41・主よ、人の望みの喜びよ
ベートーヴェン『ピアノソナタ第二九番』の最後の一音が鳴ったとき、ぼくは改めてアンリ・ルノワールという音楽家の凄まじさを思い知った。正直いって、アンリの生演奏自体は以前ほど貴重なものではなくなっていた。日本で、ぼくの研究室で、触れられるほど近くで、何度も何度も聴いていたからだ。しかしたった今鑑賞した『ハンマークラヴィーア』は、比べるべくもなく別物であった。ホールの構造、温度、ピアノの調律、彼自身の気分、体調、観客のボルテージ、ありとあらゆる要素を計算し尽くして、音楽の糧にして、ベストな響きを絶えず生み出し続けた、その結晶というに相応しい。
ぼくにシェイクスピアほどのワードセンスがあれば、彼の音楽を、この感動をなんと表現しただろう。とある批評家は「ひとえに高尚で、正解で、ゆえに崇高である」と言ったが、ぼくに言わせればそれは表面的な良さであり、本質的に的を射るには決定的な何かが足りていないように思う。
ああ、ちょうど今〝憧れ〟という言葉を思いついた。この手に掴んでおきたいような、ずっと遠くで輝いていて欲しいような。
バッハの『主よ、人の望みの喜びよ』の演奏が始まると、聴客はいっせいに涙を流し始める。それが毎年恒例なのだそうだ。理由は三つある。
一つ目の理由は、この曲が必ずプログラムの最後に置かれていること。
二つ目は、聖夜の空気とホールの音響、そして彼の演奏が奇跡的な次元で調和していること。
三つ目は――このカンタータの歌詞を知れば、きっとあなたにも想像することができるだろう。
やはりバッハがつけたものではない『主よ、人の望みの喜びよ』というタイトル、響きは良いが、よくよく意味を知ろうとすると、ちょっと首を傾げたくならないだろうか。これはそもそも英語にアレンジされた歌詞の冒頭を日本語にしたもので、ドイツ語で歌われる本来の歌詞とは意味が少し異なっている。本来の歌詞は、主、つまりイエスは、私の喜びであり続ける――といっている。心を慰め、潤わせ、すべての苦しみから守ってくれる、生きる喜び、魂の宝そのものである。ゆえに私の心と視界から離すことができないのだと。
初めてこの場に居合わせたぼくが一足先に垣間見たのは天国だ。ぼくのちっぽけな心の器は、アンリ・ルノワールのピアノによって導かれし信仰心に満たされている。
バッハ、ひいては数多の演奏家たちは、三〇〇年も前からこの曲を通して多くの人々を赦し、慰めてきたのだろう。ぼくも赦しを請わねばなるまい。先ほどは公共の場で不適切な発言があったこと、それから――この信仰心を捧げるべくがあなたでないことを――主よ、どうかお赦し下さい。
かくして第二部も幕を下ろした。幸いぼくにはまだ息がある。プログラムの半分以上を聴き逃したのがむしろよかったのかもしれない――わけはない。遺憾千万、息絶えたほうが本望だった。けれど悔やむのはここまでにしよう。と綺麗さっぱり洗われたぼくの心が主張する。今はただ、この幸福を噛み締め、胸に、記憶に刻むだけでいい。
アンリ・ルノワールが三六〇度、四度にわたるお辞儀を終えてもスタンディングオベーションは鳴り止まない。それでも演者は袖に捌け、観客が納得するまでアンコールやカーテンコールを繰り返すものだが、どうしてか彼は捌けずに鍵盤の前に戻った。ほとんどの観客が何事かと首を傾げたはずだ。その心情が拍手の音量に表れている。
立ったままのアンリは鍵盤に指を置く素振りをして真っ直ぐに顔を上げた。要は、上手側のテラス席を見上げた。ぼくの自意識過剰でなければ、ぼくは今、再び推しと目が合っている状態だ。両隣のマダムが卒倒する。
――そこにいろ。 と彼はいった。
ぼくの心臓の鼓動と拍手喝采が同時に、ぴたりと止む。今なにか鳴らさなかった……? みんなが耳を澄ませる。ところが彼はさっとピアノの前を離れ、なんとなんと、膝下ほどの高さの舞台をひょいと飛び降り
彼は興奮する観客をかき分けて前方上手側の扉から脱出した。なおも追いかけようとするゲストをドアマンが制止する。
そこにいろ――って……ここにいればいいってこと?
他に何があるというのか。分からない。が、確かに止まったと思ったはずの鼓動がしっかりと脈を打ち、ぼくの身体を動かすのだからしょうがない。
卒倒しているマダムを跨がせてもらって、浮足立つ大勢の観客をかき分けながら進む。急な階段を夢中で上り、入ってきた扉を出る。前室にはもう誰もおらず、ホワイエも見渡せる範囲はドアマンだけになっていた。
ぼくはどうやってどこを目指すべきか分からなかったが、とにかく真下に行きたい一心でエリーズ嬢と飛び出してきた扉のレバーに手をかけた。が、微動だにしない。当たり前だどアホ! 扉に頭を叩きつけた余波で何かが揺れた。胸元だ。
なんだっけ、これ。と一瞬でも思ったぼくはやっぱりどアホだ。はっとしてエリーズ嬢が首にかけてくれたIDをロックに翳す。ピピっと小気味好い機械音が鳴り、扉はいとも簡単に開いた。
扉を潜り、階段を下りようとしたところで足がひたと止まる。
ちょうどひとつ下の踊り場で折り返そうとしていたアンリもぼくを見上げて目を見開く。ややあって、ふと目元を緩めた彼は「あほ」といった。もちろん、口の動きだけで。
すれ違っていたら洒落にならなかったと言いたいのだろう。ぼくはすぐに理解したが、何も言い返せなかった。喉元に待機している言葉全部を飲み込んで、駆け下りて、すっと差し出された左手にぼくの右手を渡した。どうぞ持っていってくれと言わんばかりだ。
ぼくはまたもアンリに連行される。どこへかは薄々勘づいている。
前室で足を止め、手を離したアンリは、ぼくの方を向き直りつつ両耳の新入りたちをてきぱきと外した。促されるまでもなく、ぼくは預かったイヤリングを懐から取り出し、たった今空いたところにつけてやる。こう言っては何だが、すっかり慣れたものだ。
彼がホールに繋がる扉を開くと、数え切れない視線が一斉にぼくたちを見つめた。好奇心と懐疑心が入り混じった異様な空気。アンリはやはりものともせず、尻込みするぼくの手を引いて進み出る。ちらりと目をやったステージでは、ピアノが一台増えて二台になっていた。どちらにも屋根は無い。
観客はアンコールにデュオをするつもりだと察している。しかし主役が引っ張ってきたのが顔も名前も知らない一般人とあっては興ざめに決まっている。サプライズとしてはある意味成功しているのかもしれないが、今のところアンコールが起こる気配はない。
これはさすがにまずい。今ならまだ間に合うかもしれない――と、アンリの手を振りほどこうとしたとき、もういくつ目か分からない奇跡が起きた。
中央席のど真ん中で大きく手を打ち始めたおじさまがいたのだ。その上彼は何やら周囲に言いふらしており、そこから波紋のようにどんどん拍手が広がっていく。「
「ヴァンデンベルへの秘蔵っこだ!」
「ライブ配信で妹の伴奏してた日本人だ!」
そこら中で口々に上がる様々な声。やがてホール全体が拍手に覆われる。ぼくはたぶん、ちゃんと歓迎されている。
場が整うのを待ち構えていたかのように、唖然とするぼくをアンリはステージの上に引っ張り上げた。
両足が明暗境界線を超える。前後左右、下から上までを拍手と笑顔が埋めつくす観客席を見上げた――その瞬間に、ぼくは悟った。
アンリがしたかったのは、これだ……!
観客の疑心と期待を煽り、最後は演奏であっと驚かせる。要は最高のエンターテインメントというクリスマスプレゼントを提供するために、彼はぼくの前に現れ、エリーズ嬢との勝負に巻き込み、講師演奏会のデュオを画策した。デュオを仕上げ、ぼくを仕上げ、イヤリングを預けた。仮にぼくが現れなかったとしても、普段通りのアンコールをするだけなので彼の名声に傷がつくことはまずない。だからマネージャーは、何が何でも阻止したかった。
お辞儀をして頭を上げる。
上手側のピアノの前までアンリにエスコートされている。恥ずかしすぎて今にも顔から火が出そうだが、これもアンコールの演出なら仕方がない。そういえば、丸二日も鍵盤に触れていないのにあまり不安を感じない。たぶん、それまでにちょっと弾きすぎていたせいだろう。
アンリに促されてピアノ椅子に腰を落とす。
さて、残った謎があと二つ。
どうして選ばれたのがぼくだったのか。そして――
――笑うしかなかった。 と彼はいった。おかしなことに、その顔も少し笑っている。
ぽかんとしているのは観客だけではない。彼のきらきらした瞳に映っているぼくもだ。彼は続ける。
――推しの推しが自分なんて、笑うしかないだろ?
ぽんとぼくの背中を
笑うしかない。確かにそうだ。
彼が腰を落とす瞬間に気を引き締め、そっと鍵盤に指を置く。
視線を交わしたアンリが両手を胸の前に構える。
パンッ!! とホールに鞭の音が弾ける。
推しよ、人の望みの喜びよ 傘野つづみ @sasasasa1010
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