後編2
「ひとみ」
店を出て、名前を呼ぶ。
彼女は電車で帰らない。いや、帰してはいけない。タクシーに乗せて、安静にさせないと。ただ、飲みすぎて体調を悪くしたのではないと、察しはついた。
「どこか悪いの?」
「いや」
首を横に振る。
力ない返答は私の知る彼女じゃない。だからと言って、失望や悲愁を感じずに済む程度には私も大人になった。
「隠し事しなくていいから」
ただ、彼女の手を取る。ひとみを大切に思う気持ちだけは伝えたかったし、もし重大な病気なら、今後の助けになりたかった。
「あ……」
取った手の指に、硬い感触が伝わる。私のじゃない、彼女の指に収まったそれは、
「結婚? 婚約? してたんだ……」
「結婚だよ。ごめんね、隠すつもりはなかった」
包む手のかたちを変えて、彼女の左手を掌に乗せる。
薬指には銀色の指輪。小さなダイヤモンドが路地裏の電灯を反射する。
「昔みたいになれたら、と思って外していた。ごめん」
「謝ることじゃない」
私もだからと言おうとしても、口が開くだけで声が出ない。
「今だから言うけどね。結婚式に行かなかったのは八つ当たりみたいなものさ」
「どうして……?」
「なんたって、私の心を弄んだくせにしれっと結婚したのだからね。やきもきした4年間の気持ちを返したほしい気分だった」
「ごめん」
「謝らないで。それに、今は君の気持ちを理解できるつもりだよ」
ひとみの左手を乗せた私の掌を、彼女の右手が包む。
「愛というものは重大かつ慈しみ深く、切り離せないものだ。自然発生するくせに理屈で説明できないのだから」
ひとみの右手は私に手を取り、彼女の腹部へ連れていかれた。厚い冬服越しでもわかる体温。少し、張っている。
「昔みたいになれないのは、私のせいさ。君とあの夜のリベンジを臨んでも強気になれなかった」
だから、か。だから、ひとみはずっとアルコールを避けていたんだ。マスターが同じカクテルをわざわざひとみ用に分けていたのは、ノンアルコールカクテルだったから。
「例えチャンスが巡ってこようと、君とは愛し合えない。少なくとも、私にはその覚悟がない」
「友愛なんて、都合のいい言葉は使わない。だから、これでリセットしよう」
唇が触れる。遠くの方で車が走る音が聞こえる。胸の奥の熱が呼吸にのる。ひとみも同じ熱を持っていると信じたかった。今までのどんなキスよりも最速で胸を焦がしたから。
身を引いたのは、ひとみだった。
「ありがとう。できれば、今後とも友達でいてくれることを願うよ」
泣いたまま笑えるこの人はズルい。私も、笑うしかないじゃないか。
「うん、まずは5年も私の心を弄んだ埋め合わせをしてほしいな」
精いっぱいの強がりで私はポケットに手を突っ込む。
引きずり者たちの隠し事 白夏緑自 @kinpatu-osi
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