第30話 予想外の話

 今日も目を覚ます。

 目が覚めない日がいつか来るのだろうか?

 変わらない天井は白く、現実のものではないように見えた。


 能勢は珍しくアラームよりも早く目を覚ました。

 もう一度目を閉じたが眠ることができず、仕方なく寝返りをうって部屋をぼんやりと眺めて過ごした。

 狭い部屋のためベッドの上からキッチンまでが一望できる。

 キッチンの蛇口から水滴がシンクに落ちて、ポツンポツンと音が鳴っている。

 視線を手前のリビングに移した。

 読みかけの求人情報誌は床に置かれ、飲みかけのペットボトルが散乱している。視界の隅には洗濯物が山のように積まれている。

 生活しているのが不安になる部屋を他人のように眺めていると、ローテーブルの上に置かれた卓上カレンダーが視界に入った。

 カレンダーには二つの日付が大きな赤い丸で囲まれている。一つがなつみと出かけた日、もう一つはライブハウスのバイトの日だ。今はそれだけが能勢の予定だった。

 今日は、午後からバイトが入っていて、もう少ししたら起きないといけない。

 なつみと遊びに行ってからすでに一週間が過ぎていた。あんなにたくさん買ったパンも今は冷凍庫に入れた食パン三枚のみになっていた。

 こんなに仲良くなっていいのかわらないぐらい、食事に行った後から能勢はなつみと頻繁に電話やメッセージを送りあうようになっていた。

 来週末には、なつみのバイト終わりに能勢の家でご飯を食べることになっている。 

 なつみは専門学校近くのカフェでバイトをしていて、写真を見せてもらったが、おしゃれで素敵なカフェだった。

 能勢は少しだけそんななつみに嫉妬していた。

 健全で純粋な専門学生のなつみが、現在フリーター(不定期だがバイトをしているのでニートではない。と勝手に解釈している)と友達でいいのかと不安になる。

 今日、能勢がライブハウスに行くと行ったら、家まで謝罪の代わりにと大きな菓子折を持って来てくれた。

 真面目さが眩しすぎて、くらくらしてしまった。

 能勢は、しばらくゴロゴロと布団の中で転がっていたが、携帯のアラームが鳴り、ため息とともにベッドから起き上がった。

 このままでいいのだろうか。いつまでこうしているのだろうか?

 不毛な議論が能勢の頭の中をぐるぐると回っていた。


 電車に飛び乗り、能勢は出勤時間ちょうどにライブハウス到着した。

 店長がすぐに声をかけてくれて、あの日連れて帰った女の子の無事を報告し、なつみの謝罪と菓子折りを渡した。「泥酔客から謝罪で菓子折りもらったのは初だわ」と店長は驚きつつも喜んでいた。

 その日のライブは滞りなく進行した。

 倒れる客も、大きなトラブルもなく、お客さんもスムーズにハケて、締めの掃除も早めに行うことができた。

 能勢はホールのドリンクカウンターの片付けを早々に終えて、音響の手伝いをしながら、八の字にケーブルを巻いている時、店長に呼ばれた。

「まぁ、この辺でも座って」

 店長は隅に置かれたパイプ椅子を能勢に勧めると、自分はパソコン前の事務椅子に座った。

 なつみのことでまだ何か聞きたいことがあるのかもしれないと能勢は思っていた。

「能勢ちゃんは、今他にバイトしている?」

 店頭がパソコン前の事務椅子に座り直したので、ぎしっと椅子が鳴った。聞かれたのは全く予想していない質問で能勢は戸惑った。

「え、いや、してないです」

「これから他でバイトする予定はある?」

「今のところないです」

「地元に帰る予定は?」

「それも今のところは」

 質問の意図が全くわからなかった。

「ライブは好き?」

「人並みには」

「接客は?」

「嫌いではないですけど」

 店長はその返答に満足したように頷くと一枚の紙を能勢に渡した。

「ごめんな、急に変な質問をして。もし能勢ちゃんが良かったらなんだけどさ」

 そう言って渡された紙を見る。ライブハウス正社員募集という文字が書かれていた。

「友達のライブハウスなんだけど、正社員でスタッフの募集をしていてね。ここなら推薦することもできるし、もし良ければにどうかなって」

 じっと能勢は紙を見つめた。正社員という文字が華やかにも、よそよそしくも見えた。ライブハウスでアルバイトをしているのに、そこに所属して働くという感覚がいまいちわからなかった。

「まぁ、今すぐに返事しなくていいからさ。来週ぐらいに連絡もらえたら余裕で採用させるから」

 店長はそう言って笑った。

「すみません」

 店長の気遣いが嬉しかったのに、能勢はなぜか謝ってしまった。即答できない自分が情けなかった。


 鞄の中に店長からもらった募集チラシを入れて、能勢はライブハウスを出た。

 来週もバイトが入っていたので、その時に返事をすることにした。

 能勢は、ライブハウスの入口の階段をとぼとぼと登った。

 急がないと終電に間に合わないのに、今日はゆっくりと歩いて帰りたかった。

 地上に出ると赤々とした中華屋の提灯が闇夜に輝いていた。その光を見ているとなぜ少し元気が出た。

 能勢は、携帯で時間を確認すると、早足で、駅までの道を急いだ。

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