拝見いたしました。
自分で判定すると南西くらいに言いそうなところですが、このラインだと西に比重が寄るんですね。
ざっくばらんのてんでばらばらに感じながら、この中に人生を見出せそうな気がします。それが西の感覚かもしれません。
興味深いものを読ませてもらいました。ありがとうございます。
作者からの返信
感想ありがとうございます!
サンプル数は少ないので精度は高くないのですが、かなり西が強くて南はあまり強くない作品だと考えています。
なるほど、これが西南西なのですね。
読み始めた時に、これは散文詩に近いものだと感じました。そのため、私は詩を読むようにして、この作品を拝読しました。
もちろん、私は方角初心者ですので、詩のように感じたという読み方自体間違っている可能性もありますが。
個人的には、こういう作品を書ける方はカッコいいなと思います。読めば読むほど好きになる作品でした。
詩を書いた経験がある身としては、この方角の作品にいつか挑戦してみたいなと思いました。
作者からの返信
感想ありがとうございます!
本作および南は詩に発想を持っているわけではなく飽くまで小説に発想を持っているわけですが、既存の概念で本作および南を捉えるときには詩(特に散文詩)は要領を得やすいと思います。
ただ小説と詩の境界線が曖昧であるように、散文詩の定義が曖昧であるように、そしてそこを明確にしようという試みが不毛であるように、西南西および南の定義付けも曖昧かつ不毛であると考えます。
泡沫さんが「散文詩に近いもの」とぼやかしてくださっているとおり、西南西および南はそのまま受けとるのが相応しいと考えます。
こんにちは、企画ページからお邪魔させて頂きました。
こ、これは、すごいですね!!
西南西、なるほど、抽象、昇華とは、こういうことなのか…とガツーンと衝撃を受けました。
言葉に表現するのが大変難しいのですが、なんというか、人間の頭の中に存在する混沌が、そのまま描かれているというか、居心地が悪く、もやもやして、でもなんだか心に刺さる、そんな印象です。
言語による前衛芸術とでも申し上げれば良いのでしょうか…私のような初心者が感想を申し上げるのはおこがましいというか、恥ずかしい限りなのですが、そんな、強烈な印象を受けました。
不思議で貴重な読書体験をさせて下さり、ありがとうございました!
作者からの返信
感想ありがとうございます!
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人間の頭の中に存在する混沌が、そのまま描かれているというか、居心地が悪く、もやもやして、でもなんだか心に刺さる
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良い読み方だと思います。
への応援コメント
南方向は結構憧れる方向性なので、勉強がてら読ませていただきました。
1回目。ざっくり読んだ感じでは、『言葉が崩れている個所』と、『整然としている個所』が繰り返されていて、『崩れている個所』ではすごく「嫌な気分」を表現されていて、『整然としている個所』では淡々とした「日常描写」をされているような印象を受けました。
タイトルが「悪心」とあるように、吐き気の波が定期的に襲ってくるような感覚を表現されているのかなと感じました。
僕=全体の主観および『崩れている個所』の感覚を感じている人。
男=『整然としている個所』で僕が俯瞰的に捉えている人。
で、僕と男は同一人物。という感じかな?
2回目。もう少しゆっくり読んでみました。
エキノコックスは多分本来の意味のそれというよりも漠然とした寄生虫的な、「気持ち悪い取り付いているもの」という象徴なのかな。それが右腕にある気がして、切り捨てたい。でも怖い。そんなことしたら命を落とすかもしれないからと、後生大事に右腕を抱きかかえる。叩き潰したってエキノコックスはアナフィラキシーショックを起こすこともあるんだから。ああ怖い切り捨てたい。。この辺、リスカの衝動とかかな?
で、葛藤している間に空が白んで、精神状態がちょっと回復。
朝ごはんを食べて卵を使い切って達成感。よかったね。
>生き永らえようとするなんて恥ずかしい。
ここがやっぱり希死念慮を匂わせていて、前述のリスカ衝動を補強してる感じがする。
ある日に僕の男が歩いている辺りの描写は、一人で歩きながらつらつらととめどない考え事をしている感じを表現しているのかなと思いました。最初の方は整然としていて、だんだん混沌としてくる。ひとりで思考を内面に沈めて行くにつれて、『男』から『僕』に視点が寄って行ってる感じ。
『虹彩たなびく小宇宙』は、父子のキャッチボールと無関係の女性とベンチの男性がいる公園の風景を見ている様子。父子のキャッチボールに対して、羨望の眼差しなのか、何かを思い出しているのか、その辺りはよく分からないけれど、まるで写真として切り取られたみたいに印象に残ったんだろうなと思いました。
またある日、プリンを買って食べて、幸せな気分になった。
夜は多分いつも冒頭みたいな希死念慮が襲って来る時間なのかな。『男は夜を泳ぐ』からの部分は、また内面の深みにはまってもがいてる様子が分かります。夜に生きているだけで指にこけらが刺さるような感じに始まって、要するに普通に生きることの難しさとか、人を平気で攻撃できる人は良いねとか、とにかく生きているだけでキツイよ、みたいな感じの印象。
>脳の皺を擦って洗おう、呼吸の止まるそのときだけを待っていよう、浮き凍み剃った義肢の宵、水底の土くゆりを慰めにして。
ここで、自然と死ぬ時まで、考えすぎるのを辞めようという結論に至ったのかな。
後日、『夜』にシチューを作るとき、包丁が指に当たったけど、切れていなかった。冒頭のリスカ衝動からの、少しの精神的回復を描いているのかなと。
ここまで、全部私の、ただの妄想的推測でしたが、仮にこの解釈でいくなら、個人的にはもっと南寄りに感じました。
ただ、「西南西」とされているのは、この『崩れている個所』と『整然としている個所』の繰り返しであるとか、冒頭の衝動が最終的に少しの回復を見せていることによって、その間の内面的な葛藤を『その根拠』として描いている部分とか、そういった構成的な要素を「西」と捉えるということなのかな、と思いました。
主人公の脳味噌の中を泳いだような、すごく深い沼を歩いて渡ったような、不思議な充足感を覚える読後感でした。
大変楽しく読ませていただきました。長文失礼しました。