第15話 芦屋道満という男


――芦屋道満


 男性の口から、そう紡がれた名前に動揺してしまった私とは裏腹に、師匠はというと、いたって冷静だった。

 芦屋道満と名乗った彼は、少しばかり胡散臭く思えてしまうほどの満面の笑みを浮かべて、こちらに向かって手を差し出してきた。


「ってことでぇ、どうぞ、これからよろし……」


 彼が言い終える前に、そして差し出された彼の手を私が握り返す前に、彼の頭をめがけて振りかぶられた陰陽頭さんの拳が、きちんと彼の頭頂部に直撃した。

 彼の頭にはまぁまぁ痛そうな鈍い音と同時に、そこそこ、いや、かなりの衝撃が走ったようだった。


「陰陽頭!痛いよ!何すんのさ!暴力反対だよ!」


 少々涙目になりながら、抗議の声を高らかに上げる彼に、陰陽頭さんは間髪入れずに叱りつけた。


「やかましい!どこに誰がいるかわからんこの宮中で、ペラペラと名前を豪語する愚か者を戒めたまでだ!」


 陰陽頭さんの剣幕に私たちが押され、圧倒されている間に、さらに陰陽頭さんは語気を強めたまま、言葉を続ける。


「ただでさえこの宮は魑魅魍魎が跋扈しているというのに、今や、力ある中宮様の生家が焼失し、さらに混沌のさなかにあるこの宮で!仮にも名のある陰陽師でありながら、名前を言いふらすような痴れ者には相応の対応だろう!最初の頃に名前の重要さを教えてやったはずだが!?少し離れたら忘れるとは!」


 眉を寄せて怒る陰陽頭さんの言葉の内容は、私がこの世界に来てすぐの頃に、師匠に強く言い含められたものだった。

 この世界、特に宮中などの場所で生きる者にとっては至極真っ当な言い分なのだそうだが、怒られている当の本人は暖簾に腕押し、心には響いてはいないことは手に取るようにわかる。


「あぁ、なんだ、そのこと?陰陽頭様の有り難い講釈は忘れちゃいなかったけど……安倍晴明には知っておいてもらいたかったからさ!」


「忘れていなかったならなおさら悪い!無知も理由にはならんが、知識があり、悪いと知り得ながら行う悪行が一番たちが悪い。それに、その言い訳は何だ?まったく理由にになっていないだろう」


 謝罪の言葉などは一切なく、へらりとした笑みのまま言い返した彼を見て、陰陽頭さんは頭を抑えながら、首を横に振ってため息を吐いた。

 二人の不毛とも思える問答、その光景を師匠は睨むようにみつめてから、ほんの一瞬だけ眉を寄せた。

 けれどそれだけで、すぐに陰陽頭さんに向き直り、いつものどこ吹く風といった涼しい声音で揶揄混じりに言葉を紡ぐ。


「芦屋道満、ですか。名前を聞かせていただけて光栄ですけど、聞かない名前ですね」


 師匠の言葉に、未だ頭が痛いと言わんばかりに、こめかみを押さえながら陰陽頭さんは答えた。


「まぁ、本来聞かせるつもりもなかったからな。この者は普段、道摩どうまと名乗っている」


 陰陽頭さんいわく、師匠が他者から安倍晴明と呼ばれているように、芦屋道満さんは道摩という呼び名で、巷では活躍しているらしい。

 先程、彼が名乗った名は忘れて、これからそう呼ぶように、と陰陽頭さんが言ったので、私は素直に了承した。

 道摩さんのためを思った陰陽頭さんの行動は正当なはずなのに、何故か道摩さんは不服そうに口を尖らせていた。

 師匠も了承しつつ、歯に衣を着せず、さらりと失礼なことを面と向かって言い放つ。


「道摩、の方も聞き覚えがありませんけど。本当に陰陽師なんですか?」


「俺は庶民出だし、安倍晴明ほどは有能じゃないから、たいして目立たないんだよ」


 不躾な師匠の言葉を浴びせられた彼が、ちらりと私を見て、指先を揺らす程度に軽く手を振って笑いかけてきた。

 師匠の言葉を気にしていない様子への安堵と、その胡散臭いほど人の良い笑みにつられて、思わず彼に微笑返す。

 私は師匠の過保護さを知っているから、しまった!と思ったけれど、時すでに遅し。

 師匠は見るからに不機嫌になり、眉をしかめて、咎めるような瞳を私に向けた。

 申し訳ないという気持ちを全面に押し出して、眉尻を下げながら、謝罪の色を込めた瞳で、師匠を見つめ返した。

 師匠と私の瞳が暫し、かち合う。

 そこには一切の言葉はなかったけれど、互いは声に出さなくとも、ある程度は意思疎通できてしまうほどの仲であることは自負している。

 その証拠に、師匠は困ったように微笑んで、肩すくめてみせてから、優しい笑みを浮かべて言った。


「まぁ、いいでしょう。そちらの方も、陰陽頭も、話が終わったなら、ここから退室していただけますか?ここは、安倍晴明の自室ですよ」


 誂うように言葉を紡いだ師匠に、再び頭を抑えて深い溜め息を吐く陰陽頭さん、そして、あまり感情の読めない瞳で私たちを見つめる道摩さん。

 稀代の陰陽師である安倍晴明とそのライバル芦屋道満の出会いは、私が想像したものよりあっさりと和やかに終わったけれど、その裏のどこかでほのかに静かな思惑も揺れている気がした。

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