん、まあ面接はこんなところで。合否に関してはまた電話します。でも青山君はちゃんとやってくれそうなので、多分採用にはなると思いますよ。」
「ありがとうございます。」
そうして軽くお辞儀をする。面接の帰り際にすれ違う従業員たちは誰もが幸せな光を浴びたように、その表情が煌めいて見えた。
結婚式場で新たなバイトを始めようと思ったのは、ちょうど夢乃さんが退院した時だった。彼女のいない現実世界で生きることは味気なく、やっぱり満たされない物だと思っていた。だからこそ、この世界の中で一番幸せな結婚式という瞬間に触れたいと思うようになった。果てしない幸福感に包まれるような、この現実世界の美しさを僕はどうしても実感したい。だから、どうやらその願望が叶いそうだったことが素直に嬉しかった。
一方で、夢乃さんは一週間ほどの入院期間が終わり、退院してからは自分の家ではなく押田さんの家へと移り住んでいた。同時に自殺願望を美徳とする仮設世界も、病室から押田さんの家に移った。彼女からの連絡も来ずに、何をしているのかも分からない。
そんな状況を僕は受け入れたはずなのに、夜の淵に身を置くといかにも沈んでしまいそうな気持ちになる。そして現実は辛いところだと感じる。だからこそ、僕は他人の多大な幸せを体感したいんだと思う。
そして面接から数日後には正式に採用の電話が届き、結婚式場のスタッフとして働けることが決まった。ファミレスでのバイトを辞めて、その後箱庭計画に夢中になった一ヶ月半を挟んでようやく、これが新たなスタートなんだと気持ちは自然と高まった。
結婚式場での初出勤の日、パリッとしたシャツ、ベスト、パンツなどの制服一式を受け取った。更衣室でそれに着替えた後、久しぶりに革靴を履き、全身鏡で髪型から全ての身だしなみを整えることを求められる。額を露わにする髪型に若干戸惑いつつも、他人の幸せを作り上げる人間として、自分自身を仕上げてゆく。
そしてなんとか身だしなみを整え終わると、面接も担当してくれた西野さんに館内の案内をしてもらった。新郎新婦の控室、あと親族の控室はそれぞれ白を基調とした小さな部屋で汚れの一つもない鏡に、緊張した面持ちの自分の顔が映り込む。
それから披露宴会場を見て回った後に、西野さんが重厚な木製の両開き扉をゆっくりと開くとその奥にはチャペルが広がっていた。光を反射する大理石のバージンロードが真っ直ぐと伸び、天井は開放感のある吹き抜けで僅かな声もふわりと残響する。そして祭壇の奥は一面ガラス張りになっていて風で揺れる外の木立が見える。
「凄い、、ですね。」
僕は自然とそう口にする。
「結婚式には出席したことあるの?」
「一度もないんです。だからビックリするくらい真っ白だなと。」
西野さんは口元を抑えながら笑った。その笑い方すらも上品だと思った。
「まずはこの場所に適した礼儀作法を身体に叩き込むことだね。」
その言葉通り、館内の案内が終わった後はひたすらに礼儀作法を教わる時間が続いた。まずは挨拶から始まり、立ち姿勢や言葉遣い。またそれぞれのシーンに適したお辞儀の仕方をマンツーマンで指導されて、やりながらも稽古のようだなと思った。マニュアル化された言葉遣い、身体の動かし方、表情の作り方。その全てが新鮮だった。
結局初日は礼儀作法を教わってそのまま夜になった。帰り際に西野さんは今後のスケジュールについて説明してくれた。まず今日と明日と明後日の三日間で基本的な礼儀作法をマスターし、週末に控えた結婚式で実際の雰囲気を働きながら体感するのだと言う。今日一日だけで身体中には緊張からくる疲労感が募り、革靴を履いた足先が痛む。ただこの結婚式場では異物にならぬよう、意欲を持って研修を受けようと思った。
表参道の結婚式場から帰路の途中には無意識にも携帯の通知を何回も確認してしまった。僕は誰からの連絡を待っているのか、それが自分でも分からない。ふとこうして一人になると今でも現実世界と仮設世界の間でゆらゆらと揺れているのだと思う。自殺未遂を成功させる前の、夢乃さんと料理を作ったこととか、窪地の池でゆっくりと時間を過ごしたことがじんわりと蘇ってくる。ただ「もう一度死に直せる」なんて歪んだ言葉も同時に再生される。
一人でスーパーの惣菜を夕食にしながら、連絡の来ない携帯をベットの奥へ放り投げる。彼女もきっと、僕と生きることがあまりに非効率だと気がついたんだろう。
そして二日目も同じようにただひたすらに同じ作法を反復し、喋りたての幼児のように言われた言葉を繰り返し声に出す。よくもまあこんなにも僕一人のために、時間を費やしてくれるなと感心しつつも、こうでもしないと結婚式を成り立たせる人間にはなれないのだと思った。西野さんはお辞儀の角度や言葉遣いのちょっとした誤りに気づき、その都度僕に微細な修正をする。
最後の三日目には西野さんとその他の社員や、それから数人の従業員の前で、礼儀作法の研修の成果を見せるという僕にとっては非常に苦しい時間があった。それぞれの人に面接官のような顔をされながら、自分のわざとらしく作ったような声が響く。僕はこの人たちから見て、幸せの場に似合う人間になれたのかと、そう思いながら棒のような身体を折り曲げる。
「うん、まあ上手にできてますね。」
見知らぬ社員は僕にそう言い、他の人たちも「全然悪くないね。」と口にする。
何がどう上手に出来ているかも分からず「ありがとうございます。」と何となく言う。そして、とにかくこの時間が終わったことに安堵した。
「なんか青山くんは本当に自然な笑顔だね。」
でもその中で西野さんの言葉だけがしっとりと心に残り、表情が自然と綻んでゆく。相手の目には僕がどう映っているのかは、自分自身には分からない。どんなものを自然と呼ぶのかも分からない。だからこそ、他人から言ってもらうしか方法はない。
「じゃあ青山くんには今週末から本格的に頑張ってもらいましょう。」
社員の言葉と共に、皆の拍手で僕は受け入れられる。ファミレスから追い出されて、夢乃さんと二人だけの狭い世界を生きて、自殺未遂をして。そうではなくて最初からこうしておけば良かったんだとその瞬間に思った。
大通り沿いの上品な光を浴びながら歩道橋を渡る。もうすっかりと涼しくなった夜風は心地いい。そして歩道橋のちょうど真ん中でふと立ち止まり、湾曲しながら伸びてゆく幹線道路を見つめる。
前にはこんなこと思わなかったけれど、今の僕は「東京で生きているんだ」と実感して誇らしい気持ちだった。
そうして何台もの車が通過した時にポケットのスマホから通知音がした。何かと思って確認すると、それは箱庭計画のコメントだった。
「この人たちどうしたんだろう本当に。心配すぎる。」
「彼女さん、ひょっとしたら、、なんて考えたくもないけど。」
そんなコメントを目にして、僕自身もこの数日はすっかりと忘れていた未完成の計画を思い出すと同時に、参加者に対する申し訳ない気持ちが募った。だからこの歩道橋から見える夜の風景をスマホで撮影した。
「【10月1日】半月ほど箱庭計画が止まっている現状を説明しなかったこと、本当に申し訳ありません。参加者の皆様には多大な不安を与えてしまったと痛感しています。
まず第一に、彼女は生きています。いや、生きていると思います。なぜ言い切れないかと言うと、僕らは今一緒には生きていないからです。理由としては彼女と生活することが限界だったわけではなく、静かな分岐と言うか、離れた方がお互い生きやすいんだと思うようになったからです。そもそも彼女とは生と死に関する考え方も、明日への捉え方も、全く異なるので、違う世界の人とたまたま出会ったようなものかも知れません。
彼女のことはもう、このまま忘れていくのかもしれないとこの数日は思いましたけど、この箱庭日記を振り返ってしまえば、そうもいかない気がしています。」
僕はそう打ち込んで再び歩き出す。この言葉は参加者にはもちろん、夢乃さんにも送ったつもりでいる。彼女が有料日記を更新してくれることを僕は願う。会えないとしてもどこかで繋がっていたいとやっぱり思う。彼女がどこで何をしているのか、それを気にする時間は確かに減ったけど、それでも知らぬままに彼女が死んでしまうこと。やっぱりそれだけがどうしても受け入れられない。
一九時を回り、やってきた空腹感と共に毎日の質素な夜ご飯を思い出す。道路脇に立ち並ぶ飲食店を見ながら、今日くらいは誰かと一緒に食べたいと思う。栞書店も一九時に閉店することだし坂井さんを誘ってみようかなんて思い、スマホを手にした瞬間、聞き慣れた通知音が再び鳴る。通知バナーの「10月1日」という単語を目にすると、僕の神経は全て携帯の画面へと持っていかれる。
「【10月1日】箱庭計画のために捧げた時間やお金を全て返したいという気持ちでいっぱいです。結局死にたい気持ちを無くせないまま、静かに生きています。
彼と一緒に生活しなくなったことも、私が嫌になって離れたとかそういう訳ではなく、ただ単純に、もう何も求めたくないという申し訳なさが根底にあります。きっと彼は永続的に私に手を差し伸べてしまうと思うので、そうならない為に静かにゆっくりと離れていくんです。
私みたいな人はこの世界で普通に生きる資格もなく、ただ分かち合える自分と同じ異常な人と明日を迎えることになります。そんな日々がいつまで続くかは私にも分かりません。」
一度辞めかけたギャンブルに、もう一度足を踏み入れてしまうような。タバコの煙に咽せながらも、次のひと吸いを求めてしまうような。つまり忘れかけた彼女にもう一度会ってしまいたいと思った。やっぱり僕の意志が嫌になる程弱いのか、それとも彼女の存在があまりにも特異だからか。それを考える隙もなく、僕は駆けて行く。
「ねえ、どうして私に会ってくれたんですか?」
紺色のパーカのフードを被ったまま、夢乃さんは自信なさげにそう言う。
「箱庭計画をやっていた時が恋しくなったからですかね。」
「そうですか。」
窪地の街、さらに静かな池の前で僕らは会話する。僕が電話で「少しだけ会いたい」と伝えると彼女は二つ返事で快諾してくれた。
「今はどんな感じで生きているんですか?」
彼女にそう聞きながら、風で揺れる水面に目をやる。
「何だか詩乃と恋人みたいになっちゃいました。」
「え?」
やや頬を赤らめながら、そんな事を口にする彼女に少し驚く。
「本当に分かち合える人が詩乃しかいないんですから。」
「確かに、押田さんと一緒にいる時の君は別人みたいでしたもんね。」
「はい。」とうっすらと恥ずかしげな表情をしながら答える彼女は恋をする人間そのものだった。
「終人君は?」
「僕は最近、結婚式場でバイトを始めて、どうせ働かなくてはいけないんなら他人の幸せな瞬間に立ち会いたいって思うようになって。」
「結婚式場か、、」
今日も、不慣れな礼儀作法を叩き込んだ身体には疲労感が募る。
「やっぱり君はそんな場所で働くのがきっと似合いますよね。詩乃も言ってました。終人君、本当は死ぬつもりではなかったって。」
「いや、、それは。」
押田さんに見破られたら、それが夢乃さんにも伝わることは想定できたはずなのに、いざそう言われると言葉に詰まる。
「私に合わせてくれたんですよね。私は君と死ねるのが本当に嬉しくてたまらなかったですけど、どうして君の本当の気持ちに気づけなかったのかなって、、」
「でもそれはきっと僕も同じで。箱庭計画が嫌だった君の本心を気付けなかったんですから。」
相手の本心には気付かずに、一人で舞い上がっていたのは僕も彼女も同じだと思う。
「だから僕らは最初から違う世界を生きているんですよね。」
「違う世界、、」
彼女はそっと呟く。
「死とか、愛情とか、明日に関する考え方も僕と君とでは全く違う。でもどっちが正しいとかじゃなくてただ世界が二つあるだけ。君の世界では、自殺願望を抱くことが普通なのかもしれない。僕の世界では自殺願望が発作的に起こるって捉えるけど、君の方ではそもそも「死にたい」と思うことが正常で、「生きたい」と思うことが発作なのかもしれないです。」
「どっちも間違いではないんですか?」
「そうです、きっと他にも世界なんて数えきれないくらいあると思います。」
彼女とのどうしても相容れない価値観の違いは、こう捉えることでしか消化できないのだと思う。
「じゃあ今、こうして君と一緒にいる空間は何ていうんでしょう。」
彼女のフードが風でめくれて、さらりとした前髪が露わになる。
「僕の世界にも、夢乃さんの世界にも「現実」があると思うんです。僕にとっては結婚式場でバイトしたりすることだし、君にとっては押田さんと死ぬことが「現実」ですよね。」
「そうですね。」
「でも僕は本当は君とずっと生き続けたかったんです。君もあわよくば僕と死にたかったんですよね。でもそれはあまりに現実的じゃなくて、ただの「夢」に過ぎないんです。」
彼女はゆっくりと頷く。そうしてもう一度フードを被り直す。
「だから生き続けるでも死ぬ訳でもなく、ただ流れる時間を過ごしている僕たちは今。夢と現実の間にいるんだと思います。」
彼女にこういう事を言おうと、最初から思っていた訳ではない。ただ、現実を美化しようとする本能が勝手に言葉を紡いだんだと思う。
「現実にはあんまり良くない事だって起こります。だから夢と現実の間でたまには会って、自分が生きる世界の愚痴を言いましょう。」
「はい。」
結局何の為に、夢乃さんと会ったのかも分からない。僕はどんな言い訳をしてでも、とにかく彼女に会い続けたいんだと実感した。
そしてちょうどその時、二人のお腹が同時に鳴って、自然と笑い合った。けれども二人でどこかへ食べに行くこともせず、そっと別れる。夢と現実の間にいるには、きっと制限時間が存在する。
その後、坂井さんを誘って、夜カフェでご飯を済ませた。坂井さんも久しぶりに更新された箱庭計画の日記に目を通してくれたようだった。
「あのまま箱庭計画が更新されなかったら、それこそもうSNSで拡散されていたと思いますよ。青山さんたちが生きてるのかとか考察する人がいっぱい生まれて。」
坂井さんはグラタンを頬張りながら、そう言った。
「確かにそうですよね、でも。なんか彼女を見捨てたって思われないかなって少し心配なんです。違う世界に住んでいて、もうどうしようもないとは思うんですけど。」
「仮にそう思う人がいたとしても、私たちにとって見捨てることが夢乃さんにとっては優しさになるんじゃないですか?まあ私は絶対に見捨てたなんて言葉は使わないですけどね。」
そう言われると少し心は軽くなり、坂井さんのグラタンを一口貰った。熱が舌を包んだ後に、チーズがゆっくりと溶けてゆく。彼女とは年齢も違うのに、自然とこんなことが出来る。きっとそのうち敬語でもなくなると思う。坂井さんは先ほど僕に付着した死の香りを洗い流してくれる。
結婚式が行われる土曜日は朝からしとしとと雨が降っていた。午前中からチャペルに大量の造花を並べたり、あらかじめ披露宴会場でもテーブルクロスやナプキンを整えたり、従業員は皆テキパキと動いていた。僕も分からないなりにも飛び交う指示に従って準備を進めた。
そしてお昼くらいになると新郎新婦がやってきて、メイクやらの前に一度チャペルでリハーサルを行っていた。入場の際にかける音楽の音量や、式全体の進行を確認する。新郎新婦がわずかな立ち位置やスポットライトの違いを従業員に伝えているところを見ると、幸せを作るための本気さに、緊張感が込め上げてくる。
「挙式の最中は、僕は何か業務があるんですか?」
僕は緊張で肩に力が入ったままで、西野さんに質問する。
「ううん、挙式の間は見守って拍手するだけ。青山くんが頑張ってもらうのは披露宴だね。料理を運んだり、まあ後片付けをやったりね。」
「そうなんですか。」
ただ料理を運ぶだけでも、その料理一つ一つにはファミレスとは比べ物にならないほどのお金が掛かっている。そうして不安がっていると西野さんは「不安が顔に出てる」と笑った。
その後、新郎新婦のゲストが続々と結婚式場へ入場し、受付を済ませる。スパンコールが散らされたドレスや、濃紺のスーツを身に纏った人たちは祝儀を片手に談笑する。これだけの人間を集めることは、きっと僕にはできないと側から見ていて思う。仮に数人しか呼べなかったらどうするのだろうと勝手に想像するけれど、そんなに人望のない人は最初からこんな洒落た場所で結婚式なんて挙げないんだと思った。
「まもなく挙式を開始いたします。」
すぐにチャペルの長椅子は満席となり、ゲストは息を整える静かな空間に、アナウンスは流れる。僕は隅っこで直立し、始まりの瞬間を待っている。
扉の奥から微かに布が擦れる音がする。そしてオルガニストの指先が鍵盤に触れて、音を奏で始める。扉がゆっくりと開き、温もりのある拍手と共に新郎が入場する。流れるメロディーは吹き抜けの天井いっぱいに響き渡り、それに混ざった新郎の革靴の足音が印象的に耳に残る。
そして続いて入場した新婦と父親は扉が開いた瞬間に、涙がこぼれ、歩き出せなくなっている。そんな姿に幸せに包まれた笑い声が響き、感情を揺らしてゆく。僕の目の前で幸せの正解が形作られる。何だか、ショーの観客のような気持ちで、移りゆく他人の表情を眺めている。チャペルはまるで舞台の上のよう、そこに一つの愛がある。外の雨脚は強まり、木々も揺れるが、誰もそんなことに気づかない。
「てか、すごい雨。」
挙式が終わり、チャペルから出た後に、他のスタッフはそれに気がつく。
「青山くんは結婚式自体初めて見たんでしょ?どうだった?」
三十歳位の男性スタッフが襟を直しながら、聞いてくる。
「ショーを鑑賞しているみたいでした。」
僕は抱いた感情をそのまま正直に伝える。するとその人は「珍しい感想だな。」と笑った。
「でも、あの夫婦相当厄介だったらしいよ。」
「え?」
チャペルの中で感じた多幸感の余韻がまだ残っていた僕はその言葉に戸惑った。
「指定された予算がそもそも低かったらしいんだけど、その予算ではできないことも何とかしてやれって言ってきたり、結婚式にはいろんなオプションがあるわけじゃん?それを値下げしろとかね。そう言う人たちモンスターカップルってうちでは言ってんだけどさ。」
「そんな風には見えなかったのに。」
「結婚式を作品みたいに。幸せを作るものだと捉えている人なんだよ。だから従業員にも横柄になるし。」
名前も知らないその人の言葉がやけに印象に残る。自然発生ではなく、作られた幸せを見ていたのだとしたら、まさしくそれは結婚式という名の演目を鑑賞したんだと思う。
「幸せを作るのに、必死なんですね。」
「本人たちは勿論そうだけど。周りの人たちも。なんか違和感あるんだよな。」
その人は首を傾げて、そう言い残したまま披露宴会場へと駆けてゆく。単純に幸せだと思った挙式に彼がどんな違和感を抱えていたのか、分からぬまま僕も準備へと向かった。
「新婦にインスタグラムを始めればいいと助言したのは、実は私なんです。中学時代から華やかで、みんなの憧れの存在だった彼女なら絶対に有名になる未来が読めまして。」
披露宴は始まり、新婦の友人がスピーチを行っている。どうやら新郎新婦はそこそこ知名度のあるインスタグラマーとして自身の日常を投稿して、それで生計を立てているようだという事を知った。
「それが今ではフォロワーも十万人を超える大人気インスタグラマーですよ。お二人みたいな存在は本当に憧れです。」
披露宴会場に集まったゲストは皆、その言葉に頷きながら、新郎新婦を囲む。その最中、僕はそれぞれのテーブルへと料理を運んでゆく。
「お二人の投稿は、そのどれもが光に包まれているように綺麗で。それを見ているだけで自分の毎日も少しずつ満たされてゆくんです。」
友人代表としてスピーチを行うその女性は、まるで夢でも見ているかのような様子で、話し続ける。
「ああ言う人たちって、やっぱりとんでもないくらい稼いでんだろうね。」
そして、近くのテーブルからはそんなヒソヒソ話が聞こえる。羨むほどに儲けていたら結婚式のプランに値下げを要求するはずないんだから、きっとそれほどでもないんだろうと思う。
「でもそれはきっと私だけではなく、ここにいる全員。そして十万人。誰もが二人の幸せに感化されているんです。だからこれからもずっと、ずっと幸せ者でいてね。」
そんな友人の言葉に二人は笑う、まるで根っからの幸せ者のように。
スピーチが終わった後も僕は丁寧に料理を運び、新しいワインも注ぐ。僕が手にしている赤ワインも、テーブルに彩られた装花も、高価なのか、それとも安価なのか、僕には分からない。
「身近な人でさ、こんな良い場所で結婚式あげてる人居ないからさ、こんな高そうなワインも普通に出てくるんだね。なんか凄いわ。」
でも、ゲストたちはそんなことを口にする。もしも予算を削るために、このワインが安物だったとしたら、この人たちは何と言うんだろうとふと思う。
そんな事を考えていると披露宴の司会者の「ここで一旦お色直しのため、中座いたします。」という声が響き、照明は少し明るくなって、ゲストは拍手をしながら新郎新婦を見送る。
そして十数分して、照明は再び落ちる。「お待たせしました。お色直しをされたお二人のご入場です。」とアナウンスされて、静かに扉は開く。スポットライトに照らされながら、二人は火を灯したトーチを持ってキャンドルサービスが始まる。テーブルを一つずつ回っていき、その度に歓声が上がる。僕は出口から遠いテーブルの近くで静止し、その様子を眺めている。そして二人を照らすスポットライトが僕の方に近づいた時。
「邪魔。もっと離れて。」
新婦に睨まれながら、そう吐き捨てられた。僕は即座に「すみません」と謝りながら、壁際へと離れる。そのテーブルに座っているゲストにも確実に聞こえるような言い方に鼓動は荒ぶり、表情が強張ってしまう。
「はーい、じゃあ撮るよー。」
テーブルの中央のキャンドルに火を灯しながら、新郎新婦は写真を撮影する。数十秒前のあまりに冷たい言葉を誰もが聞いたはずなのに、何事もなかったかのような満面の笑みが作られる。写真に限ってはきっと、疑いようもなく幸せそうな二人。
本当はそれほどの経済力も無く、他人に刺々しい言葉をぶつけるモンスターカップル。結局、表面的な幸せとはそんなものかと思う。
そんな裏の顔に気づかずに、いやひょっとすれば気づいても尚、二人を幸せの象徴かのように崇めるゲストたち。今日の作られた幸せに感化されて、明日からもインスタの投稿を隈なくチェックして、自分の日常に幸せの代替を送り込む。「まるでカルトみたい。」だと、テーブルの上でゆらゆらと揺れるキャンドルの火を見て思った。
結婚式が終わってからの帰り道、「こんな気持ちを吐き出す為」だと自分に言い聞かせながら、夢乃さんの家へと身体は向かっていた。僕らが作った箱庭は、今では夢と現実の間の空間として、しっとりと意味を孕みながら存在している。
「ここで君と会うのは物凄い久しぶりな気がしますね。」
彼女は変わらない箱庭の真ん中でそっと言葉を落とす。確かに、最後にここで会ってから自殺未遂というあまりに大きな出来事を経験したから、それ以前が遠い昔のように感じる。
「僕もまたここで会うことなんて無いだろうと思っていたんですけど。やっぱり、僕が生きる現実世界の愚痴を君に言いたくなって。」
「たくさん話してください。」
夢と現実の間。僕が生きる世界と彼女が生きる世界の隙間。箱庭はそんな名も無い空間となり、僕らはそこで言葉を交換する。
「今日、十万人のフォロワーがいるインスタグラマーの結婚式があったんです。そんな人たちの結婚式って疑いようもなく幸せだと思うじゃ無いですか。でも、妬みとかでは無くて本当に、ただ必死になって幸せを作り上げていただけだったんです。」
「どうしてそう思ったんですか?」
彼女は不思議そうな顔をしながら、そう聞く。
「とにかく余裕が無くて。写真っていうたった一方向からは幸せに見えるんですけど、僕たち従業員に対する態度なんて最悪だったし。幸せを演出するのに疲れてイライラしてたんですよ、きっとね。」
「それは嫌ですね。」
「でもそんな人たちにも十万人のフォロワーがいて。必死になってそれっぽく見せた幸せを投稿してお金を稼いでいるんです。だからそんなのインチキな商品を信者に売りつけるカルトみたいなもんだと思って。」
とにかく溜まった陰鬱な気持ちを自然に吐き出す。彼女には僕の言っていることがそれほど伝わらないかもしれないがそれでもいい。言葉にするだけで僕の心が軽くなってゆく。
「そんな事があったんですね。でも、私も最近嫌だった事がありました。」
「聞かせてください。」
そして夢乃さんも、自分の世界の愚痴を吐露する。
「詞乃がね、最近私たちみたいに自殺願望を抱えた同志を増やしてもっと大きなコミュニティを作りたいって言うんですよ。でも、そんなの気持ち悪いでしょ?」
彼女はカーテンの隙間の窓の向こうを眺めながらそう言う。
「じゃあ死ぬときは何十人も一緒になって死ぬのかって。そんなの何かしらのテロみたいで、嫌なんです。静かに誰にも見られずに死ぬのが美しいのに。」
「やっぱり、それぞれの世界には嫌な部分もありますね。」
僕は今更彼女の自殺願望に口出ししようとは微塵も思わない。
「君の生きてる世界の一部分に、私たちの世界があるんですよ。あの世界で一番小さいバチカン市国みたいな感じで。」
どれだけ小さくても、どれだけ異常でも、その空間もまた世界であることは間違いない。
「でも、お互いの世界を行き来して、お互いの夢に近づきましたよね。箱庭計画で一緒に生き続けると思えた時間は僕の夢。川の中で死にかけた瞬間は君の夢。」
「確かに、夢みたいでしたね。」
そして次第にお互いの夢は遠ざかり、自分の世界で現実的な生き方を模索している。
「ずっとこうしては居られないんでしょうね。夢と現実の間では生きられないんですかね。」
彼女は僕の目を見つめながら、そして微笑みながらそう言う。
「多分ですけど、誰かが現実に引き戻しますよ。さっさと戻ってこいって。」
「そうですよね。」
初めから僕らは別々の世界を生きていた。その隙間で偶然出会っただけなんだと思う。だからこそ完全には心が結びつかないし、いつまでも不自然なほどに敬語だけが飛び交っている。
「それに、夢か現実か。どっちかを選ばないとやっぱり自分が保てないんだと思うんです。僕が死ぬ一歩手前まで行くほどおかしくなったのは、君と生きたいという夢も、君から離れるという現実も、その両方を失ってしまったからなんです。」
「きっと、そうですね。」
見知らぬ誰かからの贈り物で溢れた箱庭は、徐々に色褪せる。
「じゃあ、僕明日も早いので帰りますね。いきなり家に押し掛けっちゃってごめんなさい。」
「いやいや、またいつでも会いに来てください。」
彼女はそう優しく言って、僕を玄関先まで見送ってくれる。ややしっとりとした足音も、真っ白な肌も、繊細で壊れそうな笑顔も、その全てが愛おしいといつまでも思ってしまう。
「じゃあ、また。」
「うん。また会いましょう。」
彼女の家を出る時、誰かに押し出されているような気分になる。僕はまた現実世界で息をする。
木々の葉が赤く染まり、徐々にそれが地面へと舞い落ちてくる。十月が半ばに差し掛かった頃、僕は結婚式場でのバイトに加えて栞書店でも働けることになった。結婚式場ではそれほど長時間の労働もできないので、経済的にしんどくなった時に坂井さんが誘ってくれた。
客はそれほど来店せず、業務と言えば本棚を整理して、買い取った新しい本を並べるくらいだった。暇な時間は、ここが自分達の部屋かのようにくつろぎ、古本の乾いた紙の匂いを嗅ぎながら談笑する。
「終人くん、あの時死ななくて本当に良かったよね。」と笑いながら冗談のように彼女は言うようになった。二人で会話する空間に敬語はなくなり、順調に僕らの距離感は近くなっていった。恥じらいを捨てれば、僕はもうとっくに坂井さんに恋をしていた。
そんな想いを寄せる女性と関わりながら、大学にもちゃんと登校し、たまには両親と電話をした。そして週末には結婚式場で他人の幸せを浴びる。ほんの数ヶ月前までの生活が嘘のように一変し、それに身体も慣れていた。
しかし、それでも一、二週間に一度は夢乃さんに会っていた。この世界の愚痴なんて、例えば結婚式場でお皿を片付けるタイミングを注意された事とか、大学の授業がつまらないだとか、凄くしょうもないものだったけど、箱庭で彼女に語った。
「終人くんと一緒にいることを詞乃が知ったら、きっと嫌がって、すぐにでも私をここから引き摺り出すと思うんです。」
と彼女は前に会った時に笑いながら言っていた。それに対して「僕もきっと、そうなってしまいます。」と答えた。すると彼女は
「君をここから引き離すのは誰なんですか?」
と聞いてきた。坂井さんとのことを伝えるべきか否かで僕は迷った。だから返答できないままで、ただ瞬きをした。
「まあ、終人くんにも大切な人がいるって事ですね。」
「そう、、ですね。」
夢乃さんは僕の気持ちを汲み取ってくれて、優しく誤魔化してくれた。
「それなら、本当に良かった。」
「どうしてですか?」
彼女は安堵するような表情で、僕の手をそっと握る。
「自意識過剰だろって思われるかもですけど、大切な人がいるなら私が死んでも、すぐに忘れられるかなって。」
猛烈に、悲しい言葉が箱庭の空気を変化させる。でも、これは僕が選んだ事だった。そのうち必ず心中をする彼女と無関係になるのではなく、それでも確かに繋がり合い続けるという選択。
「自意識過剰かも、、ですね。」
自分がどれだけ自然に笑えていたか分からなかったけど、視界は歪む事なく、真っ直ぐと彼女を見ていた。こんな気持ちになってもなお、僕は彼女に会いに行くことを辞めなかった。
そして彼女から「死ぬ日が決まった」と言われたのが、十二月の初めだった。この言葉を聞いた時まず一番に僕が口にしたのは「いつ死ぬのか。」ではなく、「どうやって死ぬのか。」だった。自殺を実行する日をそんな前もって教えてもらっても、その日までの苦痛が増すだけだと思ったから。
「終人くんはどんな方法だったら気持ちが楽ですか?」
そんなあまりに答えづらい質問が、彼女から送られる。
「僕が何かに見惚れている時とか、瞬きの瞬間とか。そんな時間を狙って、僕の目を盗んでください。」
「なんだか、難しいですね。」
彼女は笑いながら、「どうしようかな。」と呑気な顔をして考える。
「どうせ僕は君を助けようとするので、それを掻い潜って死ぬんです。」
僕も無理して口調を明るく誤魔化してみる。部屋の温度も下がった今では、彼女は箱庭計画でもらった毛布で身体を包んでいる。
「それから、死ぬ時はその日の朝に伝えてください。今日死にますよって。」
「もっと早く伝えてもいいんじゃないですか?」
「死刑囚も、執行される日の朝に言われるんですよ。」
僕らはお互いに違う方向を向きながら、会話をする。
「死ぬのは、私ですけどね。」
「悲しむのは、僕ですからね。」
不安定な日々は、かろうじで続いてゆく。いつまでも続くような気がしながらも、朝、目覚めた瞬間には、今日がその日ではないだろうかと気掛かりで仕方なくなる。
そんな毎日を生きるのは、精神的に楽なものではない。だからこそ、心のどこかではそれが終わってしまっても良いと思っているのかも知れなかった。
「夢乃さんは、あれからどうしてるの?」
外はぐっと冷え込む十二月の夕暮れ。栞書店で坂井さんにそう問いかけられる。
「まだ生きているけど、どうやらもうすぐ死ぬみたい。」
「へえ。」
平然とそう答える僕の顔を彼女はじっと覗き込む。
「なんだかもう、どうでも良くなったのかな?」
「いやまあ、どうでも良いわけじゃないけど。」
僕は笑いながら、横に置いてあった古本を本棚へと戻す。
「終わらないと、先には進めないからね。」
平然とこんなことを口にしている自分に、少し怖くなる。
「でも結局、今でも月に二回くらいは夢乃さんに会いに行ってる。会っても仕方ないってわかってるんだけど、何というか、全財産無くなるまで賭け事を辞められないみたいな気持ち。」
「夢乃さんがいつ死ぬのかは、分からないの?」
「もう決まっているらしいんだけど、知りたくない。でも、死ぬ日の朝には伝えてもらう。最後の一日だけは、どうしても。」
その最後の一日で、夢乃さんの命は終わり、積み上げた日々も消える。
「でも、自殺の瞬間なんて、見たくもないでしょ?」
「うん。見たくない。だからその日に僕が夢乃さんを助けようとしてたら、坂井さんが僕を止めて。」
「なんだそれ。」と坂井さんは笑う。僕は自分でも、夢乃さんの命が消える日をどのような気持ちで過ごし切るのか、想像すらつかない。ただ、着実とその日が近づいている。
「車を借りて、海岸線を走りながら綺麗な海を見たいってなんて言ってたなぁ。」
部屋で夢乃さんと二人で寝転がり、会話した内容が頭の中にふと蘇る。
「そんな元カノとの思い出みたいに言わないでよ。」
そう言いながら坂井さんは、一眼レフのレンズに付着した汚れを拭き取る。そして僕は呑気に笑う。夢乃さんが今、何をしているかなんて今はどうだって良い。そう思いながら本棚に立てかけられた古本を手に取ると、挟まれた栞が雪片が空気を撫でるように、沈んで落下した。
自宅へ戻ると、実家から段ボールが郵送で届いた。何かと思って開けるとそれは真っ赤な色した林檎が五つだった。早速、一つを水で洗って六等分し、齧り付く。
濃密な甘さを感じながら、ラインで共有された、今週末に予定された結婚式の段取りの詳細を眺める。あの日以来はモンスターカップルと接することもなく、何度かの本番を経て自分も式場の従業員としての自信も持てるようになった。
けれども、他人の幸せで得る自分自身の幸福感は次第に薄まってゆく。初めの頃は結婚式という圧倒的な華々しさに無条件に心を奪われ、多幸感に満ち溢れていた。それが今では他人の幸せを見たところで、特に感情が動くこともなくなった。所詮、他人なんてどうでも良くて、自分自身が幸せにならないと意味もない。どれだけ花々が彩られても、スパンコールが輝いても、結婚式に慣れきった僕の脳内には幸せのホルモンが分泌されることもない。
きっと夢乃さんも同じような気持ちで、本物の死へと飛び込んでゆくんだと思う。それならもう、年を越さぬうちに、死んでしまえばいい。そうやって本気で思っているはずなのに、なぜか僕はベランダへと飛び出して、夢乃さんに電話をかけている。
「終人くん。どうしましたか?」
今日も柔らかな夢乃さんの声が耳の奥までふわりと届く。
「夢乃さんの気持ちが僕にもわかりました。」
「え?」
「結婚式で他人の幸せを見ているだけでは、次第に物足りなくなってきました。君も死にたいと思うだけでは満たされないんですよね。」
電話の向こうからは物音と、わずかな人の声がする。
「うん、そうですね。」
「だから、君の気持ちが分かるんです。」
その遠くから聞こえた別の人の声が彼女の元へと近づいたのがわかる。
「死にたいと思うだけ。幸せを見るだけでは満足できない。私たちは欲張りですね。」
「僕も、見るだけじゃなくて、自分自身が幸せになります。だから僕のことは心配しないでください。」
「はい。」
「もう絶対に、君の住む世界も、君が死ぬことも否定しません。」
そして僕は携帯を一度耳から離し、わずかに乱れた呼吸のままで、夜空を見上げる。東京の夜空は星が少しでも見えたら、それだけで綺麗に思える。
十二月二一日。掛け布団からはみ出した足先はひどく冷たい。乾いた喉は水を欲し、蛇口を捻って、コップに水道水を注ぐ。冷えた水は口から溢れ出して、衣服を濡らす。
冬なのに薄手のカーテンを開けると、曇天の空が広がる。向こうの電線には烏が止まって、無秩序に鳴いている。ベランダに出て、昨日竿に干して置いた衣類に触れてみるが、まだ湿っているのか、それとも冷たいだけなのか分からない。どちらにせよ取り込む気力すらもないので、窓を閉めて、もう一度温もりの残った掛け布団に入り込んだ。
自分の感情がどのように動いていくのかが、今はまだ分からない。ただ心が勝手に離れて行かないようにと、布団の中で自分の身体を掴む。
そして、携帯から十時にセットしたアラームが鳴る。何事もない普通の休日だったらこの時間に起きるはずだった。でも、今日は一時間も前から瞼は嫌と言うほど開いたまま。それなのに、身体は重い。いや、身体の中に存在する心という臓器が重くて仕方ない。
そのまま暑苦しいほど分厚い布団にくるまって、昼過ぎになった。雲の隙間からはうっすらと日光が差し、その光が部屋の中まで届いてくる。そうなると、何だかこんな風に時間を過ごしている場合でも無いと思い始めて、唐突に居ても立っても居られなくなった。だから僕は何かを渇望するような気持ちで、陰鬱な部屋を飛び出した。
心のままに足を進めて、駅のプラットホームで財布だけを持って電車を待つ。冷たく硬い風が吹き付ける。その度に身体は線路のほうへと僅かに押される。
アナウンスの後、到着した電車に乗り込んで窓の向こうの近づいてゆく繁華街のビル群を眺めている。週末で混み合った電車内は騒がしい。見知らぬ他人の笑顔さえも今は鬱陶しかった。
電車を降りた後、僕は意味もなく、繁華街の中心に向かって歩く。不安定な足取りに躓きそうになる。行き交う人の香水の香りと排気ガスの匂いが冷たい空気の中で混ざり合っている。
「一時間、二二〇〇円。飲み放題ですー。」
相も変わらず、道の両脇からはキャッチの明るい声が聞こえる。同時に僕は数ヶ月前のあの日のことを思い出す。あの日を境に、変化した生活の全て。そんな過ぎ去った過去の出来事を追憶し、次第に視界は歪みゆく。
そして気がついた時には、夢乃さんと同じような猫耳をつけたキャッチの女性と目が合っていた。あの時のように、女性は手招きをし、僕はその人の元へゆっくりと歩み寄る。
「お兄さん、ちょっとだけ。一時間だけどうですか。」
僕は言葉もせずに、頷く。扱いづらい気持ちを抱えたまま、行き場を失った自分には何の意思もない。女性は弾むように歩き、ポニーテールが左右に揺れる。そんな後ろ姿を見ながら彼女の後をついてゆく。案内されたのは見覚えのある雑居ビルだった。
「二十一歳なんですね!私の一個下じゃないですか!」
カウンターの隣に座る、僕を引き寄せた女性はそう言って笑っている。僕は愛想笑いを繰り返し、あまり会話の内容も頭に入らぬまま、甘いカクテルを口にする。
会話がイマイチ盛り上がらない状況を解消しようと女性は天気とか、ペットとか、好きなタイプとか、たわいのない話題を絶えず僕に渡してくる。その話題を膨らまさずに放棄してしまう事は申し訳なく思う。でもそれは仕方ない。冷静に考えれば昼間からこんな場所でお酒を飲んでいる場合ではないから。
「あの、ここで半年くらい前まで働いていた人のこと覚えていますか?」
「半年前?」
氷で薄まったカクテルを飲んだ後、僕の口からそう言葉が溢れだす。
「客を呼び寄せることだけが仕事だった人。」
「もしかして、黒島さん?」
「そうです、黒島夢乃さん。」
僕は彼女の名前を口にするだけで、言い表せないほど複雑に混ざり合った悲しみがふと胸に宿ってくる。
「知り合いなんですか?」
「まあ、はい。そんな感じです。」
女性は「そうなんですね」と言い、店内に流れる有線を口ずさむ。
「あの人、客を呼び寄せるのだけは天才でしたからね。」
「だけは。」
「いや、悪い意味じゃないですよ?それだけ客引きが凄かったってこと。」
僕の表情に過敏に反応して、女性は必死に誤解を解こうとする。その必死さが逆に引っ掛かる。
「まあ確かに、夢乃さんはその仕事しか出来なかったはずなんですよ。お客さんの気持ちを理解して共感できるような人間じゃなかったから。」
「なかなか、辛辣なこと言うじゃないですか。あの人とどんな関係なんですか?」
興味深そうな顔をしながら、女性は聞いてくる。彼女のスカートは膝に擦れる。
「どんな関係かって言われると難しいんですけど、悪い夢みたいでした。」
「ええ、なにそれ。めっちゃ気になります。」
「彼女と何ヶ月も二人で生活したんですけど、一回たりとも一緒に寝たことは無かったです。」
女性は目を見開き「嘘でしょ。」と呟く。
「そう、嘘みたいな関係でしたね。」
「それじゃあ、黒島さんは今なにをしてるんですか?気づいたら急に辞めてたから。」
週末のガールズバーは新規の客が次々とやってきて、徐々に騒がしくなる。
「今日、彼女は死にます。」
「は?」
そう漏らした時、目の前の女性の瞳はゆらゆらと揺れる。鉛のように重く信じ難い言葉を受け入れられない彼女の身体、指先から震えだす。
「これは嘘じゃないです。彼女からそう告げられたんです。」
「どうして今日ってわかるんですか?」
「自殺するからです。」
「本当に?」
「本当に。」
彼女の僕を見つめる訝しげな表情がネオンライトに照らされる。そして「いや意味分かんない」とため息を吐きながら呟く。
「最悪、マジで気分下がるわ。ていうか死ぬから何?あんな店内から追い出されて客引きしか出来ない人なんて最初から友達でも無いし。」
「ほぼ無関係の人間に、わざわざあの人今日死ぬんですよなんて余計な事、言わなくていいんですよ。言われた人が嫌な気持ちになるって想像つきませんか?」
可憐な格好に似つかない言葉を矢継ぎ早にぶつけられる。女性は動揺し、八つ当たりみたいな口調を続けている。
「でも本当だから。」
ほぼ無関係の人間に、夢乃さんが今日死ぬという事実を告げて、無意味に悲しみを植え付ける。それはまるで無差別犯罪を犯しているような気分だった。でも、なんだかそれが快感だった。
そして結局、一時間が過ぎぬうちにガールズバーを後にした。電波の悪かった地下から出て、僕は今朝、夢乃さんから送られてきたラインをもう一度振り返る。
「今日の夜二十時、やっと詞乃と一緒に死にますよ。多分、自宅のマンションから飛び降りると思います。」
正直なことを言えば、もう少し時間があると思っていた。いずれ死ぬんならもう、さっさといなくなれば良いと思うと同時に、次はいつ会いに行こうかと考えている、そんな日々を今日まで送ってきた。結局最後に会ったのが三週間前、声を聞いたのはベランダで電話を掛けた日が最後だった。
時刻は一六時を回り、その瞬間までは四時間を切る。次第に薄まってゆく日光と、近づいてくる夜。彼女が「いつどこで死ぬのか」そこまでは知りたくなかった。時刻も場所も分かっているのに、助けないという選択を果たして僕は取れるのか、その自信がなかった。だからやっぱり最後まで、夢乃さんとは上手いこと心が通じないとその時強く思った。
歩道橋を歩き、その奥に見えるカラオケ店の入り口に先週、黒い鞄のような不審物が置かれていたという。それは警察の手で処分されたが、重大なテロ未遂ではないかとネット上でそこそこ話題になっていた。結局、鞄の中には何が入っていたのか分からない。でもどうせ大した物ではなかったと思う。
僕の精神はすっかり不安定になり、同時にたまらなく虚しくなる。どうして夢乃さんの死を悲しむのが僕だけなのか。この世界の全員で悲しみを分けあえたなら、どれだけ息がしやすかっただろうかと思った。
そして僕は歩道橋の真ん中で携帯を取り出して、箱庭日記を開く。僕はヤケクソになりながら必死に文字を打つ。
「【12月21日】お久しぶりです。急ですが、今夜二十時、彼女はとうとう死にます。結局僕たちは彼女を守ることが出来ませんでしたね。もはや、誰のせいでもありません。強いて言えば誰しものせいです。自殺場所は渋谷区神泉のどこかのマンションです。どうしても助けたい人は是非、頑張ってみてください。」
せめて、この箱庭日記の参加者には僕と同じような悲しみを味わってもらう。どうせ呑気な顔をして今を生きている何百人もの人々に向かってこの文章を送った瞬間に、思わず笑みが溢れた。もうとっくに自暴自棄以外の何物でもなかった。
「え?死ぬの?」「は?どういうこと?」「信じられな過ぎて、吐きそう。」
「誰か助けに行こう。」「やだ、泣きそう。」「死ぬな、マジで意味わからん。」
そして僕の投稿で箱庭日記は一気に混乱に包まれる。パニックに陥った参加者が次々にコメントを送ってくる。参加者もろとも彼女の死に巻き込み、悲しみを植え付けることは僕にとって精神的なテロ行為、そのものだった。
閲覧数とコメントがあっという間に増加し、更に混沌とする様子を眺めて、一種の快感を覚えながら再び歩き出した。
十八時の閉店まで一時間を切った栞書店は今日もまるで自分達の住まいのようで、引き戸は滑りが悪い。坂井さんは僕の姿を見るや否やうっすらと涙ぐんだような表情で僕を見つめる。
「箱庭日記のあれ、本当なの?」
「うん、今日の二十時。」
「そっか。」と坂井さんは呟く。しんとした冷たい空気が店内に充満し、息がしずらい。
「あと、三時間もないんだね。」
「そうだよ。でももう助けないって決めたから。」
もう何度も助けようとしたが、その度に自分の精神と身体がすり減っていくのが痛いほど分かるようになった。
「じゃあ、これからどうするの?」
「なんか、夢乃さんが死ぬことをもっと他の人間に知らせたいなって。」
「どういうこと?」
坂井さんは不思議そうな顔をする。
「箱庭日記の閲覧者がさ、僕と同じように悲しんだりパニックに陥ってりしているコメントを見ると安心するの。夢乃さんの命を背負っているのは僕だけじゃないんだなって。だからもう、無関係の人間でもいい。できるだけ多くの人間に知ってもらって悲しみを植え付けてやりたい。」
僕の言葉は栞書店の壁にぶつかり、そのまま落下してゆく。坂井さんは「そう。」と必要以上の言葉を発さない。
「あ、なんか。有料日記が更新されているみたい。」
そして坂井さんにスマホの画面を向けられて、僕はそれを凝視する。
「【12月21日】私たちは別の世界に住んでいると言ったのは君ですよね。なのにどうしてこんな事をするんですか?二人きりでひっそりと死にたいんだと君に話したこともあるはずです。お互いの住む世界と、その中での現実を尊重し合って認め合うはずだったじゃないですか。最後の最後で、君まで邪魔者になるんですか?ああ、今までの事がもう全て台無しですね。
確かに私は今日、自殺します。時間も場所もその通りです。でも、皆さんは絶対に私を助けようだなんて無駄な事を考えないでください。もう誰も関わるな、悲しむな。」
十九時前、彼女のマンションがある神泉駅前にはもう既に一台のパトカーが駐車していた。箱庭日記の閲覧者の誰かが通報したんだろうが、当の警察は「どうせデマだろう」と鷹を括ったように、緊張感もないまま携帯を触っている。でも、一時間後に自殺は本当に行われるんだから、きっと後悔するのではないかと思う。
結局、最後の日に夢乃さんに初めて嫌悪感を抱かれた。どうせ彼女は今から死ぬのだから嫌われてよかったと思う一方で、今まで積み上げた何かが音を立てながら崩壊した気がした。
「多分、今頃何人もの人が夢乃さんが死ぬ場所はどこなんだって必死になって探しているんだと思う。でも、間違って助けられないようにしないと。」
「ああもう、早く終わってしまえば良いのにね。」
隣を歩く坂井さんの表情は夜道でうっすらと映り続ける。
「でも、きっとここからが長い。」
僕はぼんやりとそう呟く。今夜の神泉駅ではたまたまライトアップイベントが行われていて、店舗の軒先や街灯から街を優しく灯している。
「さっき色んな人に夢乃さんの死を知らせてやりたいって言ってたけど、偶然こんなイベントがあって良かったね。」
「うん。こんなのがあるなんて知らなかった。」
駅前にはいくつか出店もあって、照らされた夜道にはいつものような静けさはなく、多くの人が練り歩いている。もしも夢乃さんが本当にマンションから飛び降りる方法を選ぶのなら、多くの人が目撃して、それは大きな騒ぎになると思う。
「夢乃さんが飛び降りて、誰かが通報するして。やってきた救急車がこのイベントの人だかりに阻害されて、搬送されるのが遅れればいいのになって思う。」
「そしたら、みんなの責任になるからでしょ?」
「そう。」
坂井さんは本当に、僕の気持ちを芯から理解してくれる。安定しない精神を彼女はそっと支え続けてくれていた。
そして先ほどの投稿から数時間が経った箱庭日記は更に冷静さを失ったコメントが寄せられる。その中の誰かがSNSでこの話題を取り上げたようで既に別のネット空間でも彼女の自殺計画が広まりつつあった。
「SNSってやっぱすごい。風に乗せられるみたいに広まるんだね。」
坂井さんは情報が広まってゆく様子を見ながら、そう口にする。
「もう、大騒ぎになるといいな。大惨事にね。」
「ねえ、無理してない?」
彼女に不意にそう投げかけられて、僕の表情には強く力が入る。
「無理はしてるよ。だってもう泣いてもおかしくないから。」
「それじゃあもう、ここから離れよう。君が泣きながら夢乃さんを助けに行かないようにね。」
坂井さんの手のひらがさらりと触れて、鮮やかなイルミネーションに夢中になる人たちの間を逆行して、二人で駅へ向かって走る。救えるはずの命を救わずに見捨てることは、やはり僕一人の身体では出来なかったと思った。鋭利な夜の風が頬を掠める。そして夢乃さんのマンションの部屋の明かりが残像となる。
「最初は自殺願望を抱えるような人と一緒にいたくないと思って拒絶したんだけど。」
揺れる電車内で、お互いの肩がそっと触れながら坂井さんに話しかける。
「でも結局もう一度近づくことになって、だったら自殺願望のない自然な人間に矯正しようと思うようになって、それが無理だと分かったら次は死にたい気持ちを抱えながらも生き続ける姿勢に価値を見出して、そしていつしか彼女の本心に気がついて、失望して、生まれ変わろうと願って自殺未遂をして。それでもダメで最後には、僕らは最初から違う世界を生きていたんだと思い込んで。彼女のどこに惹かれているのかも分からないまま、取り憑かれているみたいで。」
長いようで短く、苦しいようであっけない時間だったと今では思う。
「だけど私も本当に、あの人は別の世界の住民だと思うな。」
「やっぱりそうかな。」
「そうだよ。」
彼女の声は僕を包み込むように感じる。
「私も自殺願望を抱えてた人間ではあるけど、あそこまで死に執着する人とは確実に違うと思う。」
「理由もない、先天的な自殺願望ってものが本当にあるんだろうね。僕らには分からないけど。」
僕は「だったら出会わなければ良かった」と一人呟く。坂井さんはそれを否定することも、同意することもしない。
「それよりもきっとね。夢乃さんが可愛すぎたのがいけないんだよ。だから離れたくても離れられない。」
「本当、僕は顔しか見てないね。」
「そんなもんだよ。」
そう言って笑う坂井さんの横顔をふと眺める。自然で優しい表情を見ていると落ち着き、ずっと一緒にいたいと思えるのはきっとこんな人なんだろうと思う。
「これからどこに行く?どこで二十時まで過ごす?」
「うーん、どうしようかな。」
電車は間も無く渋谷駅に到着し、窓には煌びやかな夜の景色が広がる。
「次で降りようか。」
「うん。分かった。」
そして結局、人の声と電車の音が入り混じった駅のホームに降り立った。電車に乗ったまま、もう少し遠くまで行ってしまおうかと思ったが、やっぱり夢乃さんの命からそれほど離れたくはなかった。
繁華街には今日もマニュアル化された煌びやかさがあり、裏路地は相変わらず汚い。誰かが乗り捨てた自転車が倒れ、その近くのゴミ袋にはネズミが集っている。更なる深い夜に向けて人もモノも活発に動く。その一方で、僕にとっての今日はあと数十分で終わる。「このまま何事もなく朝を迎えたい」と思っては駄目だと自分で自分の心を締め付ける。
そして夢乃さんと初めて出会ったあの日の交差点へ僕らは向かう。
「この目線の先で、夢乃さんは僕を呼び寄せた。」
今日も赤信号に立ち止まりながら、彼女のかつての姿を回想する。あの瞬間に、彼女の存在に気がつかなければ、彼女が僕ではない違う誰かを見ていたら、僕が信号を渡っていれば。無数のタラレバは蒼茫とした運命に吸収されて無くなる。
「あの時、何も考えずに渡ってしまえば良かったな。」
そう言いながら、青信号に照らされる坂井さんの横顔を眺める。
「今こうやって渡れば良いんだよ。どうせ今日で終わるんだから。」
「そうだね。」
そして僕たちは同じ歩幅で歩き出す。全てをリセットするような気持ちで、横断歩道を渡る。二十時までは残り十数分となり、鼓動が狂い始めて抑えきれない。渡り切った向こうの道から見る繁華街の光は滲み、まるで過去の風景のように見える。
そうやって意味も分からぬまま人工の光を眺めていた時、僕らの前を弱々しい足取りで通行する人がいた。その人は僕と同い年くらいの男性で一人で何かを呟きながら、揺れるように歩いている。僕らはそんな様子が気になって自然と目で追った。
「あの人、大丈夫かな。」
徐々に車が行き交う横断歩道へ歩みを進める彼を坂井さんは気に留める。言われてみればゆらゆらと、進んでゆく足取りは赤信号で止まりそうな様子もない。
「なんか、、ヤバそうかも。」
男性のつま先が車道へとはみ出すと同時に大型トラックが目の前を通過して、彼の前髪を揺らす。
「危ない!」
坂井さんは、僕たちを助けてくれたあの瞬間のように、躊躇もなく細い右腕に手を差し伸べる。そして勢いよく歩道へと引き戻された男性はしゃがみ込んだまま、深呼吸をする。
「どうしたんですか?」
僕はまるで過去の自分に問いかけるような気持ちで、そう声をかけた。
「なんでもないです。ただ向こう側に行きたくて。」
「なんでもないって、、」
彼の言葉に困惑する坂井さんの表情もあの時と同じだった。
「あなた達はきっと知らないと思いますけど、自分の大切な女性がもうすぐ死にます。その人と出会ったのが、、、あそこなんです。」
「え?」
男性がそう言いながら指を刺したのは、紛れもなく僕が夢乃さんと出会った場所と同じだった。
「今も沢山のキャッチがあそこに居ますけど、その中の一人でした。」
「それって、、」
坂井さんが僕のことを心配そうに見つめる。
「もう半年くらいは会っていないですけど、どうやら遂に今日、自殺するそうです。ずっと死にたいと思っている人でしたから。」
僕は、夢乃さんがついた嘘に今更になって気がついた。それは、自殺願望を打ち明けたのは僕が初めてではなかったという事。その現実に直面し、余計に不安定な感情が募る。
「一緒に死にたいと、その人に言われたことはありますか?」
僕は堪えきれずに、そう問いかける。
「何度もあります。」
「自殺願望を打ち明けたのは、あなただけだとも?」
「そんなことも、言ってた気がしますが、、」
「そうですか。」
その刹那に、他人の頬には涙が流れゆく。液体化した悲しみは美しくもありながら、受け入れ難かった。嘘をついた夢乃さんではなく、まるで自分だけの物ように悲しみを独占する見知らぬ他人へ嫌悪感を抱いた。
「その悲しみって、あなただけのものじゃないと思うんです。」
「は、、?」
こんなこと、嘘みたいだ。夢乃さんの声や言葉や表情も、その全てが幻想かのように思う。
「僕も同じ人にあそこで声を掛けられて、一緒に生活をして、死にたいと告げられました。きっと、あなたのすぐ後です。」
「じゃあそしたら君は、もしかして。箱庭計画の、、」
しゃがみ込んで潤んだ瞳の彼は、僕の箱庭日記がSNSで拡散されている様子を見せてくる。
「そうです。それは僕と彼女の日記です。」
僕が箱庭日記にあんな風に言葉を書き表さなければ、きっと彼にも彼女の自殺が伝わることはなかったと思う。僕はどうしても自分だけが悲しむのでなく、不特定多数の人間にその悲しみを分けたかった。でも、それなのに、僕よりも彼女の死を悲しむ人がいて欲しくなかった。僕が誰よりも悲しんでいたかった。
「君が最初に彼女の家に入った時、そこがどんな空間だったか覚えていますか?」
「それはもう、無機質な。何もない部屋でした。」
箱庭計画もない、もはや彼女の自殺願望すらも知らなかったあの時を思い出す。
「そんな、何もない空間を作ったのが僕なんですよ。」
「あなたが?」
自分とは雰囲気も違う、ただ年齢が近いだけのような人間が泣きながらも、何故か誇らしそうな顔をする。
「元々彼女の部屋は酒の空き瓶とか、通販の段ボールとかが散らかった汚い空間でした。こんなに自堕落なところで生きているから死にたいなんて考えるんだと思って、まっさらな部屋にしたんです。」
「最初からずっと彼女はあんな部屋で生活していたんだと思ってました。」
「違います。」
僕らが必死に装飾した箱庭。その土台となった砂の上のような無機質さは、そもそも他人が作り上げたものだった。他人が用意した箱庭の中で、僕らが生きていた。
「あんなに何もない部屋だったから、余計に死にたくなったんじゃないですか?」
それを理解するとなんだか悔しくなり、目の前の人間に負けたくない。同じ人間を愛した存在かのように、僕は静かに張り合おうとする。
「何もない、冷たくて硬い部屋は余りにも居心地が悪かったから、他人の優しさで埋め尽くしたんです。その方があんな無機質な部屋よりかは数段マシですから。」
「でも、最終的には彼女は嫌だって。結局、以前の部屋の方が良かったって思っていたんですよ。」
二十時まではあと数分に迫っていると言うのに、どちらの生活空間が夢乃さんにとって幸せだったかなんて、僕らは無駄な言い合いをする。不安そうな顔をしながら、僕らを見つめる坂井さんの視線を僅かに感じる。
「少なくともあなたよりも僕の方が彼女のことは分かってます。最後まで一緒に生きようとしたのは僕の方だから。」
「最後が君じゃなかったら、もしかしたら彼女は生きる選択をしたかも知れませんね。」
僕らは馬鹿だ。夢乃さんに愛されたわけでもなく、ただ一緒に死ぬために選ばれた候補生に過ぎないのに、訳もなく張り合って。どうしても自分が彼女にとっての特別な存在になりたがる。でも結局、誰だって良かったはずだ。僕の前に彼女と一緒に生活した彼。きっと夢乃さんはその前にも別の誰かと生活し、二人の生活空間を作ったんだろう。
繁華街の交差点は絶えず車が行き交う。彼を車道に押し出してしまいたい衝動を抑えながら、夜に跳ねる光の粒を眺める。
「あと何分だろうか。」と僕は呟く。青信号に照らされて、向こう側へと歩みを進める彼の背中はその言葉をさらりと流す。
夢乃さんはガールズバーの客引きをやっている間ずっと、自分と死んでくれる人を探していたんだと思う。僕がその何番目に当たるのかも分からない。この世界にそんな心中相手の候補生が何人存在しているのかも分からない。さっき張り合った彼は夢乃さんと出会ったあの場所でその時を迎える。でも、夢乃さんに選ばれた候補生のうち、一人くらいはSNSで拡散された箱庭日記を見て、彼女のマンションへ向かい、助けようとするのかも知れない。もしそうだとしたら、そうだとしたら、、あまりに虚しく耐えられない。
「ねえ、神泉に戻る。」
「は?」
僕は坂井さんにそう言い捨てて、駅の方面へと逆行する。今から戻ったところで間に合うはずもない。そんなことは分かっている。でも僕じゃない誰かが、僕よりも悲しむのがどうしても嫌だった。「夢乃さんの死を誰よりも悲しんだ人間」ただそれでもいいから彼女にとって特別性のある何者かになりたかった。
「ねえ、待って!」
坂井さんの声は遠くの向こう、夜の音に混じりながらかろうじで僕の耳に届く。ただ、僕だけが知っていると思っていた、夢乃さんの本心や魂や温もりや言葉が頭の中に蘇り、どれだけ通行人に身体がぶつかろうとも止まらない。
「助けないって決めたって言ったのは誰だよ!」
その時、あの川の中で掴まれた時よりもさらに強い力で僕の右腕を掴まれた。振り返ると坂井さんは何かを訴えるような表情で、僕の瞳の奥を見つめている。
「もう分かったでしょ、終人は夢乃さんにとって、大した存在でもなかったんだよ。最初からそう。悲しみも君だけのものじゃない。」
「分かっているけど、それが嫌なんだよ。あんなに彼女と向き合って一緒に死ぬ一歩手前まで行ったのに、有象無象の中の一人に過ぎないって、、」
坂井さんに掴まれた右腕がジリジリと痛む。
「それならもう、何でもいいから。彼女の死体に初めて触れた人間とか。彼女の血を飲んだ人間でもいい。他の人間とは何かが違っていたい。」
「そんな事したって、意味がないじゃん。何も変わらないよ。」
一九時五九分。箱庭日記からも、夢乃さんの連絡先からも何一つ通知は届かない。最後の瞬間、死ぬ前の言葉すらも僕は送られていない。
「夢乃さん達の死をリアルで目撃したら、それこそ君のことだからまた取り憑かれてその事ばっかり考えるようになって。」
夢乃さんと、押田さんの仮設世界。二人の魂を内包した世界があと数十秒で消滅する。
「そしたらいつまでも私は終人に愛されないままでしょう?」
僕の右手を握る力がふと弱くなる。坂井さんの切ない表情が僕の胸を締め付ける。そしてその瞬間、思い始める。坂井さんの表情、温もり、魂そのものが僕にとっての現実なんだと。夢乃さんと一緒に生きるという夢が消滅するのだから、現実を抱きしめて生きるしかないんだと思った。
「それは、、今から。」
二十時は、僕らの目の前を通過した。僕はその瞬間を冷静に受け流した。夢乃さんは多分、この世界からいなくなった。同時に仮設世界と僕にとっての夢が消滅した。残ったのは白い息を吐く目の前の彼女、ただそれだけ。
「今から、、愛してくれるの?」
「そうするよ。」
繁華街の喧騒の中、流動的な群衆の間で、僕らは微笑みあった。あんなにも怖がっていたその瞬間はすんなりと訪れ、七時五九分と二十時とは特に何も変わらない。
僕は坂井さんの乾いた手のひらに触れながら、数粒の星がかろうじで浮かぶ夜空を眺める。きっと世界にはこの中の惑星が一つ丸ごと消えてしまうくらいの変化があったんだろうと思う。でも、単なる星空としてみれば、惑星の一つくらい消えても気が付かない。
「やっと、終わった。」
「何が?」
夢乃さんの事を想って寝付けない夜中、割れ物に触れるような緊張感、莫大な喪失感、叶うことのない淡い期待感。それらが終わる。
「夢の終わり。」
彼女と一緒に生きるという夢の終わりを実感し、現実の真ん中に佇む坂井さんと世界を生きる。再生の始まり。お願いだから、彼女らは無事に死んでいてほしい。もう二度と未遂にならぬように、強引に助けようとするような邪魔者はいらない。
「夢乃さんの話をすると君は少し不機嫌になる」と彼は言った。でも、それは確かにそうだ。もう六年も経つことなのに、彼は唐突に未だ色褪せない彼女との思い出を語り出すことが多々ある。全て忘れろなんて言わないけど、少しくらいは記憶が抜け落ちて曖昧になっていても良いはずだ。なのに、どうして彼女の柔軟剤の匂いや出逢った時の表情までも鮮明に覚えたままなんだろう。
あの日から今日までの六年間で、彼はアルバイト先の結婚式場に就職して、私は栞書店をやめて図書館司書として働くようになった。そして多少のすれ違いはありながらも恋人としての関係をこうして維持し続けて、お互いに離れ離れになる想像もつかないほどに心で繋がりあっている。同棲を始めて三年。出逢った時から彼とは温度感や、価値観は比較的似ていたけれど、最近また特に似てきたなと思う。例えば嫉妬の仕方とか、喜んだ時の表情とか。好きなお風呂の温度とか、炊いた白米の固さとか。どちらかが合わせたわけではなく、自然と同じになっていた。
「ありがとう。でも少し考えさせて。」
「どうして?」
「ずっと一緒にいるんだとは、私も思うけどね。」
でも私は彼の一世一代の告白に、即答できなかった。やっぱりだ。
実のことを言うと私も、あの日以降のことはよく覚えている。夢乃さんがその言葉通りこの世界から居なくなって、彼が私のことを愛してくれるようになった瞬間のこと。
六年前の一二月二十一日。私たちは渋谷駅の人混みの隙間で二十時を迎えた後、閉店後の栞書店で一晩を明かした。彼はもう憔悴しきった様子でゆらゆらと椅子に腰掛け、ブランケットを渡すや否や眠りについていた。逆に私は、変に心が落ち着かなくて一睡もできなかった。
そして翌日、ネットニュースで夢乃さんともう一人の自殺が報道されていた。詳しい死因は明らかにされていなかったものの、どうやら自宅で静かに自殺を図ったようで、少なくとも最初に彼女が言っていた飛び降り自殺ではなかったと言う。
その事実を目にした時、彼はやけに冷静だった。そして「誰も邪魔しなかったんだね。」と呟いて笑った。意外とあっさりしていて悲しそうでもなかったので少し安心すると同時に、彼も自殺志願者の命を助けることを「邪魔する」と捉えるようになったんだと残念に思った。
一方で彼女らの自殺はあらゆるメディア媒体で多くの注目を集めることになった。自殺を予告する箱庭日記の内容がSNSで拡散されていたこと、自殺を図った自宅マンションの真下に彼女の両親が住んでいたこと。そしてライトアップイベントの観客と野次馬のせいで救急隊員の救助が遅れたこと。これらの要素が問題視されて、いわゆる「闇深い事件」として無関係の人間が様々な考察を行なっていた。
「自殺の原因は親のネグレクトじゃないか?」といった自殺原因の推測から始まり、「そもそも箱庭計画なんて全て嘘で、自殺に見せかけた殺人事件なのでは」と言ったような突飛な論理を真面目な顔して語る人間もいた。
彼はそんな推論に対して「夢乃さんは本当に先天的な自殺願望を持っていた。だからそこに理由なんてない。」と苦言を呈していたが、果たして彼の言葉が本当なのかも怪しいところだ。私は今でも先天的な自殺願望なんて意味が分からないままだし、何か他に理由があったのではないかと密かに思っている。でも結局、彼女らが死んだ本当の理由なんて誰一人として知る由がない。だから尚更、人々の考察欲を掻き立てたんだろう。
「ずっと一緒にいると君も思うなら、そろそろいいタイミングだと思うんだよ。急いでいるわけじゃないよ?でも、もう来月には君も三十だし。」
「うん、そうなんだけどね。」
「もしかして嫌なの?」
赤ワインの表面に私の何とも言えない表情がぼんやりと映り込む。
別に、彼と結婚することが嫌なわけじゃない。むしろ自分自身でもなんとなく見えてきた未来像には紛れもなく彼の姿も一緒にある。窓の向こうの夜景がスパンコールのように煌めき、上品に舌を包む料理だけが並べられてくるような素敵なレストランで、彼の嘘偽りない言葉を受け取ったはずなのに。そんな用意してくれた雰囲気を壊してもなお、私は言葉を紡がぬままでいる。でも、心の中だけでは饒舌だった。
そもそも結婚のプロポーズを決めた日が今日、十二月二十一日であることに不快感を抱いている。どうして私たちの一生に一度の機会をわざわざ他人の命日に行わなくてはいけないのか。彼はそこに対して何らかの違和感を抱かなかったのだろうか。加えて、彼はプロポーズという場で堂々と彼女との思い出話を始めるし、そりゃ私だって少しくらいは不機嫌にもなる。
もう生きていない人に嫉妬するのはものすごく厄介な気分だ。故人を悪く言うのも気が引けるし、ある意味、最もどうしようも無い事だと思う。だから湧きあがった感情をどう処理すればいいのか分からない。
「君と死ぬまで一緒に居たい。だから結婚したい。」という彼の言葉は私の心の奥まで突き刺さった。でも、その時の彼の瞳は何故か幼く見える。まるで六年前からずっと何も変わっていないかのようだった。それは瞳だけではなく、声も言葉もそう。何だか素直すぎる純粋無垢な二十歳そこらの青年みたい。そんな二十七歳の彼。
それはつまり、どう言うことか。はっきりと言ってしまえば「彼はまだ夢乃さんのことを見ている」ということ。「今でも彼の中で夢乃さんが生きている」ということ。彼は言葉では真っ直ぐ「私だけを愛している」と言ってくれる。でも、無意識にもあまりにも鮮烈な彼女との過去の思い出が、言葉や瞳や、声に滲み出している。
私はどうしたらいい。何時になったら、彼と結婚することを受け入れられるのだろうか。プロポーズに対して予想外の返答をされた彼は、うすら汗を浮かべながら、次の言葉を必死になって考えている。私はワイングラスに触れる彼の細い指先を眺める。
彼はきっと、この先もずっと夢乃さんと過ごした時間の「余韻」で生きてゆくんだと思う。そうじゃないと、こうして自然に生きることもできないんだろう。私はそう、静かに悟りながら、次の彼の言葉を待っていた。
余韻 @Tkmicnkw0830
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