4-8 隣村の診療所
長いのか短いのかもわからないほどに深い眠りの中にいた葵依は、誰かが耳元でささやいた気がして、目を覚ました。
しかしまぶたを開けて横を見てもそこに人影はなく、見えるのは真っ昼間のまぶしい太陽の光に満ちた窓ガラスの向こうに生えている木々と、暗く日陰になっている室内であった。
(全然知らない、見たこともない部屋だ)
真新しいがこじんまりとした洋室には、何かの瓶や分厚い本が並んだ棚が並んでいて、全体的に消毒の臭いが漂っている。
混乱したまま布団から身体を起こそうとして、葵依は自分が水色のやわらかい布地の単衣を着て、小学校の保健室でしかみたことがないような金属製のベッドに寝ていたことが気がついた。
(普通の民家ではなさそうだけど……)
村で死病が流行したことも半分忘れていた葵依は、記憶を遡って自分の置かれている状況の把握を試みた。
そうして湖を目指して家を這い出たところまで思い出したところで、ドアが開いて一人の男が入ってきた。
「お、普通に回復したようだな。目の様子が少し、おかしいが……」
くすんでくたくたになった白衣に身を包み、無造作に髪が伸びているわりに洗練された顔立ちをしているその男は、挨拶もせずに葵依のいるベッドに近づいてきた。
そして男は無遠慮に葵依を見下ろすと、やにわに葵依の頬を掴み、細い懐中電灯で目に光をあてた。
眩しさに葵依は目をつむったが、男は指で強引にまぶたを開かせる。
懐中電灯の光でよく見えなかったが、男は葵依の目を観察しているようだった。
右目が終わったと思うと、次は左目に同じことをされる。両目分きっちり観察してやっと、男は葵依を解放した。
「何で、こんなことするの」
男の手の冷たさも、懐中電灯の人工的な光も不快だった葵依は、寝台の上から男をにらみつけた。
男は村にいた人の誰よりも背が高くて健康に見え、育ちが良さそうで紳士的な雰囲気であるところもあるのに、やることは強引だった。
質問にどう答えるべきか一瞬迷った様子を見せた男は、すぐに思いついた顔をして後ろの棚の引き出しから大きくて重い手鏡を取った。
「だってほら、お前の目は赤くて、変に光っているだろ」
男は葵依に手鏡をのぞかせて、その目の異変を説明した。
その言葉の通り、葵依の実年齢以上に幼く見えるどんぐり眼は、元々はごく普通に黒かったのに、今は血のように赤い不気味な色をしていた。そのうえ薄暗い日陰の部屋にいる葵依の目は、あの湖と同じ青白い光をうっすらと発しているのがわかって、まるで悪いものに取り憑かれたように見えた。
「あの病気のせいで? でもどうして目だけ……」
生きている人間のものではないような自分の瞳の色を見て、葵依は怖くなって目を見開いたが、すぐにそれよりももっと恐ろしく変わり果てた姉の姿を思い出した。
葵依は改めて自分の身体をよく見て触ったが、目の色が違うこと以外は、日焼けした肌も爪の形が悪い手もどこも変化がなかった。
「翠古村ではみんな、お前以外は酷い死に方をしていた」
葵依の疑問に先回りするように、男が静かに無情な大量死を告げる。
他に生き残りがいないことは何となくわかっていたうえ、家族も幼馴染も知り合いも、みんな死んでしまったこととじっくり向き合うには不可解なことが多すぎると思った葵依は、死者を悼むよりも先に男に向き合った。
「私は瀬田葵依。瀬田益蔵の次女で十一歳の葵依。お兄さんは、一体何なの」
「俺は医者だ。
葵依が自分の名前を教えると、男は初対面であることをすっかり忘れていた様子で名乗った。
「守谷って確かあの、やぶ医者って評判の……」
隣村にある病院として名前を聞いたことがあった葵依は、思わず失礼なことを口走る。
だが倫之助は気分を害したそぶりはまったく見せずに、淡々と事実は事実として認めた。
「確かに俺は治療というものが苦手で、開院直後に患者を四人ほど死なせた。それからまったくほとんど、この診療所に来る患者はいない」
倫之助は妙に堂々とした態度で医者としての腕の悪さを語ると、今度は棚から薄い紙の雑誌を何冊か取り出して目次を葵依に見せた。
「だが研究方面では悪くはない立ち位置で、投稿論文が学術雑誌に何回か載っていて、しかもそれなりに評価も引用もされているんだ」
薄黄色の紙の束に印刷された細かい文字は、難しい漢字やカタカナが並んでいて葵依にはまったく何が書いてあるのかわからなかったが、鈴之介の長い指の先にある人名は確かに守谷倫之助と書いてあるように見えた。
「お前のいた翠古村を見に行ったのは、論文のためでもあり、一応人助けのためでもあった。学会のために東都に出かけていた関係で調査が遅くなり、残念ながら俺はあまり役に立たなかったが、お前を含めて興味深い情報は手に入った」
倫之助は大事そうに薄い紙の本を棚に戻すと、近くにあった木製の小椅子に腰掛けて、意外と若く賢そうな顔にかすかな微笑みを浮かべて葵依を見つめた。
その態度に感謝をすればよいのか、それとも怒りを覚えるべきなのか、わからなかった葵依は黙ってこちらからも男を観察した。
葵依が何も言わないでいると、倫之助は半ば独り言のように、饒舌に持論を話し続けた。
「あの死病の原因はおそらく、皇国軍の新型兵器のための
勝手に広がっていく倫之助の考察は、女神が湖にいると思っていた葵依にはちっとも理解できない内容で、質問したところでわかるものではないことは明らかだった。
だから葵依は、倫之助の言葉を遮って、他のことについて訊ねた。
「それならお兄さんのおかげで、私は助かったってことだよね」
きっとそうなら感謝の言葉を述べなければいけないと、葵依は思っていた。
しかし倫之助は葵依の問いに首を横に振り、開業医としてはやぶだと認めたときと同じように正直に受け答えた。
「いや、違う。俺は三日前にお前をこの診療所に連れてきて寝かせただけで、特別なことはしていない」
早口だけど聞き取りやすい、すっきりとした倫之助の声が葵依の期待を突き放す。
倫之助は何でも知っていそうな表情をしているわりに、葵依が知りたいことの答えは何も持ってなかった。
「じゃあ、なんで私だけが生きているの?」
聞いても無駄だという確信を持ちながらも、葵依はだんだん腹が立ってきて問いを重ねた。
もうすぐ死ぬから何も考えずにいたのに、これからも生きるなら何かを考えなくてはならない。
その現実が、葵依を苛立たせた。
家族も何もかもを失えば悲しい気持ちになると思っていたのに、実際の葵依はどちらかというと怒りを感じている。
ただ一人生き残ったうえに瞳の色をおかしく変えられて、不当な罰が当たったような気分だった。
「それは俺にもわからない。わからないことがあるから、学者は研究するんだ」
倫之助が腕を組み直し、本人としては実感こもっているのであろう言葉を述べる。
患者の葵依が肩を震わせていても、倫之助は対応はどこか無感情でずれたものだった。
そして博識だからこそわからないものはわからないと開き直る強さがあるらしい倫之助は、そのまま適当に思いついたことをまた話しだした。
「だが、あえて宗教がかった説明をするなら、お前は西洋の国々にいるという『聖女』のようなものなのかもしれないな」
「せいじょ……?」
生まれてこの方聞いたことがない単語に、葵依は言葉を学ぶ赤子のようにおうむ返しに繰り返した。
すると倫之助はそれについては意外とわかりやすく、言葉の意味を説明した。
「火刑にされても、死病にかかっても、神に愛されているから死なないのが聖女だ。彼女たちは西洋では神に近い存在として敬われて大切にされていると、昔読んだ洋書に書いてあった」
洋服すら縁遠い葵依にとって、西洋の神への信仰はまったく接点がないもののはずなのに、不思議なほどにすぐに聖女については理解できる。
それは葵依のいる皇国に生きている神々とは別のものであっても、同じように人に信じられている神にまつわる話だからかもしれないと、葵依は思った。
倫之助の方も皇国の民として、ごく普通に神々の力を信じているようで、何のてらいもなく神を語った。
「俺は信仰心がある方ではないが、この国の神々を支える仕組みの中にも、そういうものがいてもおかしくはないのかもしれないな」
それは適当で当てずっぽうな推論で、何か根拠があるものではなかった。
だがそれゆえに、倫之助と初めて会って何も信用できていない葵依も、多少は信じることができた。
(私が生きていることにも、悪くはない意味があるのなら……)
倫之助には何も言葉を返さず、葵依は窓の向こうに見える雑木林を見つめて心を落ち着けた。
だんだん秋が近づいて低くなっている太陽は、ほどよい強さの日差しで森の木々を照らしていた。
考えてみると葵依は、姉や両親と違って、身体が光ったことも、体中が腐り落ちて布団を血で染めたこともなかった。
死病が湖の女神の呪いではなく、倫之助の言う鉱山の砂のせいであるのなら、葵依は自分が死ななかったことこそが女神の祝福なのだと信じたかった。
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