第8話 白と黒、そして怪物


 全部思い出した。

 ここに来た理由わけ、奪われた記憶、手足の感覚、心の臓の旋律、その全てはこの身へと還元された。


 久しぶりの視界はとても眩しく美しい。


 最初に来た頃とは違いこの世界は大きく変貌している。

 天を覆う瞳。空間に漂う黒きモヤ。大地を染める黒。灰色はどこにもなく消え去った。

 その事実に心は動かない。


 この世界は自分の世界だったはずなのに侵略され、食い散らされた。

 だからこそ、変わった世界になんの動きもなかった心は憤怒に燃え上がっていた。


 自分の『命じた通りに動く』黒きモヤを、ようやく「知覚した」と言える段階まで意識が浮上してきた。

 だがその知覚は視覚ではない。触覚でも聴覚でもない。

 もっと骨の底に沈んでいた、自我の始原の核が――まるで長い眠りから覚めたように、初めて外界を撫でて確かめるような感覚だった。


 黒きモヤは熱を持たず、光を帯びず、影として存在しているわけでもない。

 ただ、圧倒的な『無』の粒子が互いに絡み合い、かすかに湧き立つ波のように集合しているだけだった。

 それなのに、その集合体は確かに「形」を成していた。

 指で触れれば消えそうなのに、触れた指は逆に深く沈み込み、意思の流れを吸い込むように絡め取ってくる。


 そのとき、確信にも似た理解が生まれる。


 ――これは自分が支配したものではない。

 ――これは、自分に“従うことを選んだ闇”なのだ。


 黒を構成する粒子は元は単一ではなかった。

 その一つ一つが、かつては色を持っていた。

 鮮烈な朱、沈んだ藍、微光のような黄、そして無数の色彩が、触れられるたび飲み込まれ、混ざり、濁り、やがて“黒”へと堕とされていった。


 奪われ塗り潰された色たちの名残が、すべて黒の内側でまだうっすらと脈動している。

 色そのものではなく、その色がかつて持っていた感情、意思、衝動。

 それらがまだ死にきれず、黒を満たしていた。


 黒は支配されているように見えて、実は違う。

 黒自身が、試すように身を委ねている。

 その深層に沈む力は、今もなおこちらの意志の強度、覚悟、自我の輪郭を測り続けていた。


 天は白い。

 天を覆う白き瞳の光は、恐怖を感じさせる動揺が浮かびながらも義務を果たすべくそこに存在している。


 地は黒い。

 鼓動と呼応するように灰色だった大地が黒き大地へと代わり、一定のリズムを刻んで黒きモヤが湧き出てくる。


 天は白く、地は黒く。

 相反する力が相見えることは少ないが、それでもこの世界で対峙することになった。

 侵入してきた白き瞳はこの世界を消滅させるために。

 黒きモヤを纏う存在は相手を呑み込むために。


 天の高みで傲慢にも白き瞳が大きく瞬いた。

 その光は単なる照射ではなく、世界の構造そのものを『破壊』するような、鋭く純粋な白。

 視線が走るたび、空間の線はたわみ、輪郭が薄れ、存在は紙のように剥がれ落ちる。

 白の光は静かでありながら無慈悲だった。

 まるで「この世界には不要なものがある」と淡々と指し示すかのように、触れたものを順に白へ塗り替えていく。


 大地の底で黒きモヤが湧き上がる。

 生命の深層が液状化した濃密さを持っているモヤは、揺らぎながらも形を保ち、数え切れない渦がその中で生まれては消え、動き回っているかのよう。

 モヤに触れた地面は音もなく黒へと染まり、そこからさらに新たなモヤが生まれる。

 増殖は止まらない。

 モヤは世界そのものの「深層反応」を代弁しているかのようで、白の侵食を拒む防衛本能そのもののようだった。


 白が、黒が、互いに膨張し、世界の天と地に巨大な勢力圏を築いていく。

 その境界線に、ついに両者は触れ合う。


 接触の瞬間、音が消えた。

 世界のどこに耳を傾けても何も聞こえない。

 ただ、圧だけがあった。

 鼓膜ではなく、骨そのものが震える圧力。

 大気も、大地も、海も、すべてが沈黙し、ただ圧だけが“存在の重さ”を告げていた。


 次の瞬間、一切の音が戻り――爆ぜるような、轟くような、世界を裂く咆哮が空と地を満たした。


 白と黒――二つの存在が交わる境界で世界が軋みを咆哮のようにあげる。

 空は波打ち、地は鳴動し、その狭間にあるすべてのものが形を失っていく。

 時間さえも引き裂かれ、過去と未来が同じ瞬間に崩れ落ちた。


 白の光が弾け、直線的な閃光が黒へ突き刺さる。

 一本、二本と無数に生まれた光の杭がモヤの中心を穿ち、空間そのものに穴を開ける勢いで突き進む。


 だが黒きモヤは、光を拒むように大きく脈動した。

 モヤは光に触れた部分を一瞬で蒸発させ、すぐに別の層から濃密な闇を押し出して塞いでいく。


 光柱はモヤを焼き裂くが、モヤは裂け目から牙を伸ばし、光を喰いちぎるように引きずり込んでいく。

 光が千切れれば、モヤはその破片を飲み込み、内部で砕いて消化し、新たな“黒”として吐き出す。


 白と黒が互いを削り合い、食い合い、塗り潰し合う。

 境界はもはや線ではなく、世界規模の“噴火口”のように上下に広がる巨大な渦となった。


 巨大な白き瞳は、空を完全に覆いながら揺れていた。

 眼球そのものが地響きのように震え、その震動が白い稲光として天へ奔り、黒を貫く槍へと変わる。

 瞳孔が収縮すると光は一点集中し、世界の中心へ狙い撃つように白い刃が降りる。


 対して黒きモヤは、海嘯のごとく立ち上がり、白へ牙を剥く。

 モヤは巨大な竜巻の柱となり、黒い渦が天へ伸び、まるで深海そのものが逆流して空を呑もうとしているかのようだった。

 モヤの内部では光を腐食させる黒い稲妻が縦横無尽に走り、白の勢力圏へ向けて噛みつくように飛び交う。


 白の光が黒を裂き、黒の渦が白を溶かす。

 互いの攻撃は互いの存在を削るが、削られた分だけ世界の形が変わり、境界はゆっくりと膨張していく。


 白が黒を焼き、黒が白を腐食させる。

 光は靄を蒸発させ、靄は光を喰い破る。

 互いが互いの存在意義そのものを噛み砕くように、世界の天と地で戦場が広がっていく。


 大地は光に照らされて白化しては、すぐさまモヤに包まれて黒へ戻る。

 空はモヤに覆われて黒く沈むが、次の瞬間、白が閃き天蓋を焼き尽くすように照らす。


「全部、喰らい尽くせ」


 黒きモヤは、迷いなく命を遂行するべく激しく動く。

 それは形を持たず、名もなく、ただ「喰らう」という行為そのものに徹していた。

 白の光が触れた瞬間、音もなくそれを呑み込み、吸収し、闇の奥へと引きずり込む。


 世界が狂う。

 白と黒の境界が崩れ、空が裏返る。

 天は地となり、地は天へと歪む。


 世界は今、白と黒が互いを食らい合う“渦”の中心で震えていた。

 消滅か、共倒れか、あるいは融合か。

 未来はわからない。ただひとつ確かなのは、


 ――この戦いは、世界が生まれて以来、最も巨大で最も古く最も根源的な、存在の衝突だということだった。


 白と黒が互いを呑み込み合う渦の中心――そこに立つ自分だけが、揺るがなかった。


 暴風のように巻き上がる黒きモヤは、もはや無数の牙を持つ獣にも、意志を飲み込んだ海にも見える。

 天を覆う白き瞳は、あまりに巨大で、あまりに冷たく、あまりに“正しい”。

 世界のあり方そのものを審判する裁定者のように、ひとつ瞬くたび、何百もの現象を白へ還元していく。


 だがそのどれも、もう自分の心を揺らす力を持たなかった。


 記憶は戻った。

 意志は戻った。

 心臓の音は力強く世界を震わせ、呼吸は大地へ命を注いでいた。


 白と黒が世界を裂こうとも、自分はその中心に立ち――ただひとつの命令だけを胸に刻む。


 ――支配せよ。

 ――奪われた世界を取り戻せ。

 ――白き瞳を屈服させよ。


 黒きモヤが反応する。


 白の光に焼き裂かれ、千切られ、穴を開けられながらも、それらすべてを喰らいながら再構築されていく。

 闇の粒子は互いに絡み合い、そこに宿るたちがざわめく。


 朱は激情を。

 藍は深層の静寂を。

 黄は警戒と閃きを。

 緑はしぶとい再生を。

 紫は毒気を帯びた知性を。

 その他無数の色彩の残滓が、黒の奥深くで脈打ちながら混ざり合い、ひとつの巨大な意志の塊として胎動していた。


 それは、ただ従っているのではない。


 ――お前の意志を『試し』、認め、そして奉じようとしている。


 白き瞳の侵略が、この世界の心臓をえぐり尽くさんとしていた頃、黒は逃げず、怯えず、ただ沈黙の中で待っていた。

 『迎えるべき主』を見極めるために。


 今、その主が自分だと黒は判断している。


 だから――黒は膝を折るように沈むのだ。


 闇が自ら収束し、自分の足元で渦を巻き、世界の底にまで根を張るように広がっていく。

 まるで巨大な王国が形を成すように。


 黒は跪いていた。


 白き瞳が震える。

 その揺れは怒りでも恐怖でもない。

 理解だ。

 この世界の均衡が、自分という『第三の意志』の出現によって崩れたことを理解したのだ。


 白は観測しかできない。

 干渉は攻撃としてのみ発生し、意思を持たない。

 ただ世界を評価し、不必要と判断すれば焼き払う。


 しかし、評価を超える存在――

 世界の主を名乗る力を得た者が現れたとなれば、白はただ観測するしかない。


 世界が揺れた。


 白と黒の渦が、自分の心臓の鼓動と同期する。

 ドン、と鼓動すると、黒が隆起する。

 白が一度瞬くと、空間が震え、その震えに黒がまた応じる。


 もはや自分はただの観測者ではない。

 世界そのものが、自分を中心に回り始めていた。


「――戻れ」


 その一言で、黒きモヤは爆発するように後退した。

 世界の地底まで引きずられたかのように沈み込み、しかしすぐに再び立ち上がる。

 命令を待つ、忠実な獣のように。


 天の白き瞳が、大きく縦に裂けるように収縮した。

 光が一点に集中され、世界の構造が白熱化する。


 白は判断したのだ。


 ――この存在は、絶対に消すべき脅威である。


 世界の空がひとつの光柱となって降りてくる。

 それは神罰のようであり、宇宙の収束のようであり、

 世界を根元から焼き払う絶対の“白”。


 黒きモヤが前に出ようとする。

 だがその瞬間、自分の中で燃え上がった意志が、黒を押しとどめた。


「やめろ」


 黒は従った。

 その沈黙は畏怖でも恐れでもない。

 認めた者の言葉を聞くための、純粋な服従だった。


 降り注ぐ白は、世界の空気を消し、時間を削り、存在を溶かしながら迫る。

 それでも自分は一歩も動かない。


 白と黒の境界が、震えた。


 ――そして気づく。


 白き瞳は、黒を消しに来たのではない。

 黒の『主』になった自分を測りに来たのだ。


 黒が試したように、白もまた自分を試している。


 白の光が目前に迫り、世界の輪郭が崩れていく。


 自分はそこで、ゆっくりと右手を上げた。


 黒が震え、白が揺れる。

 天と地のすべての色がそこで停滞した。


 そして――


「■■■」


 その一言とともに、世界が裏返った。


 白の光柱は黒へ落ちる前に、手を伸ばした自分へ真っ直ぐ吸い寄せられた。

 空が悲鳴をあげ、瞳が大きく見開かれ、世界に光の断層が走る。


 白が震える。

 白が軋む。

 白が拒絶しようともがく。


 だが、逃れられない。


 光が自分の掌で砕ける。

 粉砕された白は純粋な情報となり、自分の体に流れ込み、心臓の鼓動と同期する。


 天が砕ける音が響いた。


 白き瞳の巨大な輪郭に亀裂が走る。

 その光はもう裁定ではなく、ただの光となり――


 白き瞳は、ゆっくりと沈んだ。


 黒が歓喜の咆哮をあげる。

 だが自分はそれを手で制した。


「まだ終わりじゃない」


 自分は空に向かって腕を伸ばし、地に向かってもう片方の腕を下ろす。


「この世界は、今からされる」


 白が沈黙し、黒が跪く。


 世界が、自分の心臓の鼓動に合わせて動き始めた。


 新しい世界の主は――自分だ。

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