第33話 黒い煙

 ぐっと腰を落とし、床を蹴った。

 沙凪との距離が十分にとれると、神谷は誘うようにイミューンの横に回りこむ。

 イミューンは神谷を追って、平手を繰りだす。

 神谷は身をかわしながら、イミューンの手首に刀を突き刺した。刃の角度も力も文句なしの一撃だった。しかし相手の速度が上がったせいで、刃が入りきらない。

 イミューンが体を回し、尾を振り払う。

 慌てて跳び上がったが、考えていたよりも一瞬遅れ、尾が足先をかすめていった。

 ケガの影響か、沙凪が気絶しているためか、さっきよりも体が重たい。これまでは自分自身の心持ちがどうあれ、だれかが信じてくれれば力を得られた。しかし今、他に信じてくれる者はだれもいない。

 ――いいから黙って俺を信じろ。

 沙凪に言い放った言葉が、ふいによみがえった。

 あの時は、いらだちまぎれに、ほとんど無意識に口から出た言葉だった。言ってしまってすぐ、どの口が、と自己嫌悪した。

 大翔を救えなかったくせに。

 神谷自身が、一番、神谷のことを信じていないというのに。

 イミューンが手を振り下ろす。さっきよりも速い。

 神谷は大きく前へ滑り出る。短い髪が風圧で揺れるほど近くを、イミューンの指が通過していく。そのまま腕の下にもぐりこみ、手首を内側から斬った。切り口から少し霧が噴きだしただけで、イミューンは動じる様子もない。やはりこの程度ではダメージにならないか。

 イミューンが素早く体を回す。神谷なら軽くひと飲みにできる大きな口を開いて迫ってくる。神谷が飛びのいた次の瞬間、黒い牙が床をえぐりとった。

 さっきより攻撃のパターンも増えた。考えろ。どこなら攻撃できる。どうすれば動きを止められる。

 腕を伝って背中に上がろうとするが、動きが速くなったので、背中にたどり着く前に振り払われてしまう。離れて様子を見ようとすれば背ビレの突きが伸びてくる。苦労して背後をとっても、ムチのようにしなる尾が邪魔で攻撃できない。

 色々な方法を試しながら、神谷はわずかなすきを突いて、手首のさっきと同じところを斬りつけた。とにかく、動きを止めないことには勝機はない。何度も繰り返していくうちに、徐々に噴きだす霧の量が増えてきた。

 突然、イミューンの胸で飾りになっていた小さな黒い手が伸びた。

 とっさに刀で受け止める。次の瞬間には、黒く固い爪で刀身をがっしりとにぎられ、刀をとりさらわれていた。

 腕が収縮し元の長さに戻ると、刀は棒切れのようにぽっきりと折られてしまう。

 舌打ちする暇もなく、目の端から尾が迫る。

 身を転がした神谷は、起き上がりながら、頭の中に鋭い刃を思い描く。

 これが神谷の夢でもあるのなら、できるはずだ。

 振り上げた手の中に鉄の冷たさを感じると、それで尾を突き刺した。

 イミューンが吠える。尾をよじるが、床まで貫いた槍はなかなか抜けず、動くたびに霧が噴き出た。

 神谷は槍を踏み台に跳び上がる。

 イミューンの腕の真上で、今度は大きな斧をイメージした。落下の勢いに乗せて、手首を叩き斬る。

 巨大な右手がぼとりと床に落ちる。支え失ったイミューンはバランスを崩し、肩から地面に倒れた。

 イミューンの背中に上がり、床に伸びた首の上に飛んだ神谷は、斧を振り下ろす。

 その時、すきだらけに見えた胸から、ふいに細い手が伸びてきた。

 ぐんと体が押し戻され、斧をとり落とす。

 空中で身動きがとれない神谷は、そのまま壁に叩きつけられる。体の内側で何かの砕ける音が聞こえた。イミューンの手の平に体が押し潰されて動けない。どうにか自由になる 右腕でイミューンの手を引きはがそうとするが、爪が壁に深く突き刺さっていてびくともしない。それどころかイミューンの手はどんどん閉じていく。

 閉めだしたはずの痛みが戻ってくる。肺が圧迫されて息ができない。手足の感覚が遠のき、視界が暗く、せばまっていく。

 このまま神谷が意識を手放せば、主を完全に失ったこの世界はすぐさま崩壊するだろう。

 そしてここで死ねば、現実の神谷もまた死ぬ。

 もしそうなったら、親族に知らせが行くだろうか。

 二十年以上、連絡すら寄越さなかった神谷のことを家族はどう思っているのだろうか。

 小さい頃、夢を見るのが好きだった。息継ぎなしで海を自由に泳ぐことも、タカを追いかけて空を飛ぶことだってできた。ワクワクするような冒険を毎日追いかけていたが、そこに、現実の人間はだれも出てこなかった。

 夢の中で初めて出くわした現実の人物は父だ。その時は分からなかったが、それが生まれて初めて入った他人の夢だった。といっても、ただ父と話すだけの退屈な夢だ。何を話したのかはほとんど覚えていない。幼かったから理解できなかったのもあるが、一番の理由は、父が苦手だったからだ。現実の父は、用事がない限り家族と口を利かなかった。そんな父が夢の中ではやたら饒舌で、戸惑いを隠せなかった。

 そもそも父はあまり家にいなかった。神谷の家は洋服の仕立直しや修復を請け負う店を経営していて、表向き父は社長ということになっていた。だが実際はほとんど店に顔をだすことはなく、数日の留守はざら、へたをすると数週間帰ってこないこともあった。出かけて何をしているのか、母もちゃんとは知らなかったらしい。ただ、たまに脅迫や呪詛が書かれた紙が郵便受けに入っていることがあった。人殺しだとか物騒なことが書いてあって、時には手紙のかわりに動物の死骸が届くこともあった。母は文句ひとつ言わずに手紙を処分し、郵便受けを掃除して、店をひとりで切り盛りしながら父の帰りを待っていた。家族を放りだして人の恨みを買いに行き、のうのうと帰ってこられる父のことも、そんな父のそばにい続ける母のことも、理解できなかった。

 父のようになりたくない、ただそれだけの理由で看護師になった。他人や家族を不幸にしない仕事ならなんでもよかった。

 働き始めると同時に家を出て、それ以来、家族とは会っていない。

 看護師としての生活は充実していた。体力的にも精神的にもきついことはいくらであったが、患者が退院する時に笑ってくれたら、大概のことは忘れられた。

 患者を夢から救いだすのは、看護師の仕事とは違う達成感があった。自分の手で、自分だけの力で救っているという実感が、たまらなく心地よかった。

 初めのうちは、ただその患者に目を覚ましてほしくて夢に入った。それがいつの間にか、自分の力を使って「人助け」をしたいだけになっていた。

 夢の主は冷静な判断ができなくなっているから、多少強引にでも目を覚まさせてやらなきゃいけない。夢の中のことは自分が一番分かっているのだからと、思い上がっていた。

 そうやって徐々に目的を見失ったせいで、失敗した。

 幸せな虚構にいたまま穏やかに死を迎えることよりも、つらい現実で一分一秒でも長く生きることの方が本人のためになると、どうして言いきれる?

 神谷がようやくそれに気づいたのは、大翔が死んだしばらくあとのことだった。

 自己満足のために「人助け」をしていた自分と、他人も家族も不幸にした父、どっちがいやしいだろうか。

 だが神谷が死んでも、父の目には、あれだけ息巻いて飛びこんだ医療現場から逃げだした末、野垂れ死んだとしか映らない。もしかしたら、死んだことにすら興味を示さないかもしれない。そう考えると、今まで自分がやってきたことなど、ひとつも意味がなかったように思えてくる。父とはり合っていたつもりで、全部ひとり相撲だったのかもしれない。

 ここで意識を手放せば、そんなことを考える必要もなくなる。

 まぶたが、ゆっくりと下がってくる。

「神谷さん!!」

 稲妻のような衝撃が脳を貫いた。

 同時に、体が楽になる。支えをなくした体が空中に投げだされた。床に激突する直前とっさに手をだしたが、ほとんど叩きつけられるような着地になった。

 遅れて、破裂したイミューンの手の破片が降ってきた。

 激しくせきこむと、体に少しずつ酸素が行き渡っていく。

 顔を上げると、まっすぐ神谷を見つける沙凪がいた。

 そうだ、これは神谷だけの夢ではない。自らも恐怖に震えながら、必死に神谷の勝利を願ってくれる人がいる。

 神谷はよろけながら、壁に手をついてなんとか立ち上がる。さっきよりも少しだけ体が軽いことに気づいた。

 以前は、夢に入る前にある程度の信頼関係ができあがっていたから、信じてもらうことがそれほど難しいとは感じなかった。しかし沙凪は違う。見ず知らずの神谷と真っ向から対立し、拒絶した。それなのに、これまでのだれよりも力強い言葉を言ってみせた。かつて、あそこまでまっすぐに神谷を信じてくれた者がいただろうか。

 ――早くここを出ましょう。一緒に。

 これは自己満足の人助けなんかじゃない。

 沙凪は死にたくないと言った。

 ここから出ると宣言した。

 だから神谷は、沙凪をこの夢からだすと決めたのだ。

 イミューンが、さっき神谷が切り落とした手を尾で弾き飛ばした。

 神谷は前へ出て、大砲のように前方から迫る手に向かってスライディングする。ぶつかる一メートル手前で床に当たってバウンドした手が、神谷の鼻先をかするように飛び越えていく。滑りこんだ勢いのまま神谷は走り続ける。

 心臓が脈打つたびに、骨が内側から弾けるような激痛が走った。左の肩も上がらない。痛くない場所を探す方が難しいくらいだ。

 だが、動ける。

 痛みのおかげで意識が冴え渡る。

 間髪入れず、イミューンは体を回し、尾を回し蹴りのように繰りだしてきた。

 神谷は走りながら刀を思い描く。

 より固く、より鋭い刃を。

 手の中の刀の重みが現実のものになった瞬間、右腕一本で、下からすくい上げるように刀を振り抜いた。

 壁のごとく目の前に押し寄せていた尾が、まっぷたつになる。

 神谷は裂け目から噴き出た黒い霧を突き抜ける。背後で、切り離された尾が弾みながら吹っ飛んでいく音がした。

 イミューンの叫びがホールを震わせる。

 神谷は、その声に人間らしきものが混じっているのに気づいた。あの中には、大翔がいる。

 これまでずっと忘れようとしてきた。だが、忘れようと必死になることで、逆にしばられていたのかもしれない。そうやっていつまでも自分を責め続けたせいで、自分のことも他人のことも信じられなくなっていた。

 その結果が、大翔のあの醜い姿だ。神谷の中にくすぶっていた罪悪感や、拒絶された寂しさが増幅された、ただの後悔の塊。

 いい加減、全部終わらせよう。

 イミューンの動きが止まったかと思うと、背ビレが怪しげな光を放っていた。黒い骨が明滅し、根本の膜がそれに呼応して夜光虫のような青白い光を放つ。

 神谷はとっさに近くの瓦礫に身を隠した。

 直視できないほどの光を蓄えた膜が震え、光の波動が吹き荒れた。

 風がうなり、小さな瓦礫は根こそぎ吹き飛ばされる。飛ばされた瓦礫が落ちて転がっていく轟音と震動が響き渡る。さっきの大翔と同じだ。ただでさえスピードが上がってすきが減ったというのに、全方位攻撃まであるとは厄介だ。

 ふっと風が途切れた。嫌な予感がして、瓦礫から飛びだす。

 次の瞬間、背ビレがその瓦礫を貫き、押しのけた。

 転がり出た神谷の視界の端から、イミューンの胸に残ったもう一本の小さな手が伸びてきた。爪をすぼませ矢のように飛んでくる。

 意識を研ぎ澄ませる。

 手の軌道を見極め、刀で素早く弧を描く。

 イミューンの指がばらけ、ボトボトと地面に落ちる。驚いたイミューンが伸びた腕を収縮させる。

 神谷は刀を左手に持ち替え、指のなくなった手につかまった。体が宙に浮き、腹の下を床が高速で流れていく。片腕で風圧に耐え、一気にイミューンに接近する。

 途中で気づいたイミューンが腕を上に振り上げた。空中に投げ出された神谷めがけて、イミューンは首を伸ばし、口を開く。

 牙がびっしり並んだ口へと落ちていく神谷は、視界の端に映った瓦礫を強くイメージする。

 次の瞬間、神谷の足の下に大きな岩が出現し、イミューンの口を塞いだ。イミューンがひるんだすきに、神谷は背中へと降りる。

 背ビレが再びエネルギーを蓄え始めていた。

 刀を右手に持ち直した神谷は、ヒレに刀を突き立て、薙ぎ払った。

 大きく裂けたヒレが激しく明滅する。行き場をなくしたエネルギーが流れこんだのか、横の骨が内側から爆ぜた。神谷の身長よりも高い骨がゆっくりと倒れ、引っぱられた膜が破ける。骨は次々に爆発し、その間の膜は焦げつき焼け落ちていく。

 傾いた骨を足場に神谷は跳躍する。

 仰け反り無防備になったイミューンの首をにらんだ。

 刀を頭の上に振り上げる。もっと長く、大きく、鋭い刃を、強くイメージする。

 全身で吠え、ありったけの力で刀を振り下ろす。

 神谷の身長の倍ほどに伸びた刀身が、イミューンの首を斜めに一閃する。

 ふっと手の中で柄の感触が薄れた。刀は役目を終えたように、粉々に砕け光の粒となって消えていく。

 神谷は着地と同時に間合いをとる。

 だが、イミューンは動かなかった。

 ずるっ、とイミューンの首の切れ目がずれ、黒い煙が上がる。やがてすっぱりと切れた首が地面に落ち、ずん、と部屋全体が震えた。

 イミューンの巨体から黒い霧が上がり始める。さらさらと風にさらわれ、みるみる小さくなっていく。

 首がすべて吹き消えるまで、存在しないはずの目は、じっと神谷を見つめ続けていた。その視線を、神谷は黙って受け止める。

 最後、イミューンは自らの呼吸に吹き消されるように、ふっと消え去った。

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