インシデントレコード -私と奇妙な小説家-

イトウマサフミ

第1話 死体はどこへ

第1話-1

 満月が照らす夜の空。東京都千代田区有楽町の一角。七月初旬の午後十時。今日は『バックムーン』と呼ばれる夜だ。月が通常よりも低い位置に見えるのが特徴的であり、昼間はニュースでも報じられていた。




 閉店したカフェの二階にある暗いフロア。当然ながら客も従業員もいない。しかしただひとり、その窓から向かいのプールバーを眼下に眺める女がいる。客席の椅子に腰掛け、テーブルの上に片肘を突きながら。


 黒髪のショートヘア、ぱっちりとした目に白い肌、少女のように可愛らしい顔立ち。服装はというと、プリントTシャツの上にサマージャケットを羽織っており、上着の両袖は捲(まく)られている。下はジーンズにハイカットのスニーカーといった具合で、ちなみに靴はコンバースの革製だ。


 この女は警察官。名は斉条茜さいじょうあかね。階級は巡査長。日比谷警察署刑事課強行犯係の刑事なのだが、まだ一年足らずの新米である。


「ほんとに来んのかなあ・・・にしても暑い!」

 茜は手に持った団扇(うちわ)を大きく仰いだ。夏も本番に入ったのだろう。夜が更けても涼しくはならない。かと言ってフロアの冷房をけるわけにもいかない。ここは張り込みのために借りた場所だからだ。




 昨日の未明、日比谷署にタレコミがあった。強盗傷害で指名手配中の犯人、古田卓ふるたすぐるが当該のプールバーに顔を出すというものだった。それが今日の夜だという。しかし情報の信憑性が極めて薄いため、本来は多数の捜査員を配備すべきところを見合わせ、所轄署の刑事ふたりだけで張り込みを行うことになったのだ。




 茜がウトウトし始めたとき、片耳にめたイヤフォンから無線連絡が入る。そのもうひとりからだった。

 ――斉条、起きてるよな?

 まるで見透かしたかのような男の声。強行犯係の係長、佐々木ささきである。

「はい!起きてます!」

 肩がビクッと跳ね、えりに着けたピンマイクで応答した茜。思わず立ち上がってしまう。一気に目が覚めたようだ。

 ――そろそろ店が混む時間だ。もし来るとすれば、その混雑に紛れるつもりだろう。

 スーツ姿の佐々木は、覆面パトカーの運転席から張り込んでいた。

「木を隠すなら森の中ってやつですか?」

 ――まあ・・・言い得て妙だな。とにかく人が多いほうがかえってバレにくい。だいたいほとんどの客は酔ってる。古田が目立つ行動でもしない限り注意は向かない。

「あの店のオーナーなんですよね。タレこんだのって」

 ――どうやら知り合いらしい。金を借りたいと話してたそうだ。実際に来るかどうかはなんとも言えんが、気ぃ抜くんじゃないぞ。

「はい」




 しばらくして、アロハシャツにチノパン姿の中年男が現れた。キャップ帽を深く被り、しきりに周囲の様子を窺っている。だが間違いなく古田であった。ふたりが男を双眼鏡に捉える。

 ――来たな。確保するぞ。

「了解」


 茜はすぐさま蒸し暑いフロアから飛び出していった。




 店のドアレバーに手をかけた古田。そのとき、茜と佐々木が挟み込んだ。

「古田卓だな」


 佐々木が警察手帳を掲げた次の瞬間、古田は佐々木の顔面を殴りつけ、続けて腹にひざ蹴りを食らわせ、地面に押し倒すと脱兎のごとく逃げ出した。


 あまりにも急な展開に茜が駆け寄る。

「大丈夫ですか!?」

「俺は平気だ!いいから追え!とっ捕まえろ!」

 佐々木は口腔を切りながらも怒鳴りつけた。

「は、はい!」


 茜は敏速なスタートダッシュで古田の後を追いかけた。




 街行く人を次々に突き飛ばし、必死の形相で走る古田。猛烈な勢いで追い上げていく茜。中高共に陸上部であったゆえに、足では負けていなかったのだ。


 やがて、古田は路上の角を曲がった。しかしそこは行き止まりだった。仕方なく傍らの居酒屋へと入っていく。その姿を目にした茜も店内に踏み入った。


 賑やかだった客の声が、突如として悲鳴に変わる。古田は茜に向けてカウンター席の椅子を放り投げた。間一髪のところで回避したものの、今度はナイフの刃が迫ってきた。瞬時に茜の目つきが鋭くなる。古田の腕をつかみ、前方にくずし、そして豪快な背負い投げを決めた。茜の得意とする技であった。


 ナイフが音を鳴らして床に落ちる。茜は古田を取り押さえ、即座に手錠をかけた。続けてG-SHOCKの腕時計に視線を移す。

「二十二時十八分、暴行の現行犯で逮捕!」


 しんと場が静まり返り、客や従業員の目が茜に注がれる。その空気を察した茜は、警察手帳を開いて見せた。

「日比谷署の者です・・・警察です・・・・・・」


 その直後、大きな歓声と拍手が沸き上がる。茜は思わず照れ笑いを浮かべた。




 翌日の朝。企業ビルのような外観の建物を、太陽の光が明るく照らす。その建物こそ、日比谷警察署である。


 茜は署長室に呼び出され、背筋を伸ばして立っていた。木目調に統一された広い部屋だ。


 真向かいの席に座っているのは、署長の福村五朗ふくむらごろうだった。

「いやあ斉条くん。お手柄お手柄」

 福村は手を叩いて労をねぎらった。

「恐縮です」

 茜が一礼したあと、福村は告げた。

「眠たいとこ悪いんだがね、ちょっとだけ残業してもらえるかな。頼みたいことがあるんだ。報告書や取り調べなんかは全部ほかの者に任せるから」

「構いませんけど、何をすれば?」


 福村は途端に、口の前で人差し指を立てた。

「ここから先はオフレコで頼むよ。秘密厳守で。いいね?」

「はあ・・・・・・」


 茜は怪訝な表情になった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る