第10話 闇路の果ての
「……せのん?」
「せのん」
「はっ」
新聞を広げ、震災の記事を見つめたまま
「どうした」
「…………」
千音は、言葉に詰まった。
言い淀む千音へ、楠が短く、鋭く促す。
「言えよ」
「……たくさん、人が死んでる」感情のないこえが、淡々と事実をなぞる。
「……そうだな」
暫くの、無言の間。
楠は千音の次の言葉をただ、待っているようだった。
居心地の悪さと、吐露を許す空気に、千音はやがて口を開いて。
「こういう時、私、私のことだけで落ち込んでちゃいけない気がするの。だけど……、ほんとは、本当は、心の底ではどうでもいいとも思ってる」
言葉に紡ぎながらも、千音は自分の感情の正体をある程度は把握している。
この思索は、別に今回が初めてという訳でもない。悲劇に心を痛めるべきだと理性では理解しつつも、心の奥底では無関心でいたいと願う自分がいる。それは、自身を今以上傷つけないための、歪んだ自己防衛だからだ。
「それは両方とも正しい」
それを見透かしたような楠の答えは機械的で。
「人の頭は複数の物事を同時に処理するようには出来ていないが、だからと言って片方を捨て去れるほど都合よく出来てもいない」
そう言いながら、楠は新聞を手に固まったままの千音へ、軽く手を差し伸べる。
「あ、うん」返せってことね。
暗示が解けた様に、千音は新聞を差し出した。
「俺にとっては僥倖かな。仕事がやりやすくなる」
「仕事……」
千音の目は、楠の前の
千音の呟きに、楠はいつも通りの、どこか達観したような口調で答えた。
仕事。つまり。
千音の顔色を察した楠が、少し躊躇するように語り出す。
「……ああ、これが以前言っていた『名簿』だよ。各種の役所や福祉事務所から流出したもの」そして取り上げた書類を軽く指で弾く。「家族構成や環境、資産状況だのなんだのを全て網羅している」
「……そういう風に、私のお母さんに『決めた』んだ」
千音の声は、ただただ静かな、どこか深い諦めを含んでいた。
「その通りだ」楠は肯定した。千音に嘘をつかないと決めた以上は。
「……で、『それ』は、次の目標を決めている最中ってこと?」
「正解。でも半分は間違いだな」
「え?」
「もう、決めてある」
――――――――――――――――――――――――
「しかし問題が一つある。きみはこれから間違いなく俺に『連れていけ』と言い出すだろうということ」
「へ?」
「……何だその顔」
千音のきょとん顔は、さも当然の様に同行するつもりだった表れである。
「あのさあ……」
これには百戦錬磨の楠も面食らったというか意表を突かれたようで。
どこか超然とした態度が崩れ、恐らくは本来の素であろう呻き声を上げた。
「何ソレまた馬鹿にしてるの」
「違うよ」
「何度も言ってるけど、私は納得したいの。あなたがお母さんを殺したことが、本当に私のためになるのか。あなたの言葉を信じてもいいのかどうか。私にはその権利があるはず。そして義務も。そうでしょ? エナ」
千音はことさらに楠の名を強調してみせる。それがまるで何かしらの呪文のような効果を発揮すると言わんばかり。そしてそれは実際にある程度の意味はあったようだ。
楠はあからさまに眉に皺を寄せ、頭痛がするかのように、何度か頭を振る。
千音にはそれが「こんな小娘に論負けするなんて悔しいっ」と言っているように見えた。そしてそれもある程度は実際にそうだった。
結局、楠は渋々ながらも千音の同行を認めた。
千音の正直な感想は、ぶっちゃけ「チョロいな」である。
「判った。しかし俺の方も念を押しておく。これは殺人だ。俺だって軽々しく扱うつもりはない。色々なリスクもある。きみを連れて行くとなればそれも倍だ。現場に入ることは許さない。余計な口出しも手出しも厳禁。俺の指示は絶対。この約束を守ると誓え」
「うーん……誓います」
気の抜けた宣誓に、楠はまだ何か言いたいようにして、しかし結局、喉元で飲み込んだ。
「で、どうするの? 次はどういうひと?」
片やの千音はそう言うと、デスク脇に転がっていた古いパイプ椅子をがりがりと引っ張ってきて、楠の傍に腰掛けた。まるで夕食を決めるような態度に楠はまた少し眉をしかめたものの、これが千音の『らしさ』だと観念する。
「……
楠、咳払い。
「――高校生になってすぐ、保護者である祖父母がそれぞれ脳梗塞。半身麻痺で祖父は寝たきり。高校を辞めて就職、仕事をしながら祖父母の世話を続けている――」
「……そのひとの両親は?」
「小さい頃に離婚してそれきりらしいな」
「おかしくない? 普通、どちらかが引き取るものじゃないの」
「普通だったらな。まあ、普通じゃないから俺も目を付けたんだ」
それから、千音は楠と共に、今回の『対象』となる男の人生を『追体験』していく。
公的な資料どころか、小学校や中学校の成績や内申の内容、アルバムの文集のコピー。果てはネット上での言動や、性的趣味の傾向まで、ありとあらゆる個人情報が、古い事務机の上に揃っている。プライバシーもへったくれもない。マスコミですら踏み入れない、踏み入らない領域の情報だった。
これを楠一人で集めることができるとは、千音にも到底思えなかった。
やはり協力者がいる――しかもこういった情報を集められる力を持つ誰かだ。
「……このひと、まるで私みたい」
高校を辞めるまでの間に、荒んでいく言動。
いじめを受け、信頼を喪失していく様子。
それでも僅かな給料のために仕事にしがみついている現状。
壊れていく日常。
「だけど、これくらいの境遇の者はごまんと居る。声を上げてないだけの」
「じゃあ、何でこの人を」
「実際に数日間、彼の様子を観察していた」
「……」
「自慢することじゃないが、実際に戦地で死線を潜り抜けてきた俺には、ある種の勘がある。希望が消え失せた目。そしてある種の覚悟を秘めた目。前を向いているのに、意識だけが過去に置き去りになっている目。そんなもので、判るんだ。その人間にとって引き返せない日が迫っていると」
また、静かになった。
僅かに開いた日窓から、秋の梢の囁きと、冬を間近に控えた小鳥の歌が、寂れた事務所に入り込んできた。
「……私のことも、観ていた?」
「ああ」
「気付かなかったなぁ」
「一流だからな」
「でも、それって結局、勘なんだよね……当たってたから信じるしかないけどさ」
「間に合わなかったこともある」
楠は一息と共に目を閉じる。
「とある女性の話だ。その
「生前、夫と何度も通った公園の、桜並木を見降ろせる場所で」
「本人は、一緒に身を投げるつもりだったらしい。しかし最期に浮かんだのは、ろくでもないバカ息子の面影。だから彼女は踏み留まった。息子はとっくに失踪して生死も定かではないのに」
「この話を聞いて、どう思う?」
「……わかんない。私は判る、って言うべきなのかもだけど」
千音は俯き、小さく答えた。
答えのない問いだ。正解を決めることは誰にもできない。
楠の言う通り『考えるのではなく、思う』だけだ。
「結局、そのひとはどうなったの?」
「捕まったよ。自首してな。もう裁判も終えている。懲役五年で服役中だ」
「どういう気持ちで、今過ごしてるのかな」
「……あまり良くはない、としか言えない」
楠は、そこに答えを探しているかのように、わざと資料を捲ってみせる。そんなことをしても記憶に刻まれた事実は変えられないのに。
しばらく、お互いの思索の代わりに、書類を確かめる微かな音がして。
「……せのん。俺は彼女の夫を殺すべきだったかな」
「え?」
唐突な楠の問いに、千音は思わずその横顔を見た。
「本当は、何度もチャンスはあった。だけど俺が最後に見たのは、桜並木を散歩する二人。あの時の二人にはまだ未来があった。その可能性はあったと思う。だけど、俺は賭けたんだ。そして負けた」
「エナ。やるべきだったと思う」
「!」
不意の即答に、楠はまるでその時初めて、本心から驚いたような顔を向けた。
「もしそうだったら、少なくとも、その人は、あなたを恨んで生きていける。自分自身に憎悪しなくて済む」
「ああ……そうだ。そうだな。そうだった」
千音の光のない目に、自分自身の映し姿を見た楠は、自身を納得させるかのように、頷いた。
千音はその困惑の始終を無感情に見つめていたが、やがて、静かに呟く。
「……ふたり……」
「二人とも?」
「二人とも」
そう、今回の楠の『目標』は『二人』。
楠の反応からは、楠自身も初の仕業であり、緊張と警戒をしているのだということを、千音も理解できた。言葉を敢えて選ぶのであれば『大仕事』になるのだろう。
僅かに動揺していた楠はすぐに普段の冷静さを取り戻し、しかし千音の探る視線から逃れるように、目を伏せる。
「決行は今夜だ。徹夜になるかもしれないから、夜になる前にたっぷり寝ておいた方がいい」
千音は、乾いた唇で、小さく「うん」と答えた。
心臓が鼓動を早めたのは、恐怖と、好奇心のうねり。
明らかな『悪』への、隠しようもない高鳴りだ。
そのくせ、窓の向こうの山々は、秋の陽光に満ち、清々しいまでに澄んだ空が広がっている。
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