第41話 悪意
『18:31』。
空き教室の空気は、長い期間放置された水槽の如く酷く澱んでいた。
換気が止まり、
掃除すらされない室内。
古い木材、
漂う埃、
僅かに残るチョークの匂い、
それらが混ざり合い、呼吸する度に肺の奥に侵食し沈殿していく。
夕暮れの光が差し込む。
窓からの光が斜めに入り込み、
机と椅子の影を歪に引き伸ばし、
存在感を増やしていた。
影は床に貼り付き、
まるで動けない何かがそこに取り残され、
逃げようともがいているようだ。
そんな教室に二人の男がいた。
背中はガラスに触れているのに、
外の世界へ意識を向けず興味がない様子だった。
指先だけが生き物のように、
動き、
滑り、
止まり、
また進むを繰り返す。
上へ下へ。
その動作は異様に正確で、効率的で、そして執念深かった。
己に必要な情報に辿り着くまでの最短経路を、最初から最後まで頭の中に描かれ、知っている者の動きだ。
「あぁ、やっぱあの子だったんだ」
ゆっくりと確信を持って吐き出された呟き。
それにしては輪郭がハッキリしすぎていた。
独り言ではない。
誰かに聞かせる前提、
それなのに視線は画面から外れない。
そこにあるのは確認ではなく、積み上げてきた推測が一つの形を取った瞬間の確信。
「……やっぱってなんだよ」
もう一人の男、
空間を切り裂く刃となり、
豪速球のように投げかけられた。
そんな言葉は苛立ちを隠す気配はなく、むしろ露骨だった。
理由は至って単純。
この閉じた世界で、
それも
どんな
だからこそ視線は画面に固定されたまま、
口元だけがゆっくりと歪む。
だが、笑みと呼ぶには感情が濁りすぎていた。
「前から見覚えあったんだよ。確か中学の時だったかな」
指が画面をなぞる。
操作とは言わない、
撫でるという表現の方が近い。
対象を確かめるための接触。
存在をなぞる行為。
『履歴』。
『記録』。
『行動ログ』。
項目が並び、
過去と今を整然と切り分ける。
個人の時間が、
情報として分解され、
保存され、
呼び出される。
「中学の転校前のデータが、微妙に残っててさ」
画面が切り替わる。
解像度の荒い映像。
光量の足りない廊下。
壁に貼られた掲示物の文字は潰れ、
人物の輪郭だけが辛うじて判別できる。
俯いた横顔。
カメラに意識を向けていない、無防備な瞬間。
「ほとんど写ってない。でも、消されてもない」
楽しんでいるのか、
噛みしめているのか、
区別がつかない。
「目立たない。問題も起こさない。なのに、完全には埋もれない」
指の動きが止まる。
画面中央に表示された名前。
無機質な文字列なのに、不自然な存在感を放っていた。
背景の映像よりも、名前の方がはっきりと目に残る。
「こういうの、嫌いじゃない」
その言い方は、好意とも執着とも取れる曖昧さを含んでいた。
背後で界が腕を組む。
教室の床が、わずかに軋む。
「……過去まで漁るとか、キモいぞ」
吐き捨てるような言葉。
だがそれは拒絶というより、踏み込めない場所を前にした焦燥に近い。
「おいおい、残ってるものを見てるだけだろ」
躊躇も、言い訳もない。
「全人類に配られた『
理屈としては正しい。
だが、その正論は刃物の形をしていた。
「それにさ」
画面を見つめる目が、細くなる。
「昔から変わってないんだよ。人を見下しもしないし、媚びもしない」
一見すれば美徳。
だが彼の声には、評価と同時に苛立ちが滲んでいた。
「拒絶が、自然体」
その言葉は、感心と敵意が溶け合った濁流だった。
「だから腹立つんだろ」
「そう」
肯定は一瞬。
否定する余地など最初からない。
「俺たちが、最初から『無いもの』扱いされてる」
空き教室の壁に掛けられた時計が、かちりと音を立てる。
その小さな音が、不釣り合いなほど大きく響いた。
「――なぁ界」
そこで初めて目を向け、真正面から
「次はさ」
口角が上がる。
だが目は笑っていない。
「もう少し、逃げ場のない場所で話そうぜ」
夕暮れの光が、
その影は、表情の輪郭を曖昧にし、内側にある歪みだけを際立たせ、空き教室の空気が、さらに一段階重く沈んだ。
逃げ場。
その単語が持つ意味を、
理解してしまったからこそ、喉の奥に引っかかるものを無理やり飲み込んだ。
「……具体的には?」
問い返す声は低い。
だが、わずかに遅れた。
それだけで十分だった。
答える必要がないからだ。
すでに決まっている。
決まっていて、それを変更する意思もない。
彼はゆっくりと体を起こし、窓際の机から離れた。
背中がガラスから剥がれる音はしない。
それでも、何かが引き剥がされた感覚だけが残る。
一歩。
影を踏み越える。
二歩。
夕暮れの光から、完全に身を外す。
そこに立つ姿は、最初から光の側に属していなかったかのようだ。
「今日じゃない」
ようやく言葉が落ちる。
「準備がいる。相手にも、俺たちにも」
「……本気かよ」
「本気だよ」
即答。
温度のない声。
「中途半端に触って、壊れなかったら意味がない」
その言い回しは、
人に向けられるものではなかった。
まるで『構造物』か『仕組み』を語るような口調。
「西園寺はさ」
名前は表示しない。
それでも、そこにあることが分かっている。
「ずっと境界にいる」
『履歴』でも、『記録』でもない。
言語化されていない位置。
「集団にも、孤立にも完全には属さない。誰にも踏み込ませないくせに、拒絶の形を取らない」
指先が止まる。
「壊すなら、ああいうのが一番綺麗だ」
短く、荒く。
「……最低だな」
「褒め言葉として受け取っとく」
軽い仕草なのに、冗談の色は一切ない。
「安心しろ。力ずくじゃない」
一瞬の間。
「選ばせるだけだ」
その言葉の方が、よほど残酷だった。
教室の外、廊下の奥で誰かの足音が響く。
部活動を終えた生徒だろう。
笑い声が混じり、遠ざかっていく。
この空き教室だけが、時間から取り残されていた。
「――帰るぞ、界」
「鐘の鳴る前に」
引き伸ばされた影が、床を這うように動く。
やがて、短く舌打ちをして後を追う。
扉が開き、
廊下の光が一瞬だけ教室に流れ込む。
そして閉まる。
空き教室には、再び沈黙だけが残った。
時計は『18:32』を指し、
かちり、と
また一つ、音を刻んだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます