18・エリーズ嬢①
シ
アンリはそういって、いつものようにほんの少し間を開けてから「♪♫♪」と短い旋律を鳴らした。〝妹〟の出来上がりである。
世界的ピアニストに無謀な勝負を挑んだお騒がせマダムの正体は、アンリ・ルノワールの妹――エリーズ・ルノワールだったということらしい。どうりで彼女の「
「それならそうと早く言ってくれればよかったのに」とぼくは言った。
ピアノの前で不貞腐れている彼は ――いったら汎音、絶対に帰さない。 と反論する。当たり前だ。うら若い女性を追い払うだけでも難儀なのに、推しの身内と聞いて無下にできるはずがない。
この通り、ぼくとアンリは会話ができるといってもピアノを用いる前提である。それをエリーズ嬢――と心の中で呼ばせてもらうことにする――に申し伝えると「ならワタシたちは外でいいわ」と言い、戸惑う都さんを連れて颯爽と行ってしまった。講師として取り返しのつかないところまで来てしまっているというわけだ。無責任にも程がある。
「それにしても、どうして〝早く帰ってこい〟じゃなくて〝勝負しろ〟なんだろう? わざわざパリから遠く離れた日本にまで追いかけて来てさ」
アンリが返したのは、ソシ、ファ
本当に心当たりがないのか疑わしいところだが、アンリにはぐらかされるのはいつもの事なので、ぼくはデスクに置いていたスマホを手に取り、チャットAIに〝エリーズ・ルノワールについて教えて〟と訊ねてみた。ぼく自身驚愕を禁じ得ないのだが、推しの妹である彼女についての知識をほとんど持ち合わせていなかった。
AIが返したのは――フランス人ヴァイオリニスト、一八歳。フランス国内のコンクールで得た実績は上々で、国際コンクールの入賞経験もある演奏系動画配信者――といったような概要だ。チャンネル登録者数は一五万人。これは多いのか、少ないのか。チャットAIがいうには、多いとはいえないが、少なくはない、ということらしい。ふむ。
「いっそ勝負を受けてみるのはどう? 彼女、何が何でもって感じだったし、納得して帰ってもらうのがお互いのためだったりするんじゃないかな」
――面倒。それに……
口籠るようにアンリの指が止まる。ぼくが首を傾げると、彼は鍵盤からそっと指を離してしまった。アンリの無表情をだんだん見分けられるようになってきたぼくに言わせると〝やや険しめの顔〟で。ぼくは眉を下げる。
「事情も知らないのに勝手なことを言っちゃった。アンリの負担になるなら、無理に受けるべきじゃない」
ぼくが言うと、アンリは小さく首を振った。
――汎音は正しい。勝負する。
「えっ……?」
――手伝え。
「え……ええっ?」
アンリは勝負するならデュオだという。もちろん分からなくはないが……
「それってつまり、ぼくがアンリかエリーズさんと組むってこと……?」
――汎音のヴァイオリン、下手くそ。
「はいはい。それじゃあさ、都さんならどう?」
ぼく自身が驚くほど突飛な提案だったが、彼はイエスと即答である。
ならばもう、ぼくも腹を括るしかないじゃないか。
勝負の段取りはとんとん拍子に進んだ。言い出しっぺのエリーズ嬢があれこれ請け負ってくれたのと、都さんがアンリのパートナーを二つ返事で了承してくれたおかげだ。あの都さんが!
いくら筋金入りのあがり症であるとはいえ、あのアンリ・ルノワールとデュオを組めるチャンスを棒に振る方が難しかったのだろう。ぼくが彼女の立場だったなら――考えるより先に頷いて、後々頭を抱えていたに違いない。
エリーズ嬢は勝負の日取りをこの三連休の最終日、月曜の午後五時と定めた。三日間みっちりリハーサルをしてからの本番ということになるが、残念ながらぼくの研究室に二組のデュオが同時に演奏できるような設備はない――といった事情で、エリーズ・ルノワール襲来から一夜明けた今日、ぼくはエリーズ嬢を村の宿泊施設まで迎えに上がり、キャンパスまでやってきた。宿泊施設は主に非常勤講師やCMVの招待客の利用を想定して構えられたビジネスホテルで、歩けないほどの距離ではないのだが、エリーズ嬢たっての希望で送迎は車だ。そのためにわざわざCMVの業務用車両をレンタルした。
問題は練習室の空き状況だが――よかった。休講日であることが幸いし、CMVポータルの予約システムで見ると空きの方が目立っている。
予約システムに表示された番号をドアロックに入力し、ぼくたちはデュオサイズと呼ばれる八畳ほどの練習室に入った。中の設備は一台のアップライトピアノと長テーブル、譜面台といたってシンプルだ。
本来ならCMVの学徒であるアンリと都さんの方が気兼ねなく利用できたのだが、どの練習室も外から中の様子が見学、あるいは監視できるよう壁の一部がガラス貼りになっている。ただでさえクラシックに関心の高い音大のパブリックな場所に一般層からもアイドル的な人気を集めているアンリ・ルノワールが長時間居続けるとなると、いくら休日とはいえパニックは避けられない。
よって致し方なく逆の割り振りになったのだが、エリーズ嬢の華やかな容姿も十分目立ってしまっている。アンリがキャンパスをうろつくときのように色めき立った女の子たちの黄色い悲鳴が上がったり、黒山の人集りができたりするような事はないにしろ、ガラスの向こうでは常に誰かが中の様子を窺っている。その中には配信者としての彼女の顔を知る学生もいるのかもしれない。ああ、嫌な感じだ。何がって、そのくらいのことで萎縮してしまっているぼく自身が。
ふうと息をつき、できるだけ外を見ないようにしながらラの音を鳴らす。それを聞いてさっと調弦を済ませたエリーズ嬢は「よし、じゃ、肩慣らしに一楽章通すわよ」と言ってヴァイオリンを構えた。ついぎょっとして息を飲むぼくに突き刺すような視線で問う。
「何? 無理だって言いたいの?」
「……いいえ。どうぞ、始めて下さい」
エリーズ嬢は外からの視線なんてものともせず、凛と構え、弓を引く。冒頭四小節はヴァイオリンの独奏だが、正直あまり聴く余裕がない。
――大丈夫。自分に言い聞かせる。ここはステージの上ではないし、今から弾くのは伴奏だ。誰もぼくなんか見ていない。大丈夫。大丈夫――
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