第3話

 もしかしたら、憧れではなかったのかもしれない。

 いや、あの時は確かにそうだった。

 けれども、ここに赴任して、微かにでも『門別大祐』に触れてしまった時点で『憧れ』なんて感情は、とっくに溶けてしまっていたのかもしれない。ほら、ギリシャ神話にいたじゃんか、蝋で固めた翼で太陽を目指したってやつがさ。あいつは太陽の熱で蝋が溶けて真っ逆さまに落ちちまったんだってな。


 俺も同じだ。

 たぶん、近付きすぎたんだ。あいつに。憧れなんて、とっくに溶けちまってたのかも。


「もっと知りたいんすけど」


 何やらすまなそうな顔をして、俺の腹の上の、どっちのモンかもわからねぇような体液をせっせと拭ってくれている門別に、そう言った。「はい?」と返した彼は、いままでで一番間抜けな面をしてた。「こいつ何言ってんだ、レイプ魔と警察に突き出すならまだしも」くらいのことは考えてそうな面だった。


「あんたのこと、俺は全然知らないんで。この後、食事とかどうですか?」


 一瞬の間があった。

 あれ、俺何かおかしいこと言ったか?

 いや、普通に腹も減ったし。足んねぇって、チョコごときじゃ。いま運動もしたし。いや、そうじゃないか。

 

 門別はやはり「こいつ馬鹿か」みたいな顔をしていたが、ふはっ、と笑った。うわ、この人こんな感じで笑うのか。


「いいですよ。金曜日ですし。寿都先生と飲んでみたかったんです」


 さっきまでの妖艶さはそこになかった。くつくつと喉を鳴らして笑う門別は、生徒達が噂する「セクシー養護教諭」でもなかった。多少とっつきにくかった、一つ上の美人な先輩、みたいな、そんな感じというか。大学の体操部にもいたんだよな、そんな感じのやつ。そいつは大して技術もねぇくせにお高くとまってたから、部内でも煙たがられてたけど。


「先生呼びはなしにしません? 仕事してる感が出て、なんか嫌です」

「寿都君の気持ちを尊重しましょう。私のことは、どうとでも呼んでください。タメ口で結構です」


 と言われても、早速『寿都君』と呼ばれたのに倣って『門別君』と呼べるかといったら、そんなことはない。たかだか一歳でも先輩は先輩だ。まぁ、一応俺、被害者だしな、タメ口くらいは許されるだろと、その辺は追々撤廃することにしたが、呼び方はせいぜい『門別さん』だろう。次点で『大祐さん』か?


 意外だったのは、どこか居酒屋でもと思って誘ったはずが、まさかの宅飲みだったことである。美味い酒が飲めて、料理も絶品、しかもリーズナブルと言われれば断る理由もない。


 門別はどうやら料理が得意らしく、俺をソファに座らせて、せっせとつまみを用意し始めた。自炊なんてせいぜい惣菜の素を駆使して一品作るか否かのレベルの俺は、ビールをちびちびと飲みながら、はーすげぇなぁと阿呆面で見学するのみである。


「……寿都君、北都ほくと高出身ですよね」


 何かしらをザクザクと切りながら、こちらを見ずに、尋ねられる。不意に飛び出した懐かしき母校の名にどきりとした。


「そっすけど。え、知ってんすか」


 俺のこと、とは言えなかった。北都高校自体はスポーツで何かと有名な学校トコだし、もしかしたら他の先生から何か聞いたってだけかもしれない。そう思い、再び缶に口をつける。


「北都高校の寿のことは、少々」

「――ぶふっ」

「どうしました、そんなに動揺して」

「い、いや、何でも」


 落ち着け落ち着け。名前を呼ばれただけだ。だけど、え、何、認識してたの、俺のこと!?


「体操部でしたね」

「え、ええ、まぁ。え? ちょ、何で?!」

「見ましたよ、寿都君の演技。全道の」

「は? え? いや、門別さん、剣道っすよね? 何で体操の大会なんて」


 そう言うと、門別は包丁を持ったままくるりとこちらを見た。いや怖い。置いて。包丁置いて。笑顔が怖い。


「やはり、私が北海第一の門別大祐と知っていましたね?」

「え? そりゃあもう、有名っすから」

「面識もありましたよね私達、一応。なのに、よくもまぁ『初めまして』なんて仰々しい挨拶してくれちゃって」

「あり……ましたっけ? あるうちに入る? 挨拶くらいはしたかもですけど。でもほら、門別さんは有名だから、俺の方は認識してても」

「私だって、寿都君のことちゃんと認識してましたって」

「えぇ? ほんとっすかぁ?」

 

 疑いの目を向けると、何やら呆れたようにため息をついて包丁を置き、エプロンで手を拭きながらこちらへ来た。


「私にも一応友人というものはおりましてね。それが体操部だったんです。応援に行ったんですよ。その時、やけに威勢のいい選手がいるな、って話題になって」

「俺ぇ? そんな話題になるような――」

「威勢だけは十分でしたよ。なんか有り余って、最後、平行棒から落ちてましたよね」


 その言葉で、あの時の悪夢が蘇る。

 初めての全道大会で緊張しまくっていた俺は、出た種目すべて、最後の最後でミスるという逆快挙を成し遂げたのである。先輩方も最初こそ笑っていたものの、最後の方は呆れるやら泣きだすやらで、応援席は地獄絵図だった。それでも三年間辞めずに続けたのだから、まぁ褒めてくれ。


「ぐわぁぁぁ、よりによってあれ見られてたんすかぁ~……!」

「まぁ、平行棒と言わず、鉄棒も着地でミスってましたしね」

「ぐぅぅぅ……」

「あと何ていうんでしたっけ、あれ、あの電車の吊り革みたいなやつ」

「吊り輪です! もう良いでしょ! ハイハイ、あれも最後失敗しましたよ! 畜生! 何で見てんだよあんた! せめて二年の時のやつ見てくれよ!」

「何か、きれいだったんですよ」

「はぁ? 落ち方がっすか?! クッソ、落ち芸っすか!」

「いや、きれいな筋肉だなって。昔はもっとすらっとしてたでしょ」

「まぁ、いまは? 筋肉ダルマっすから?」

「拗ねない拗ねない。ほら、ビールが空ですよ。もう一本どうぞ」

「いただきます!」


 差し出された缶をためらいなく受け取って、その勢いのまま、ガーッと飲んだ。


 まぁ、それが良くなかったんだろう。


 気付けばベッドだった。


 真っ裸で。

 隣には当然のように真っ裸の門別がいた。

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