第9話 長い海岸
エレベーターにはスイッチのようなものが見当たらず、いくら待っても上がってくることはなかった。
だから、とにかく歩いた。
男はどこへ連れていかれたのか。自分はこれからどこへ行けばいいのか。何も分からない。
歩けばそのうち何かが見えてくるのではないか。どこか別の場所へ続く扉が不自然に置かれているのではないか。そう願いながら、ひたすら足を動かし続けた。
天気がいいし、波も穏やかだけど、どこか不気味だった。相変わらず空に太陽はない。砂浜なのに貝殻のひとつも見当たらない。あるのは海水と砂だけだ。
なれない砂に時折足をすくわれながら歩いて、何時間が経っただろう。そもそも、この塔に入ってからどのくらいの時間が経ったのかも分からなくなってしまった。まだ数時間のような気もするし、丸一日経っていると言われれば、それも納得できる気がする。
果たしてこっちに進んで正解なのだろうか。いくら進んでも終わりは見えず、新しい道も見えてこない。もしまったく逆の方向に進んできたのだとしたら、と不安になるが、戻るだけの勇気も気力もなかった。
なぜ自分が歩いているのかも忘れかけた頃、地平線の向こうまで無限に続く砂浜の上で、何かが揺らいだ。
初めは陽炎が見せた幻覚かと思った。だから、潮風にゆったり揺れるおさげ髪を見た時は、安堵で涙が出そうになった。
女の子はいつも通りまっすぐ沙凪を見つめていた。今は半袖のシャツに白っぽいコットンのショートパンツだ。白砂の照り返しのせいで、色白な肌がいっそう透き通って見える。
「ここはどこ? どっちへ行けば出られるの?」
女の子は今までに見たことがない表情をしていた。沙凪を見つめる目には、
「あのオジサンが連れていかれちゃったの。私、どうしたらいいか分からなくて」
すがるような気持ちで沙凪は問いかける。今はこの子以外に頼れる人がいない。
「何か知ってるんでしょ。お願い、教えて」
沙凪はだんだん、何かを
急にまた胸が苦しくなってきた。
「お前さ、なんでそんなやつと一緒にいんの?」
突然、背後から声がした。
振り向くと、例の男の子が詰襟の黒い制服を着て立っていた。教室の時のような怒りはなく、見た目もずいぶんと成長している。今は、なぜ空が青いか分からない子どものような無邪気な顔で沙凪を見ていた。
「そいつのこと、そんなに好きか?」
「
無意識につぶやいていた名前に驚いた。その名に引っぱられるように彼に関する記憶が湧き上がってくる。
「深水君、なの?」
音をひとつひとつ噛みしめながら、ゆっくりと繰り返した。
沙凪の初恋の相手が、中学生の生意気さと、とんがった自意識を持ってそこに立っていた。
ずっと好きだった。だけど声をかける勇気はなくて、ずっと遠巻きに見ていることしかできなかった、憧れの相手。そうか、だから彼には顔があるのだ。
「なあ、そいつの何がいいの?」
そんな突拍子もない質問を、深水は大真面目な顔で投げかける。
沙凪は答えに困った。
この女の子はいったいだれなのだろう。なぜ沙凪の前に現れるのだろう。
「気にしないで。私だけを見て」
やっと口を開いた女の子は、先ほどと変わらず、まっすぐ沙凪だけを見ていた。
「あなた、だれなの?」
「それは今はどうでもいい」
どうしてみんなこんな言い方をするのだろう。はっきり言ってくれればいいのに。周囲をぐるぐる回るばかりで、核心にたどり着かせてくれない。自分で答えを見つけなきゃいけないのは分かる。だけど、それにしたってヒントが少なすぎる。
右から深水の言葉、左から女の子の視線を受け、沙凪はおろおろと首を左右に振ることしかできない。
あせるほど、思考が停止していく。
ダメだ。やっぱりひとりじゃ何もできない。どこへ行けばいいのか、何をすればいいのかも分からない。男の判断力と行動力があったからこそ、ここまで来られたのだ。もし今イミューンと出くわしたらどうすればいい。沙凪ひとりでは戦うことはおろか、満足に逃げることもできない。
必死に気づかないふりをしてきた心細さに、急速に心が侵食されていく。
こんなところにいたって助けなんかこない。そんなこと分かっているけど、どうすればいいのか分からない。
空気が抜けるように、その場にぺたんと座りこんでしまった。
女の子も深水もいるけど、沙凪は今、ひとりぼっちだ。
パタッ、としずくが砂の上に落ちる。
「助けて」
だれに言ったつもりはなかった。ただ、口にださなければおかしくなってしまう気がした。たががはずれたように、涙がぽろぽろとこぼれ落ちる。
「どっちに言ったの?」
沙凪がのろのろと顔を上げると、女の子が「どっちに言ったの?」と繰り返した。
沙凪は、女の子と深水を交互に見る。ふたりとも、無表情なまま沙凪をじっと見下ろしている。
正直、助けてくれるならどっちでもいい。
名前を思いだせたということは、深水は沙凪にとって重要な存在なのだろう。このわけのわからない夢の中でようやく自分の一部を見つけられた気がして、彼の存在がとても愛おしく感じる。
でも、行く先々で沙凪たちを待っていてくれたのは、女の子の方だ。
説明は足りないし、トラブルを引き寄せもするけど、あの女の子が現れるたびに、沙凪は言いようのない安堵感に包まれる。同時に、沙凪のすべてを見透かされているようで怖くもある。感じるのだ。この子は沙凪のことを知っている、常に見ていると。
沙凪は女の子を見上げる。
「助けて」
女の子が嬉しそうに微笑む。
「わかった」
女の子は沙凪の横を通りすぎて、後ろに回りこむ。いつの間にか深水はいなくなっていた。
立ち止まった女の子の足の後ろで、砂がうごめいた。アリ地獄のように砂が陥没していく。その穴はどんどん広がり、砂を押し上げてエレベーターがせりだしてきた。
女の子は、エレベーターとは逆の方向を指さして言う。
「このままずーっと進んで行けば、そのうち扉は見えてくる。でも、いつかは分からない。こっちなら、思い通りになる。ただ、あのオジサンの言う通り、上には行けないし、出口につながってもいないけどね」
「どうすればいい?」
「それは自分で決めるの」
女の子はそう言うなり、エレベーターの裏側に消えた。
沙凪が裏側を覗くと、そこには女の子の姿はなかった。エレベーターの周りを一周してみるが、足跡すら残ってない。
再びひとりになってしまった沙凪は、エレベーターを見上げた。
このまま進めば出口はある。しかし、そのあとも階段は続くだろうし、その先には新たな扉が待ち受けているに違いない。この先、沙凪ひとりで乗り越えていけるとは思えない。
かといって、沙凪が男を助けに行ってどうにかなるものだろうか。あれだけのイミューンがいる場所に乗りこんで、沙凪に何ができる? そもそもどうやって男の居場所を捜す?
――いいか、この塔ではお前が信じたものが真実だ。
ふと、男の声がよみがえった。
沙凪は、さっきから胸の中でひしめいている罪悪感をとりだしてみた。
男は、これまでずっと沙凪を守ってくれていた。男が捕まったのは、沙凪が信じなかったからだ。
エレベーターを見上げる。
深呼吸して、乾いた唇をなめた。
「連れてって。あの人のところへ」
ゴウン、と重たい音とともに扉の上の目盛りのひとつが光った。一番左から、ひとつずつ右にずれていく。
一番右の目盛りが光ると、チン、と音がした。
扉が、開いた。
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