第14話 望まぬ来訪者

 それから六日後のここでは珍しいひどい吹雪の休日だった。まだ三時なのに薄暗い。二人はすっかり剥げた土壁に寄りかかり腕を絡ませていた。愛玲奈あれなは凪沙の肩に頭を乗せ、凪沙はその愛玲奈あれなの頭に頭を乗せていた。ちゃぶ台の上には愛玲奈あれなが買った安いアロマキャンドルの炎が隙間風にゆらゆらと揺らめいていた。室内に安っぽい甘い匂いが充満する。


「ねえ、今日誰かの誕生日だっけ」


 愛玲奈あれながかすれ声で囁く。


「ううん、誰の誕生日でもない」


 凪沙も静かに囁く。


「じゃあなんでロウソクを灯すの」


「きれいでしょ」


「うん…… きれい…… ずっと見ていたくなる。それにいい香り」


「そ? よかった」


 愛玲奈あれなはうっとりした表情で熱い吐息を吹きかけながら凪沙の首筋をそおっと唇でなぞる。背筋がぞくぞくした凪沙は愛玲奈あれなのさせるがままにする。愛玲奈あれなはこうして凪沙をその気にさせるのがとても上手だ。愛玲奈あれなの唇と舌は熱い吐息とともに凪沙の耳を舐めて通過し頬に触れる。愛玲奈あれなの身体が風邪を引いたわけでもないのに燃える様に熱く火照っている。その頃にはもうすっかり凪沙も愛玲奈あれないざないに負け、顔を傾け唇を愛玲奈あれなの唇へと向かわせる。

 まもなく、あと三ミリで二人の唇が重なる頃、汚い音を立ててけたたましく呼び鈴が鳴った。二人はビクッと震えてドアを見る。凪沙よりは少し背の低い人影が玄関ドアのすりガラスに映っている。


「だれ……?」


 愛玲奈あれなが怯えた囁き声を漏らす。


「判らない……」


 凪沙も緊張した囁き声を吐く。


 もう一度苛立たしい音を立ててブザーが鳴る。


「出るの?」


「ああ」


「いやよ私怖いっ」


「大丈夫。大丈夫だから」


 もしこれが古郷こきょうからの追手だとしたら、今は居留守でやり過ごしたとしても、必ずまた接触を取ろうとするだろう。ならばいっそここで。凪沙はもう使うことがないだろうと、バッグの奥底にしまっていた特殊警棒を引っ張り出す。勢いよく振ると、擦れたような高い金属音をあげて伸びる。


 また耳障りな音で呼び鈴が鳴る。


 凪沙はドアの前まで行ってすりガラスの向こうの顔を確認しようとしたが薄暗いせいもあってさっぱり判らない。


「だれ?」


 反応はない。代わりにもう一度呼び鈴が鳴るだけだ。凪沙は腹を括ってドアをいきなり開けた。特殊警棒を構える。猛烈な雪と風が吹き込んできてアロマキャンドルの火が消えた。愛玲奈あれなが恐怖で息を呑む。


 逆光でよく見えない黒い人影は女性ながら震えあがるほどどすの効いた声で凪沙に言い放った。


「親に向かって何しゆうがぜ、このたわけ」


 よく聞いた声だった。母の淑枝としえだった。


「かあ、さん……」


 凪沙が呆然としていると、淑枝は分厚くてがさがさで皺だらけで陽に焼けた手のひらで力いっぱい凪沙を平手打ちした。頬がはたかれる大きな乾いた音がする。凪沙はそのまま尻餅をついてしまった。淑枝は靴を脱いでずかずかと六畳一間の部屋に上がり込み、拳で凪沙に更なる一撃を加えようとした。二人の間に愛玲奈あれなが両手を広げて割って入る。


「ちくとどいちゃあせんか、いとさん」


「どきません。お母様」


「いとさんに、お母様やなんて言われる筋合いはないがよ」


 二人はしばしにらみ合う。がやがて淑枝は忌々しそうな顔をしてちゃぶ台の前にどっかと腰を下ろした。

 愛玲奈あれながいそいそと逃げ出すように台所に上がりお茶を入れようとする。淑枝は肩越しに振り返って、やはり凄みのある声で言った。


「やめてつかあさい。藤峯のいとさんに、そんなことさせるわけにはいかんき」


 それでも愛玲奈あれなは誰にでも分かる震え声で、しかしはっきりと答えた。


「わっ、私っ、私もうお嬢様じゃありませんからっ、これぐらいのことはしますっ」


 その頃には凪沙も気を持ち直し母と正対する位置に座った。愛玲奈あれなは湯飲みを淑枝の前に置き、自分はマグカップを使う。


 十秒の沈黙ののち淑枝が凪沙に言い放った。


「なんぜ、こんなことになっちゅうがぜ?」


 淑枝の詰問に凪沙は悲痛な表情を浮かべ沈黙して俯いた。愛玲奈あれなも凪沙にくっつくくらい隣で沈黙して俯いた。言っても理解されるはずもない。言ったところで怒りと嫌悪が増すだけだ。なら沈黙するしかないではないか。


「おんしらぁがおらんなってからっちゅうもん、村中でおんしがいとさんをたぶらかしてかどわかしたっちゅうて噂の的になっちゅうがや。わしや千絵の身にもなってみい」


 千絵と聞いて凪紗はびくりと震えた。

 その通りだ。二十九も上の男との縁談が来て、凪沙と別れたくないと力なくすすり泣く愛玲奈あれなに、じゃあ一緒に逃げようかと凪沙は囁いたのだ。そうだ。わたしがたぶらかした、そそのかしてかどわかしたんだ。千絵を置いて。


「……それは、当たってる。わたしがそそのかした」


「なんぜや?」


 淑枝は明らかに怒りのこもった声で詰問する。


「私に縁談が来たからです」


 愛玲奈あれなが身を乗り出し真剣な眼の色で淑枝に食いつくように話しかける。愛玲奈あれなの方を向いた淑枝は怪訝そうな顔になる。


「どいて? いとさん、何言いゆうがか分からんがよ」


 淑枝は再び凪沙の方に顔を向ける。


「いとさんに縁談が来たがを、おまん、哀れんだがか? ほいたら妬んだがや?」


「私を救い出すためにです。あれは私の望んだ縁談ではありませんでした」


「望まん縁談やと? ほいたら手ぇ取り合うて逃げたっちゅうがか?」


「はい」


 愛玲奈あれなは深く頷く。凪沙がこれほどまでに強い意志をみなぎらせた愛玲奈あれなの瞳を見るのは初めてだった。


「ほいたら、これからどうするっちゅうが?」


「ここで暮らします。死ぬまで」


「……死ぬまで、がか?」


 淑枝は初めて驚いた表情をした。


「はい……」


「望まん縁談か」


 淑枝は独り言ちた。そして愛玲奈あれなの方を向いてしっかりとした声で言う。


「いとさん。この縁談はみなを助けるがよ。そんなしゃあしい(大切な、重要な)縁談やき」


「どういうこと?」


 凪沙は思わず訊いた。淑枝はまるで凪紗などいないかのように話を続ける。


「鷺宮の坊ちゃんは正直、四十九にもなるくせに嫁も取らん、ちくと変わっちゅう人やけんど、藤峯の家業はいとさんが思いゆうほど順調じゃないがよ。ほんまのところ、もう傾きかかっちゅう。藤峯の家を守るには、鷺宮の財力がいるがやき。そのための結婚や。この際、変わり者じゃろうが何じゃろうが、えり好みしよる余裕はもうない。 このままじゃ、藤峯の家は潰れるがで。」


 最後の言葉に凪沙も愛玲奈あれなも動揺した。


「潰……れる?」


 さっきまでの強い意志を見せていた瞳からすっかり力が失せる。


「そんなばかな。大体なんでそんなこと知ってんだ」


 凪沙が母の言葉を否定しようと試みるが、見下されたような目で淑枝に一蹴された。


「そんなん、知っちょらん奴ぁおらんちや。そりゃあ知らん奴は、耳の穴がそこらの木の穴みたいになっちゅうがやろう」


 淑枝は凪沙を睨んで吐き捨てた。


「もうひとつ、ええことない知らせがあるがよ」


「なに?」


 凪沙の声を再び淑枝はきっぱりと一蹴する。


「われには関係ないがや」


 そして淑枝は愛玲奈あれなに向かって言葉を続けた。


「実はおんしらぁがおらんなってすぐ、旦那さんが寝込んじょったがよ」


 愛玲奈あれなが息を呑む音が聞こえた。


◆次回 第15話 生涯の愛

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