第13話
我が王がアイハヌムの街に帰還した。
その年は特に冷え込みが厳しく雪すらも降った。赤茶けた大地に白の薄化粧が映える。帰還した王と5人の将軍が抱える兵は1万人にもなる。多くは付近の街に分散させたものの、細々と貯め込んでいた食料はたった2週間で底をつく計算だった。
「我が王、ご無事でなによりでございます」
未だ完成していない総督府の一室で、荘厳な王は不機嫌な口を開いた。
「フレイトス。私が出立してからどのくらい経った? 府の建設もままならず、糧秣も少ないそうではないか。まして、裏切った豪族の首長も生かしたままと聞いたが」
「は。恐れながら。輸送路を脅かす遊牧民の抵抗強く。かといって追いかければ峡谷に逃げて霧散してしまう始末。手に負えませぬ」
「なぜだ」
「は?」
「なぜ捨て置いている。はやく裏切り者を始末し、抵抗する者達を殲滅せしめよ。不足する糧秣は奴らの拠点から接収するがいい」
無理難題であった。
しかし、王の兵を貸し与えるとまで言われて意見ができる道理はなかった。ここまでの撤退行軍で士気の下がりきった兵を再び組織し、過酷な天候の山間部やその谷間に率いていくことの難しさ。私は王にその忠誠を試されているのだと悟った。
その夜更け。
邸宅に戻ると、箱のように平らな屋根上に人の気配がした。
やれやれと私は手慣れた動作で壁に立てかけた木梯子を登っていく。
「今日もここか」
暗がりの屋根上に座布団を並べて少女が仰向けになっている。
「お帰りなさいませ。だんな様」
「寝転んだまま言う奴があるか」
フフ。 暗闇が可笑しそうに笑った。
「下に居てもみんな腫れ物に触るように私を扱うので。エイを追放したのは失敗だったかもしれませんよ」
フン。 今度は私が鼻息を飛ばしてやった。
あの日、エイがミシャの右目を焼いた後、数日に及ぶ高熱を乗り越えてミシャは生き延びた。当然のように片目の視力は失われてしまったが。それを見届けてから私はエイを街の外へ放逐するよう命じた。ギリシアの法律には、主人を同じくする奴隷同士のトラブルへの処罰は記されていない。彼女を放逐したのはあくまで私から小銭をくすね取ったことへの罰のみだ。放逐、といっても彼女はギリシア社会においては依然奴隷の身分であり、帰る場所も他国へ渡る路銀も無い。実質的な死刑宣告に等しかった。
「最近お帰りが遅いですね。話をしないとせっかく覚えたギリシア語も忘れてしまいそうです」
「南の峡谷を拠点とする遊牧民の討伐を命じられたのだ。しかも、今動かせる兵はたったの千だぞ。ヘマをしたら今度ばかりは生きて帰れんかもしれん。 と。元遊牧民のお前にする話ではなかったな」
「・・・いいえ。私の氏族はもうこの世に存在しませんから」
「そう、なのか」
「私と数人の女を除いてペルシア兵に殺されました。目の前で」
「・・・」
「――昔の話です。だんな様、こちらへどうぞ。仰向けに寝転んでみてください」
ミシャの手で促されるままに、私は座布団の上に背中をつける。冷え切った澄んだ空気が頬を撫でた。
おお・・。
仰ぎ見た先には深い深い蒼の中にたゆたう無数の星々が瞬いていた。街での仕事ばかりで久しく夜空を見上げていなかったから、迫ってくるひとつひとつの輝きに圧倒される。
「ご出立先で迷子になったときのお守りを教えてあげます。だんな様は星の読み方は知っていますか?」
「いや?そういうのは星占術士がやるものだろう」
「方角を知る
「日時計だろう。それくらい知っている」
「それだと調べるのに1日かかってしまいます。よく何年も旅してこれましたね。まあいいです」
コホン、と仰々しく咳払いをしてミシャは遊牧民族に伝わる方法を教えてくれた。
「あの向こうの空に
「どれだ。ああ、あれは"こぐま座"だな」
「なんです?それ」
「星座を知らんのか?星々の並びにはすべて名前がついているのだ。あれは小熊のかたちだからこぐま座だ。蛇がいて、その隣は大熊、だったかな。いや懐かしいな。子供のころ母に教わったものだ」
「どう見たらあれが小熊に見えるんですか。柄杓ですよ」
「こぐまだ」
「ひしゃく!」
「・・・どっちもいい。それで?」
「柄杓の先端、飲み口あたりに大きな星が見えますよね。あれは正確に北を示しているんです。1年中、いつ見てもそうなんですよ」
――ほう。
「いや、そうなのか。はじめて聞いたな」
「だから南の土地で迷ったらあの星を探してください。そしたらこの街に帰って来れますから」
「帰る・・か。すっかりこの街が帰る場所になってしまった。ミシャ、お前には帰りたい場所はあるのか」
真意を計っているのか少し間を置いて。
「ありません。故郷は失いました。もうどこにもありません。それに、山を越えたことすら、一度も」
それは少しこわばって聞こえた。いつもは強気の少女だが、逆にそれは虚しさ故の強がりなのだと最近知った。ある日突然家族を奪われ、故郷を失う。この世は恐ろしく気まぐれでろくなものではない。そしてその加担者たる私も。
「そうか。お前の故郷を奪ったのは私ではない。だが、ひょっとしたら私だったかもしれない。たまたまペルシア兵だったか、ギリシア兵だったかの違いにすぎない」
「だんな様が罪悪感を感じているのならば、もう人を殺すのはやめたらいいのです」
「ならん。その場からじっと動かない星が天にあるように、生まれたときから、いや、生まれる前から決まっていたことだ」
「そう思い込んでいるだけです。はじめから決まっていることなどどこにもありません。私も、あなたも」
「詮無き事だ。ただ・・そうだな。私が
「山の向こうには何があるのですか?」
「ちょうど太陽が沈んだ方向。その山の向こうには砂漠があり、凍えるような雪山がある。そして、それを越えると海がある」
「――海」
「この
「わたし、海を見てみたいです。約束、ですよ」
「――ああ」
※
「
「はい、母上。ありがとうございます」
暑さも和らいだ頃、
茶屋娘の妹ということで母のきぬは
「ただし、世間様が噂をするような振る舞いは断じてなりませんよ」
「わかっております」
「盗人をひとり切り伏せたからと天狗になっているのでは?」
「滅相もなきこと」
例の一件以来、
「おい
面白くないのは兄の
「あら!いいじゃないですか。晴さんだってそのうち良い話がありますよ。妬かない妬かない。わたしは大歓迎!」
にこにこ顔の
「よろしくお頼みもうします」
深々と下げる小夜の頭を見て、あらためてとんでもないことをしてしまったのではないかと灯火は後悔した。ただし時間を巻き戻すことはできない。自分の直感と信念を通すのみだ。
身の回りの家事を一通りこなせる小夜も、広い屋敷への奉公など経験があるはずがない。山育ち故の失敗をいくつかやらかしていくうちにこの家の作法を学んだ。通い奉公のため、彼女の役目は専ら家の掃除と簡単な買い出し。夕餉の前には実家に帰ってしまうが、ときおり彼女が作る昼食のおかずは山菜がふんだんに使われ滋味深い味がした。
「どうです、家には慣れましたか」
十日に一度、灯火は小夜を伴って
「大丈夫だ。きぬ様もたつ様もよくしてくれている。奥座敷だけは上げてもらえないが」
「お
「そうか。わたしは家族じゃないからな。まだ
「兄は正義感の強い人ですから納得できていないのです。でも危害を加えるようなことはしませんよ。ああ見えて聡い人です」
「ああ。気にしてはないよ。ただでさえ
「その主様って呼ぶのやめませんか」
「だめか?私の里では命を預けた者を
口元は笑っていたが、前髪から覗く目元は真剣そのものだ。家でおとなしくしていてほしいのだが、
その夕、領主様からの御触れがあるとのことで
見知った上社連中の前に宮司である
「
「来られぬ。直接お伝えしたが断られた」
「なぜです?」
「"洲羽の地を血で穢すなどもっての外。話など聞きたくもない。"との仰せだった」
下社の宮司である
「そうなれば、我々下社武士はどうするのです?義兄上」
「今は領主様に従わざるを得まい。
視線を前方に戻すと、ちょうど寝殿の縁、
細かな刺繍が散りばめられた
この
口にはとても出せないが、誰もがそう思ったに違いない。
「皆の者、よく参ってくれた。楽にせよ」
芯のある良く通る声だった。
「此度集まってもらったのは他でもない。越州国との
そうじゃそうじゃ!!
上社の剛の者が
越州を許すな!
領地を取り戻せ!
ォオオオオ!!
だがしかし――
そんな喧噪のなか、洲羽領主、治頼の言は続く。
「これ以上洲羽の地で、神々の氏子であるところの民の血が流れることは到底容認できぬ。越州国との新たな関係を築くため、我がひとり娘たる
まって、言わないで
まってくれ!!
「越州国主が四男、
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