33・ピアノ協奏曲ト長調①
「だからぼくは、これまで一度だって、大勢の人の前でまともな演奏をしたことがないんだ。どうしても思い出しちゃって、パニックになる」そう言って、ぼくは膝の上で震える拳を握り込んだ。「ぼくはこれからどうなっちゃうのかな。今度こそ、ぼくは……」ピアノを嫌いになるのかもしれない、とは言えなかった。
アンリはどんな顔をしているのだろう。ずっと背を向けたままだが、いつもの無表情の他が想像できない。
なおも顔を向けられないぼくに、彼は言葉ではなく、即興のメロディをくれた。辛かったな、俺がそばにいるから大丈夫だ、そう語りかけながら寄り添ってくれているかのような、瀟洒で哀愁のあるメロディ。ぼくの心に渦を巻いていた濁流が、みるみるうちにせせらぎへと変わってゆく。ずっと聴いて、癒されていたい。ときめいていたい、ずっとそばにいたい。いて欲しい。まるでその音に、恋をしているみたいだった。
――大丈夫だ。お前なら、大丈夫。
演奏の余韻を残しながら、彼はいった。俺は――と、少しの間いい淀む。
――俺は、母に捨てられたと理解したとき、まったくピアノが弾けなくなった。
目を見開き、翻訳ミスを疑うぼくに、アンリは仄暗いトーンで続ける。
――立派なピアニストになったら、必ず迎えに来る。いなくなる前に言った母の言葉を、俺はずっと信じていた。信じ続けて、立派なピアニストとやらを目指していた。
「ちょっ……ちょっと待って、アンリのお母さんって、オレーナ・イヴァノヴナ……だよね? ヴァイオリニストの」
――彼女は義理。産みの母は別にいる。
アンリが身の上を語ったのはこの瞬間が初めてだ。心の準備が間に合っていないぼくは「そう、だったんだ」としか言えない。
――俺は偶然、見てしまった。遠くに行ったと思っていた母が、パリで、マネージャーから金を受け取っているところを。とっくに捨てられていたんだ。やってきたこと全てが無駄だった。信じていたこと全てが嘘だった。それが分かったとたん、聞こえていた作曲者たちの声がぴたりと止んだ。幼稚な理由で弾いていた俺を見限ったんだろうな。彼らも、ピアノも。
それでもチケットを完売させているリサイタルがなくなったりはしない。アンリのピアノを聴くために、世界中から大勢のファンがやってくる。決して安くはない資金を叩いて、クリスマスという特別な日に、パリのホールへやってくる。一年に一度の楽しみにしているファンもいれば、一生に一度のチャンスと満を持した心構えで訪れるファンもいるだろう。
――だから逃げた。逃げるつもりで、家を出た。
お前は違う――といった音は、それまでの音と全く違った。二〇年近くぼくを雁字搦めにしている何かを焼き切ろうとするかのような、昂然たる熱と意思が感じられる音だった。
――何があっても、ピアノと向き合い続けている。ピアノもお前を裏切らない。
ぼくは思わず首を横に振る。
「違う。違うよ。ぼくにはずっと、弾き続ける理由があった。理由をくれた人たちがいたんだ。それなのに、まだ逃げようとしてる」
――なら今度は、俺を理由にすればいい。俺はお前の推しなんだろう?
ぼくははっと顔を上げ、とうとう振り返った。アンリも少しだけ首を回し、ぼくの方を見ている。
――落ちないように、首輪でもはめておくか?
そういって口の端をくいと上げた彼に、ぼくはくしゃりとはにかむ。悪くない――と、思ってしまったのだった。
それからアンリが楽屋に用意していたステージ衣装に着替えるのを手伝い、トレードマークのイヤリングを受け取った。「どうか上手くいきますように」そう呟きながら彼の耳に下げてやると、アンリは勝手に願掛けするなといってぼくを笑わせた。ご利益、ありそうなんだけどなあ。
ステージモニターが流していたユーモアたっぷりの室内楽、サン=サーンス『動物の謝肉祭』の第一四曲「終曲」が賑やかに幕を下ろすと、拍手も鳴り止まないうちにステージマネージャーから舞台袖で待機するよう声が掛かった。ちょっとした舞台転換が済んだら最後のプログラム。ぼくの――ぼくたちの出番だ。
舞台袖から見るステージは真昼の砂漠のように
しかし今日だけは眩しくもないし孤独でもなかった。すぐそばに、照明よりも眩しい人がいてくれるからだ。
上手側のピアノの前で足を止め、向き合えば、とたんに視界の全部を埋めてしまうごちゃごちゃした観客席。そこに並んだ無数の視線はホールを所狭しと反響する拍手の圧とともにぼくの心境を脅かそうとする。けれど、目には見えない手綱とやらが下手側に立つアンリの手の中に繋がっているおかげだろうか、もし今、突然床がなくなったとしても、彼がひょいと引っ張り上げてくれるような気がする。
胸中のざわめきを振り払うようにピアノの方を向き、椅子に腰を落とす。コンクールと違って椅子の高さを合わせる必要も鍵盤を拭く必要もない。ほんの数メートル先にいるアンリと目を合わせたら、それで曲が始まってしまう。
思い切り息を吸って、吐く。
――待って。
そう言ったのは、ぼくの中にいる六歳のぼくだ。
――なるちゃんが来てるってことは、お母さんもいっしょかもしれない。
ああ、そうだった。お母さん……お母さんを探さないと。
鍵盤に置こうとしていたはずの指が離れる。視線が再び観客席を向こうとする。まさにそのとき――
――汎音。
と、ピアノが鳴った。前の方の席なら聞こえたかもしれないくらいのピアニッシッシモ。アンリは二台のピアノを挟んだ向こう側にいるのに、まるで耳元に囁かれたかのようだった。
――俺だけ見ていろ。
その言葉は瞬時にぼくを惹きつけ、顎をくいとすくい上げるように前を向かせた。
アンリも真っ直ぐにぼくを見つめている。ほら、いくぞ、眼光だけで言い放った彼は、ぼくに有無を言わせる隙を与えず、開いた両手を胸の前で軽やかに弾けさせた。
パンッ!! と軽快な音がホールに響き渡る。
ぼくの指は魔法にかかったかのように、一〇の鍵盤を連打し始める。
ラヴェル『ピアノ協奏曲ト長調』第一楽章、
「本当に、ステージに風が吹いたみたいだったよ」かつてそう言ってくれたマエストロの言葉が脳裏に過ぎる。あのときぼくの吹かせた風に乗って聞こえたのは軽やかなピッコロの音色だったが、今日は違う。ピアノだ。いや、それすら疑わしい。ピアノにそんな音色が出せたのかと耳を疑ってしまうような、世界の常識ごと覆してしまいかねない摩訶不思議な音色。
ステージにたくさんの虹を描くように、ぼくの指は鍵盤の端から端を滑り、その間をアンリの音が跳ね回る。管弦楽の魔術師と称えられるラヴェルが何種類もの楽器の音色を巧みに組み合わせて表現しようとした音楽が、ここにある。今この場所、この瞬間にしかないんだ!と、確信をもって観客に披露できる。
なんだこれ――楽しいっ!
初めてオーケストラといっしょに協奏曲をしたときにだってこんなにも華やかな世界があるのかと感じ入ったものだが、無観客だったあのときとは全然違う、体の奥底から活気と幸福が漲ってくるような感慨がある。やはり音楽とは、聴いて楽しんでくれる誰か、その心に訴えかけ、何かを与えてこそなのだ。生徒たちに散々知ったかぶりに諭してきたが、白状しよう、そのモットーは、ようやくここに証明されたものであると。
楽しい! ワクワクする!
こうまで心が躍ったのは斎藤さんの暗号の解読に挑んだとき以来だし、観客のいるステージでポジティブな感情を味わったのは生まれてこの方初めてだ!
演奏家はみな、この快感を追い求めてステージに上がり、その先の景色が見たいがためにコンクールの山嶺に挑むのだろう。
ズルなぼくはアンリの魔法で飛び越えようとしている――
美しく穏やかな旋律に心を預けたくなるような第二楽章は、二分以上に及ぶ長い長いピアノ独奏から始まる。
鍵盤から指を離したアンリは、二〇一三人目の観客になったみたいに、ただそこにいて、ぼくの奏でる独奏にふうわりと耳を傾けている。
この二ヶ月半、ぼくは本当に幸せだった。この幸せを齎してくれたのは、ぼくの推し、アンリ・ルノワールであることは言うまでもない。ぼくの知り得なかったたくさんの感情と経験を惜しみなく与えてくれた彼に、このメロディで精一杯の感謝を示したい。ぼくがきみにどれほど夢中であるかを伝えたい。そしてぼくも、彼がぼくの心に寄り添ってくれたみたいに、その心に負った傷をほんの少しでも癒したい。
たぶん、これが最後の機会になるだろうから――
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