21・ショパン

「もう、だめだ……動けない……」

 寮の近くに車を停めてエンジンを切ったぼくは、後頭部でシートをずるずる擦りながら呟いた。ダッシュボードの時計が示す時刻は午前二時を裕に過ぎている。エリーズ嬢とのリハでくたくたの状態から四時間弱に及ぶ運転をしたというのに、誰も労ってはくれない。虚しい。帰りを急いだところでアンリはとっくに寝てしまっているだろうし、いっそこのまま車で寝てしまおうか。

 羽田で無事に返却されたスマホが短いメッセージを受信する。

『ノエルが待ち遠しいですね』

 ぼくはあのトレードマークのイヤリングを着けてピアノを弾くアンリの姿を想像した。二人きりの研究室なんかではなく、きらびやかなスポットライトと大勢の視線を存分に集めるパリのステージの上で。

 はあと辛気臭いため息を吐き、お腹の上で両手を組んで目を閉じる。すると、気のせいだろうか、ショパンの旋律が耳をかすめた気がした。深夜であろうと珍しくもないのがこの西鹿さいか村だが、外には持ち出せないピアノの音だ。

 幻聴に決まってる。理性はそう訴えているが、足はすでに寮へ向かって動き出していた。距離が縮まるにつれ、幻聴はより輪郭を露わにしてゆく。いや、本当にこれは幻聴か?

 どこにそんな体力が残っていたのか、気づくと駆け足になっていた。玄関のドアの前で足を止めると、鍵をポケットから取り出そうとして落とし、鍵穴に差そうとしてまた落とした。

 玄関のドアを開くと、ここまで漏れ聞こえるだけだったポロネーズがとたんに音量を増し、臨場感を増した。靴を脱ぎ捨てる。

 フローリングを滑ってたどり着いた研究室のドアレバーに指をかけ、ぼくは立ち尽くす。その何の変哲もないドアが、水か炎かを堰き止める隔壁のように思えてならなかったのだ。無防備に開けたりなんかしたら、ぼくはきっと無事ではいられない。

 はっとレバーから手を離し、まるで聞いてはいけない話に耳を欹てるようにゆっくりと、極めて慎重に耳をドアへあてた。中で鳴っているポロネーズがよりそばに感じられ、ぶわりと熱い涙が込み上げた。眩しいと、目で感じるはずの感覚を耳で感じられてしまうくらい、その音は綺羅びやかだった。

 そうだ。釘を刺されなくとも十分理解している。例え天地がひっくり返ろうと、ぼくはそっちにはいけない。相応しくないだけではない。生きられないのだ。

 マネージャーを追い返すという選択は本当に正しかったのだろうか。ぼくの欲望のためではないと、誓って言い切れるだろうか。利口な振る舞いとやらを見習うのが、アンリのためだったのではないか。

 曲が終わると同時に心身の限界が来た。ドアの前にへたり込み、凭れかかろうとした――のだが、危うく転がりそうになって床に手をつく。ドアが内側から開いたのだ。

 するりと視界に入り込んできた上質なリネンのダークブラウンは、アンリが愛用している寝間着の下半分。座りっぱなしのピアニストがどうやったらこうなるんだと不思議で仕方がない洗練されたプロポーションを下から上に辿ると、心底呆れたような視線がじとっとこちらを見下ろしていた。

 ――あほ。

 と言ったのだろうか。その口の動きで今のシチュエーションに合う言葉が他に思い浮かばない。

 床から引っ張り上げられ、いつかのように鍵盤の前まで連行される。

 ――遅い。

「っだ……だよね、ごめん」やや鋭い彼の視線から逃れるように視線を泳がせる。「エリーズさんをホテルに送った後、一人で練習室に戻って弾いてたら止まんなくなっちゃって……とっくに寝てると思ってたんだけど、まだ起きてたんだ」

 アンリはピアノ椅子に腰を落としながら、ボキャブラリーに〝うんざり〟を追加する。

「うんざり? って、何に?」

 ――エリーズの相手、とても疲れる。

「ああ……」なるほど。アンリはぼくがエリーズ嬢にうんざりしたはずだと言いたいようだ。「そんなことないよ。ちょっと疲れはしたけど、ぼくが勝手に居残りしてただけだし」

 ――そうか。夕飯は?

「これから。そういえば、コンビニで買ったのを車に置いてきちゃった」ぼくがそう言ってはにかむと、アンリは呆れたような顔で静かなため息を吐いた。

 ――すぐ取ってきて、ここで済ませる。リクエストは?

 しんみりしたくなかったぼくは「長調メジャー円舞曲ワルツがいい」と返した。朝のモーツァルトといい、都さんの伴奏といい、もし後から演奏料の請求がきたら潔く首を括ろう。分割払いじゃ一生かかっても返済できっこない。

 始まったのはまたショパン。『華麗なる大円舞曲』の軽快なファンファーレに促され、入ってきたばかりのドアに引き返そうとする――その瞬間に気がついた。アンリときたら、また寝間着のボタンを掛け違えている。わざとやっているのではないかと勘繰ってしまうほど、よくあることではあるのだが。

 ぼくはへたりと眉を下げ、華麗に鍵盤を叩く彼のすぐ背後に立った。胸元にそっと手を回し、手探りでボタンを外したり嵌めたりする。この上なく邪魔なはずだが、少しも動じずに演奏を続けるアンリは、やっぱりアンリだなと思う。

「どうして」ひとりごとのように呟く。「どうして、きみみたいな人が、ぼくなんかのところでショパンを弾いてるんだろう」

 大円舞曲グランドワルツは止まない。

「ただの気まぐれ? それとも、ぼくが流されやすいお人好しだから?」

 どうして今、そんな事を訊いてしまったのか――たぶん、特別だと思いたかったからだ。ぼくの推しが彼でしかあり得ないように、彼にもぼくでないといけない理由がある。それがあの暗号や、斎藤さんと関係している。そう信じたかったからだ。

 けれどもし、特別なんてどこにもなかったとしたら?

 とたんに答えを聞くのが怖くなって、曲が終わる前にレジ袋を取りに向かった。やっぱり車で寝てしまいたかったが、アンリを待たせたままにはできない。

 意気消沈してコンビニ袋を持ち帰ったぼくに、アンリは音話ことばでは何もいわなかった。デスクでサンドイッチをちびちびと平らげ、頬杖をついたぼくが完全に力尽きるまで、ショパンのバラードを弾き続けた。

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