クオリアをつないで

成井露丸

💐

 黄色い向日葵と赤いチューリップ、それから――。

 こんな感じだったかな? そうだ、こんな感じだった。


「お客様。それでは少しお色のバランスが悪いような気がしますが。――向日葵の代わりにこちらのカーネーションなんていかがでしょうか? ほら、このように全体の色バランスがよくなりますよ?」


 ショッピングモールにある花屋の店先。

 親切な店員さんが、艶やかに咲く一本の茎を摘んで添える。

 僕は色のまとまりを帯びた花束を一瞥し、頭を振った。


「――いえ、これでいいんです。こんな感じだったと思います。色合いは揃ってなくてぐちゃぐちゃで、――だけど花びらの形の並びが賑やかで」

「そうですか? お客様がそれで良いっておっしゃるなら構いませんが。あ、ラッピングとかさせていただきますので、言ってくださいね?」

「ありがとうございます」


 笑顔を返すと、店員さんは少し不思議そうに首を傾げながら、店の奥の方へと戻っていった。色合いがぐちゃぐちゃでも良いなんて、お花屋さんにちょっと失礼だったかな? なんて思う。でも今日は許して欲しい。

 今日は妻――佳世子の命日なのだから。


 佳世子の作る花束はいつも色合いにまとまりがなかった。

 庭先で摘んだ花々でつくる生け花も、僕にくれる花束も、どこか不格好で、混沌としたものだった。

 だけど僕はその自由なまとまりが好きだった。本当は一つになれないはずの花たちが、花瓶の中で体を寄せ合う。そうやってちょっと窮屈そうに、それでいてどこか照れくさそうに顔を並べる。まるで僕と君みたいに。


「――では合計で3850円になります」

「じゃあ、カードで。――ありがとうございます」


 僕より少し年上に見える店員さんからからラッピングされた花束を受け取る。

 誰に渡すわけでもないのにラッピングしてもらったのは気持ちの問題だ。

 これは妻の命日に、家に飾る花束だから。



 *



 妻の佳世子は少し特殊な色覚異常を患っていた。

 僕らには見えて彼女には見えない色や、違って見える色がある。


 だから彼女の描く絵も、彼女が活ける花も、色のバランスが少しばかりおかしかった。

 それでも彼女は描くことを好んだ。彼女は花を活けることを好んだ。

 色はぐちゃぐちゃだったけれど、その分、彼女の描く絵の形は面白かったし、並ぶ花の表情はとても華やかだった。まるで個性的な生徒が押し込められた賑やかな学級みたいに。

 彼女に見えていた世界は、きっとだったのだと思う。

 彼女は色覚の不自由さの代わりに、表現の自由さを得ていたのかもしれない。



「逆転クオリア」と呼ばれる哲学の思考実験がある。

 クオリアとは意識における質的な経験のこと。

 逆転クオリアはある人と別の人が同じ物理的刺激を受けた時に、異なるクオリアが体験されている可能性を考える思考実験だ。


 あなたが赤に見えるものが、実は別の人にとっては緑に見えていたとして、あなたはそれに気づけるだろうか?

 あなたが「赤」だと呼んでいる意識経験は、実は別の人の意識経験としては緑なのかもしれない。


 相手の頭の中が見えない限り、この問題は解決されないんじゃないか?

 だからそれは解けない問題だと。そんな風に語る哲学者もいた。


『――そもそも私とあなたじゃ、色の感覚って違うものね』

『そうだよな。だから逆転クオリアの話って、考えると不安になるよな」

『あら、どうして?』

『だって、僕らは通じ合っているつもりですれ違っているってことだろ?』

『うーん、そんなこと無いんじゃないかしら?』


 ソファに座ってタブレットを眺める僕の首に、君は後ろから腕を絡めた。


『だって私たちは、すれ違ってなんてないじゃない? 逆転クオリアって、だからきっと、大した問題じゃないのよ』


 そんな恥ずかしくなるような台詞を、彼女は口にした。

 振り返ると佳世子も照れて顔を赤らめていた。

 それがなんだか妙に愛おしくて、僕はその唇をキスで塞いだ。



 *


 Internet of Brains ――「脳のインターネット」。

 意識工学中央研究所の新規技術が大々的に発表された。

 上司からに取材を命じられた時、だからどこか運命めいたものを覚えた。


 人間の意識同士を接続するための技術。

 僕の気持ちとしては、期待半分、猜疑心半分だった。

 複雑な気持ちを抱えたまま、僕は開催された記者会見に参加した。


 記者会見が始まると、色のバランスがおかしい服を着たプロジェクトリーダーの男が立ち上がった。精悍そうな顔立ちの男は、マイクを持って熱弁を振るった。

 脳と脳を非侵襲型のデバイスで接続して、人と人の意識を繋ぐのだとは彼は言った。大きな目を見開いて。


「これまで僕らはすれ違いを起こしてきました。相手の頭の中が覗けないから、言葉の意味がわからない。だから誤解も生じるし、喧嘩もしてしまう。そんな時代もInternet of Brainsで突破できます。僕ら人間は人類史上見たこともないレベルで分かり合うことができるのです。もしかしたら戦争だってなくなるかもしれない!」


 無邪気な理想論を並べる科学者。

 戦争が「分かり合う」だけで無くなるなら苦労はないと思う。

 だけど多くの記者はその発表を前のめりに聞いていた。

 壁面いっぱいの液晶画面には技術の内容を説明するイメージビデオが流される。


 だけど美しい映像よりも僕の心に引っかかったのは次に語られた言葉だった。


「『逆転クオリア』と呼ばれる思考実験があります。同じ色名で呼んでいても、相手の見ている色の意識体験と、自分の見ている色の意識体験が違うかもしれないというものです。Internet of Brains はきっとこの『逆転クオリア』問題に決定的な革新を与えてくれると思っています。僕らはきっと意識レベルで繋がれるのです!」


 会見が終わりった後、男は「記者の中で体験してみたい人はいないか?」と問いかけた。他紙の記者連中が躊躇う中、僕はまっすぐに手を挙げた。



 *



 家について、花束のラッピングを外す。花瓶に移し替える。

 彼女が眠る仏壇の前にある机に、その花瓶を置いた。


「――佳世子、昨日さ、変な技術を体験してきたよ。Internet of Brains だってさ。人と人の脳を繋ぐんだ。あいつらは言うんだよ。これで『逆転クオリア』の問題は解決されるんだって」


 記者会見の後、別室に移された僕は、そこで最新鋭の脳計測機器へと接続された。

 隣の機械には、僕より少し年下に見える女性記者が座っていた。

 どこか佳世子と雰囲気が似ているなと思った。

 視線が合って、僕らは小さく会釈した。

 

 機械が動き出してから生じたのは、本当に驚くべき体験だった。

 自分の目の前に見えていないものがのだ。

 しばらくしてそれがものだとわかった。


 彼女に「緑」の色が提示された時、僕の脳内には緑の意識体験が生まれた。

 僕の脳内に赤の意識体験が生じた時、彼女は「赤」が見えると言った。

 それは鮮烈な体験だったと思う。僕と彼女の意識は繋がったのだ。


「――君は嫉妬してくれるかな? 僕とその女の人が意識をつないじゃったとことに。だってそうやってなんて、――頭の中を覗くなんて、とても特別なことみたいだからさ。――恋人同士みたいな」


 だから自分自身の心の変化が少し怖かった。

 相手にものすごい思い入れや執着を覚えてしまうのではないだろうかと。

 意識をつないでしまったら、もう他人ではいられなくなるんじゃないかと。


 だけどそんなことは全然なかった。

 デモ体験が終わると、僕は彼女に一度だけ会釈した。

 ただ「ありがとうございました」と。

 彼女も「お疲れさでした」とだけ返事をした。

 まるで同じシアターで映画を一緒に見た他人みたいに、僕らは別れた。

 僕は彼女の知覚とそれから来る意識体験を共有した。だけどそれだけだった。


「――ねぇ、佳世子。クオリアって何なんだろうな? 分かり合うって何なんだろうな? 僕は君の見ている色がわからなかった。だけど、他の誰よりきっと君と通じあえていたんだと思うんだ。他の誰よりきっとわかり合えていたんだと思う。――それが僕の勘違いだとしても、――それで全然いいと思うんだ」


 出来るなら佳世子とInternet of Brains を試してみたいと思う。

 佳世子が見ていた知覚世界を僕も見てみたいと思う。

 きっと彼女が見ている「色」は僕の見ている色とは違うと確認できるだろう。

 だけどInternet of Brains の機械を頭から外してから、きっと君は言うのだ。

 ただ「楽しかったね。変な気分だったよ」とか、無邪気に。

 まるでそれがとでも言うように。


 そして僕はよりはっきりと認識するのだろう。

 脳なんて繋げなくても、僕らのクオリアは繋がっていたことに。

 だから君の世界はとっくの昔に色づいていたことに。

 そんな君がいたから、僕の世界はずっと色づいていたことに。


 花瓶の上から色の合わないチューリップと、向日葵が同時に顔を出す。

 ちょっぴり色彩はぐちゃぐちゃだけど、その表情は笑っている。


「そっちはどうだい? 天国にも綺麗な花は咲いているかい?」


 写真の中の君で笑う君が、微かに頷いた気がした。

 きっと僕のクオリアは、まだ君と繋がっている。

 Internet of Brains なんてなくても。

 遠くにいる君と。――逆転クオリアを超えて。


 背中から首周りに、やわらかく君の両腕が触れるイメージが溢れる。

 だから僕は、そっと両目を閉じた。

 隣で君が笑っていた。


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