第33話 呼ばれている
疲れきった顔をしたお年寄りが、白い廊下を車椅子でゆっくりと進んでいく。
足を怪我した人が、痛そうに足を引きずりながら補助用具を使って歩いている。
優しげなお母さんが、辛そうな小さなお子さんの手を引いている。 風邪だろうか、ひどい咳をしている。
医師たちが思案顔を着て通り過ぎ、看護師達が忙しそうに押す病人を運ぶベッドが頻繁に行き交う。
日中の病院は、たくさんの人々が集まり騒がしく賑やかな場所である。
しかし、大きなガラスのドアからのぞく外の景色が、まるで墨で塗りつぶしたように漆黒に染まるころ、まばらに訪れる見舞い客も既に途絶えて、病院はいま夜の刻を迎える。
日中は、まるで朝の駅構内のように騒がしく混み合っていた広い廊下も、行き交う人が途切れ今は誰もいない。
水分を摂り過ぎたのだろうか、急に用を足したくなって、病室から少し離れたトイレに行った帰りである。
真っ直ぐに続く廊下を曲がった先には、いつもの自分の病室がある。
何故だろう? 今日はいつもより自分の病室が遠い気がする。
夜の病院は、まるで無人の館のようであり、疎らに点灯する蛍光灯が心細い。
寿命だろうか? 古い蛍光灯が青白く点滅し、白い床が鈍く光っている。
何の飾りもない真っ白な壁に、墨色の濃い闇が静かに漂っている。
真っ直ぐに続いている長い廊下の先に、照明が届かないのだろうか、黒く重い闇が不気味に留まっている。
特に理由はないのだが、何故か不安な気持ちが頭を過る。
ここは大きな病院であり、救急指定の総合病院であるため、命に関わる重篤な患者も多くいるだろう。
今日は、亡くなった患者さんはいたのかな。そんなことを考えながら廊下をゆっくりと進むと、廊下を流れていた空気が、突然、息が白くなるほど急激に冷え込む。
廊下の先に不安気に留まっていた濃い闇が、まるで私を待っていたように、ざわめき渦巻き蠢き出すような気がした。
目の錯覚だろうか?闇の中にぼんやりと白い影が浮かんだように見える。まるで人が佇んでいるように。
自分の病室に向かって歩いているのに、なかなか前に進まない。でも立ち止まりたいけど足が止まらない。
「ペタッ ペタッ ペタッ」
自分の足の運びと床を叩くスリッパの足音が、まるで合っていない。
頭の中が膜で包まれたように、日常が遠退き、意識が闇に共鳴し溶けていく。歩いている病院のいつもの廊下が、別の世界に繋がっていくようだ。
進む先にある深い濃い闇の中から、白く溶けた頭の奥に、この世のものではない声でない声が低く妖しく響く。
『おいで こっちにお い で』
行きたくない、戻りたいのに、気持ちとは裏腹に吸い寄せられる足。遠のいていく意識と不安に震える心。
先輩の入院患者に何度か聞いた話が、頭をよぎった。呼ばれた声に引き寄せられた者は、二度とこの世には戻れないと。
『さあ おいで』
闇のなかから呼ばれている・・・・・
もう二度と自分の病室に、今居る世界には、戻れないかもしれない・・・・・
招かれて 希藤俊 @kitoh910
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