23・都さん③

 アリ行け! と練習室を追い出されたぼくは、お昼前の静かなカフェテラス、瀟洒しょうしゃなガーデンテーブルにみやこさんと向かい合っている。キャンパスと寮の間をさ迷っていたところ、なんと同じような理由で同じような行動をとっていた彼女と鉢合わせ、お茶でもどうかと誘ってみたのだ。

 お互い目を伏せ黙り込むぼくと彼女の足元を、色のない秋風がぴゅっと通り抜けていく。

 テーブルの上にホットドリンクが運ばれてくると、ぼくと都さんは同時に「あの」と口を開いた。ぼくはハンドサインでどうぞと示す。

「すっ……すいません、先生。お忙しいのに」

「何をおっしゃいますか。お誘いしたのはぼくですよ? それにこう言ってはなんですが、ちょうどよかったです。頭を冷やしてこいと言われて出てきたものの、どうしたものかと困り果てていましたから」

 熱々のブラックコーヒーを一口啜る。ダージリンティーは芳醇な香りを漂わせているが、都さんは立ち上る湯気を見つめるばかりで口をつける気配はない。頭が月に行ってしまっているぼくが言うのもなんだが、どこか上の空だ。

「よければリハーサルの様子を伺っても? 如何せん急な話でしたし、相手はあのアンリ・ルノワールです。難しい要求ばかりで大変な思いをされておられるでしょうが、ぼくで力になれることがあれば何でもおっしゃって下さい」

 教授から任せられている都さんを、エリーズ嬢に次いでアンリにまで預けるというあまりにも勝手な決断をしたのは紛れもなくぼくだ。指導者としてアドバイスできることがあるならすべきだし、仮にもアンリの毒舌に心を傷めていたりなんかしたら、きちんとケアする責任がある。

 彼女は返答を少し躊躇ったようだが、カーディガンのポケットから紙切れを取り出して、すっとテーブルの上に置いた。研究室に備え付けてあるメモ用紙のようだが、そこにはぎりぎり日本語だと分かる日本語で何か書かれている。

『音楽を続けている理由は?』

 初めて見る推しの直筆に目を奪われているぼくに彼女は言った。

「先生は、どうして音楽を続けていらっしゃるのでしょうか……」

 まさか、ぼくのことを問われるとは思っていなかったので面食らう。相手が中道くんなら皮肉と受け取るところだが、ぼくのミューズがそう意地悪なはずはない。

「そうですね……」左手を顎に添え、真剣に考えを巡らせる。「ずっと、会いたい人がいたんです」

 都さんはまんまるな目でぼくを見る。

「その人は、幼い頃のぼくを音楽で救ってくれた、本当に凄いピアニストでした。がむしゃらに弾き続けていればまた会えると信じてそうしていましたが、何度もコンクールで失敗するうちに、及ばぬ鯉の滝登りだと気がつきました」

 決め手は最後に出場したコンクールだった。そこでアンリ・ルノワールの神がかった音楽に全ての憧れを持ち去られたぼくは〝この世界にぼくの音はいらない、彼の音だけあればいい〟そう思い、日本へ帰国する意向を師匠せんせいに伝えたのだ。アンリと関わったことで斎藤さんとの再会を諦めきれていなかったことに気づけたが、ならぼくはいったい、いつ、ピアニストになることを諦めたのだろう――

「先生?」

 ぼくははっとして答える。

「色々考えてみましたが、今はやっぱり〝この仕事が好きだから〟ですね」

 決して嘘ではないはずだが、誤魔化したように聞こえてしまったかもしれない。コーヒーを一口啜る。

「都さんが音楽を続ける理由は何ですか――と、問いたいところですが、答えられるのでしたらあなたがぼくに問いかけることもなかったでしょう」

 深刻な表情で頷いた都さんに、にこりと微笑みかける。

「……確かに、どうして自分が表現の手段に音楽を選択したのか、理由を自覚し、言語化して持っておくことに越したことはないとぼくも思います。モチベーションに直結することは言うまでもありませんが、それを持ち合わせているのといないのとでは演奏の説得力に差が生じることもあるかもしれません。ですが――その理由が常に絶対的な真実である必要はないかと」

「えっ?」

「見つからないなら、こじつけてしまえばよいのです。それがいつしか真実になることもあれば、もっとそれらしい理由が見つかることもある。そう思いませんか?」

「そう……なんでしょうか……」どうもぴんときていなさそうな彼女に、一口も減っていないダージリンティーに口をつけることを勧める。

「ではよい機会です。今挑戦しているクロイツェルで試してみてはいかがでしょう。例えばですが……都さん、あなたに意中の方はいらっしゃいますか? 推しでも構いません」

「お……推し?!」

 火を噴いたようにぼっと顔を赤くする都さん。「いいっ、い、い」と「い」ばかりを発し、手に持ったカップがカタカタと揺れてたいへん危なっかしい。

「その様子から察するに推しがいらっしゃるようなので、助言を続けさせていただきますね」と言うと、都さんはカップを手にしたままこくこくと激しく首を縦に振った。ダージリンティーが小さな荒波を立てる。「では都さん、今日からあなたは、推しの心を射止めるつもりでヴァイオリンを弾くのです。なぜ音楽なのか、なぜヴァイオリンなのか、それは正しく、ヴァイオリンで音楽を奏でることこそあなたの魅力を最大限に発揮できる手段であるがゆえなのです。虫の声や鳥の囀りは美しく、ときに全く異なる種であるぼくたち人の心も魅了します。原始的な発想ではありますが、ゆえに単純で効果を得やすいのではないでしょうか」

 ぽかんとしている都さんの反応を待っていると、彼女はもぞもぞと俯いてから、小さく「試してみます」と返した。すっかり夕日の色に染まったお顔がまた愛らしい。彼女の推し活に幸あれだ。

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