3章 ~月夜に濡れる哀しみの白花~

 王都リンガル。その中心部に位置する場所に建っている騎士団本部から出てきたサーリャは大きく伸びをしながら空を見上げ、降り注ぐ太陽の眩しさに目を細める。

「ようやく終わった~。早く家に帰ってシャワーを浴びたいわ」

「サーリャ」

 自分を呼ぶ声にサーリャは振り向く。

「あら、シオンじゃない。おはよう」

 振り返った先ではシオンがこちらへと歩いて来るのが見えた。短く切り揃えられた青い髪が動きに合わせてぴょこぴょこと動いている。普段騎士団本部に立ち寄ることのないシオンがここにいるということは、偶然ではなくサーリャを待っていたのだろう。

「シオンはこれから奉仕活動かしら?」

「そう。今日は託児所の護衛と子供たちのお世話。サーリャは夜警の仕事は終わったの?」

「そうよ。やっと畑を荒らしていた盗賊たちを捕まえることができたの。帰ったら仮眠をとるつもりよ」

 当たり障りのないことを話す二人。毎日仕事があるとはいえ、のんびりとした日常をサーリャとシオンは楽しんでいた。

 シオンは人質を取られていたとはいえ、裏の仕事に携わっていた代償として王都での奉仕活動を命じられているが、選択権の無かった時とは違いシオンの望む仕事を受けることができるので本人は積極的に活動している。そのおかげで彼女と関わった王国民からは好印象である。

 サーリャは騎士としての仕事があるとはいえ、ここ最近は比較的平和に過ごせている。

(これまでの忙しかった日々が嘘のようね)

 ルクドの大森林でルインと出会ったことをきっかけに、サーリャは激動の日々を送っていた。無詠唱魔法の習得から始まり、騎士学校を卒業したと思えばすぐさま封印都市ルルミラからの大侵攻防衛戦に参加。領主護衛の任務に就いたと思えば、突発的な魔獣の大軍を相手にしたりと、あまりにも濃い日々だった。

 それらを考えれば今のように何事もなく依頼をこなすだけの日々は貴重とも言える。

「今日はルインの家に行くの?」

「そうね。あまり長くは居られないけど顔は出すつもりよ。夕方だったらシオンも仕事が終わっていると思うから一緒に行ってみる?向こうでお菓子ぐらいは作れるわよ」

「行く!」

 お菓子という単語に目を輝かせながら強く反応するシオンに思わず噴き出すサーリャだった。



 サーリャがシオンと会っているのと同時刻、ブルリンド商会の一室で会長であるルジーは一人の客と会っていた。

「こちらが新しく商会で取り扱いを始めた調味料ですね。以前お渡ししたのと同じ物もありますが、あれから改良を重ねたものがありますので一度使っていただければと思います」

「随分と手間をかけているな。昔のやつでも十分客の期待に応えられているだろう。少なくとも俺はそう思っていたぞ」

 そう言ってテーブルに並べられているいくつもの調味料を手に取ったのは、森に引き籠っているはずのルインだった。嘘偽りの無い感想を口にするルインの言葉にルジーは笑みを深くする。

「貴方にそう言ってもらえるならば、これまでの努力が報われたような気がします。ですが、料理とは新しい発見の繰り返しです。レシピや調理法が新たに見つかる度、より高みを目指したくなるのが料理人です。私たちの提供する料理で相手を笑顔にできるのなら料理人にとってこの上ない幸せなのですよ」

「そういえばサーリャも似たようなことを言っていたな。もっとも、あいつの場合はお前ほど高い目標を持っていなさそうだがな」

 似たようなセリフを聞いたことがあるルインは自宅に何度も訪れている女性を思い浮かべた。彼女も美味しさに関しては特別こだわりを持っていた気がする。

「サーリャさん……もしかすると前回お越しいただいた際に同行されていた女性の方ですか?」

「ああ。訳あって何度か食事を作ってもらっている。アイツも何度か同じメニューにも拘らず味を変えたりして試行錯誤しているな。——なんだその顔は?」

 途中でルジーが表情を和らげていたことに気づいたルインはそれを指摘するが、ルジーは笑みを絶やすことなく小さく首を横に振った。

「なんでもありません。今の貴方様の隣にそのような方がいらっしゃることが嬉しく思っただけです」

 ルジーの反応にルインは昔読んだことのある小説に似ていると気づき、呆れたように息を大きく吐く。

「なにを勘違いしているようだから言っておくが、俺とサーリャはお前が思っているような関係じゃないぞ。アイツとは契約の上で接しているだけで、あいつの目的が果たされればそれまでの関係にすぎん」

 サーリャが訪ねて来るのは無詠唱魔法の技術を学ぶためだ。その対価としてサーリャが食事を用意しているだけなので、その契約が果たされればもう自分は用済みだ。

 実際サーリャの魔法技術はまだ未熟な部分が多いが、ある程度の水準にまで達している。今この瞬間契約を打ち切ってもあとは実戦で学べばいいだけだ。そう考えると、思っているよりも残された時間はわずかなのかもしれない。

 そうなれば今後サーリャと関わることはないだろうとルインは考えている。

 しかしルジーは「そうでしょうか?」とルインとは違う反応を示す。

「一度結んだ縁はそう簡単に切れるものではありません。私が貴方様への恩義を忘れないように、貴方様と関わった人もその想いは忘れないと思います。契約があろうとなかろうと貴方様が助けを必要とするのならば、きっと力になってくれるはずです。もちろん私もその一人です」

 今の自分にそんな価値はあるのだろうか?そんなことを考えながら「そんなものなのか?」と言いながら用意された茶に手を伸ばすと、「そんなものです」と答えがすぐさま返ってくるのだった。



 その日の夕方、サーリャはルインの家でオーブンと睨めっこをしていた。しきりにオーブンの中を覗き込んでは進捗を確認する。

 あらかじめセットしていたタイマーが焼き上がりを知らせる音を響かせ、サーリャは緊張した面持ちでオーブンをゆっくりと開けた。閉じ込められていた熱気と共に甘い香りがキッチンへと流れ込んでくる。

「よし!」

 出来上がりに満足したサーリャはさっそく準備に取り掛かった。


「二人ともお待たせ。さっそくだけど感想を聞かせてちょうだい」

 大皿を持ちながらサーリャはソファーに座っている二人に声をかけた。サーリャの声に勢いよく振り返るシオンに続いてルインがゆっくりと顔を上げる。

「待ちくたびれた。早く食べよう!」

「ふふ。慌てなくてもいいからシオンはキッチンから小皿を持ってきてくれないかしら」

「何を作っているのかと思えばパイを作っていたのか。それにしても今回のは随分と小さいんだな」

 シオンがキッチンへいそいそと小皿を取りに向かう中、ルインは大皿に乗っている物を見て意外そうな顔をした。大皿には片手で食べられるような小さなパイがいくつも並べられている。

 シオンが持ってきた小皿にそれぞれ手近なパイを取り、二人が食べる様子をサーリャは緊張した面持ちで見守っていた。

「これは……柑橘系か?」

「シオンはベリーのパイだった。もしかして中身が違うの?」

 興奮するシオンがアピールするようにパイ生地に包まれている中身をルインに見せている。

「シオンの言う通りよ。中身を変えてバリエーションを増やしてみたの。パイとして合いそうな果物をいくつか選んでみて、食べ比べしやすいように一つ一つを小さくしてみたわ。これならシオンもたくさんの味を楽しめるでしょう?どんどん味見をして感想を聞かせてね」

 いくつかのパイを食べ終え、食後の茶を楽しんでいたサーリャは不意にルインから声をかけられた。シオンは未だパイに夢中だ。

「それで、今回は訪ねて来るなりどうしたんだ?また俺に頼みたいことでもあるのか?」

「え?そんなのないわよ?」

 ルインの言っていることが分からずサーリャは首を傾げた。ルインに頼みたいことなど無いし、そもそもどうしてパイを作ったらルインに頼みごとがあると思われるのか。

「サーリャは今日魔法の訓練をしていないだろう。それだと俺が一方的に施しを受けることになるから、それはサーリャとの契約に反することになるはずだ」

 ここでようやくサーリャはルインが何故頼みごとがあるのかと聞いてきたのか理解し、その考えを心の底から呆れた。

(まったく。いきなり何を言い出すのかと思ったら……)

「あのねルイン。確かに私とあなたはそういう契約を結んでいることに違いはないわ。でもね、契約なんて堅苦しいものを抜きにして私は作りたいと思ったから作っているのよ。だって友達にお菓子を作ってあげるなんて普通のことじゃない」

「……友達?」

 ルインは初めて聞いた言葉かのように目を丸くしている。サーリャからすればここまで関わってきたのだから今更である。

「そうよ。これだけ関わってきてタダノ他人なんて寂しいじゃない。それにいいでしょ?こうやって気楽に過ごせる日があったって」

 そう言いながらサーリャは余っていたパイを一つ差し出した。ルインはサーリャからパイを受け取ると「そうだな」と言って口にするのだった。



「はぁはぁ……」

 鬱蒼とした森の中で彼は力なくへたり込んでいた。危険な獣や魔獣がはこびる森の中に幼い子供だけなど常識ある大人がその場にいたのならば全力で連れて帰る状況だ。

お気に入りだった服はすっかり泥にまみれ、身体のあちこちには無数の傷があり痛みと恐怖で彼は動けない。周囲には大量の破片と荷物が散乱しており、とてもではないがその中に隠れることも何か役に立てそうな物も無い。

 恐怖で見開かれた目に映る大量の破片の中からゆっくりと黒い塊が起き上がった。自分と黒い塊との距離はそれなりに離れているのにもかかわらず、あまりの大きさにその場にいながら見上げなければならないほどだ。黒い塊はしばらく破片の山を漁っていたが、しばらくするとそれとばっちり目が合ってしまいおもわず「ひっ」と、恐怖で悲鳴を上げてしまった。

 ソレはこちらに興味を持ったのか二本の足でゆっくりとこちらへ向かって近づいてきている。

 今すぐにでもその場から逃げなければならないのに身体が意思に反して動いてくれず、ただ座り込んだまま。そんな情けない自分の姿に彼はどうしようもないほどに怒りを覚えた。

 なぜ動かないんだ!ただ立ち上がり目の前の存在から逃げるだけ——ただそれだけのはずなのにっ!

 その間にも黒い塊は近づいてくる。相手はこちらが逃げ出すことを全く想定していないのか一切急ぐ素振りを見せず、そのゆっくりとした動きを彼はただ目を見開いて見続けるしかできなかった。寒いわけではないはずなのに身体が小刻みに震え始め、止めたいと思っても止め方が分からない。

 そんな彼の身体をふわりと柔らかな感触が包み込んだ。自分を包み込む感触と一緒に感じる温もりはこんな状況でも安心させられるだけの力があり、身体の震えも次第に治まってくる。

「あっ……」

 この時になってようやく自分が正面から少女に抱きしめられていることに気がついた。自分よりもいくつか年上の彼女はまるで赤子をあやすかのように優しく、回した腕で自分の背中を叩いている。

「大丈夫。何も心配しなくてもいいのよ」

 これまで何度も聞き慣れた声が耳元で囁かれる。ようやくこの時になって視線が脅威から自分を抱きしめる存在へと向いた。顔は見えないが艶やかな黒髪が視界に映る。


 ——そんなわけがない。お願いだからそんなことを言わないでくれ!


 口に出せなくても心の中で彼は叫んだ。それ以上彼女に言わせてはならない。自分の事のはずなのにまるで映像を見せられているかのようにどこか俯瞰じみている。

「これだけは覚えていてちょうだい。喧嘩をした時もあったけど、この気持ちはこれまでも、そしてこれからも変わることは無いわ」

 黒い塊が彼女の背後で立ち止まった。その存在に彼女も気づいているはずなのにまるで眼中にないかのように振り返ることすらしない。

 抱きしめる力をわずかに緩めて僅かに身を離したことで彼女の顔をようやく見ることができた。彼女も自分と同じように傷だらけで泥が頬についているが、自分を見返すその表情は今の状況とは合わないほどに優しげだ。

 何もできない自分の頬を涙が伝っていく中、彼女は両手で優しく自分の頬に手を添える。綺麗な青い目に自分の情けない顔が映り込む。

 黒い塊の巨大な腕が大きく振り上げられた。

「世界中があなたを嫌っても私は何があってもあなたの味方よ。だってあなたは私にとって大切な——」

 巨腕が振り下ろされ、その鋭利な爪が彼女を切り裂こうと迫って——


「やめろおおぉぉぉ‼」

 すべての脅威を跡形も無く消し飛ばすかのように手加減無しの攻撃魔法を瞬時に構成し、ルインは全力でそれを放つ。

 しかし先程まで見えていた光景は欠片も無く、代わりに目の前に広がっていたのは見慣れた自身の部屋の天井だった。

「っ!」

 消し飛ばすべき相手がいないと理解したルインは即座に放った魔法を強制解除する。強制解除はなんとか間に合い、撃ち出された攻撃魔法は天井に直撃する直前で掻き消え大穴を空けてしまうことは回避できた。しかし無理矢理魔法を解除した影響でそのエネルギーが部屋中に広がり、ハリケーンと思うほどの暴風が部屋の中で巻き起こった。

 部屋の中にあった数少ない私物が暴風で容赦なく舞い上がりあちこちの壁にぶつかっては床へと落下していき、窓はこのままでは割れるのではと心配になるほど軋む。

「はぁはぁはぁ」

 真っ青な顔色のルインはしばらくの間起き上がることすらせず荒くなった呼吸を繰り返す。呼吸だけではない。嫌な汗で全身びっしょりになりながらルインは額に浮かんだ汗を拭うと脱力したように腕を下ろす。

 ようやく呼吸が落ち着いてきたと感じたところで緩慢な動きのまま身体を起こす。

「……」

 部屋の中は凄惨たる有様で、部屋にあったほぼ全ての物が吹き飛ばされて床に散乱しているが、ルインの意識はそんなことに一切向けられていない。

 汗で張り付いた前髪をかき上げようとしてその動きが止まり、自身の手を見つめる。視線の先ではいまだ震えの止まらない手があり、思わず震えを止めようともう片方の手で押さえるが押さえた手も震えてしまう。

(まったく、忌々しいな)

 自分の反応に思わず悪態をつく。これまで何度も見てきたはずなのに、この夢はどうあっても慣れることは無い。

 そしてこの夢を見た理由もルインは当然わかっている。そろそろ〝あの日〟が近づいてきているのだ。一度として忘れたことは無いが、今回はそれだけが理由ではないだろうとルインは考えている。

 これまでと違い自分の周囲で大きな変化があった。なんだかんだルイン自身がそれを受け入れてきたが、それが原因の一つなのは言うまでもない。

 ——このままではダメだ。それは己に課した覚悟を無意味なものにしかねない。

「ぬるま湯に浸かり過ぎたな」

 そう一言零すルインの目は先程とは違い鋭いものへと変わった。瞳の奥に僅かだが暗く濁っていることに本人は気づくことは無かった。



「さてと、そろそろ行こうかしら」

 騎士寮にある自分の部屋でサーリャはベッドに広げていた荷物を大きめのカバンに詰め込んでいた。今日はルインの家へ向かう日だ。食材の類は補充したばかりなので買い足す必要は無い。カバンの中に詰め込まれているのはルインの家に用意されているサーリャの部屋に持ち込む化粧品や着替えの数々だ。

 いつもと変わらない日々の一つ。しかし今日はその変わらない日々に変化が生じていた。

「あれ?」

 王都を出ていつもの転移場所へとやって来たサーリャは首を傾げた。転移用のキーとなるプレートを持っているにもかかわらず、いつまで経っても転移が始まらない。いつもならすぐさま転移用の魔方陣が現れるはずなのに。

「壊れちゃったのかしら?それとも何か間違っている?」

 転移場所に出たり入ったりを何度か繰り返し、プレートも持ち替えたりその場で飛び跳ねたりするがどれだけ試してみても転移が始まることは無い。

 もしかするとルインの都合が悪いのかもしれない。ルインにだって予定はあるのだろう。……あんな自由気ままに暮らしていることを知っているサーリャとしてはあまり信じられないことだが。

 転移できない以上。仕方なくサーリャはルインの家へ向かうのを諦め来た道を引き返した。日を改めれば行くことはできるだろうとこの時サーリャは深く考えていなかった。


 しかしそんなサーリャの予想を裏切るかのようにその日を境に転移魔法は一度も発動することは無く、ルインと連絡が取れなくなるのであった。



「やっぱりおかしいわ」

「……なにが?」

 騎士団では部隊ごとに専用の部屋が与えられ、その中で今後携わる任務や外部に聞かせてはならない内容を話し合うことができる。ミランはこれまで一人で活動していたためにその部屋を与えられることは無かったが、サーリャが加入し正規では無いとは言えシオンも部隊に加わったことで専用の部屋を与えられることになった。

 その部屋の中で真剣な口調で呟くサーリャの傍らでシオンが相槌をうつ。シオンは部屋に用意されているお菓子に手を伸ばしては次々と口へと放り込んでいく。

「だってルインの家に行けなくなってもう半月よ。これまでこんなこと一度も無かったのに急に連絡がつかなくなるなんておかしいじゃない」

 そう。ルインの家へ転移できなかった最初に日からサーリャは何度かルインの元へ向かおうとしたのだが、その全てが無駄に終わってしまっている。日を変え、時間帯を変えても転移魔法が起動しないのである。最初は気にしていなかったサーリャもさすがに心配になってくる。

「サーリャは心配し過ぎよ。どうせ彼のことだから研究に集中したいとか素材を集めに行っていたとかくだらない理由だと思うわよ。——あっ、シオン私にもそのクッキーをちょうだい」

「ミラン様まで……」

 特に気にした様子もないミランが書類をまとめる姿をサーリャ釈然としない気持ちで見る。そんなサーリャの表情に気づいたミランは僅かに呆れ顔になった。

「確かにサーリャが心配する気持ちになるのは分からないわけではないわ。でもだからと言って騒ぎ立てて事を大きくし過ぎるのは違うわ。子供じゃないのだから彼が助けを求めていないのであればそれは一人で対応できる範疇ということよ。なんでもかんでも私たちが介入するようなものではないわ。しばらくすればまた行けるようになるわよ……それよりも私たちの所にも依頼書が何件か回ってきているわ。見た限りだと一件一件の内容は大したことは無さそうだけど、中には他の騎士団では対処できないものが回ってきているから一応二人の希望は聞いておくわ」

 そう言ってミランはいくつかの依頼書を全員に見えるようにテーブルに広げ、それをサーリャとシオンは二人して覗き込んだ。

 魔獣の討伐や犯罪者への対応などが主な内容となっているが、他には夜間の警備や捜索依頼なども含まれている。

 そんな中真っ先に依頼書を手に取ったのはシオンだった。

「……シオンはこれを受けてみたい」

「子供たちの遠足の付き添いと護衛……ね。たしかに厳つい強面の騎士団連中だと子供たちが怯えてしまうものね。いいわ。私も同行するから日時はまた連絡するわね。……サーリャ、あなたはどうするの?」

 しばらく広げられた依頼書を眺めていたサーリャは一枚の依頼書の内容が目に留まり手に取った。じっくりと内容を読み込んだサーリャは小さく頷くとミランへと持っていた依頼書を差し出した。

「私はこれにします」



 しばらく時は過ぎ、サーリャは一人ルクドの大森林の入口に立っていた。ルインの転移魔法で気軽に行き来できるようになってから久しぶりに馬車で訪れることになる。

 初めてこの森に訪れた時のことを思い出すと理由が理由なだけに素直に喜ぶことはできないが、何とも言えない懐かしさが込み上げてくる。

 サーリャが大森林を訪れたのは依頼を受けたからではない。依頼はそもそも大森林から離れた別の街で、大森林に行かなければならないような内容でもなかった。

 すでに依頼は達成し終えており、サーリャからすれば特に苦になるような内容でもなかった。それでもわざわざその依頼を受けたのは行き先が比較的大森林に近いというのが理由である。依頼を終えたついでにルインの家に立ち寄る。それがサーリャの一連の予定である。

 ルインの家に転移できなくなり連絡が取れなくなってすでに一か月を超えてしまった。ミランやシオンは特に不安視していなかったが、サーリャとしてはどうしてもそのことが気になって心配になってしまう。一目様子を確認できればさっさと帰るつもりなのだが、その前に解決しなければならない問題がある。

(無事にルインの家を見つけられればいいけど……)

 サーリャはルインの家の正確な場所を知らない。これまで転移魔法で途中過程をすっ飛ばしているし、初めて出会った時も気絶したサーリャをルインが運んでいるので気絶した場所からどれだけの距離があったのかもわからない。とりあえず森の奥深くにあるらしいという参考になるかわからないような情報だけである。

 依頼を終え万全でない状態の装備と消耗したままの物資のままで広大な森のどこかにある目的地を目指す。その道のプロが聞けば激怒しながら拳が飛んできそうなものだが、あいにくとこの場にはサーリャの他には誰もいない。

 気合を入れるかのように自分の頬をぴしゃりと叩いたサーリャは一人大森林へと足を踏み入れるのだった。



 外部と生態系が一変している森の中をサーリャは警戒を怠らずに森の奥へと進んでいく。物資に限りがあるので戦闘は極力避け、森を騒がせる可能性を消していく。

 時折木に登っては周囲を確認し方向を見失わないように注意を払うが、見えるのはどこまでも続いているのではと思えるほどの大森林で、ルインの家らしきものは一切見つからない。

 そもそもこのまま真っ直ぐ進んだ先にルインの家があるという確証も無いのだ。気がつかない内に通り過ぎてしまう可能性もある。

 進む方向を少し変えてみようか——そう考えていたサーリャの正面から目に見えない力の奔流が駆け抜けてきた。

「なんなの⁉」

 どうすればいいかわからずその場で身構えるしかできない中、奔流はサーリャの身体の中を通過し、そのまま背後へと流れていく。特にサーリャの身体に変調は見られないが、圧倒的な力の奔流が周囲へと放たれた影響で危険を察知した魔獣や獣が自身に害を向けられないようにできる限りその場から離れようと動き出す。

 その場で立ち止まったサーリャは先程自分の身体に入り込んできた感覚を確かめるように自身の胸に思わず手を当てた。魔境とも言えるルクドの大森林だが、これほどの力を放つような存在に心当たりがある。この魔力の感覚は——

「そっちにいるのねルイン」

 確信に近い予感を胸にサーリャは痕跡を辿るように森の奥へとさらに歩みを進めた。


 方向さえわかれば進む速度も速くなる。一直線に進んだ先にあったのは途切れた森と開けた土地。目的地であり見慣れたルインの家があった。サーリャが出て来れたのは普段転移で現れる広い庭ではなくその反対側——家の裏側に出て来れたようだ。

(さっきの力ってルインよね?)

 こうして痕跡を辿ってきたことで目的地に着けたのだから先程の力の発生源はルインのはず。そのはずなのだがキョロキョロと周囲を見渡してもその本人がいない。草地を踏み進みながら反対側の庭にも顔を出してみるがそちらにもルインの姿はない。聞こえるのは鳥の鳴き声だけだ。

 鍵のかかっていない玄関の扉を開けて中に入ってみると家の中はしんと静まり返っている。いったいルインはどこにいるのか。いるはずの家主がいないことに心細さを感じながらリビングにやって来ると、サーリャはその場に立ち尽くしてしまった。

「なんなのよ、これは……」

 サーリャは辛うじてそれだけを絞り出すように呟く。

 別に家の中が荒らされていたとか何者かの襲撃を受けていたとかそんな物騒なものではない。その点に関しては安心するべきところなのだが、それとは別にサーリャを戦慄させる光景が目の前には広がっていた。

 紙。紙。紙——どこに視線を向けても必ずそれが目に飛び込んでくる。リビングのありとあらゆるところに大量の紙が散らばり、整理整頓という言葉が消し飛んだ惨状が広がっていた。一か月の間にここまで悲惨な状態にするなどサーリャからすれば信じられない状態だ。

「いったいルインは何をしていたのよ」

 足元に落ちている紙束の一つを拾い上げてみるが、何かのメモなのだろうか。一面びっしりと書き込みがされているが、サーリャでは内容を理解することはできない。他の紙も似たようなものばかりだ。

 びっしりと書き込まれた紙面は文字の上からさらに文字を書き込んだりしているせいで何も書かれていない白い部分がほとんどない。鬼気迫るかのような黒い紙面が辺り一帯に散らばっている光景は見慣れた家のはずなのに、言い知れぬ恐怖がサーリャの身体を震わせる。

 手元のメモに意識を向けていたサーリャの背後から何かが近づき、肩を掴まれた。

「ひゃあああああぁぁ!!」

 突然のことに飛び上がるほど驚いたサーリャは出したことも無いような悲鳴を上げ慌てて背後を振り返った。振り返った先にはサーリャのよく知る人物が驚きの表情で手を伸ばした状態のままで固まっていた。

「人の家でお前はいったい何をやっているんだ」

 どこかへ出かけていたのかローブを羽織ったルインが立っていた。

「驚かせないでよ!いえ、そのことに関して今は後回しでいいわ。今までいったい何をしていたのよ。ルインの家に跳ぼうと思ったら転移魔法が全く反応しないし、一か月もの間連絡が無いから心配したじゃない!」

「やるべきことがあったからそれに集中していただけだ。別にどうしようが俺の勝手だろう。それよりもよくここまで辿り着けたな。この家の正確な場所なんて教えていなかったはずだろう?」

「そうよ。だからここに来るのも大変だったのよ。途中でとんでもない力の波が流れて来たからそれを辿ってここまで来たけど、あれはルインなのでしょう?」

「ほう。思っていたよりも余波が外に出ていたみたいだな。このままだと実用には不向きだな。改良するなら……」

「私を放置して勝手に自分の世界に入らないでもらえるかしら?」

 顎に手を当てぶつぶつと言いながら考え始めるルインをサーリャは苦笑しながらすかさず中断させる。久しぶりの来客であってもまったく気にする素振りも見せず放置するのはいかにもルインらしい。

「それよりわざわざ森を抜けてきてまで何の用だ。俺は見ての通りやることがあるから忙しい」

「え?」

「どうした」

 サーリャは僅かな引っ掛かりを感じて首を傾げた。何がサーリャの中で引っかかったのかよくわかっておらずうまく言い表すことはできないが、いつもと何かが違う。

 しかしいくら首を傾げても目の前にルインがいるだけで答えを見つけることができない。釈然としない面持ちのままとりあえずサーリャは一旦そのことを自分の胸の内にしまった。

「……なんでもないわ。とりあえず——コレを何とかするのが先ね」

 そう言ってサーリャは腰に手を当てながら周囲に散らばっているメモ紙の数々を見渡すのだった。



 凄惨たる有様だったリビングをルインと二人で見慣れた光景に戻すと、サーリャは両手に持っていたカップの一つをルインへと渡すと対面ではなくルインの隣へと腰を下ろす。

「それじゃあ、今まで何をしていたのか全て白状してもらいましょうか」

「まて。どうして俺がこんな尋問まがいの対応をされなければならないんだ」

「それはあなたがそうされるほどのことをしたからに決まっているでしょう。さっきも言ったけど何かあったんじゃないかと心配したんだからね」

 責めるような表情と共にずいっとルインへと顔を近づけたサーリャはあることに気がついた。

「ルイン、あなたちゃんと寝ているの?」

 よく見ればルインの目元にはクマが色濃く出ており、僅かに目も赤い。普段好きな時に起きて好きな時に寝ているルインにしては珍しい。

「別に問題ない。今は作業を進める方が重要だ」

「もう、そんなこと言って無茶をするでしょ——ほら、特別だからね」

 サーリャは呆れ顔になりながらルインの身体を自分の方へと引き寄せた。いきなり身体を引っ張られたことでルインは抵抗できないまま横に倒れ、サーリャの太ももにルインの頭が乗りルインを膝枕したような形になる。

「……なんのつもりだ?」

「少し休みなさい。何をしているのか知らないけれど、そんな状態じゃ進むものも進まないわよ」

 サーリャはルインのボサボサな髪を軽く撫でる。サーリャからはルインの後頭部しか見えないので今ルインがどんな表情をしているのかはわからない。それでもルインはサーリャのされるがままになっており、サーリャの太ももに頭を乗せたままだ。

 僅かにルインが笑う。

「よくこんな恥ずかしいことを平気でできるな」

「い、言わないでよ。言われたら余計に意識しちゃうから!」

 膝枕を誰かにするなど今回が初めてで、しかも相手は異性であるルインだ。ルインの身体を引き寄せた時は全く意識すらしていなかったが、指摘されてしまうと途端にどれだけ自分が大胆な行動をしていたのか理解して恥ずかしさが込み上げてくる。言い返すサーリャの顔は今や真っ赤になっている。

 サーリャ自身どうしてこんな大胆なことをしてしまったのかわからない。普段のサーリャならば決してしないであろう行動もルインになら比較的許せてしまうこの気持ちはいったい何なのだろう。

「だが……そうだな。せっかくだから少しその言葉に従ってみるか」

 サーリャの太ももに乗せられた重みが僅かに増え、しばらくするとルインから穏やかな寝息が聞こえてきた……やはり疲れが溜まっていたのだろう。

 寝ているルインを起こさないようにサーリャは優しく何度もルインの頭を撫で続ける。サーリャを信頼して眠るルインに微笑みを浮かべるサーリャだったが、不意にその表情が曇った。

「ルイン。あなたはいったい何を焦っているの?」

 ぽつりと呟くサーリャの言葉にルインは反応することは無かった。



 翌朝、サーリャは手慣れた様子で朝食の準備を進めていた。フライパンの上で焼いているベーコンと卵の香ばしい香りが空腹感を促す。僅かな空き時間で盛り付けを進めていき無駄な時間を作らない。

 家主よりもキッチンを使いこなせている事実にそれでいいのかと苦笑したくもなるが、もはや今更である。この家のキッチンは今やサーリャのテリトリーになっている。

(そろそろかしら?)

 そう思ったところでリビングの外で扉が開いた音が聞こえ、その後ルインがのんびりとリビングに姿を現した。

「……おはよう」

「おはよう。今日も時間ピッタリね。さぁ、朝食にしましょうか」

 挨拶を交わし終えたタイミングでトースターにセットしていたパンが焼きあがり、小さなベルが鳴る。

 ルインと出会ってから何度も繰り返し慣れてしまった日常の一幕。朝食を二人で食べながらサーリャが話題を出してはルインがそれに反応を返す。

「ん?いつもとジャムの味が違うな。もしかして手作りなのか?」

「そうよ。いつも行っているお店の人からレシピを教えてもらって、せっかくだから挑戦してみたの。どう?少し煮詰め過ぎて甘みが抜けてしまった感じなのだけど」

「俺はこれぐらいの甘さでも問題無いと思うぞ。必要以上に甘すぎるのは好きじゃないからな。だが、サーリャが納得できないのならもう一度挑戦しても構わんぞ。サーリャがどんなジャムを作りたかったのかも気になるしな」

「ふふ。それなら次に期待してもらおうかしら」

 サーリャが新しいことに挑戦すればそれに対してルインは必ず感想を伝えてくれる。それだけでも作り甲斐があるというもので、サーリャ自身もそんなルインの反応が見たくて積極的に料理を作ろうとするので、今のサーリャは作れる料理の幅がかなり広がっている。これも二人で食事をするようになったことによる良い効果だ。

 朝食を済ませた二人は外の広い庭へと出る。ここ一か月以上もの間ルインが外との連絡を絶った理由を教えてくれるということだ。

「それじゃあその辺で見ておけ」

 サーリャから少し離れた位置まで移動したルインから高密度の魔力が溢れ出した。

 高密度でありながら周囲の空気に溶け込むように霧散するような魔力は今のところ一切見られない。魔力が霧散しないのはそうならないように末端にまでルインの魔力制御が行き届いている証だ。溢れ出した魔力のすべてを制御下に置くなど並大抵の集中力では済まない。

(これを見せつけられると私もまだまだって思い知らされるわね)

 そんなサーリャの視線の先でルインの魔力が一気にドーム状に広がり、離れていたサーリャをも包み込む。ドーム状に広がった魔力の中はまるで宝石の中に入り込んだように明るく、朝の日差しを乱反射させて全体がキラキラと輝いている。

「綺麗……」

 これまで見たことも無い輝きに心奪われそうになる中、ルインがゆっくりと右腕を前へと突き出す。突き出された腕の先にはあらかじめ用意されていた的が設置されている。

 距離にして五十メートル程度。人型の的を前にルインの魔力がさらに高まっていく。

 些細なことも見逃すまいと集中していたサーリャの目の前でルインと的の両方の姿が消えた。

「は?」

 見失っていた時間は一瞬。目の前の事象が信じられず思わず瞬きをしたサーリャだったが、その瞬きをしている間に見失っていた両者は再びその姿を現していた。的があった場所にルインが、ルインの立っていた場所に的が出現しており互いの位置が入れ替わっている。

 互いの位置が入れ替わっているとサーリャが理解したと同時にサーリャたちを包み込んでいた魔力のドームが消失し、ドーム内に閉じ込められていた魔力が津波のように周囲へと拡散していった。——サーリャが昨日感じた力の波はおそらくこの魔力の波だろう。

「とりあえず発動はしたか。これだけ余剰魔力があるのならばもう少し消費魔力は減らすことができそうだな」

 位置が変わった場所から動くことなくルインは何かを確かめるように自身の手を握ったり開いたりを繰り返している。そんなルインへとサーリャは小走りで近づいた。

「ルイン、さっきの魔法はいったい何なの⁉見た感じだとお互いの立ち位置を入れ替える魔法に見えたけど」

「位置を入れ替える、とは少し違うな。まだ未完成だが、これは特定の相手を自分の傍に引き寄せる魔法だ」

「引き寄せる?でもルインだって動いているじゃない」

 ルインは引き寄せると言ってはいるが実際にはルインも移動してしまっており、引き寄せるとは遠い結果になってしまっている。そもそもなぜ相手を引き寄せるような魔法など開発しているのだろう。それを必要としないほどの力をルインは持っているというのに。

 サーリャの指摘にルインは痛い所を突かれたといったように困った表情になった。

「そこが問題なんだ。サーリャ、仮に俺とお前が互いに一本のロープの端を握っていたとする。相手を自分の元へ引き寄せるにはどうしたらいい?」

「そんなのロープを思いっきり引っ張ればいいのよ」

「しかしそれは俺も同じことを考えている。サーリャを引き寄せようとこちらもロープを引っ張るが、サーリャはどうやってその力に抗う?」

「そんなの引っ張られないように足に力を入れて踏ん張るのよ。当たり前の事でしょ」

 ルインからの質問にサーリャは深く考えることなく当たり前の事実を次々と答えていく。この問答に一体何の意味があるのだろう。

 ルインはサーリャの回答に頷く。

「そうだな。普通ならそれが正解だ。ならばお互いが水の中で浮かんでいる状態で引っ張った場合はどうなるんだ?」

 ようやくサーリャはルインが何を言いたいのかを察しハッとした表情になった。ルインもサーリャの表情からようやく先へ進めると思ったのかわかりやすくサーリャへ解説を始めた。

 物体に力を加えれば必ず力を加えた方向とは違う力——反作用が生まれる。それは物理法則などをある程度無視することのできる魔法の世界であっても完全に消すことはできない。押せば押し返され、引けば逆に引っ張られる。

 今この場で無抵抗なルインをロープで引っ張ればサーリャはその場に留まったままルインを自分の元へ引き寄せることができるだろう。それはサーリャが地に足をつけ反作用に抗えるからだ。

 しかし踏ん張りの利かない水の中で浮いている状態では反作用に抗えず相手側へと引っ張られてしまう。魔法はまさにその水に浮いた状態に近いらしく、相手だけを引き寄せるにはこちら側の位置を固定する何かが必要らしい。

「問題はそれだけじゃない。今のところ引き寄せる対象には目印となる物を持たせておかないと正確な座標固定ができない。そして反対側に俺が飛ばされると位置が変わってしまった影響なのか、それとも魔法による影響なのか一時的にではあるが俺も魔法が使えなくなる」

「ダメじゃない」

 問題だらけの魔法に流石のサーリャもそう言わざるを得ない。引き寄せる対象はその辺にある物ではなく人になるので座標の指定は注意を払わなければならない。引き寄せてみたら身体の一部が無くなっていましたなどただのホラーでしかない。

 しかし引き寄せたい相手に目印となる物を持たせておかなければならないなど使い勝手が悪い。これではあまりにも使用条件が厳しすぎる。

「だから言っただろう未完成だと。だからこそ完成にはできる限り多くの時間が必要だったんだ」

「へぇ。でもなんでこの魔法を作ろうと思ったの?」

「……」

 ルインはサーリャの質問に答えることなく的を片付けていたが、ふと何かを思い出したのかその手が止まる。

「そういえばサーリャ。俺の様子を知りたい為だけにわざわざここまで来たのか?」

「そんなわけないでしょう。ここから比較的近い場所で仕事の依頼があったから依頼を終えた後こっちに来たのよ」

「そうか。それはミランに伝えているのか?」

「伝えているわけないでしょう。伝えていたらこっち方面の依頼を受けさせてもらえないかもしれないじゃない」

 いくら受ける依頼の決定権がサーリャたちにあったとしても公私混同が許されていいわけじゃない。その辺に関してミランは厳しいだろうと判断したからの行動だ。深く考えずに依頼を選んだように振舞っていたのでまだミランには気づかれていないはずだ。

「つまりここに来ていることがバレたらサーリャにとってかなりまずいわけだな」

「大丈夫よ。依頼の期日は決められているわけじゃないし、バレなければ多少帰るのが遅くなっても問題無いわ」

「……そうね。だとしてもやることが終わればすぐに戻るのが常識じゃないかしら?」

「だから、そんなことしたらここに来れないって——」

 もっともな指摘にサーリャはすぐさま反論したが、途中でその言葉が途切れてしまった。今、ルインとは別の声が聞こえなかっただろうか。

 ——それもサーリャのすぐ後ろから。

 全身から嫌な汗が一気に噴き出し、ギギギと音が鳴りそうなほどゆっくりとサーリャは背後へと振り返った。そこにはいるはずのない人物が腕を組み、仁王立ちしながらサーリャに険しい視線を向けていた。

「ミ、ミラン様!どうしてここに⁉」

「昨夜ルインから連絡があったのよ。依頼の行き先からもしかしてとは思っていたけど、まさか本当にここに向かうとは思っていなかったわ」

 じりじりと後退りするサーリャにミランは近づくと、サーリャの襟首を掴み転移魔法のある場所へとズルズル引き摺っていく。

「迷惑をかけたわねルイン。——さぁ、私たちは帰るわよ。随分と余裕そうだから他の依頼もどんどん受けてもらうから覚悟しなさい」

「う、裏切り者~!」

 サーリャの情けない叫び声が森に響き渡るのだった。



「はぁ……」

 王都にある飲食店の一つ。屋外に設置されたテラスでサーリャはテーブルに肘を付けながら溜息を吐いた。澄み渡った青空の下で気持ちの良い風が吹いているが、サーリャの心の中は曇り空になっている。

「どうしたのサーリャ。ご飯美味しくなかった?」

「あ、ごめんね。そうじゃないの。料理はとても美味しいわ。ちょっと別のことを考えていたの」

 今日は久しぶりの休日で、サーリャとシオンは少し遅めの昼食をとっていた。すでに料理は食べ終えてウエイターが皿を下げており、今は食後のお茶を楽しんでいるところだ。

「私ってちゃんと強くなっているのかなぁって……ちょっと考えちゃってね」

 サーリャは手元にあるティーカップに淹れられた紅茶をスプーンで混ぜながら僅かに表情を曇らせた。

「サーリャは強い。詠唱せずに魔法が使えて剣の腕も十分ある」

 シオンからの励ましにサーリャは僅かに微笑む。

「ありがとう。でもね、ここ最近ずっと誰かに助けられてばかりだと思うのよ。それって私の実力がまだまだってことでしょう?」

 魔獣の大侵攻やミルス領での一件。どれもサーリャは関わってはいたが最終的にルインやミランに助けられる形で事態は終わりを迎えている。サーリャが一人で解決したものは何一つない。

 無詠唱魔法が使えるというアドバンテージばかりに気を取られて、実は何一つ自分は成長していないのではないだろうか。

 それに加え、最近ようやく会えたルインもどこかよそよそしく感じてしまう。結局ルインはなぜあの魔法を完成させようと躍起になっていたのかわからずじまいだ。

「つまりサーリャは強くなっているのか自信が無い……そういうこと?」

「まぁ……そうなるのかな」

 少し冷めてしまった紅茶を飲むサーリャは一息つく。冷めてはいるがそれでも美味しいことに変わりはない。

「じゃあサーリャは直接ルインに聞けばいい」

「わざわざそれを聞くためにルインの家に行けないわよ」

 わざわざルインの家まで訪ねてそんな悩みを聞くのはなんだか気恥ずかしさがある。シオンらしい真っ直ぐな答えに苦笑するサーリャだったが、シオンの反応は少し違った。

「ルイン……いるよ?」

「は?」

 この時になってようやくサーリャは手元のカップから視線を外し、シオンへと向けた。シオンはサーリャを見ておらず、テラスから大通りを見下ろしている。

「ほら、あそこ」

 シオンが指さす先を見れば大通りを何人もの人が行き交っており、活気にあふれている。そんな人々の中に一人——移動用のローブを身に着けフードを目深にかぶって顔を隠した人物が歩いているのを見つけた。

 見覚えのある服装に加え、目を凝らせば僅かにフードの奥に見える顔は確かにルインだ。

 森から滅多なことで出ることの無いルインがこの王都にわざわざやって来るなど一体何事なのか。

「歩き方の特徴がルインと一緒だったからわかりやすい。どう、すごい?」

「凄いわねシオン。あれだけの人ごみの中から見つけるなんて——ってそうじゃないわ。何しているのよアイツは。シオン、すぐに追いかけるわよ」

 サーリャは残っていた紅茶を一気の飲み干すと急いでテラスを後にするのだった。



 大通りを迷いなく進んでいくルイン。そんな彼を見失わない程度の離れた位置からサーリャとシオンは周囲に紛れるようにして追いかけていた。

「ルインはどこに行くのかな?」

「う~ん。この先は商業区のはずだけど何か欲しいものでもあるのかしら」

「きっとルインもお菓子が食べたくなったからたくさん買いに来たのかも」

「……それはルインじゃなくてシオンの願望でしょ」

 普段食材管理をサーリャに丸投げしているルインがわざわざ食材を求めて動くなど到底考えられない。ならば別のようで王都を訪れたのだろうが、何の目的でわざわざ王都まで出向いたのか見当もつかず興味が湧いてきた。

 商業区に入るとこれまで進んでいた通りとは比べて賑やかさが増した。通りを歩けば様々な店が軒を連ね、店先で店員が行き交う人々に自分の店の商品をアピールしている。

開けたスペースでは王都の外からやって来た行商人が簡素な売り場を設営し、普段目にしないような珍しい品を並べている。

 そんな商業区をルインはサーリャと一緒にかつて訪れたことがあるので目的の店まで一直線に歩いていく——わけではなく今日は少し様子が違った。キョロキョロと周囲を常に見渡しており、店先の商品を確認し、時には店の中にまで入って商品をじっくりと眺めている。

「ルインは何をやっているの?」

「……何かを探しているっぽい?」

 一般客に紛れるように近くの屋台でクレープを食べながら様子を窺っていた二人だったが、ルインの行動の真意がわからず二人の頭の上に「?」が浮かんでしまう。今のところルインは何も買うことなくただ商品を眺めるばかりだ。本当にルインは王都まで何をしに来たのだろう。

 しばらくそんなルインだったが、やがてある店を見つけると他の店には視線もくれず真っ直ぐ店内に入ってしまった。遅れて到着した二人は意外な場所に思わず店の前で足を止めて看板を見上げた。

「ここって……」

「花屋?」

 ルインが入っていったのは王都でも比較的大きな店を構える花屋だ。各地から取り寄せられた様々な花が店内だけでなく店の外にも並べられており、花の香りが大通りの空気までをも染め上げていく。

 窓に近寄りこっそりと中の様子を窺うと、店内に客はルインだけのようだ。店内ではさすがにフードは外しており、ルインの顔がはっきりと見える。

 ルインに花などまったく似合わなさそうな組み合わせなのでそれだけでも驚きなのだが、そのルインはこれもまた珍しいことに近くの店員をつかまえて花を指さしながら言葉を交わしている。

 店員と話を終えると店内に並べられている花の一つ一つをじっくりと真剣な表情でルインは見て回っている。やがて気になったものが見つかったのか再び女性の店員を呼んで何か伝えると、呼ばれた店員は笑顔を浮かべて店の奥に引っ込んでしまった。

 しばらくすると奥に引っ込んでいった店員が戻ってきた。その手には先程ルインが興味を示した雪のように真っ白な花束が抱えられている。

「誰かへの贈り物?」

「……そうかもしれないわね」

 ルインは自宅に花を飾る趣味はない。ならばあの花束は誰かに贈るために用意したのだろう。

(いったい誰に贈るつもりなのかしら)

 そんな疑問を浮かべる中、サーリャは息をのんだ。女性から花束を受け取った瞬間、普段表情を変えることの無いルインが微笑みを浮かべたのだ。

 ただ微笑みを浮かべたのではない。僅かに目を細め、まるで受け取る相手のことを想像するかのようにこれまで見たことが無いほどの優しげな表情を見せている。それだけの表情を見せることのできる相手がいるのだ。

 思わずサーリャは窓から離れると、まるでルインから隠れるようにその場にしゃがみこんだ。胸のあたりに僅かな痛みが走り、思わず胸に手を当てる。

「どうしたのサーリャ。どこか調子が悪いの?」

「ごめんね。少しだけこのままにさせてもらえないかしら」

 心配するシオンに申し訳なく感じながらもサーリャはただそれだけしか言うことができなかった。


 花屋を出た後もルインはしばらく商業区内をうろうろしていたが、結局買ったのは花束と一本のワインだけで用が済んだのか王都の外へ歩き出してしまった。

 花束とワインは人目が無くなった頃合いに剣を収納した時と同じように虚空の中へと入れてしまい手ぶらだ。

 誰もいない平原まで進んだところで先を歩くルインの足が不意に止まり、自然な動きで後ろから追いかけていたサーリャたちへと振り返った。

「おい。いつまで下手な尾行を続けるつもりなんだ?」

「ば、バレてたの?」

「当たり前だ。逆にそんな子供騙しのようなことをしていてバレない方がおかしいだろう」

 せめてものカモフラージュだと思って持っていた木の枝を見て憐みの視線を向けられていることに気がつくと、サーリャは慌ててその辺に投げ捨て誤魔化すように笑う。

 ルインは特に指摘するわけでもなくサーリャの隣にいるシオンへと視線を動かした。

「おそらくよくわからん自信を持ちながらここまでこそこそとついて来たんだとは思うが、サーリャの尾行はシオンから見てどんな評価なんだ?」

「……まったくダメ。尾行するのだとしても引き時がある。こんな隠れることもできない場所まで追いかけたらバレるのは当然の結果」

「うぐっ」

 僅かに躊躇ったようにチラリとサーリャの顔色を窺ったシオンだったが、結局は質問に答える。遠慮のない事実を話すシオンの言葉がサーリャに容赦なく突き刺さり、思わずよろめいてしまう。

 自分としては多少程度のつもりではあったのだが、もしかしたら二人からすれば自分の姿はかなり間抜けに映っていたのでは……。

「こ……こほん。私のことは今はどうでもいいでしょ。ルインこそわざわざ王都にまで何をしに来たのよ」

「俺は必要な物があったからそれを買いに来ただけだ。そっちこそ俺に何の用だ。俺を追いかけるのが目的ではないんだろう?」

 ルインを追いかけていたのはただの興味本位。特に理由は無いと返答しようとしたサーリャよりも先に隣から反応があった。

「サーリャの元気がない。サーリャの悩みを聞いてあげて」

「ほう」

「ちょっとシオン⁉」

 サーリャとしてはあくまでも愚痴程度で終わらすつもりだったのに、まさかシオンが暴露するとは思わず、反射的にサーリャは咎めるようにシオンを見た。シオンは「ほら、早く」と促すだけで特に悪びれた様子はなく、ルインも早く話せと言わんばかりに聞く態勢に入ってしまっている。ここまでくると話さないわけにはいかない。

「実は……」


 広い平原の真っただ中でサーリャの悩みをルインは途中で口を挟まず、ルインは黙って最後まで聞いていた。悩みを聞いてどう感じているのかはわからないが、話し終えた後もルインはしばらく口を開かず黙ったままだ。

「ルインから見て私はどうなの?やっぱりまだまだ半人前だと思う?」

 僅かに上目遣いになりながらサーリャはそれとなくルインの顔色を窺う。不安に揺れるサーリャの態度にルインはようやく口を開くが、出てきた言葉はサーリャが期待していたものではなかった。

「ひとつ聞くが、サーリャはどうなりたいんだ?」

「どうなりたいか?」

「そうだ。どれだけ強大な相手であっても退くことなく渡り合うことのできる存在になりたいのか、一人で多くの命を守れるような存在になりたいのか。まずサーリャの思い描く自分自身の将来を聞かせてみろ」

 そう言われてサーリャは心の中で自分自身へと問いかける。——自分はどうありたいのだろう。

 多くの命を助けたい。その想いはサーリャのこれまでを形作る大きな原動力となっており、騎士になった今でもその想いは消えることは無い。しかし、どのように守りたいのかと言われれば少し返答に詰まってしまう。

 守ると一言で言ってもその方法は一つではない。敵から大切な存在を奪われる前に相手を殲滅する攻めの姿勢であるべきなのか、かすり傷すら通さないような鉄壁の守りを持つべきなのか。他にも治療に特化する後衛型の騎士になるなど目指す方向は多岐にわたる。

 サーリャの脳裏に理想とする人物の姿が思い浮かんだ。どんな相手であっても一歩も退くことなく立ち向かえるほどの力を持つオフゴールドの髪と黒髪の男女。

 思い悩むサーリャの姿にルインは自身の予想が当たっていたと言わんばかりに困ったような表情で顔の半分を手で覆った。

「そこなんだ。魔法の時もそうだがサーリャは大まかな目標は持っているが、その先を考えがまとまっていなくて曖昧だからそんな悩みを持つんだ。おおかた今のサーリャが想像しているのは今の自分に足りない要素をすべてかき集めた超人みたいなイメージしか持っていないんだろう。いいか?先に言っておくがそんな万能みたいなやつなど存在しない。」

「そうは言ってもルインは何でもできるじゃない。ミラン様だって一人で大勢を助けることができるぐらいの力は持っているわ」

 ルインの正論にサーリャはむっとした表情になり、すぐさまムキになって言い返した。

 少なくともサーリャの知る限り二人が対処できなくなるような窮地に陥ったところなど今まで見たことが無い。そんな人物が否定の言葉を口にしても何の説得力もない。

 しかしそんなサーリャの言葉にルインは心外だと言わんばかりの態度で応じる。

「俺やアイツが何でもできる?それこそサーリャの勘違いだし、俺たちを都合よく見過ぎている。そうだな……シオン。お前は俺のように無詠唱魔法を使うことができるか?無詠唱でなくても一人で広範囲殲滅魔法を連発して大軍を相手できるか?」

 ルインの問いに対し、シオンは即答する。

「それは不可能。シオンはそれだけの技術も魔力も持っていない。シオンは攻めるよりも守る方が向いている」

「そうだな。ではサーリャ。お前はシオンのように守りに専念しろと言われて同じよう事ができるか?数の力で攻められてもこちら側に被害を出さずに戦うことができると?」

「そ、それは……」

 ルインの指摘に言い返すことができずサーリャは口を噤む。ルインから求められたことをやり遂げることができないとサーリャ自身が理解しているからだ。

サーリャにはシオンの持つフォートレスのような鉄壁の守りを持っているわけでもなく、シオン自身の小さい身体を活かした一撃離脱を主とした戦闘スタイルでもない。時間をかけて訓練すれば近づけることはできるかもしれないが、あくまでも近づくだけで全く同じことができるというわけではない。

「理解したか?すべてを完璧にこなせるなんて一人でできるわけがないんだ。サーリャとシオンそれぞれに得手不得手があるように、俺だって何でもできるわけじゃない。一応剣の心得はあるが、それは魔法が使えない状況になった際に何もできないのは困るから習得しているだけの話で、魔法無しで斬り合えば俺はミランに負けるだろう。それはミランも同じで、魔法戦だと俺は負けるつもりは無いと自負している」

 あっさりと自身の弱さを話すルインをサーリャは意外な気持ちで受け止めていた。ルインのことだからてっきりその辺りの情報は隠すと思っていたのに。

 だとしてもルインの言葉を「はいそうですか」と簡単に受け止められるかは別問題だ。たとえミランに劣るのだとしてもその剣の腕は王国全体から見ると上から数えた方が早いくらいのレベルだ。

「まだ納得していないって顔だな。さて、どうするか——」

 唐突にルインは言葉を切り、上を見上げた。サーリャとシオンもつられるように上を見上げる。見上げた先にあるのは雲一つ無い澄んだ青い空が広がっているだけ。

 しばらく三人揃って空を見上げていたが特に何かあるわけでもなく時間だけが過ぎていく。

「二人に騎士としての常識が備わっているか少し確認してやる。騎士とは魔獣の討伐や野盗・ゴロツキの相手だけでなく、市民同士の喧嘩などの収拾や街の治安維持なども任されている。しかし喧嘩程度のトラブルなどその辺にいる腕っぷしの強い奴が収めればいいだけの話なのに、わざわざ騎士に任せる理由は何故だ?」

 唐突な話題変換にサーリャは戸惑いながらも、ルインからの質問にサーリャはすぐさま答えた。

「それは間違った秩序が広がらないようにするためよ。その場にいる人が勝手に仕切ってしまったら市民は大混乱に陥るわ」

 力のある者がその場を収めてしまえば確かにその場のトラブルは迅速に処理できるかもしれない。しかしそれは逆に言えば力があれば何をしてもいいと捉えられかねない状況を作り出すきっかけにも繋がってしまう。そうなってしまえばたとえどんな理不尽な結果になったとしても力の弱い者は力のある者に従うしかなくなり、最悪街の中で実力者同士の対立にも発展してしまう。

 そんな実力主義の社会にならないために、騎士はたとえ小さな諍いであってもその場を収める役目を追っている。

 だからこそ騎士には力だけでなく公平に状況を把握し、適切に対処する力も求められるのである。

 サーリャの回答が望んでいたものだったのだろう。ルインはサーリャの言葉に頷く。

「その通りだ。つまり何らかのトラブルが発生してしまった場合、か弱い一般市民である俺はなす術が無いということになる」

「ルインが……か弱い?」

「……ありえない」

 サーリャとシオンは「何を言っているんだこいつは?」と言わんばかりの表情でそれぞれルインの主張を否定する。

 たしかにルインの言っていることは間違ってはいないが、ルインがか弱いなどサーリャとシオンからすれば到底納得できないことで、そうなってしまうと人類の大半が評価に値する土俵にすら上がることができない。

 そんな二人の反応をルインは最初から聞こえていないかのように無視する。

「サーリャにはその権利が当然発生するが、シオンは立場上かなりグレーな立ち位置ではある。一人の時はその権利は使うことはできないが、サーリャかミランのどちらかが同行している場合に限って騎士と同じく事態の鎮静化に参加することができるだろう」

 公に王国民に公表されているわけではないが、シオンは罪人だ。人質を取られていたとはいえ、暗殺者として裏の世界で生き、未遂とに終わったとはいえ領主の暗殺にも関わっている。そんな人間が場を取り仕切ってしまえば必ず揉め事になる。

 シオンがサーリャやミランと行動を共にしているのは王より言い渡された奉仕活動のためであり、騎士ではないのでルインが言ったようにシオン一人の場合は騎士としての責務は発生しない。

「さっきからルインは何を言っているのよ。そんな当たり前のことを今ここで確認するようなことじゃないでしょう」

 騎士としての役割を確認するためだと言うがどうも釈然としない。どうしてそのことを今ここで確認する必要があるのだろうか。ルインの意図が分からず、どことなく遠回しな言い方に焦れったくなったサーリャは僅かに不機嫌さを滲ませながらルインへ言葉を投げかける。

 ——結局ルインは何が言いたいのだ。

「つまりだな——任せたぞ?」

 ルインが言い終えるのとほぼ同じタイミングで首筋にゾクッと冷たい感覚が走る。


 殺気⁉


 振り返ったサーリャの目の前に視界を覆い尽くすかのような巨大な火球が迫っている。火球に込められた魔力量を素早く読み取ったサーリャは戦慄した。

(この威力は!)

 全力で防がないとまずい。そう判断したサーリャの隣でシオンのひっ迫した声が発せられる。

「フォートレス‼」

 シオンから魔力が溢れ出し、瞬時に形を形成してサーリャたちの目の前に壁のように割り込んできた。間一髪のタイミングでシオンの展開した盾が正面から火球を受け止める。盾に衝突した火球はその場で大爆発を起こし、受け止めきれなかった炎が盾の両側に回り込みサーリャたちの後方へと流れていく。

「助かったわシオン」

「……油断はできない。威力が強すぎる」

 シオンのこめかみを汗が一筋流れていく姿を見てようやく気がついた。シオンの鉄壁の魔法であるフォートレス。これまでただの一枚も破られたことの無いその盾の一枚にヒビが入っている。それだけで相手の魔法がどれだけ脅威なのか嫌でも理解させられる。

 少なくとも人間相手に放つような威力の魔法ではない。

 サーリャはシオンを庇うように前へ一歩進み出て険しい目つきで相手を睨む。攻撃が飛んできた先には一人の人物が立っていた。

 見た感じ年齢はサーリャとほぼ同じくらい。燃えるような赤い髪をツインテールにまとめた少女で、自身の身長とほぼ同じ長さの杖の先端をこちらに向けて構えており、気の強そうな顔立ちでこちらを睨んできている。少なくともサーリャは少女の顔に覚えはない。

「見たことがないわね。シオン、で彼女は見たことある?」

 三人の誰かに差し向けられた刺客なのではないか。そう考えたサーリャは視線を外すことなくシオンへと尋ねる。相手のことが少しでもわかればという気持ちだったのだが、シオンからの返答は否定だった。

「……それはない。でも驚き……あの人がここにいるなんて」

「シオン?」

 シオンの様子がおかしい。少女を見て何故か戸惑った反応を見せることから裏の人間ではないことは確かで、そのうえで少なからず相手を知っているのだろう。しかし、シオンは戸惑うばかりでそれ以上行動を起こそうとはせずその場で動かないままだ。

 相手の正体を知るためにより詳しい説明を求めようとする前によく通る声がサーリャたちへと届いた。

「そこの二人。死にたくなければ大人しくこの場から去りなさい。わたくしはあなたたちの後ろにいる人物に用があります」

「ルインに?」

 つまり相手はルインの正体を知っている人物ということになる。王国を追われ、一人静かに暮らしているルインをわざわざ探しているということはつまり——

「一応聞いておくけれど、彼に何の用なのかしら?」

「あなたが知る必要のないことです」

「なら、私たちもこのまま帰るわけにはいかないわね」

 話は平行線。ルインを狙っていることからしてこのまま見過ごすことはできないし、なによりもいきなりあれほどの火力を持つ攻撃魔法を撃ち込んでくるような相手を野放しにすることはできない。

「……そう。ならば少し痛い目を見てもらって無理矢理にでも大人しくしてもらいますわ」

 話はここまでと言わんばかりに少女の魔力が高まってくるのを感じ取り、サーリャも腰に下げていた剣を鞘から抜き放つ。念のために持ち歩いていて良かった。

「シオン、迎撃するわよ。あなたは前に出ずに私のフォローに回ってちょうだい」

「サーリャ……でも」

「大丈夫よ。どれだけ威力が高くても最低限の守りは私にだってできるわ」

 何か言いたげなシオンにサーリャは心配させないようにと余裕があるように言う。鉄壁のフォートレスが破られそうになったのだ。今回ばかりはシオンも確実に守りきれるかどうか不安なのだろう。

 しかしサーリャとてこれまでいくつもの戦闘を経験しているので相手の動きはある程度予測できる。無詠唱魔法ならばギリギリまでは対処ができるはずだ。

 シオンをその場に残しサーリャは片手に剣を持ち少女へ向かって駆け出した。そんなサーリャを見て少女は嘲るように笑う。

「たった一人突っ込んでくるなんてわたくしも相当舐められたものですわね。後悔しても知りませんわよ!」

 素早く詠唱を済ませた少女の持つ杖の先端に一抱えありそうな火球が生み出され、サーリャへと放たれる。サーリャも応戦とばかりに走りながら同じ大きさの火球を数個飛ばす。

 サーリャの放った火球は少女の火球にぶつかると一個目は容易く消し飛び、さらに数発命中したところでようやく勢いが落ちて最後は相殺するかのようにかき消えた。

(一発にどれだけの魔力を込めているのよ。明らかに人に向ける威力じゃないでしょう)

 同じ大きさの火球をぶつけたはずなのにサーリャの魔法は撃ち負けた。つまりそれだけ込めた魔力量に差があったということになる。

「わたくしの魔法を止めるとはやりますわね。ですがその余裕がいつまで続くのか見せてもらいましょうか」

 自身の魔法が消し飛ばされたことに最初は驚きの表情を見せていた少女だったが、すぐに高揚とした表情に変わり次々と火球を作り出してはサーリャへと撃ち込んでいく。

 見た限り少女が放っているのはボルク。初歩魔法のはずなのだが、威力が桁違いに跳ね上がっている。詠唱を間に挟むためルインやサーリャほどの連射性はないが、一発一発の威力が高いので油断はできない。

 まるで爆撃の中をかいくぐるかのようにサーリャはジグザグに動き回りながら相手との距離を詰めていく。

「ちょこまかと動き回って鬱陶しいですわね。さっさとその辺に転がりなさい」

 なかなか魔法が当たらないことに憤りを感じているのか少女は地団駄をし始める中、その間にもサーリャは状況をしっかりと観察する。

(彼女はおそらく後衛から圧倒的な火力で制圧するタイプね。持ち前の火力で相手を近づけさせないことに固執し過ぎている)

 サーリャが少しずつ距離を詰めているのに対して少女はサーリャから距離を取ることなくその場に留まり続けて攻撃魔法を展開することに固執し過ぎている。威力も相まって、その姿はまるで意思を持った固定砲台のようだ。

 ようやく剣の間合いに入った。すぐさまサーリャは剣を横に一閃するが、すぐさま硬い感触にその動きは途中で止められた。

「わたくしが魔法しか撃てないようなその辺の騎士と一緒にしないでほしいですわね」

 サーリャの剣は少女の持つ杖によって阻まれ、至近距離で互いの視線がぶつかる。

 少女は剣を押し戻すと慣れた手つきで杖術のように杖をくるりと回転させるとお返しとばかりにサーリャの横っ腹を殴りつけてくる。向かってくる杖をサーリャも剣で受け止め、杖と剣が何度もぶつかり激しい応酬が重ねられる。

 相手を無力化するためにサーリャは至近距離で魔法を展開させる。少女は現れた魔方陣に驚愕の表情を浮かべてすぐさまバックステップでサーリャから離れようとする。その前にサーリャの魔法が発動する。

 雷撃魔法「ラジエノ」——紫電がまるで蛇のように地面、そして空中から少女へと襲い掛かる。距離を取ろうとした少女は防御魔法を展開する暇すら与えられず、ラジエノが身体へと巻き付いていく。

「このっ!」

 構成が雷なため迂闊に掴むことができず、激しく身体を動かすことでラジエノから逃れようともがく少女。

「しばらく痺れていなさい」

 ラジエノはそこそこの威力を持つ攻撃魔法だが、サーリャ自身が威力を調整しているので死ぬようなことは無いが、それでもしばらくは全身が痺れて動けなるだけの威力は残してある。

巻き付いたラジエノの先端が蛇の頭のように一瞬獲物に狙いを定め動きを止めた後、少女へと襲い掛かった。

「舐めるんじゃありませんわぁ!」

 少女の叫びと共にガラスの割れるような音が響き渡り、巻き付いていたラジエノがまるで吹き消される蝋燭の火のように突然消し飛ばされた。なぜ?魔法の詠唱はしていなかったはずなのに⁉

 困惑するサーリャだったが、少女の服の内側から地面へとパラパラと何かが零れ落ちていく。僅かに光を反射することからガラスか宝石の類だ。

 おそらく防御系の魔道具か何かを持っており、それが発動したのだろう。

(ルインが目的ならそれぐらいの対策はしているのね。でも数には限りがあるはず)

 さすがに至近距離で自身を巻き込んだ魔法を撃つようなことは今のところしてこない。威力が高すぎるが故に近距離では使いにくいのかもしれないし、魔法よりも杖で殴った方が早いと判断しているからなのかもしれない。

 そんなサーリャの思考を読んだのか少女が突如ニヤリと小さく笑う。

「終幕は唐突に。優雅に派手に——燃え上がれ!」

 まるで演者が舞台幕を下ろすかのように杖を持っていない少女の左腕が大きく振られ、その動きに合わせてこちらに向かって扇状に炎が大きな幕のように広がり頭上から迫ってきた。

「くっ」

 サーリャは頭上から迫ってくる炎の範囲から逃れようと少女から離れるようにその場から離れようと駆け出す。しかし炎の範囲が広すぎてこのままでは範囲から出るよりも先に炎の幕がサーリャを包み込んでしまう。

 サーリャは走りながら自分のすぐ傍に大きな水の塊を生み出す。自分の上半身がすっぽりと入ってしまいそうなほどの水がふわふわと浮かぶ中、サーリャはその水を自身が走る先——炎の終端に向けて勢いよく撃ち出した。

 炎とぶつかることで水が瞬時に蒸気へと変わり周囲を白く染め上げていくが、水が接触した部分の落下速度が僅かに遅くなった。サーリャはその場所にためらいも無く身を投げ出した。

 ゴロゴロとサーリャが転がる背後で炎が地面へと覆いかぶさり、その下にあった緑あふれる平原が黒い焼け野原へと変わってしまった。

 距離を取るのは危険すぎる。素早く立ち上がり再び距離を詰めようとしたところで再び少女の身体から魔力が溢れ始めた。しかし先程とは違って少女の魔力は周囲に漂うことなく足元の地面へと吸い込まれていく。

「シオン、私が合図したらフォートレスを一枚私の足元にお願い!」

「っ。わかった」

「何を考えているのか知りませんが、これで終幕ですわ」

 少女は大きく振りかぶると、持っていた杖を地面へ突き立てるために力を込めて振り下ろす。

 杖の先が地面に触れる直前でサーリャは合図を出すのと少女の言葉が重なった。

大地の葬送花グラウンド・フューネラル!」

「今!」


 杖が地面へと突き立てられ、静寂は一瞬。

 次の瞬間には地面が無数の槍へと変化し、範囲内にいる全ての存在を容赦なく下から串刺しにする。先程まで平地だった場所が今は完全に様変わりしてしまい、まるで針山のような光景が広がっている。

「さすがに少々やり過ぎてしまいましたわね」

 少女は目の前に広がる惨状を見渡しながら独りごちる。しかし言葉とは裏腹に少女の表情には反省の色は微塵も感じられない。

 確かにやり過ぎだった感は否めないが、それでも相手は自分の魔法を止めるほどの力を持っていたのだ。生半可な対応をすればやられていたのはこちらだ。

 止めるためとはいえ随分威力の高い魔法を使ってしまったが、あれほどの実力者なら死ぬことは無いだろうが少なくとも重症で動けなくなっているだろう。

 僅かに顔を顰めながら服に付いた土埃を払いながらゆっくりとした足取りで歩みを進める。

「とりあえず一人はこれで退場ですわね。あとはもう一人を——」

「勝手に終わらせないでくれるかしら?」

「っ⁉」

 力のある凛とした声に少女は驚愕し、周囲を見渡す。針山の上にも魔法が及ばなかった平原にも相手の姿はない。

 だからこそ気づくのが遅れてしまった。方向は上——見上げた少女の瞳に遥か高い場所からこちらに向かって剣を振りかぶりながら落ちてくるサーリャが映るのだった。


 落下の浮遊感を全身で感じながらサーリャは眼下で驚きの表情を隠せないでいる少女の反応に思わず笑みを浮かべずにはいられなかった。

 サーリャを串刺しにするはずだった攻撃魔法。それが発動する前にサーリャは合図によって自身の元へと移動してきたフォートレスを足場にし、風魔法を使って大きく飛び上がったのだった。大きく飛び上がったことで足元から迫りくる攻撃魔法の効果範囲から逃れることができ、こちらが攻撃に巻き込まれたと誤認させることができたので効果は十分だ。

「わたくしの魔法を避けただけで何を粋がっているのですか!」

 少女は杖を構え直してその先端をサーリャへ向け詠唱を開始する。詠唱が進むにつれて杖の先に巨大な火球が徐々に形成されていくのが見えた。

 少女の言う通り、避けただけで現状は何も変わっていない。だからこそサーリャも次の行動を起こす。剣に纏わせている魔力の量を増やし、より強固・鋭さを底上げしていく。

 二人とも攻撃する態勢に入っている中、お互いに相手の攻撃を避ける意思はない。どちらも自分の攻撃が先に出ると確信して次の攻撃にすべてを賭けている。だからこそお互いから勝利を確信した同じ言葉が放たれた。

「「終わりよ‼」」

 サーリャの剣戟と少女の火球が同時に放たれる。そして——

「双方そこまで!」

 その後に待っていた決着。しかし突如として割り込んできた存在によって遮られた。振り抜こうとしていたサーリャの剣は少女を守るように掲げられたものとぶつかり、金属の音を響かせながらその動きが止まってしまった。

 余計な邪魔を!苛立ちと困惑が入り混じった感情のまま突如として割り込んできた存在に目を向けたサーリャは驚きの声を上げた。

「ミラン様⁉」

 騎士服に身を包み、完全武装したミランが自分の盾を掲げてサーリャと剣を防いでいた。ミランがどうしてこの少女を庇うのか。

 しかし攻撃を阻まれたのはサーリャだけではない。少女が撃ち出そうとした火球は弾丸のように飛んできた攻撃魔法で正確に撃ち抜かれて消し飛んでしまった。背後を振り返ればルインがやるべきことをやり終えたかのように伸ばしていた腕を下ろしている姿が映った。

 ミランだけでなくルインまでもが介入する状況に今度こそサーリャは混乱し始める。

 サーリャの剣を受け止めたミランは安堵したように一息つき盾を下ろすと今度はサーリャに背を向けて少女へと向き直った。

「姫様、突然姿をくらませたと思ったらこんなところで何をしているのですか!危ないことはお止めください」

「黙りなさい。危険のない戦いなどあるはずないでしょう。わたくしはその程度のことなど覚悟の上です。なにより、あなたからそのようなことを言われる筋合いなどありませんわ」

 ピシャリとミランを黙らせた少女はこちらに向かって歩いてくる。おもわず身構えるサーリャだったが、少女はサーリャを軽くひと睨みするだけで、そのまま横を通り過ぎ背後にいるルインの目の前で立ち止まった。

「やっと……やっとお会いすることができましたわ」

 肩を震わせる少女の背中越しにかすかな声が聞こえてくると、少女は大きく腕を広げながらルインの胸へと飛び込んだ。

「信じておりましたわ。師匠はきっと生きていらっしゃると。今、こうして触れられることがなによりの証拠ですわ!」

 震え声から泣き声に変わり、まるで確かめるかのように力強くルインを抱きしめる少女は顔をルインの胸に埋めたまま離れようとしない。抱きしめられているルインは抱きしめ返すようなこともせず、されるがままになっているが拒絶はしていない。

 先程まで命のやり取りをしていた相手が目の前でルインを抱きしめている光景は衝撃的だが、それよりもサーリャは気になることがある。……姫様?

 ミランに事情を聞こうと口を開こうとするが、その前に少女が埋めていた顔を離してサーリャへと振り返った。赤くなった目元でビシッとサーリャを指さしてくる。

 そしてまたしても爆弾級の情報をサーリャへと投下した。

「あなた!先程から見ていれば何故当たり前のように師匠の隣で楽しそうにいるのですか。わたくしの未来の夫であるこの方に近づかないでくださいな」

 その場の時間が止まったような気がした。

 オット……夫。誰が……誰の?

 こちらを変わらず睨みつけながらもルインから離れようとせず、ルインの腕を自身の胸に抱き寄せて離れようとしない少女とされるがままになっているルイン。

 何度も何度も交互に二人を見比べ理解がようやく追いついてくると、くわっと目を見開いた。

「夫ぉぉぉぉぉぉぉぉぉ⁉」

 サーリャの叫びが周囲へと響き渡るのだった。



「ここが師匠の家なのですね。王都の騒がしい所とは違って落ち着いた雰囲気で師匠にピッタリですわ!」

「何を興奮しているのか知らんが、勝手に歩き回って部屋に入ったりするなよ」

「わかっておりますわ。そんなはしたない真似をわたくしはするつもりはありませんわ」

 キラキラとした目で周囲を見渡す少女に釘を刺すルイン。

 とりあえずお互いの説明が必要だということでサーリャたちは場所を移すことになったのだが、周囲に安易に聞かせられないということでなぜかルインの家が選ばれてしまった。今回はサーリャやミランだけでなくあの平原にいる全員がついて来ているので、今回はシオンも一緒だ。シオンも初めて訪れるルインの家に興味があるのか、少女ほどではないにしても周囲に興味を示している。

 サーリャが飲み物を用意してリビングへ戻ってくると各々がソファーへと腰を下ろす。サーリャ・ミラン・シオンの三人が大きなソファーに並んで座る中、少女はさも当たり前かのようにルインの隣——二つ並べられた一人掛けのソファーに腰を下ろした。

「まず初めにお二人の紹介をしておきます。彼女はサーリャ・ブロリアス。今年なったばかりの新人騎士で今は私の部隊に所属しています。そしてこちらがシオン。彼女は事情により私の部隊に所属しておりますが、騎士ではなくあくまでも一般人という扱いになります」

 初めにミランがサーリャとシオンの二人を少女に紹介し、二人は軽く頭を下げることで挨拶をする。

「二人とも。こちらの方は——」

「待ちなさい。ここからはわたくしが話しますわ」

 続いてミランが少女を紹介しようとしたところでその少女から待ったがかかる。人に命令することに慣れた凛とした声だ。

「わたくしはルイリアス王国第一王女、マリアナ・ヘルオンスですわ。どうぞお見知りおきを」

「お、王女殿下⁉そうとは知らず数々の無礼失礼しました!」

 ミランの対応からそこそこ身分の高い相手なのだというのは想像がついていたが、まさかの王族。サーリャは真っ青になりながらも慌ててソファーから飛び降り片膝をついて臣下の礼をとる。王族にぞんざいな言葉をかけただけでなく、剣を向けて命のやり取りをしたなど許されることではない。

「なんだ。サーリャはマリアナの正体を知ったうえで戦っていたのではなかったのか?相手が王族であろうとも立ち塞がるのであれば容赦しないというその姿勢に俺は感心したのだがな」

「ルインじゃないんだからそんなことはしないわよ!王女殿下だと知っていればすぐにでも道は譲っていたわ」

 少し残念そうなルインにサーリャは即座に噛みつく。ルインは私のことを何だと思っているのだ。

「だがシオンはマリアナの正体に気づいていたぞ」

「そんな⁉」

 嘘でしょう⁉信じられないといった表情で振り返ったサーリャにシオンは静かに頷く。

「本当。前の〝職場〟で姿絵だけど見せられたことがあるからよく覚えている。だからサーリャが戦うと言った時には本当に驚いた……何でサーリャが知らないの?」

「うぐっ……」

 嫌味ではなく純粋なシオンの問いにサーリャは雷に打たれたかのような衝撃を受け、思わず床に両手をついた。

 サーリャとて貴族の一人だ。王族への忠誠を持っていないわけではないし、遠目ではあるが王族を目にする機会は何度かあったが、その中にマリアナがいた記憶はない。

 そう考えるとサーリャの反応はある意味当然と言えば当然なのだが、自分より幼いシオンが知っていて自分が知らなかったその事実にサーリャは大きなダメージを受けてしまう。

「仕方ありませんわ。幼い頃のわたくしは人前に出ることが難しかったですし、ここ数年は王都から離れていましたもの。——それより、師匠はどうしてそんな他人行儀ですの。わたくしのことは昔のようにマリーと呼んでくださいまし」

「いや、他人だろう」

 ルインへの好意を隠そうともしないマリアナとそんな彼女を当たり前のように呼び捨てにするルインに目を丸くしながらもサーリャは恐る恐る手を挙げた。

「恐れながらマリアナ王女殿下。いくつかご質問させていただいてよろしいでしょうか?」

「許します。それと王女殿下などと長ったらしい呼び方は不要です。周囲の目がある場では仕方ありませんが、今この場にいる者たちだけならば必要ありませんわ」

「それではマリアナ王女——」

「王女も不要ですわ」

「え?いえ、しかし……」

 いくらなんでもそれは失礼過ぎるのではないだろうか。しかしマリアナの対応は変わらない。

「不要ですわ」

「えっと……マリアナ様?」

「まぁ、それで許すとしましょう」

 納得したマリアナを前にサーリャは心の中でホッと胸を撫で下ろした。まさか王族を身近な人のように呼ばなければならないなど誰が予想できるだろうか。

「マリアナ様はルインとどのような関係なのですか?それにミラン様が護衛をされていましたが、他の付き人はいらっしゃらないのでしょうか」

 相手は一国の王女。護衛にはそれなりの人数を割くはずなのだが、あの平原で現れたのは結局ミランだけで他の護衛をサーリャは見ていない。ミランと合流した時点で城に戻ったのだろうか。

「まず先に後者の質問に答えてさしあげますわ。サーリャ、あなたも貴族の一人でありますが、戦場で身の回りのことを他人に任せなければ何もできないのですか?そのような者など足手まとい——いえ、邪魔にしかなりませんわ。そのような存在になるなどわたくしが許しませんわ」

「な、なるほど」

 マリアナの言っていることは正しい。正しいことではあるのだが、まさかそんな言葉が王女の口から出てくるとは思わなかった。本当に目の前にいる人物は王女なのだろうか。

 そんなサーリャの心情を察したのかミランがすかさず補足を入れてくる。

「サーリャ、言っておくけれど姫様が特殊なだけで王族全員が同じ価値観を持っているわけではないわ。むしろサーリャと同じ認識を持つ貴族の方が一般的よ。姫様は騎士としての教育を受けることになったのだけど、その教育係を引き受けたのがルインなのよ」

「あ、それなら納得できますね」

 マリアナの言動や価値観がどことなく似ているなと思っていたが、どうやら勘違いではなくルインが原因らしい。

 そうなるとますますルインがどういう経緯で王族の指導役に抜擢されたのかが気になる。こういうのは王族お抱えの指導役がいるのではないだろうか。

「マリアナは他と違って特殊な事情を抱えていたからな。城にいる指導役では手に余るということで俺にその役が回って来たんだ」

「特殊な事情?」

 ルインはマリアナへと視線を向け「いいのか?」と確認をとり、マリアナもそれに頷くことで答える。

 ここからはマリアナ自身の問題に踏み込むことになる。自然とサーリャは背筋を伸ばして居住まいを正す。

「マリアナは体内で生成される魔力純度が高く、魔法を行使すれば通常とは比べ物にならないほどの効果を発揮してしまうんだ。つまり個人レベルでこの土地と似たような効果を常時発揮しているということになる。下手に魔法を使えば本人にその気がなくても周囲を吹き飛ばす可能性を持っているということだな」

 つまりマリアナとの戦闘で見せたあのでたらめな魔法の威力は彼女の持つ能力故の影響なのだろう。ならばあの規格外すぎる威力も納得できる。

 そしてあの戦闘でシオンのフォートレスにヒビが入ったのはマリアナの魔力が強すぎたからというわけではなく、シオンの盾がその変化に対応できなかった影響らしい。

 相手の魔力量を感知して込められた魔力の強さに合わせて盾の強度を自動調節するフォートレス。しかし鉄壁とも言える盾にも弱点があったらしい。

 フォートレスを展開させておくには当然だが継続的に魔力を供給させておかなければならない。しかし、幼いシオンの保有魔力だけでは当然だが長時間展開させ続けることは難しい。ましてやそれが四枚となれば一瞬で魔力が尽きてしまう。

 だからこそフォートレスは術者が魔力切れで倒れないために盾自身が周囲から魔力を吸い上げる効果を持っているらしい。

 普段の戦闘であるならば問題はなかったのだが、今回はマリアナという特異点が相手だったのとフォートレスが展開するまでの時間的余裕が少なかったのが影響してしまった。

 マリアナの攻撃魔法を耐えきるだけの魔力を周囲から吸い上げきれないまま受け止めてしまったことでヒビが入ったという結果に繋がったというわけだ。

「その体質?はマリアナ様だけに起こっていることなの?」

「いや。調べてみてわかったことだが、どうやら過去に似たような体質を持つ者は王族の中に何人かいたらしい。おそらく血筋の中に突出して魔力が高い奴がいたんだろうな。それが代を重ねていく中で変質し、先祖返りという形で発現したんだと俺は考えている」

「なるほど」

 王国全ての貴族がそうだとは言わないが、血筋を重要視する者は一定数いる。より優れた血筋と交わることで自分の存在に箔を付け、価値を高めて武器にする。

 政略結婚が当たり前の貴族社会だが、王族ともなればその思想は強かったのだろう。まさかその結果、子孫たちにそんな影響が出るなど当時の者たちは誰も予想できなかっただろう。

 魔法が日常生活で当たり前のように使われている現代でこの環境はマリアナには危険過ぎた。

 周囲の魔法に影響を受け、何がきっかけで魔法が暴発するかわからないのでマリアナや周囲の人間に危険が及ばないように幼いマリアナは王城に用意された部屋に半ば軟禁するような形で毎日を過ごす日々だったらしい。

 しかしいつまでもその状態を続けるわけにもいかず、王城関係者が頭を悩ませていた時に白羽の矢が立ったのがルインだったらしい。まぁルインならば多少の危険があっても無詠唱で対応できるからという判断だったのだろう。

 ルインの説明はかなりざっくりとしていたが、気軽に外へ出ることが叶わなかった当時のマリアナは相当荒れていたらしい。

「あの時のマリアナは相当だったな。初めてサーリャと会った時の騒がしさとは比べ物にならなかったぞ。挙句の果てには自分を『王族扱いするな。そこらの人間と同じように扱ってみろ』と言い出す始末だからな」

「わ、忘れてください!あの時のわたくしは何も知らない子供だったんです」

「だからと言って城の外で寝泊まりしたことの無い姫様をいきなり廃墟の床で寝させるのはいくら私でも真似できないわよルイン」

 恥ずかしさで顔を覆うマリアナとそんな彼女に同情するミランの反応から当時ルインがどんな教育をしていたのかが嫌でも察せられる。

 ……いくら何でもやり過ぎでしょ。

 いくら本人が望んだこととはいえ、王族をそこまで雑に扱えるのはルインぐらいなものだろう。その間に恥ずかしさで沈んでしまっていたマリアナが浮上してきた。

「同じことを師匠以外にも言ってはいましたが、他の者は言葉では対等と言っておきながらどこか遠慮があって少し距離が遠かったですわ。そんな中でもわたくしを王女としてではなくただのマリアナとして見てくれる人は師匠しかおりませんでしたわ。だからこそ感じたのですわ!わたくしの夫となるのはこの方だと!」

 話しながら熱を帯び始めたマリアナは頬をわずかに赤く染めながらルインの腕を抱き寄せる。

「わたくしの想いはあの時から変わってはいませんわ。いえ、こうしてお会いできたことでその想いはさらに強くなりましたわ。師匠が受け入れてくださるなら今からでも結婚の手続きを準備いたしますわ」

「やめろ。面倒ごとに巻き込まれるなんて御免だ。なにより周囲がそんなことを簡単に許すわけがないだろう」

「問題ありません。恋に障害はつきものです。どれだけ時間がかかっても認めさせてみせますわ!」

 頑として聞き入れないマリアナに呆れながらルインはサーリャとして聞き捨てならない言葉を口にした。

「なんだかんだで二人は似た者同士だな」

「はぁ⁉ちょっとそれはどういうことよルイン」

「そうですわ!この女と同類扱いされるのは納得できませんわ。わたくしとどこが同じですの」

「自覚なしか……ならば教えてやる」

 異議ありとほぼ同時に腰を浮かせて抗議する二人にルインは呆れ顔になりながらまずサーリャを指さす。

「まずサーリャ。当時のお前は騎士ですらない学生で単独での行動にもかかわらず周囲へ気を配ることを怠り、勢いのまま森中を動き回って大規模な連鎖暴走トレインを引き起こした愚か者だ。剣の腕があるかどうか以前の問題だ」

「はぅ!」

 痛い所を突かれ思わずサーリャは胸を押さえる。そんなサーリャをそのままに、向けられていた矛先が次へと移る。

「次にマリアナ。お前は『王族扱いするな』『周囲と同じ扱いにしろ』と騒いだにもかかわらず、泊りがけの依頼で食事の際にシェフを呼べなどとどういう感性をしているんだ。言葉と行動が全く合っていない滅茶苦茶な振舞いだ」

「あぅ!」

 こちらもサーリャと同じくダメージを受けて大きく仰け反る。

 マリアナの暴露内容も大概だが、それ以上に自分の失態暴露をされたのが恥ずかしい。穴があったら入りたい気分だ。そんなサーリャを慰めるかのようにシオンが優しげに肩に手を置いたのが余計に心にくる。

「これで互いの顔合わせは終わっただろう。あとはそっちで勝手にやっていろ。俺はしばらくここを離れる」

「ルインどこかに出かけるの?」

「まぁ、そうだな。少しな……」

「?」

 少し言いよどむルインの反応にサーリャは首を傾げるのだった。



 ルイリアス王国王城。その一つに割り当てられた自分の部屋に帰ってきたマリアナはベッドに大きくダイブしながら枕に顔を埋めた。しばらく何も言わずにうつ伏せになっていたマリアナだったが、わずかに身体を震わせ始める

「ふふふ」

 枕に顔を埋めたまま堪えきれない感情が声となって漏れ出す。嬉しさが徐々に大きくなり、パタパタと足を動かす。

「ようやく、ようやく師匠を見つけることができましたわ」

 時間が空いても忘れることはない。自分よりも大きな彼の身体を抱きしめた時の感触。彼の匂い。数年前に別れた時と何一つ変わっていない。

 彼が生きている。直接触れ、話すことのできる今がどれだけ幸せなことか。ゴロゴロとベッドの上で転がっていたマリアナは枕から顔を離し、壁へと視線を向けた。

 壁には使い古された一本の杖と折れた生き物の角が掛けられている。あの杖は初めてルインと出会った時に使っていた杖で、角は自分が初めて討伐した魔獣の記念として持ち帰ったものだ。

 彼と出会うまでの自分の生活はあまりにも狭く、自由でありながら不自由な毎日だった。そんな世界を一気に広げるきっかけをくれたルインはまさに白馬の王子様と言っても過言ではない。そんな彼に対して恋心を抱くのは自然なことだ。

 彼ならば自分のすべてを捧げてもいい。王族というフィルターを通してではなく一個人として接してくれるルインは生涯の伴侶としてふさわしく思える。だからこそ、今の状況に一つだけ不満がある。

(あのサーリャという女性は気に入りませんわね)

 自分の知らぬところで彼と親密な関係になっているという事実はマリアナからすれば当然見過ごすことはできない。報告も兼ねて王城に戻って来はしたが、このままだといろいろと理由をつけて自分を王城内に引き留めようと父であるあの男は動くだろう。

(わたくしはそう簡単に従うつもりはありませんわよ)

 マリアナは勢いよく起き上がると、部屋に備え付けられてあるハンドベルを鳴らして侍女を呼んだ。

「わたくしが処理しなければならない仕事をすべて持って来なさい」



 穏やかな日差しが降り注ぐ中、一台の馬車が川の傍で停車している。それまで馬車を引いていた馬は川で水を飲んで疲れを癒している。広いとは言い難い荷台の中からルインの声が漏れ聞こえていた。

「つまりフォートレスと感覚の一部を共有させるんだ。ほとんどの制御はオートで行われるだろうが、周囲の状況把握は決して疎かにするな。最初は流れてくる情報の波に苦しむかもしれないが、時間をかければシオンなら適応できるはずだ」

「わかった。他には?」

「そうだな……」

 自身の背後から聞こえる二人の会話を聞きながらミランは御者台に座りながら束の間の休息を取っていた。数か月前まで戦場から戦場へと移動ばかりを繰り返していた毎日から考えれば、戦うことを考えず穏やかに過ごせるこの時間はミランにとっては貴重だ。

 そんなことを考えていたミランだったが、背後の幌が開いてルインが荷台からミランの隣へと移動してきた。

「……ルイン本当に大丈夫なの?」

「問題ないだろう。聞こえていたと思うが慣れるまでが辛いだけで、ものにできればあいつの助けになるだろう」

「いえ、そうじゃなくて。私が気にしているのは、あっちなのだけど……」

 そう言ってミランはある方向を指さしたのだった。


「だから何度言わせるのですか!私が巻き込まれるような範囲攻撃魔法は使わないでくださいと言いましたよね。マリアナ様は味方ごと吹き飛ばすおつもりですか⁉」

「無事だから何の問題もないでしょう。一体ずつ処理するよりもこっちの方が一気に数を減らせるのだから効率がいいでしょう。あなたこそ討ち漏らしが多いのですからわたくしに余計な手間をかけさせないでくださいな」

「なんですって!」

「なによ!」

 ミランが指さす先ではサーリャとマリアナがお互い怒鳴り合っており、ヒートアップしている。あまりの剣幕具合に互いの距離がかなり近く、放っておけばそのまま掴み合いになるのではと思うほどだ。

 ルインが少しばかり家を離れると言ったその日、当たり前のようにマリアナはルインに同行すると言い出し、ミランがしばらく王城で過ごすようにと長い時間をかけて説得していたがすべて無駄に終わった。一度は王城に戻ったマリアナだったが、なんと部屋にあったロープをベランダに括り付けて抜け出してきたらしい。

 ルインがいるとはいえ流石に王女だけで行動させるわけにはいかないので、結局はミランたちが同行するという流れになって今に至る。

 同行に難色を示していたルインだったが、マリアナが離れようとしないので同行する際にある条件を出した。

「いくらなんでもあの二人に連携なんてできるわけないじゃない。戦闘スタイルは違うけど、どっちも自分から仕掛けるバリバリのアタッカーよ?どう考えても喧嘩になるのは分かりきっていたじゃない」

 ミランの心配とは裏腹にルインの反応は実にあっさりしたものだ。

「だからこそだ。どちらも火力としては申し分ないが、結局は自身の強みを活かして力でごり押ししているだけだ。事情があったとはいえ二人ともこれまで一人ですべてをこなしてきたから特に目立っていなかっただけだろう。いつまでも一人で戦えるわけじゃないからこの辺りで連携を学んでもいいだろう」

「それでも相性は最悪みたいね」

 最初こそマリアナに遠慮していたサーリャだったが、何度も二人で戦場に出ていると彼女の性格に慣れてきたのか次第に思ったことを言えるようになってきて、本気で喧嘩ができるほどにお互いの間にあった壁が無くなって今に至る。

 無詠唱魔法が使えながら剣による近接戦闘を主体にした乱戦に強いサーリャと自身の特異体質を最大限に利用し、遠距離からド派手な広範囲魔法による殲滅戦を好むマリアナ。……あまりにも合わなさすぎる。

「どうせ二人ともそこら辺の騎士とは組めないんだ。だったら訳あり者同士でうまくやってもらうしかないだろ」

「……前途多難ね」

 頭を抱えるミランに気づかず、しばらくの間二人は激しい舌戦を繰り広げるのだった。



 馬車に揺られてのんびりと目的地へ進むこと数日。時折遭遇する魔獣を撃退しながら進んでいく馬車の周囲はいつの間にか広い平野から滅多に人が通らなさそうな細道へと場所を移し、大森林と似たような景色へと変えていた。

 目的地までもうすぐだと言うルインへサーリャはこれまでずっと聞きそびれていたことを思い出した。

「そういえばここまでついて来ておいて今更なんだけど、ルインの目的っていったい何なの?」

「本当に今更だな。普通はもう少し早めに聞いてくるものだろ」

「いろいろあって聞きそびれていたのよ。この感じだと何かを買いに行くわけじゃなさそうだから、誰かに会うつもりなの?」

「……まぁそうだな」

 外の景色を眺めるルインは表情を変えることなくただ短く返す。その言葉にそれまで黙って話を聞いていたマリアナやシオンたちも興味を惹かれて耳を傾ける。

 引きこもりなルインがわざわざ馬車で数日かけてでも会うような人物。相手はどんな人なのだろうと想像していたサーリャだったが、ルインが口にしたのは予想にもしない人物だった。

「少し姉に会いに行くだけだ」

「「お姉さん⁉(ですって⁉)」」

 驚きの声がサーリャだけでなくマリアナからも上がった。突然の大声に驚いた馬をミランが必死に宥めている姿にサーリャは申し訳なさそうに謝罪しながらも、今気になるのはルインが口にした内容だ。

「ルインってお姉さんがいたの?」

「お義姉さまがいらっしゃるなんてわたくし初耳ですわよ」

 顔は見えないが御者台にいるミランの声からして彼女も驚きを隠せないでいるのがありありとわかる。

 どうやらミランだけでなくマリアナもルインに姉がいることを知らなかったらしい。二人とも驚きを隠せないでおり、マリアナに関しては詳しく聞かせろと言わんばかりにルインに詰め寄っている。

 サーリャもこの話には驚きを隠せない。ルインと出会ってからこれまで何度もルインの家に泊まっていたサーリャだが、これまで家族に関する話はその片鱗すら聞いたことも無い。てっきり一人っ子だと思っていた。

「まぁ話すことではないからな。……会うのも一年に一度くらいと滅多に会っているわけじゃない」

「それでも毎年会っているなんてルインにしてはマメな所があるじゃない」

「そういえばルインって騎士の時から毎年何日かまとまった休みを出していたわね。あれってお姉さんに会う為だったのね」

 御者台からミランが思い出したかのように呟く。一年に一度とはいえわざわざ何日もかけて姉に会いに行く時間を作っているとはサーリャからすればルインは意外にも姉想いなのだと感心する。

 家族だからいつでも会えると思って何年も会わないような人もいるが、ルインはそんなことは無いようだ。


 馬車一台がギリギリ通れるぐらいの細い道をルインの指示で進んでいくとやがて開けた空間に出た。陽の光が遮られていた森の中から突如として眩しいほどの光が馬車を照らす。光の先に現れた光景にルインを除いた全員が感嘆の声を漏らした。

 開けた場所の中央には大きな湖があり、その周囲は手入れの行き届いた土地が広がっている。陽の光が降り注いでいる湖面はキラキラと輝いており、まるでおとぎ話の中にいるかのような神秘的な光景だ。

 そんな綺麗な湖の近くには周囲の景色に溶け込むかのような小さな家がひっそりと建っている。

「こんな綺麗な所があるなんて知らなかったわ」

「シオンもこの場所が好き。子供たちと一日のんびりと過ごしてみたい」

「幻想的な光景ですわね。王国でもこれに匹敵するような場所なんてこれまで見たことがありませんわ。このような所に住めるお義姉さまが羨ましいです。わたくしも同じような場所が欲しいくらいですわ」

 馬車から降りるとミランたちは周囲を見渡しながらくるくると見る位置を変えては興奮したようにはしゃいでいる。

「こんな場所を一人で管理するなんて大変じゃない?」

「そんなことは無い。全てとは言わないがここも保存魔法をある程度かけてある。何年も放置しているならともかく、一年ぐらいならそこまで荒れたりしない」

 どうやらこの景色を維持するためにルインはそこそこ手を加えているらしい。ルインのこれまで培ってきた魔法の知識を最大限に取り入れた結果なのだろう。

 全員がしばらくその場で景色を堪能すると馬車を適当な所に繋いで次の目的地へとルインが歩き出す。先導するかのように少し先をルインが歩く中、その後ろをついて行きながらサーリャたちは思い思いの感想を口にしながら賑やかに話を続ける。

「まさかお義姉さまにお会いできるなんて予想外ですわ。将来家族となるのですから、こんなことならドレスの一着でも持ってくれば良かったですわ」

「いえ、まだルインは結婚するとは言っていませんよ。姫様だけで勝手に話を進めると後で陛下が何と仰られるか……」

「あんなクソ親父の言うことなんて知りませんわ」

「クソ親父って……」

 マリアナに突っ込みを入れながらもサーリャは自分が思っている以上に浮かれていることに気がついていた。

(ルインのお姉さんってどんな人なのかしら)

 マリアナ程では無いにしてもサーリャはさりげなく自分の身だしなみを確認する。これまでいろいろあったが、ルインには感謝しても感謝しきれないぐらい世話になっている。ルインの家族にもサーリャは感謝を伝えておきたい。

 鳥のさえずりを聞きながらサーリャたちは期待を膨らませながらルインの後をついて行くのだった。


 ルインの案内する場所は湖畔からそれほど離れていない場所だった。湖全体が見渡せることのできる緩やかな丘の頂上にそれはあった。

 簡素ではあるが小さなテーブルと椅子の用意された東屋が建っており、そのすぐ近くにはサーリャがこれまで見たことも無いような花畑が広がっていた。花畑には色とりどりの花が植えられており、色も品種もすべてがバラバラで、まるで世界中の花が一カ所で咲き乱れているかのようだ。丘の上を風が駆け抜け、花の香りと色とりどりの花弁が風に乗って舞い上がる。

「……久しぶりだな姉さん。今年もうまく花が咲いて安心したぞ。前に持ってきた花は環境の変化に弱いと聞いていたから咲くかどうか心配だったんだ」

 ルインは穏やかな口調で話し続ける。

「土産になるかどうかわからんがワインを持ってきたぞ——って言っても俺は酒があまり強くないからかなり弱めのやつだな。あと、今年は俺だけじゃないから少し騒がしいのは勘弁してくれ」

 少し前にルインが王都で購入していたワインと花束を虚空から取り出すと、ゆっくりとそれらを置いた。穏やかな風でルインの黒髪がなびく。

 しばらく花束を見つめていたルインだったが、用が済んだとばかりにサーリャたちへと振り返った。振り返ったルインはサーリャたちのいる場所に気がつき、おかしそうに微笑する。

「そんなところで何を突っ立っているんだ。早くこっちに来い」

 色鮮やかな花に囲まれながらルインは穏やかな口調でサーリャたちへと声をかけた。


 サーリャたちは花畑から離れた位置で立ち止まっていた。特に誰が最初というわけでもなく、誰もが自然と歩みを止めてしまっていた。先程までの賑やかさは完全になりを潜め、今は誰もがどうルインと接すればいいのかわからず、ただ立ち尽くすことしかできないでいる。

「どうした。そんな所には何も無いぞ」

「あの……えっと……その……」

 ルインの態度は変わらない。変わらないどころか普段よりも少し優しげな反応にどう返せばいいのかわからず、でも何か言わなければという感情が前へ出てきてしまって言葉にならない声がサーリャの口から漏れる。

 サーリャだけでない。ミランや騒がしかったマリアナもどう声をかければいいのかわからずその場で立ち尽くすしかできないでいる。

「ほら、さっさとこっちへ来い」

「……いいの?」

「そんなに離れていたら大声で話さないといけないだろう。俺が疲れるからこっちへ来てくれると助かるんだがな」

 そこまで言われてしまえば行かないわけにはいかない。気後れしながらもルインの言葉に後押しされるようにゆっくりとサーリャたちはルインのいる場所へと移動する。花畑の中に決して足を踏み入れないギリギリの場所まで近づくとルインは背後を振り返った。

 振り返ったその先——花畑の中心には一つの石碑が鎮座していた。

 石碑は決して大きいわけでもなく豪華でもない。何も刻まれていない磨かれた石がただ立っているだけだ。それでもそれが何を意味しているのか分からないほど、ここにいる者たちはバカではない。

「……姉のルミアだ」

「ルイン……ごめんなさい。私……こんなことだと知らなくて」

「わたくしも謝罪しますわ。師匠の気持ちも考えずに無神経に騒いでしまいましたわ」

 ルインからすればこの場所は誰にも踏み込んでほしくはない大切な場所だったはず。そんな場所に無遠慮に土足で踏み込んだのだ。知らなかったとはいえ許されることではない。

 ルインに対する申し訳なさで沈痛な表情を浮かべるサーリャたちとは裏腹にルインは優しげな表情を崩さない。しかしその表情の裏に悲しさが見えたような気がして、よりサーリャの胸を締め付ける。

「お前たちが気にするようなことじゃない。ここに連れて来ると判断したのは俺だから普段通りにしてくれればいい。それにそろそろ俺一人で手入れをするには些か広くなりすぎたからな、少し人手が欲しかったのもある」

 ルインは磨かれた石の縁をゆっくりと優しく撫でる。

「さて——どこから話そうか」



 ルインとルミアはどこにでも存在する村で暮らしているありふれた姉弟だった。早くに両親を亡くしてしまったが、唯一残された家族が互いにいることで寂しさを感じることは無かった。

 二人はどこに行くにしても何をするにしても一緒で、仲の良い二人の姿は村の中では特に珍しくもない光景になっており、周囲の者たちもそんな二人を温かい目で見守っていた。

 幼い二人では村の外で狩りや採取はできないため村の者たちに交じって農作業を手伝い、それらを売ることで生計を立て、ルインもそんな生活に特に不満を感じることなく姉との生活を満喫していた。

 二人をまるで孫のように可愛がっていた村長はルインたちが成長するにつれて様々なことを教え始め、街へ作物を売りに行くのにも二人を同行させるようになった。将来二人だけでも生きていけるようにと村長が考えた結果だ。

 基本的に村長がやり取りしているのをルインたちは後ろで見ているだけだったが、ルミアは元々興味があったのか隣で熱心に聞き入っていたのをルインははっきりと覚えている。

 農作業をしながら時折街に出ては知識と経験を積んでいく。覚えることが膨大で大変な日々ではあったが充実した毎日を送っていた。


 ——あの日を迎えるまでは。


「村長、今回もたくさん収穫できたね!」

「そうだのぉ。これだけあればかなりの額になるじゃろうなぁ。不安はあったが思い切って畑を広げて正解じゃったな」

「もう、広げるのはいいけど村長はいっきに広げ過ぎなのよ。畑を耕すのも収穫するのも大変で腰が痛いってラトのおばあちゃんが言っていたわよ……るーちゃんは大丈夫?何かあったらすぐにお姉ちゃんに言うのよ」

「僕は大丈夫だけどさすがに量が多すぎるよ。馬車に全部積むのに何回往復したのかわからないよ」

 御者台に三人並んで座りながら雑談に花を咲かせる中、ルインは背後の荷台へと振り返った。荷台には村で採れた野菜や村で作られた染料や工芸品などがどっさりと積み込まれており、その中にはルインとルミアが直接収穫した野菜も含まれている。

 大人たちが手伝ってくれてはいるが、それでも拡張した畑の分収穫量が増えてしまいルインとルミアもその分忙しく篭を持って畑を動き回っていた。全てを収穫し終えるにはそれなりに時間がかかってしまい、しばらくルミアと一緒にへばってしまったのは言うまでもない。

「それにしてもルミアはそうでもないんじゃが、ルインは勘定になると物凄く弱くなるのぉ」

「そうよね。るーちゃんはもう少しお金の計算が早くなってもらわないとね~」

「僕が遅いんじゃなくて村長やお姉ちゃんが早すぎるんだよ。あんなにポンポンと数字を言われてもわからないよ」

 のほほんとした表情で二人から指摘されたルインはぷくっと頬を膨らませた。

 村長のやり取りをルミアと一緒に後ろから見させてもらっているが、ルインはこのお金のやり取りが苦手だった。別に全くできないというわけではなく、時間をかければルインも計算することはできる。しかし相手との会話の中で行き交う様々な数字に対してルインは即座に計算して答えを出すことができない。

 じっくりと時間をかけて数字の意味を理解してから次へと進むのがルインのやり方だ。村長に同行して街へと連れられるようになってしばらく経ったが、ここで二人の間で能力の差ができ始めていた。

 金銭のやり取りや在庫の管理・運用に関してはルミアが秀でており、ルインは物作りに関してある程度の才能を持っている。

「はっはっはっ。何事も向き不向きがあるからのぉ。別にルミアと同じくらいにできるようになれとは言わぬが、それでもできるようになっておけばそれに越したことはないぞ」

「そんなことは分かっているよ。僕が大きくなったらお姉ちゃんには家で僕が稼いだお金を任せるつもりなんだから」

 今は村長がすべてをこなしているがいつまでも頼っていられるわけではない。いずれはその全てを自分たちがやらなければならないのだが、ルインとしてはお金の管理などはルミアにしてもらおうと考えている。

ルインが外で稼いできてルミアがそれを管理する。それがルインの思い描いている将来の生き方だ。たった一人の家族であるルミアには危険の無い場所で過ごしてもらいたい。

 今まで話したことの無かったルインの夢を聞いたルミアはぱぁっと花が咲くかのように満面の笑みを浮かべ、ルインの腕にぎゅっと抱きついた。

「るーちゃんがそこまで考えてくれているなんてお姉ちゃんは嬉しいわ!それならお姉ちゃんがしっかり管理してあげるからこっちのことは任せなさい!」

「……いや、それだと意味がないじゃろう」


 賑やかに街へと馬車が進んでいく中、ルインはふとあることに気がついた。これまでお喋りに夢中で気がつかなかったほんの些細な変化。

(今日は森が静かだな……)

 人里から離れているとはいえ森の中に生き物が全くいないというわけではない。これまでなら聞こえていたはずの虫や鳥の声が全くなく、ルインの耳に入ってくるのは風で揺れる木々のざわめきと馬車の音だけ……いくらなんでも静かすぎるのでは?

「……ねぇ、村長」

「ん?どうしたんじゃルイン」

 言い知れぬ不安を感じたルインは手綱を握る村長の袖を引っ張った時にそれは訪れた。

 身体の奥にまで響いてくるかのような地響きがどこからか聞こえ始め、徐々にその音が大きくなってくる。この時になってようやく村長とルミアも異変を感じ取り、音の出所を探すように周囲を見渡し始める。

 念のために移動するように村長に言われたルインとルミアは御者台から荷台へと場所を移し、村長が馬車の速度を上げようとした矢先に左に広がる森の中から獣が飛び出してきた。

 見た目は鹿だが、ルインの知る鹿とは大きくその姿がかけ離れていた。まず初めに大きさが違う。大きさは二メートルを軽く超え、普段村の大人たちが獲ってくる鹿とは大きさが明らかに違う。

 そしてそんな巨体の頭に付いている角はまるで槍のように鋭く頑丈で、その角と頭を支える首は丸太と思えるほどに太い。鹿の変異型魔獣であるスピアディアが群れで現れたのだ。

「っ⁉いかん!」

 突然の遭遇に驚愕は一瞬。はっと我に返ってすぐさま回避しようと村長は手綱を操ろうとしたが、あまりにも許された時間は短すぎた。

 何体かのスピアディアは馬車と接触しないように迂回する動きを見せたが、接触が免れないと判断したスピアディアの動きは早かった。

 速度を一切緩めることなく迫ってきたスピアディアは道を開けろと言わんばかりに頭を少し下げ角を突き出してきているが、だからと言って馬車が簡単に道を開けられるはずも無く、スピアディアの突き出された角が馬車の横っ腹に深々と突き刺さった。そしてそのまま掬い上げるように首を振り障害物を排除する。

 馬車は容易く宙を舞い、やがて重力に引かれて落下し始め激しい音と共に地面へと叩きつけられた。



「——。——。」

 暗闇の中自分の身体が激しく揺さぶられていることに気がついたルインはゆっくりと目を開けた。眩しそうに目を細めるルインの視界いっぱいには今にも泣きだしそうなくらいに表情を歪めるルミアが映った。

「おねえ……ちゃん?」

「るーちゃん!良かった、気がついたのね」

 先程までの悲しげな表情などまるで無かったかのように嬉しさを爆発させながらルミアはルインを力強く抱きしめる。抱きしめられることでルミアの体温を全身で感じながらルインはようやく自分が地面に横たわっていることに気がつき、何があったかを思い出していた。

 森の異変を感じ取りルミアと荷台に移動したことは覚えている。手を繋ぎながら荷台の隅で座っていたところで大きな衝撃が馬車を襲い、姉弟揃って浮き上がったところで一度記憶が途切れている。

「お姉ちゃん、何があったの?」

「そうだわ。るーちゃん動ける?すぐに逃げるわよ」

「逃げる……って何があったの?……村長は?」

「詳しいことはあと。今すぐここを離れないと——」

 ルミアに支えられながら上半身を起こしたルインの目に映ったのは、これは現実なのかと思えるような惨状だった。

 先程まで三人が乗っていたはずの馬車はひしゃげて完全に破壊されており、辺りには馬車の一部だったはずの木片や荷台に積まれていた荷物が散乱している。染料の瓶が割れてしまったのか周囲には鼻につくような強い匂いが漂っている。

 ——いったい何があったのだろうか。

 ルミアに引かれながら立ち上がろうとしたルインの視界の先で動きがあった。瓦礫の中からゆっくりと何かが起き上がった。鋭い牙と爪を持つ巨大な獣とルインの目がばっちりと合い——恐怖に震えた。

 こちらを人とは思わず、それでいて対等な相手ではなくただ純粋な獲物と見定めているその視線を正面から受け止めてしまったルインの心は簡単に折れてしまった。立ち上がろうとしていた足から一気に力が抜けてしまい糸の切れた人形のようにその場に座り込んでしまう。隣のルミアも同じ恐怖を感じてしまったのかルインを引く手の力が弱まった。

 幼いながらも自身に迫ってきている事実が嫌でも理解させられてしまう——アレからは逃げられない。

 こちらに逃げる意思が無いと理解しているのかゆっくりとこちらに近づいてくる獣から視線を外すことができず、迫りくる恐怖から涙を零しそうになったルインの身体をふわりと温かなものが包み込んだ。

 いつの間にかルミアがルインを正面から抱きしめていた。

「……お姉ちゃん?」

「大丈夫。何も心配しなくてもいいのよ」

 ルインの耳元で姉の優しげな声が囁かれる。

 こちらが苦しく感じてしまうほどにぎゅっと強く抱きしめたルミアは身体を離してルインを正面から見つめる。その表情はこんな状況にもかかわらず信じられないほどに優しく、こちらに微笑みかけている。

「これだけは覚えていてちょうだい。喧嘩をした時もあったけど、この気持ちはこれまでも——そしてこれからも変わることはないわ」

 ルミアの手がルインの頬に優しく添えられる。そして姉弟の元に獣が辿り着いた。背後にその存在は感じているはずなのにルミアは一度として振り返ることはせず微笑みながらルインを見つめ続けている。

「たとえ世界中があなたを嫌ってしまっても私はあなたの味方よ。だってあなたは私の大切な——」

 鋭利な爪を持つ巨腕が振り下ろされる直前、強く押されたような気がした。咄嗟のことでルインは思わずルミアと繋いでいた手を離してしまった。

 地面を大きく削り取りながらルインは衝撃とともに再び宙を舞った。

(お姉ちゃん……)

吹き飛ばされ浮遊感が襲う中、再びルインの意識が暗い闇の中へと沈んでしまった。



「こいつはひでぇ……そっちはどうだ?」

「……ダメだ。もう死んでいる。ここまでの惨状からすれば仕方ないが……残念だ」

 真っ暗な闇の中、遠くで誰かが話している声が聞こえる。聞いたことの無い男性の声が複数だ。

「足跡からしてスピアディアか……しかしなんだってこんな街道に魔獣どもが出てくるんだ。ここはあいつらの縄張りじゃなかったはずだし、こんな積極的に襲うことはなかったはずだぞ」

「間違いなく異常事態だな——おい、お前ら!周囲を確認したらすぐに本部まで戻るぞ」

 何人かの大人の話し声が聞こえてくるが、まだ声が遠くしっかりと内容が把握できない。暗闇の中ルインは何を話しているのか気になり動こうとしたが、全身が何かに押さえつけられたかのように重く、ピクリとも動くことができない。胸も押さえつけられているせいか呼吸ができないほどではなくても苦しくある。

 ぼんやりとした意識の中で辛うじて動く指先を理由も無く動かしていたルインの耳に誰かが斜面を滑り降りてくる音が聞こえ、しばらくすると木片がぶつかるような軽い音が何度か聞こえてくる。

「こっちもダメか……って、おい!お前らすぐにこっちへ来てくれ。生存者だ!まだ息があるぞ」

 すぐ近くで男性が大声で叫ぶ声が聞こえ、すぐさま周囲が騒がしくなり始めた。あちこちから「頑張れ」とか「すぐに助けるぞ」などの声が聞こえてくる。少しずつ身体を押さえていた重みが無くなっていき、やがてふわりと抱き上げられたところでようやくルインは目を開いた。

 視界の先には鎧を身に着けた見知らぬ中年の男性が気遣わしげにこちらを見下ろしている。

「待っていろ坊主。すぐに医者の所に連れて行ってやる——撤収だ!」

 壊れものを扱うかのように優しくルインを抱きあげている男性はそのままゆっくりと斜面を登ろうとする中、その時になってようやく気がついた。


 ルミアは——姉はどこに行った?


 大人たちはルインの事ばかり気にして姉のことは一度も口にすらしていない。もしかしたらまだ姉は見つかっていないのかもしれない。

「お姉ちゃん……お姉ちゃんがまだいる。お姉ちゃんを助けて……」

 弱々しくではあるがルインは必死に姉を探すように訴える。このままではルミアを置いたままこの場を離れてしまう。

「……」

 すぐに周囲を捜索してくれるものだと思っていたが、大人たちの反応はルインが思っていたものとは違った。全員が顔を見合わせ、やがて何かを堪えるかのように辛そうな表情をルインへと向けた。

「早く……お姉ちゃんを——」

「坊主。落ち着いて聞いてくれ」

 ルインを抱きかかえている男性はルインの言葉を遮るように口を開いた。

「見つかった子供は坊主だけだ。お前さんの近くには瓦礫以外には何も無かったし……坊主の言う姉は——少なくともここにはいない」

 ルインは男性の言葉を理解できなかった。ルミアがいない?そんなはずはない。意識を失う直前までたしかにルミアはルインの傍にいた。抱きしめられた時の苦しさも全身を包み込む温もりもしっかり覚えている。少なくともあれが夢でないとルインは断言できる。

 ルミアを求めるかのようにルインはルミアが触れた自身の頬をおもわず撫で——そして気づいた。

「……え?」

 頬に触れた自分の指先が赤く染まっている。指先に付いている〝ソレ〟は僅かに乾き始めているところもあるが、その赤が何なのかは見間違えようがない。

 ぎこちなくルインは自分の身体を見る。大小様々ではあるが、擦り傷や切り傷はあるものの深刻になるほどの出血はしていない。

 姉との絆を引き裂いたあの獣。自分の前から姿を消した姉と自分のものではない血。つまり、つまりルミアは……。

「あ、ああ……」

 幼いルインの身体が痙攣したかのように震え始める。大人たちが焦ったように何かを言っているが、一つとしてルインの耳に入ることはない。限界まで見開かれた目からはとめどなく涙が溢れ、見開かれた目に映るのは血にまみれた自身の手。

 守る。そう心に決めていたはずなのに……。

「あああああああああぁぁぁぁぁぁ‼」

 言葉にならないルインの慟哭が森に響き渡るのだった。



「それからは特にたいしたことはない。あらゆる手を尽くして騎士になっただけだ」

 東屋に移動した一同は淡々と話すルインの話に息をすることすら忘れたかのように聞き入っていた。あまりにも壮絶なルインの過去を聞かされたサーリャたちに何が言えるだろうか。

 ルインが生き残れたのは偶然が重なった結果だとルインは言う。

 一つは吹き飛ばされた先でルインは上から降ってきた馬車の瓦礫に埋まってしまい姿が隠れていたこと。そしてもう一つが馬車の積荷だ。

馬車に積まれていた農作物が辺りに散らばっていたのでわざわざルインを狙わなくても食料はいくらでも手に入れることができた。そして匂いの強い染料の入った瓶が割れたことでルイン自身の匂いが消えてしまい、追うことができなくなった。どれか一つでも欠けていたら結果がどうなっていたかなど分かるはずもない。

 誰もがルインの話に衝撃を受ける中、真っ先に沈黙を破ったのはミランだった。

「ルインが騎士になったのはもしかして……」

「もちろん姉の行方を捜すためではあるが、それだけが理由じゃない。姉——姉さんとの約束を守るためでもある」

 グラスに満たされたワインを飲むことなく軽く揺らしながらルインは静かに答える。

「『俺の力はいずれ大きな助けになる。この力で多くの人を助けてあげなさい。それができると信じている』姉さんはことあるごとにそう言っていた。俺は俺を信じ続けていた姉さんのその言葉だけは違えたくはなかった」

 その言葉でようやくサーリャは腑に落ちた。

 これまでずっと疑問に思っていた。どうしてルインは無詠唱魔法を隠そうとしなかったのだろうかと。

 ルインならば無詠唱魔法が周囲からすれば異質な力だと気づくのは容易だったはず。騎士になるためだとしても普通ならば隠そうとするはずなのにルインは隠すことなくその力を振るった。

 それはひとえにお姉さんとの約束を守りたかったのだというルインの想いがあったのだろう。そして隠さないことで得られるメリットはもう一つある。

 無詠唱で魔法を使える存在はいろいろな意味で目立つ。隠すことなく功績を挙げ続ければ自然と王国中に広くルインの存在が知れ渡ることになる。噂をあえて広めることで探していたのだろう——姉の行方を。

「……笑って構わんぞ」

「えっ?」

 ルインの発言の意味が分からずサーリャは思わず聞き返した。僅かに遠い目をするルインは自嘲気味に笑う。

「これまで俺はお前たちに散々偉そうなことを言ってきたが、その俺がこんなザマだ。多くの命を奪ってきた俺が、たった一人の死すら受け止めきれずにいつまでも過去に囚われているんだ。笑うしかないだろう」

「そんなことはないわ」

 ルインの言葉にかぶせるかのように誰よりも真っ先に反応したのはミランだ。意外そうな顔をするルインにミランは真っ直ぐ正面から見据え、凛とした表情で言葉を紡ぐ。

「ルイン。あなたはお姉さんとの約束を果たすために多くの努力をしてきたわ。私があなたと出会う前と後でも決して楽な道のりではなかった。それでもあなたは約束を守り抜いて多くの人の命を救ってきたことを私は知っているわ。私はそんなあなたを尊敬するわ」

「シオンも笑うことなんてできない」

 ミランに後押しされるかのようにシオンも手を握りしめてルインへと言葉をかける。

「シオンはみんなの敵だった。本当ならこうして一緒にいられないはずなのにみんなはシオンを許してくれた。それだけでも驚きなのにルインはシオンの大切な家族を助けてくれた。そんなこと誰にでもできることじゃない」

「シオン……」

 シオンはどうやらまだそのことを気にしているらしい。何度かサーリャとミランはその件は気にしなくてもいいと言ってはいるが、本人はまだ折り合いがつけられずにいるらしい。

「わたくしも笑うことなどできませんわ。ひとつの約束を守り続けるその意志の強さと覚悟は誰からも否定されるものではありません。師匠はお義姉さまが亡くなられたことを引き摺っていると仰いましたが、師匠の心の中でお義姉さまは今も生きていらっしゃるのです。それを笑うなど誰であろうとわたくしが許しませんわ」

 ルインの過去を聞いたうえでそれを笑う者など一人としていない。いや、どうして笑えようか。

 姉との約束を守るために騎士となり、これまでルインは多くの命を救ってきたのだ。救われた誰もがルインに感謝しているのは間違いない。だからこそ、そのままにしておけないことがある。

 サーリャはルインの手にそっと自分の手を重ねた。今の自分の想いが少しでも伝わるように優しく、それでいてしっかりと。

「ルイン、あなたがこれまで積み重ねてきた努力は素晴らしいことで誇るべきことなのよ。だからそんな言葉で自分自身を傷つけるようなことはしないで」

 もしかしたら先程の発言はルインの胸の内に押し込めていた思いが漏れてしまったのではないだろうか。いつまでも癒えぬ傷に心が悲鳴を上げているのだとしたらルインにはこれ以上傷ついてほしくない。

 過去を知った四人からの言葉がどれだけルインの心に届いたのかはわからない。それでもわずかにルインの表情が柔らかくなったのは気のせいではないはず。

「ねぇ、ルインのお姉さんがどんな人だったのか教えてよ。やっぱりルインと同じで本を読むのが好きだったのかしら?」

「それはわたくしも知りたいですわ!お義姉さまはきっと素敵な方だったのでしょう?」

「そうだな……。姉さんは俺と違ってとにかく動き回るのが好きでよく俺を連れ出していたな。たった一人の家族というのもあるが、いつも理由をつけては俺と一緒にいたがっていたな。あとは——」

 それからしばらくサーリャたちはルミアの話を楽しげに聞いていた。姉の話をするルインの声は心なしか嬉しそうに思えた。



 その日の夜、サーリャは一人眠れずに暗闇の中で天井を眺め続けていた。湖畔にある家は元々独り暮らしを想定していたこともあり、広い間取りとはいえベッドが人数分あるわけではない。

 そのためサーリャたちはリビングに寝袋を広げて全員が並んで眠っている。

 身体を起こして隣を見れば、シオンがミランを抱き枕のように腰に抱きつきながら眠っている。普段あまり甘えることに遠慮がちなシオンの無防備な姿にサーリャは表情を綻ばせる。

(いつもこれぐらい甘えてくれてもいいのにね)

 皆が起きないように静かに月明かりが差し込む窓まで移動したサーリャは外の景色を眺めた。

 窓の外には大きな湖が広がっており、月の光が湖全体を照らすかのように降り注いで、まるで月が目の前にあるかのように輝いている。

 この眺めもルインが試行錯誤を繰り返した結果の果てに生まれたものだろう。家の中にはいくつもの書物が残されており、内容も普段ルインが好みそうな魔法関係ではなく建築や園芸関係ばかり。毎年数日だけとはいえ、この家に訪れた際には勉強をしていたのだと察せられる。

 それでもその努力の結晶であるこの場所を見せたい相手に一度も見せることができないのはどうしようもなく悲しく思えてしまう。

 僅かに表情が曇ってしまったサーリャは気持ちを切り替えるように視線を湖からその先にある丘の上へと変えた。月明かりの中でぼんやりと見える東屋。その建物の間で影が動いた。

「ルイン?」


 こっそりと身なりを整えて丘の上へと向かった先でサーリャが見たのはやはり見間違いではなかった。月明かりの下でルインは何をするわけでもなく、ただ座って月を見上げていた。

「サーリャか。こんな時間まで起きているなんてどうしたんだ?」

 ルインはこの時になってようやくサーリャに気がついたようで、僅かに驚いたような表情でサーリャを見た。

「それはこっちのセリフよ。ルインこそこんな時間にここで何をしていたのよ」

「俺か?俺はただここで月を見ていただけだ」

「それならせっかくここまで来たんだから、私も少しだけ同席させてもらおうかしら」

 ルインの隣に腰かけ、二人は並んで同じように月を見上げる。同じ月のはずなのに王都で見るよりもはるかに美しく、心奪われたかのようにサーリャは見続ける。陰りの無い丸い月を見る間は互いに何も話さない。

 少し冷たい風が二人のいる空間を吹き抜ける中、不意にルインが口を開いた。

「ここに来て、こうして月を見上げるたびにどうしても考えてしまう」

 独り言を口にするかのように話すルインにサーリャは相槌を返すことなく、ただルインの言葉に耳を傾ける。

「あの日、俺は姉さんの為に何かできたんじゃないかと……俺が無様に気を失わなければ姉さんが助かる可能性が残っていたんじゃないかと、そう思わずにはいられない。——もちろんただのガキでしかない俺にできることなどたかが知れているだろう。だが……」

 言葉を一旦途切れさせたルインは月から視線を外し、サーリャがこれまで見たことも無いほどの悲しげな表情を浮かべながら僅かに俯く。

「せめて姉さんの最期の言葉だけは聞きたかった。恨み言や罵倒でも感謝でも何でもいい。姉さんが何を言いたかったのか知ることができなかったのが心残りで……今でもあの瞬間が夢に出てくる。最後まで見届けることができずに気を失った自分自身がどうしても許すことができない」

「ルイン……」

「……少し話しすぎたな。あまり夜風に当たるのは良くない。戻るぞ」

 そう言って立ち上がったルインはサーリャを待たずに先に家へ向かって歩き出してしまった。ゆっくりとした足取りで丘を下りていくルインの背中を見ながらサーリャは一人思う。

 ルインはこれまでルミアとの約束を守るために動いて来た。姉の生存を信じ、そのうえで騎士として各地を巡っていたのは間違いない。それがルインの生きる理由だったのだろう。

 しかし今は騎士としての資格を剝奪され、その命を国から狙われたルインは人間社会から隔絶された土地でたった一人暮らしている。きっと姉の墓参りでこの場所を訪れる以外では外に出ることは今後も無いのだろう。

 唯一の家族を失い、姉との約束すら守ることも叶わなくなったルイン。それでは——。

(ルイン……今のあなたは何を糧に生きているの?)



 湖畔の家での滞在は三日だけだった。滞在中は家の大掃除や土地全体の雑草取り、ルインが持ち込んだ新しい花の種を植えたりなどこれまでルインが一人で進めていた作業を全員で分担してこなす日々だった。

 湖をあとにする時には全員が墓標の前に並んで祈りを捧げ、静かに馬車を出した。

 やるべきことを終えた馬車はそのまま王都へ戻った——わけではなく、ゆっくりと王都とは別方向へと馬車を走らせていた。

 整備された街道を進む中、荷台で寝転がっていたルインはアイマスク代わりに乗せていた本をわずかに持ち上げた。

「なぁ、用事はもう済んだんだから、俺はさっさと家に帰りたいんだが?」

「ダメよ。せっかく皆で遠出しているんだからもうちょっと楽しみましょうよ。ルインだってあの家にずっと引きこもってばかりじゃ身体に良くないわ。このままだとルインがボールみたいに丸くなっちゃう」

「そうですわ!せっかく師匠とのデートなのですから、もう少しわたくしも一緒にいたいですわ」

「……これってデートって言えるのかしら?」

「みんなでデート。楽しいことは皆で楽しむのにシオンは賛成」

 楽しげな女性陣からの言葉に味方は一人もいないと悟ったルインは面倒そうに眉を顰めるが、特に何かを言い返すことも無く再び本を顔にかぶせてしまった。

 湖畔の家を出発してからサーリャたちは周辺の村々の視察ということで各地を巡っている。あくまでも建前上なので、実際サーリャたちは行く先々の村や街で食事を楽しんだり観光名所を巡ったりとただの息抜き旅行となっている。

 馬車でのんびりと移動しながら道中で遭遇した魔獣を狩り、それらの素材や魔核を売ることで旅費の足しにしている。過剰戦力とも言えるメンバーなので、魔獣の数を減らすどころか周辺を狩り尽くす勢いなので毎回買い取ってもらうのが相当な量になる。

 そんな中、サーリャとマリアナの戦闘を何度か見守ってきたミランは困ったような表情を浮かべた。

「それにしても、あなたたち二人は本当に連携がうまくいかないわね。二人が協力すればそこら辺の魔獣なんて相手にもならないんだから、もう少し歩み寄るぐらいはした方がいいわよ」

「そんなこと言ってもミラン様、後ろから遠慮なしにポンポンと攻撃魔法を撃ち込んでくる相手にどう連携をとれと言うんですか?私ではなくマリアナ様がその辺りをもう少し考えてほしいです」

「あら、何を言っているんですの?」

 サーリャからの不満を当のマリアナは反省の色を一切見せることなく緩んだ髪のリボンを結び直していた。

「わたくしはちゃんと自分の仕事はしていますわ。あなたはわたくしの魔法を警戒しているようですが、これまであなたに害が出るようなことはしていません」

「だからって私のいる場所に撃ち込まなくてもいいでしょう」

 確かにマリアナの言う通り、サーリャを巻き込むような魔法は撃たれてはいない。撃たれてはいないのだが、その代わりにこちらがヒヤッとするほどの近さで魔法が通過していくのは何度経験しても生きた心地がしない。

 あまりにも近くを通過するので反射的に背後に向けて防御魔法を展開させたのは一度や二度ではない。

「まったくあなたは心配性ですわね——あら?」

 やや呆れ顔になっていたマリアナだったが、不意に何かに気づいたかのように顔を上げ、馬車の外へと意識を向けた。異常に気づいたのはマリアナだけでない。馬車にいる誰もが異変に気がつき緩んでいた空気が張り詰める。

 風に乗ってどこからか悲鳴が馬車へと届けられた。声からして女性の声だ。

「……方向からして街道の先ね。サーリャ、近くまで移動するからあなたは先行しなさい。馬車を安全な所に停めたら私たちもあとから向かうわ」

「わかりました」

 ミランが手綱を一振りすると馬車の速度が上がり、悲鳴が聞こえてくる方へと急行する。先程までの快適さとはうって変わり、ガタガタと揺れる荷台の中で各々が自分の装備をチェックしている様子を相変わらず寝ころんだままのルインは「騒がしいな」と本を少しだけずらしただけで動こうとはしない。

「見えたわよ」

 ミランの言葉に御者台へと顔を出したサーリャは前方へと目を凝らす。遥か先に馬車らしきものが見えるが、よく見るとわずかに傾いている。馬車は見えるがその他は小さすぎて今はよく見えない。

「行きます!」

 サーリャはそう言うや否や御者台から大きく前方へと飛び上がった。風魔法の力を借りて本来では到達できない高さまで飛び上がったサーリャはスカートをひらめかせながら状況を空から睥睨する。

(いた!)

 馬車の近くに二人ほど座り込んでおり、そんな二人を取り囲むかのように人の身長ほどもあるトカゲが五、六体ほど集まっていた。追い詰めた得物を逃がさないようにとじりじりと近づきながらその包囲網を狭めていく。

 サーリャは自由落下に変わりつつある自身の態勢を整えると、圧縮した空気の塊を背後へと開放する。砲弾のように加速したサーリャは一直線に馬車へと向かった。

 サーリャが馬車へと駆けつけたのはギリギリのタイミングだった。怯える二人に襲い掛かろうと一匹が飛び掛かったところでサーリャが飛来し、勢いのまま剣で串刺しにすると二人から無理矢理引き剥がす。大きく剣を振った勢いで串刺しにされたトカゲが剣から抜け、その亡骸が別の個体の方へと飛んでいき勢いよくぶつかる。

「ルイリアス王国騎士です。助けに来ました。お二人ともお怪我はありませんか?」

「は、はい!私たちは大丈夫です」

 背後を振り返ることなく自身の身元を明かすと若い女性の声が返ってきた。声からして深刻な怪我などは無さそうだ。

 仲間が討たれたことで周囲のトカゲの注目が自分へと変わったのを確認したサーリャは幸いとばかりにすぐさま殲滅するために駆け出す。

 トカゲの舌がまるで鞭のようにサーリャへと伸びてくるが、サーリャはすかさず剣で斬り落とす。


 魔獣ではないただの獣にさほど時間はかからなかった。

「ふぅ。こんなところね」

 軽く剣を振り刀身に纏わせていた魔力と血を飛ばしたサーリャは周囲に危険が無いことを確認すると馬車へと戻り始める。

 生存者二人の内一人は先程サーリャと会話を交わした女性で、教会のシスターなのだろうかゆったりとした白い神官服に身を包み、頭にも白いベールで覆われている。

 そんな彼女は傍らにいる子供は幼い男の子で、シオンと同年代かもしくは少し年下ぐらいだ。女性は幼い男の子の様子を心配そうに見ていたが、サーリャが戻ってくるのに気がつくと立ち上がって深々と頭を下げた。

「このたびは助けてくださりありがとうございます。貴女様が来てくださらなければ私たちはここで命を落としていました」

 まるで聞く者の心を包み込むかのような優しげな声だ。

「間に合って良かったです。先程名乗りましたが、ルイリアス王国騎士のサーリャ・ブロリアスです。もうすぐ仲間もここに到着しますので安心してください」

「それはそれは。なんと私たちは幸運なのでしょう。——ほら、アレン君。騎士の皆様が助けてくださるようですよ。もう不安がることはないですよ」

「お、俺だって武器があればあんなトカゲくらい一人で倒せるんだからな。本当なんだからな!」

 アレンと呼ばれた男の子は虚勢を張りながら立ち上がるが、声は震えているし足元もふらついていておぼつかない。まったく言葉と噛み合ってはいないが、彼なりのプライドがあるのだろう。

 少し微笑ましい気持ちになりながらもそれを口には出さずにサーリャは二人の後ろで傾いている馬車の状態を確認した。

「……馬車はもう使えそうにありませんね。お二人の怪我の治療もありますし私たちの馬車で目的地までお送りしますね」

「なにからなにまで本当にありがとうございます。——きゃっ!」

 馬車の荷物を運び出そうとしたところで三人のいる場所に一陣の風が吹き込んできた。サーリャは咄嗟に手で髪を押さえたが、女性は押さえるのが僅かに遅れベールが風で飛ばされてしまった。

 小さな悲鳴と共にベールが飛ばされたことで彼女の隠れていた髪があらわになり、彼女の姿がはっきりと見えるとサーリャは思わず目を見開いた。

 艶やかな長い黒髪がふわりと風で舞い上がり、細めていた目がゆっくりと開き、澄んだような青い瞳がはっきりと見える。

 性格も印象も比べてみれば正反対。それでもその黒髪と青い瞳を持つ彼女はサーリャがよく知る人物と面影が重なって見えた。

「サーリャ、大丈夫かしら?」

「彼女がそこら辺の相手に後れを取ることなんて無いでしょう。わたくしが代わりに行っても同じ結果になるはずですわ」

 驚きでサーリャが固まっている内に二人の背後からゆっくりとミランたちが歩いてくるのが見え、一番後ろには面倒くさそうにルインもいる。

 歩いてくるミランに気がついた神官服の彼女が背後を振り返り、彼女の素顔を見るとミランたちもサーリャと同じように驚きの表情でその場で立ち尽くしてしまった。

 そしてルインは信じられないものを——ありえない存在を見るかのように目を見開き彼女を凝視している。

 声が聞こえたわけではない。それでも唇の動きからルインが何を口にしたのかサーリャは理解できてしまった。

「……姉さん?」



「あらためて助けていただきありがとうございます。私はミリアンヌ。ナーミア神を主神とするナーミア教のシスターを務めております。こちらにいるのはアレン。孤児院で暮らす子供たちの一人です」

「……アレンだ」

 馬車の中で丁寧に挨拶をするミリアンヌに対してアレンと呼ばれた少年はこちらを警戒しているように険しい目を向けてくるが、ミリアンヌに促されたことで渋々といった感じで名乗った。

「ナーミア教のシスターでしたか。私は一応この隊のリーダーを務めているミランと申します。彼女はシオン。そして——」

「ルイリアス王国第一王女のマリアナ・ヘルオンスですわ」

「これは!王女殿下とは知らずにご無礼を!」

 まさか馬車の中で一般人のように振舞っていた相手が王女だとわかると慌てて平服しようとするミリアンヌだったが、それをマリアナは手で制した。

「そのようなことはしなくても結構ですわ。ここでは私とあなたは対等な立場であり、わたくしもそれを望んでいます。今あなたの目の前にいるのはただのマリアナですわ。それで?お二人はどうしてあんな事態になっていましたの?」

「はい。実は……」

 ミリアンヌはゆっくりとこれまでのことを語りだした。

 ミリアンヌは同じ教会で働く司教の頼みで隣町へ向かった帰りだったそうだ。用事を終えて何事も無く無事に村へと戻れると思っていた矢先、突如として森の中から襲撃を受けてしまったことであの状況に陥ったみたいだ。アレンは元々連れて行くつもりは無かったのだが、どうしても同行したいと聞かなかったので仕方なく一緒に向かうことにしたらしい。

 逃げるにしても最初の襲撃の際に馬車の車軸は折れてしまってその場を離れることができず、馬車を放棄して逃げるにしても幼いアレンを連れていてはいずれ追い付かれてしまう。

 どうするべきか悩んでいる内に取り囲まれ、絶体絶命になってしまったところでサーリャが駆けつけたということになる。

 ミリアンヌの話を聞くサーリャたちだったが、全員の意識はちらちらと別の方向へと向いていた。かくいうサーリャも話を聞き流しているわけではないが、どうしても視線が別の方向へ向いてしまうのを止めることができなかった。

 視線の先では荷台の端にもたれかけ、終始外の景色を眺めているルインがいる。ミリアンヌとアレンが馬車に乗り込んでからは目を合わせることも話しかけることもせずに二人から距離をとっている。

(本当に似ているわね)

 こうしてあらためて二人を見比べると似ている。二人が並んで姉弟だと言われれば誰もが納得できるほどだ。

 ルインの過去を聞いた後では彼女がルインの姉なのではないかと誰もが思っているはずなのだが、それを口にすることを誰もが躊躇っている。

 先程彼女は自分のことをルミアではなくミリアンヌと名乗った。ルインを目にしてもミリアンヌは特に反応は見せず、初対面であるサーリャたちと同じような態度だった。……他人の空似なのだろうか?

「ねぇ。そこにいるあなたも少しお話をしませんか?」

 サーリャたちの間で緊張感が増し、固唾を飲んで状況を見守る。話しかけられたルインは横目でチラリとミリアンヌの顔を見た。ミリアンヌはすべてを包み込むかのような優しげな表情でルインを見ている。数秒ほど彼女の微笑みを見ていたルインだったが、再び視線は馬車の外へと向いてしまった。

「話すことなど何もない。俺はそいつらと違ってただの一般人だ」

「あら。お話をすることに肩書きなど必要ないでしょう。しばらく一緒にいるのですから、せめてお名前だけでも教えていただけませんか?」

 突き放すようなルインの言葉にミリアンヌは気分を害することなくルインと関わろうとする。

 しばらくルインは無言を貫いていたが、ミリアンヌからの視線に耐えられなくなったのか最後はルインが根負けする形となった。

「……ルインだ」

「ルインさんですね。短い間になるとは思いますけどよろしくお願いしますね」

 ルインの名前を聞いてもミリアンヌは何の反応も見せなかった。おおよそ家族に対して向ける反応ではないことにサーリャの胸がチクリと痛む。

「あの、ミリアンヌさんはルミアという名前に心当たりはありませんか?」

「サーリャ!」

「だって!」

 だからこそ少しでもとサーリャはルミアの名前を出したのだが、名前を出した途端強い口調でルインがこちらを睨みつけてきた。その目には「余計なことを言うな」という意思がはっきりと表れている。

(ルインはお姉さんの手がかりを知りたくはないの⁉)

 ルインとの間で険悪な空気が漂う中、二人の間に挟まれている形のミリアンヌは気づいていないのか、それともあえて気づかないふりをしているのか二人のやり取りをそのままにして思案顔になる。

「すみませんがルミアさんという方に覚えはありませんね。その方を探されているのでしたら教会に戻れば何かわかるかもしれません。戻ったら司教様に確認してみますね」

「はい……ありがとうございます」

 申し訳なさそうにするミリアンヌだったが、サーリャも同様に肩を落とす。

「その必要は無い」

「え?」

 ミリアンヌやサーリャがルインへと視線を向けると、ルインはサーリャを睨むのを止めて再び視線を馬車の外へと戻しており、はっきりとミリアンヌの提案を拒絶した。

「今更調べても……答えなどすでに出ている」

 淡々としたその言葉はまるで自分に言い聞かせているかのような響きがあった。

 馬車の中にいる全員がさまざまな感情を抱く中、話に関わらずミリアンヌにピッタリとくっつくぐらいの場所で座っていたアレンは誰にも気づかれないまま静かにルインを睨みつけているのだった。



 ルインのミリアンヌ。二人の関係がはっきりしないままであったがそれを除けば特に問題なく順調に旅は進んでいた。魔獣の遭遇は何度かあったが、それも短時間で殲滅できてしまうのでミリアンヌたちと出会う前と変わらない。それどころかミリアンヌたちに余計な不安を持たせないために迅速に処理するので、いつも以上に早く終わるぐらいだ。心なしか魔獣と遭遇する頻度が多いような気がするが、特に周囲に異変は無いのでたまたまなのだろう。

「ルイン。聞きたいことがある」

「どうした?」

 小休憩の為に馬車を止めてミリアンヌとアレンが外に出た時を狙ってシオンが少し声を落としてルインへ話しかけていた。サーリャは馬車の車軸に絡みついた草を取り、異常がないかを確認しながら耳を傾ける。

「ルインはどうしてあの人にお姉さんの話をしないの?もしかしたらルインのお姉さんかもしれないよ?」

 誰もが一度は考えていたことをシオンは遠慮することなくルインへと尋ねる。サーリャもその件に関しては気になっていたのだが、ルインの過去に関することなのでどうしても立ち入りづらい。

「そのことか。それは俺の中ではもう終わったことだ」

「どうして?」

「まず初めに姉さんはこの辺りの出身ではない。俺たちが住んでいた場所はさすがに言えんが、あの家があった場所に住んでいたわけではない。昔から暮らしているというのであればそれは姉さんとは別人なのだと判断できる。それにな——」

 ルインはそこで一旦言葉を切り、僅かだが躊躇うような沈黙があった。

「仮に——万が一あの人が姉さんだったとしても今はあの時の悲惨な記憶を持たずに充実した毎日を送っているんだ。あんな過去を持たずに生きてけるのならばそれに越したことはない。思い出さないことが最善の場合だってあるんだ」

「……そう」

「……」

 シオンは短く反応を示すだけでそれ以上は何も言うことはなかった。馬車の外で聞いていたサーリャもシオンと同じように黙っていることしかできなかった。



 まだ目的の村は見えてはいないがあともう少し進めば辿り着くというところで馬車は川のほとりで少し長めの休憩を取っていた。火の後始末をしていたサーリャだったが、そんなサーリャの耳に突然怒声が聞こえてきた。

「恥ずかしくねえのかよ!」

 アレンの声だ。何事なのかと駆けつけてみれば同じように怒声を聞きつけた全員が集まっており、怒声を発したアレンは相当感情が高ぶっているのか肩を大きく上下させている。

アレンの怒りの矛先を向けられていたのはなんとルインだった。ルインは折り畳み式の簡易テーブルを持つ態勢のまま横目でアレンを見ている。

「ちょっと何事ですの?」

「アレン君落ち着いて。いきなりどうしたの?」

 マリアナやミリアンヌがその場をなだめようとするが、誰もこうなった経緯を知らないようで状況が分からないまま首を傾げていた。

 アレンに関してはかなり興奮しているようで、ミリアンヌが傍に付いていなければ今にも飛び掛かりそうな勢いだ。少なくともアレンとルインの接点はほとんどなかったはず。それなのにどうしてこんなことになってしまっているのか。ミランがルインへと近づいていく。

「ルインこれは一体どういうことなの?説明してちょうだい」

「説明と言われてもな。そいつが一方的に突っかかって来ただけで俺は何もしていないぞ。この通り俺は片付けをしていただけだ」

 そう言ってルインは見せつけるように持っていたテーブルをわずかに持ち上げてみせる。たしかにルインの言う通り周囲には椅子や食器の類が並べられており、直前まで作業をしていたことがうかがえる。

 ならばこの騒動のきっかけは何なのか?

「お前男だろう。なんで外に狩りをしに行かないんだ!ずっと馬車の中で本ばかり読んで手伝おうともしない。女に守られてばかりで恥ずかしくないのか!」

「だから言っているだろう。俺はただの一般人だ。俺が行かなくてもここには騎士がいるんだ。そういうのはそいつらに任せておけばいいし、そもそもそんなことをしろと頼まれてもいない」

「頼まれなければお前は何もしないのか!」

 アレンが更に反論する中ルインは周囲にいる全員を見渡し、「どうだ?」と言わんばかりの表情で肩を竦めてみせる。僅かにうんざりした様子から、一度だけではなく何度も同じ問答を繰り返していたのだろう。

「あ~。なるほど。理解したわ」

「まぁ彼の言いたいことは分からなくはありませんが、認識にズレがありますわね。騎士としての役割を説明した方がいいのではなくて?」

「皆さんお騒がせしてすみません。アレン君には私からよく言っておきますので……」

 ミランたちが納得顔になる中、ミリアンヌは申し訳なさそうにぺこぺこと頭を下げている。

「アレン君。たしかにルインは男の人だけど、別に男の人だから戦わないといけないなんてことはないのよ。私たちは騎士として皆を守ることが仕事なのだから気にしなくてもいいの」

 目線を合わせるようにミランはアレンの前でしゃがむと騎士についてできるだけわかりやすく説明する。しかしそんなミランの説明にもアレンは納得しなかったようで、機嫌が悪いままだ。

「騎士じゃなくても戦えるはずだ。初めから後ろで守られるだけなんて臆病者がすることだ!あいつは最初から動こうともしていないじゃないか」

 思っていたよりもアレンの認識が変な方向に凝り固まっている。ミランやマリアナもどうしたものかと顔を見合わせて困り顔になっている。

(別に男の人だけが騎士になるわけじゃないんだけどな~)

 サーリャを含めてこの場にいる女性の半分が騎士だ。魔法による補助もあって今では男女での力関係にはほとんど差は生まれない。それによって現在騎士として在籍している者の半分近くが女性だ。

 毎年多くの者が騎士を目指すために騎士学校へと入学してくるが、卒業して騎士の資格を手にするのはその数の三分の一にも満たない。

 理由は様々だが、圧倒的に多いのが騎士になるという気持ちが折れてしまうことだ。「毎日の過酷とも言える訓練に耐えられなくなる」「周囲の実力の高さに追いつけなくなる」「魔法と武器の両方を扱うのが困難である」など挙げ始めればきりがない。

 腕っぷしに自信のある平民や家督を継ぐことのできない貴族家の次男次女や興味本位・自身の箔付けの為に入学してくる者が多いが、中途半端な覚悟しか持たない者はほとんど脱落する。

 その辺りをアレンに説明しても今の彼では理解し納得するのは難しそうだ。

「つまりお前は俺のように後ろで守られているような男は全員武器を持って戦え——そう言いたいんだな?」

「そうだ。武器を持って立ち向かうことは誰にだってできる!」

「そして罪もない人間が次々と無意味に死んでいくのも当然だと——そう言いたいんだな?」

「えっ……」

 これまで怒りの感情で暴走気味だったアレンだったが、自然な流れで発せられたルインの言葉を理解できなかったのかアレンは気の抜けたような声を漏らした。

 そんなアレンを一瞥したルインは中断していた片付けを再開するためにテーブルのパーツを取り外し始める。

「確かにお前の言う通り、武器を持つだけならば誰にでもできる。そこらにいる子供にでもそれぐらいはできるだろう。だが武器の扱いは?どんな立ち回りをすればいい?相手の情報は?騎士ならば当然習得しているはずの内容だが、ただの一般人がそれを知っていると思っているのか?そんな状態で相手に突っ込んでいけば屍の山がいくらでもできるだろうな」

 淡々と話すルインの話にアレンだけでなく、その場にいる全員が黙って耳を傾ける。パーツを外し終えたルインはじろりとアレンに冷たい視線を向ける。

「そんな屍の山の前でそいつらの友人や家族が悲しんでいる中お前はこう言うのだろう?『こいつらは当然のことをした。死んでしまったが臆病者と呼ばれないだけマシだ』と。随分とお前は人の命を軽く見ているんだな。お前にとって他人の命はいくらでも替えの利く消耗品と同じ扱いなのか?」

「ち、ちが……俺は、そんなつもりじゃ」

 さっきまでの怒りが嘘のように消え去り、逆に青褪めているアレンにルインはさらに言葉をぶつける。

「違わないだろう。さっきからお前が声高に騒いでいるのはそういうことだ。逃げることは許さず、わけもわからないまま死ぬかもしれない相手に立ち向かえと。そんな言葉をお前以外の誰が聞き入れると思うんだ」

 子供であるアレンに向けるにはあまりにも厳しい言葉。しかしサーリャだけでなくミランやマリアナも誰一人として口を挟むことなくルインに言わせるままにしている。

 厳しいことではあるがルインの言っていることは決して間違っているわけではなく、今のアレンにはそれぐらいの言葉を投げかけなければ届かないと誰もが理解しているから。

 話は今度こそ終わりと言わんばかりにルインは畳んだテーブルや椅子を持って馬車の方へと歩き去ってしまった。そんなルインにアレンは何かを言うわけでもなく僅かに俯くだけだった。

 そんな中、ミリアンヌは歩き去って行くルインの背中をじっと見続けていた。



 ミリアンヌとアレンが暮らす村に到着したのは夕方に差し掛かるぐらいの時間だった。村の中に見知らぬ馬車が入ってくると村で暮らす人々は僅かに警戒するような眼差しで遠巻きに様子を窺っている。

 ミリアンヌに案内されるまま村の奥へと馬車を進めると、大きくはないが教会が見えてきた。あれがミリアンヌの職場なのだろう。

 馬車を止めると同時に教会の扉がゆっくりと開き、ミリアンヌと同じく神官服に身を包んだ一人の老人が姿を現した。

「司教様。ただ今戻りました」

 馬車を下りたミリアンヌは老人に駆け寄り優しく抱擁を交わした。

「おお、ミリアンヌ戻ったのだね。無事に戻ってきてくれたのは喜ぶべきことなのだが、わしが最後に見た時と少し様子が変わっているようだね。見たところお客様もいるようだが?」

「そのことで司教様に話さないといけないことがあります。少しお時間をいただくことはできますでしょうか?」

「もちろんだとも。ご挨拶が遅れましたが、わしはこの教会で司教を務めておりますゴドウィンと申します。さぁ、どうぞこちらへ」

 二人に促される形で教会の中へと案内されたサーリャたちはこれまでにあったことを説明した。村に戻る途中で突如襲われ身動きが取れなくなっていたところにサーリャたちが駆けつけ大事には至らず、二人を救った後ここまで護衛を兼ねて送り届けに来たのだと。

 話を聞き終えたゴドウィンは二人が無事だったことにホッと胸を撫で下ろし、一人一人に頭を下げて何度も感謝をされた。泊るところが決まっていないと知ると是非泊って行ってくれと逆にお願いされてしまい、ありがたくその申し出を受けることになった。

 教会に泊まることになったサーリャたちはミリアンヌに案内される形で教会に隣接した建物へと訪れた。

「あっお姉ちゃんだ。おかえりなさい」

 室内には何人かの子供たちが自由に過ごしていたが、ミリアンヌの姿を見ると全員にぱっと笑顔があふれる。見たところシオンと年頃は近い。

「こちらは教会が運営する孤児院になっています。教会が運営しているとは言っていますが、さすがに手が足りていませんので、村の皆さんにも手伝ってもらっています。——みんな、しばらくの間一緒に生活するお客様だから失礼が無いようにね」

「「はーい!」」

 元気よく返事をする子供たちの姿にサーリャやミランたちは優しげに微笑む。

「子供たちから慕われているんですね」

「毎日の務めがあってずっとそばにいることはできませんが、可能な限りは時間を作るようにしています。こうして子供たちが笑って暮らしていることが嬉しいですね」

「素晴らしい姿勢ですわ。これから少しの間お世話になるのですから、わたくしたちもできる限り皆さんのお手伝いをさせていただきますわ」

 サーリャたちが話す中、アレンも子供たちの輪に加わっているが、ずっと馬車の旅についてあれこれ質問攻めにあって僅かに表情が引き攣っているが、それでもどれだけ楽しい旅だったのかを自慢するように子供たちに話している。

「よーし!今日はお姉ちゃんが美味しいご飯を作ってあげるわ。みんな楽しみにしていてね」

 気合を入れて腕まくりをしたサーリャはキッチンへと向かうのだった。


 その日の夜、ミリアンヌはゴドウィンの私室へと訪れていた。

「夕方にも言ったことだが、無事に帰って来てくれて本当に安心しましたよ」

「ご心配をおかけしました。私もアレンもこの通り無事に司教様と再会を果たすことができました。これもナーミア神のご加護のおかげです」

 蝋燭の灯に照らされ暖かな光の中二人は信仰する神に感謝の祈りを捧げながら今日の出来事を話していた。

「それで?何か変化はあったかい?」

 ゴドウィンが何を言いたいのか察したミリアンヌは静かに首を横に振った。

「いえ。今回も変化はありませんでした」

「そうか。だが、きっと良い方向に向かうはずだ。気落ちせずに前を向いて進み続けなさい」

「はい」

 ミリアンヌは努めて明るく振舞うのだった。



 翌朝の早朝。空が明るくなり始める時間帯にミリアンヌはいつもの神官服に身を包み、教会のすぐ傍にある井戸で一人水を汲んでいた。早朝ということもあり寒さが身に染みる中、ミリアンヌは黙々と水を汲んでは用意した水桶に井戸水を注いでいく。

 毎日の仕事で慣れているとはいえ、重労働なのには変わりない。ゴドウィンとミリアンヌの二人だけならばそれほど水を使うことはないが、子供たちの分も考えるとそれなりに量が必要となり一回では足りなくなる。夕方前にはもう一度汲む必要がある。

「よいしょ……よいしょ——あっ!」

 あともう少しで引っ張り上げられるというところでミリアンヌは少し油断してしまい、うっかり水汲み用の桶に繋がれていたロープを手放してしまった。水が満たされている桶が井戸の底へと落ちていく。

「あ~。やっちゃったな」

 井戸を覗き込みながらミリアンヌは僅かに疲れと落胆が混じった表情を見せながらひとりごちた。

 幸いにもロープは繋がれたままなので再び引き上げることはできるが、あともう少しというところで初めからやり直しになってしまったのはしんどい。

 仕方なくもう一度汲み直そうとロープを手にしようとしたミリアンヌだったが、その前に横から伸びてきた手がロープを手に取った。

 こんな朝早くに誰だろう。そう思いながら振り返ると、いつの間に起きて来たのかルインがミリアンヌの傍に立っていた。

「あら。ルインさんおはようございます。お早いですね」

「……おはよう。ここからは俺が代わりにやるから少し休んでいろ」

「そんな⁉これは私の仕事ですからルインさんがやっていただく必要はありません。毎日のことですから私は慣れています」

 自分の代わりに水汲みを始めたルインの姿を見てミリアンヌは慌てて仕事を代ろうとする。客人であるルインにこんな朝早くから重労働をさせるのは気が引けてしまう。

 しかしルインはロープを手放そうとしない。

「気にするな。泊めてもらっている身だからこれぐらいの労働などたいしたことではない。朝の運動にはちょうどいいくらいだから、気にせず休んでいればいい」

「……わかりました。それではお言葉に甘えさせてもらいます」

 ミリアンヌは僅かに微笑みながら近くに腰かけ、ルインの作業を見守る。しばらく黙って井戸水を汲んでいたルインだったが、唐突に口を開いた。

「水汲みなど別にあんたが一人でやる必要は無いだろう。孤児院の子供たちなら頼めばできる奴はやってくれるはずだと思うが?たしかアレンとか言ったか?あいつなら喜んで引き受けそうなものだが」

「いくらアレン君であっても一人では井戸水を汲み上げるには力不足だと思います。何人かで引き上げるのであれば可能かもしれませんが、万が一井戸の中に落ちてしまったら大変です。誤って落ちていないか気になってお務めどころではなくなってしまいますよ」

 目の前にある井戸は蓋がされているわけではなく開けっ放しになっている。身を乗り出したりして冷たい井戸水の中に落ちてしまえば大事だ。だからこそミリアンヌは孤児院の子供たちに井戸には決して近づかないようにと口を酸っぱくして言い聞かせている。

「みんないい子たちなので、手伝うと言ってくれることは嬉しいのですけどね……」

 嬉しさを滲ませながらもミリアンヌは悲しげに目を細めた。ルインの言った通りこれまでアレンを筆頭に何人かの子供たちが手伝うとは言って来ているのだが、その度にやんわりとミリアンヌが断っている。……気持ちは嬉しいが、子供たちの安全には代えられない。

「つまり危険が無く、楽に水を汲むことができればいいんだな?」

「え?ええ。それはそうですが……何か方法をご存じで?」

 戸惑うミリアンヌの目の前でルインは水を汲むのを中断し、桶を井戸の縁に置くと顎に手を当てて何かを考え始めた。

(いきなりそんな無茶なことを言われて、なんとかできるとは思えないけど……)

 ミリアンヌが見守ることしばし、やがて考えがまとまったのか顎から手を離したルインはミリアンヌへと顔を動かす。

 自分と同じ綺麗な青い目に自分の顔が映り込む。

「少し欲しいものがあるんだが、用意できるか?」



 朝食を済ませたサーリャたちはシオンだけ孤児院に残して全員で村の各地に挨拶回りをしていた。昨日はゴドウィンに事情の説明をするのと、時間が遅かったということもあったので村の人々に挨拶ができていなかった。

 挨拶回りをしていて知ったことだが、この村には数人の騎士が暮らしておりこの村を拠点として活動していた。

 初めはよく知らない余所者が来たことに警戒感を表していた村民だったが、サーリャたちの素性が分かるとその不安は一気に吹き飛び、一転して歓迎ムードとなった。

 村長に紹介される形で村の騎士とも顔合わせをしたのだが、まさか自分たちの村にマリアナとミランが来るとは夢にも思っておらず、目の前の相手が分かるや否や飛び上がるくらいに驚いたのは言うまでもない。

 挨拶回りが終わり教会へと戻る道中、ミランは困ったような顔をした。

「それにしてもルインったら、いったいどこに行ったのかしら?」

「そうですね。用があるとは言っていましたが、詳細は全然教えてくれませんでしたしね」

 普段気分で寝起きを繰り返しているルインが誰よりも早く起床していたことにも驚いたのだが、朝食を終えるとやることがあると言ってこちらの返事も待たずに教会から出て行ってしまった。

「師匠のことですからきっと重要な役目があるはずですわ。言ってくれればわたくしだってお供しましたのに」

「さすがに姫様が挨拶をしないわけにはいきません。それにルインはきっと——って。何かあったのかしら?」

 ミランの言葉につられるように視線を前方へ向ければ、何やら教会辺りが騒がしくなっている。部屋の中で遊んでいたはずの子供たちが全員外に出ており、留守番を任せていたはずのシオンも子供たちに手を引かれてどこかに向かっている。

 何が子供たちの興味を引いたのだろうか。子供たちが外に出ている理由に心当たりが無く全員が顔を見合わせるが、ひとまず子供たちの向かう先へ向かうと辿り着いたのは教会近くに設置されている井戸のある場所だった。

「こんな場所に集まって何を……ってルイン⁉」

 井戸から少し離れた場所で囲むように集まる子供たちの中心にはなんと出掛けたはずのルインが立っており、ミリアンヌもルインの近くで様子を見守っている。

 ルインの足元にはシートが敷かれており、その上には様々な形に削り出された木材のパーツがいくつも並べられている。バラバラになり過ぎているので何に使うのかサーリャには見当もつかない。

 見たことも無いパーツを見ながら今から何が始まるのかと期待を膨らませ騒がしくなっている子供たちを見ながら、サーリャは子供たちの輪の外にいるミリアンヌにそっと近づく。

「ミリアンヌさん、これからなにをするつもりなんですか?」

「それが……実は私も何をするのか聞かされていないのです。とりあえず手伝ってくれそうな子がいたら集めてほしいと言われただけでして」

「ええっ⁉」

 てっきり事情を知っていると思っていたミリアンヌも困惑顔で成り行きを見守っている。準備が整ったのかルインは周囲を見渡す。

「とりあえずこんなもんか……サーリャたちもちょうどいいから少し手伝え」

「手伝うのはいいけどいったい何をするつもりなのよ」

「特に難しいことじゃない。ただの組み立て作業だ。——よく聞け。シートに置いてあるパーツのすべてに番号とマークが書かれているだろう。番号は二つで一組になっているから同じもの同士でパーツを嵌めていけ。わからんかったら周囲に聞けばわかる」

 子供たちは戸惑いながらもシートへと近づいて言われた通りにパーツに書かれた番号を確認していく。

 しばらくするとあちこちで子供たちの楽しそうな声があちこちから挙がるようになり、周囲が賑やかになる。

「次は四番だ!四番はどこだ~!」

「私は十一番よ。誰か持っていない?って男子!そんなにいっぱい持って行かないでよ」

「十番持ってきたよ。これで揃ったね」

 子供たちがパーツを探してきてルインの指示通りにパーツを嵌め込んでいく中サーリャたちは子供たちが持てないようなパーツを支えて手助けしていく。宝探しとパズルを組み合わせたかのような作業に子供たちは新しい遊びを見つけたかのように率先して動き回っている。

 やがてすべてが組み上がると子供たち全員が「なんだこれ」と言いたいような表情になる。

 金属のチェーンが一つの輪のように繋がっており、そのチェーンに子供たちが組み上げた均等間隔で小さな羽根が取り付けられている。

 そこからは自分の仕事だと言わんばかりに魔法で組み上げた物を浮かばせながら井戸へと近づいて作業を進めていく。間近で魔法を目にした子供たちはキラキラとした眼差しでルインの作業を見守っており、昨日のような警戒感は最早無くなっている。

 やがて井戸に新たな装置が取り付けられた。井戸の入口には格子状の蓋が取り付けられ、それまで無かったハンドルが井戸の横に取り付けられる。

「ハンドルを回してもらうが、やってみたい奴はいるか?」

 ルインの言葉に子供たちが全員反応し、次はどんな面白いことがあるのかと我先にハンドルへと殺到する。

 このままではまずいとミリアンヌが慌てて仲裁に入り、誰がハンドルを回すのか急遽じゃんけん大会が開かれるほどだ。やがて羨望の眼差しを一身に集めながら幼い女の子がゆっくりとハンドルを回し始める。

 ハンドルの動きに合わせて井戸の中に吊り下げられたチェーンがゆっくりと回転し始める。やがてチェーンに付けられた羽根に溜まった井戸水が増設された排水口から流れ出てきた。

「「おおー‼」」

 子供だけでなくミランやマリアナも感心したように声を上げる。

 ルインは井戸の中に小型の水車のような装置を取り付け、ハンドルを回せばチェーンに取り付けられた羽根が井戸水を汲み上げ排水口に流すようになっている。滑車を取り付けてあるので幼い子供でも容易に井戸水を汲むことができる。井戸も格子の蓋がされているので転落の危険もない。

「これなら誰でも使うことができるだろう。これから毎日必要な水は自分たちで用意することだな。誰かにやってもらうようなことは少しでも減らしていけ」

「「はーい!」」

 ぶっきらぼうなルインの言葉に子供たちは元気よく返事し、次々と交代しながらハンドルを回し井戸水を汲み上げていく。

「ルインさん、ありがとうございます。これなら子供たちに安心してお願いすることができそうです」

「どういう風の吹き回しよルイン。あなたがわざわざ動くなんて、明日は雷でも降ってくるのかしら?」

「そこそこ失礼な奴だな。サーリャの中で俺はどんな認識なんだ」

「そうですわ。師匠ならこれぐらいのことで驚く必要などありませんわ。あなたは師匠を何だと思っているんですの?」

「いや、だってルインだし」

 確かにサーリャの発言は失礼極まりないが、これまでのルインの態度を知っているサーリャからすればそう思ってしまうのは仕方ない。普段自分の事だけしか考えないルインが自ら率先して他人の為に動くなど考えられないのだ。

「特に深い理由はない。毎日のこととはいえ相当な量になるはずだし、辛そうに見えたからな。少しぐらいは宿代の代わりになればと俺が勝手に動いただけだ」

 相変わらずぶっきらぼうな物言いだが、そんなルインの態度が今はどことなく照れくささを隠しているかのように見え、ミリアンヌとサーリャは顔を見合わせるとおかしそうに笑い、その横でマリアナは誇らしそうに頷いているのだった。

 そんなサーリャたちの様子を遠くから見続けている者がいた。笑顔を見せるミリアンヌとルインを交互に見たアレンは最後にもう一度ルインを見た。アレンの表情には周囲の子供たちのような笑顔は一切浮かんでおらず、どこか暗い光を灯しながらしばらくルインを見続けている。アレンから視線を向けられているミリアンヌとルインは最後までアレンからの視線に気づくことはなかった。



 時は少しだけ遡り、村から遠く離れたとある場所。最近見つけた新たなねぐらで静かに眠りについていたソレはある変化に気がつき意識を浮上させた。

 極めて細くではあったが、自分が意識を繋いでいた駒の反応が突如として消失したのだ。反応が消失することに関しては特に珍しいことではない。弱肉強食の世界で力の無いものや弱いものが淘汰されることは当たり前のこと。

 今回意識を繋いでいた駒はその中でも底辺と呼べるほどの有象無象なのだが、一つ気になることがあった。

 駒の命を狩り取ったのは明らかに牙や爪の類ではない。もっと鋭利な何かによるものだ。そして繋がりが切れる間際、自身へと届いた駒の視覚情報が更に関心を強くする。

 繋がりが細すぎた影響でまともな情報は得られなかったが、輪郭すら曖昧になってしまっている視界には何体かの存在が映っており、その中にどこか見覚えのある存在がいたような気がした。

 アレはいったい何なのだ。

 ソレはゆっくりと体を起こし、繋がりの切れた駒の方向を探るかのように周囲を見渡す。やがてある方向を見据え、わずかに目を細めたソレはゆっくりと移動を開始した。



 数日が過ぎ、一行はまだ村に滞在し続けており、ミリアンヌと共に教会と孤児院の掃除を進めていたサーリャは賑やかな声が聞こえる部屋を見つけ、入口からひょっこりと顔をのぞかせた。

「あら、シオンじゃない。今日も人気者みたいで大変ね……他の子供たちはどこに行ったの?」

 部屋の中ではシオンを中心に何人かの子供たちが集まっており、シオンがやろうとしていることを間近で見ている。中には後ろからシオンに抱きつくかのように身体を密着させている子までいる。随分と懐かれているようだ。

「子供たちの相手はこれまでずっとしていたからこういうことは得意。男の子の何人かはいつものように練習をしている頃だと思う」

 ある程度成長した子供は将来自活できるように定期的に村にいる騎士からサバイバル技術や武器の扱い方を学んでいる。少しでも役に立てるのならばと騎士も快く引き受けているようで、手が空いている時には顔を出している。

 サーリャたちもいつまでも善意に甘え、タダで泊めてもらうわけにはいかないので、ミランは村の騎士に混じって依頼をこなしてマリアナは魔法の基礎を教える先生役を引き受けている。シオンは年少組の子供たちの相手を任されており、机の上にはいくつもの折り紙が広げられている。

 サーリャはミリアンヌと一緒に食事の用意や掃除など教会と孤児院の管理を手伝っている。

 アレンも武器の扱いを学ぶために練習に参加しに行っているが、なんとなく彼に関しては他の子供たちと参加への意欲が違っているように見える。別に怠けているわけはなく、むしろ自ら積極的に参加しているように見える。その姿はどこか鬼気迫るようなものがあり、少し心配になるほどだ。

(何もなければいいんだけど……)

 一抹の不安を感じていたサーリャだったが、その不安を断ち切るかのように教会の方から男の大声が孤児院へと届いた。

「司教様、司教様はいらっしゃいませんか!」

 切羽詰まったような声に何事なのかとサーリャは慌てて孤児院を飛び出し教会へ向かうと、同じように騒ぎを聞きつけたミリアンヌとマリアナが駆けつけてくる。

 教会に到着すると入口の前には数人の村人が集まっており、その中心で座り込んでいる男性の姿を確認するとミリアンヌは小さく悲鳴を上げた。

「酷い怪我じゃないですか!いったい何があったんですか⁉」

 中心にいる男性は右足の脛から血を流しており、破れたズボンが真っ赤に染まっている。

「それが、俺たちゃ畑を広げようと皆で耕していたんだがよぉ、こいつ手元が狂ったみたいで持っていたクワを振り下ろした時に自分の足に当てちまったみたいなんだ」

「司教様は今用事で教会を離れておられます。すぐに手当てしますのでこちらに運んでください」

「わたくしたちも手伝いますわ」

 別室に男性を案内したミリアンヌが治療の道具を用意し、サーリャとマリアナは血を流す足のズボンを引き裂いて傷の具合を確認する。サーリャは傷口の状態を見て僅かに眉を寄せた。

(思っていたよりも傷が深いわね。幸い骨には問題なさそうだけど、出血が酷いからすぐに治療を始めないと)

「ミリアンヌさん、少し傷が深いですわ。通常の処置よりも神聖魔法で治療した方が回復が早くなりますわ」

 神聖魔法。それは通常の魔法とは異なり、神に仕える聖職者のみが使える特殊な魔法になる。神聖魔法は他者を癒す治癒の魔法に特化しており完治とまではいかないが、自然治癒よりも遥かに治りが早くなるとされている。

 サーリャが提案するよりも先にマリアナが即座に状況を把握してミリアンヌへと振り返る。シスターであるミリアンヌならば神聖魔法が使える。

 すぐさま神聖魔法の準備に取り掛かると思っていた二人だったが、ミリアンヌの反応は違った。

「え、ええ……」

 いつまで待ってもリリアンヌは神聖魔法を使おうとはせず、治療の道具を持ったまま男性の怪我を食い入るように見つめている。顔は青褪めており、ゆったりとした神官服に隠れてはいるが僅かにミリアンヌの服が揺れている。

(震えている?)

「あ、あの。俺の足は本当に大丈夫なんですか?」

「くだらない心配をする元気があるなら問題なさそうだな」

「……ルインさん」

 固まったように動かないミリアンヌの様子に不安を感じた男性が泣きそうな顔になる中、いつの間に部屋に入って来たのかサーリャが振り返るとルインが部屋の扉にもたれながら様子を見ていた。孤児院と教会の外をあまりで歩かないため、ルインを知らない村人からは「誰だあいつは?」と胡乱げな目でルインを見ている。

 ルインはそんな村人の反応など眼中にないようで、おもむろに懐に手を入れ何かを取り出すとサーリャへと何かを投げ渡した。

 慌ててキャッチしたサーリャの手の中にはポーションの小瓶がある。

「原液とまではいかないが、ギリギリまで薄めずに調整したものだ。効果はその分高いが、どうなるかはわかるな?」

 ルインの説明にサーリャはそれが何を示しているのか嫌でも理解させられ、おもわず遠い目になりながら心の底から男性に同情した。これを今から彼は飲まないといけないのね……。

「それじゃあ早速ですけれど、これを飲んでもらいましょうか」

「あの、魔法で治していただけるんじゃ……」

「大丈夫です。同じものではありませんが私も飲んだことがあるので効果は保証できます……その後ちょ~~っと大変かもしれませんけど、あなたなら乗り切れますよ」

「いや、そんなことを言われると逆に不安になるのですが……」

 小瓶を手にサーリャがずいっと近づくと男性はその分だけ逃げようとするが、怪我のせいで逃げられず上半身だけ引くことで少しでも距離をとろうとする。

 サーリャは笑顔のままさらに近づく。

「安心してください。別に毒を飲めと言っているわけじゃありませんし、あとで薬代を請求するようなことはありませんので遠慮することはありません」

「いえいえ。時間がかかってもいいのでやっぱり魔法で——」

「ああもう!焦れったいですわね。つべこべ言わずさっさと飲みなさい!」

「んぐ⁉」

 マリアナはサーリャが持つポーションをひったくると、指で蓋を弾きそのまま男性の口に小瓶を突っ込んだ。ビクンと男性が震え、なんとか逃げ出そうともがくがサーリャとマリアナがそれを許さない。

 周囲の村人は王女らしからぬマリアナの行動ともがく男性の姿にドン引きだ。

「ひゃっ!」

 ミリアンヌの小さな悲鳴にサーリャが背後を振り返ると、ルインがミリアンヌを抱き上げていた。突然お姫様抱っこをされたミリアンヌは困惑と羞恥から顔を赤くしながら身体を固くする。

「そっちはもう大丈夫だろう——少し体調が悪そうだな。少し休んだ方がいい。部屋まで俺が運んでやる」

「ルインさん大丈夫ですよ。しばらくすれば元通りになりますから」

「ダメだ」

 ミリアンヌを抱く力が強くなったように見えた。いつになく真剣な表情でルインはミリアンヌを見下ろしている。

「そんな状態で大丈夫と言っている時はたいてい大丈夫じゃないんだ。そんな状態のあんたを俺は放っておくことはできん。——後は頼んだぞ」

 ルインはそう言い残してミリアンヌと部屋を出て行ってしまった。ルインが出て行った扉をサーリャが複雑そうに見送る隣でマリアナが「羨ましい……」と呟くのが聞こえるのだった。


「先程はご心配をおかけしました。昔からどうしても多くの血を見ると気分が悪くなってしまって……」

「気にしないでください。誰にだって苦手なものはありますよ」

 治療が終わりミリアンヌの部屋に集まった一同。男性の怪我は無事に治癒してしばらくは松葉杖でリハビリが必要になるが、後遺症なく歩けるようになるだろう。その代わりに驚異的な治癒の代償として今は猛烈な吐き気に襲われているらしい。少なくとも丸一日は苦しむことになるらしいが、怪我のことを考えれば安いものだ。

 ベッドの上で上半身だけ起こしたミリアンヌの顔色は良くなっており、青かった肌にも赤みが戻っている。

「ミリアンヌさん。神聖魔法をわたくしが提案した際に少し様子がおかしかったように見えましたが、何か気になることがあったのですか?もちろん言いにくいことでしたら無理に言う必要はありませんし、わたくしたちもこれ以上は踏み込みませんわ」

「いえ、特に隠しているようなことではありませんのでお話しします。——シスターを務めている私ですが、実は神聖魔法を使うことができません。神聖魔法だけではありません。理由は分かりませんが私は他の魔法も一切使うことができないのです」

「魔法が使えない?」

 ミリアンヌの告白にその場にいる全員が首を傾げ、ルインも今回に限っては眉を寄せて懐疑的になっている。

 ミリアンヌの話ではありとあらゆる魔法の行使ができないようで、火種を作る程度の小さな魔法すら発動させることができないそうだ。自身の魔力を用いない魔道具に関しては使えるようだが、そもそも魔道具は種類によってはそこそこ値が張るものもあるので孤児院では普段使いできるほどの余裕はない。可能な限り魔法に頼らずこれまで生活してきたようだ。

 しかし魔力は人類にとって非常に密接したもので、この世に生きる者は少なからず魔力を有している。それなのに全く魔力を有していないなどあり得るのだろうか。

「……確かに魔力の反応がないですね。ルイン、魔力が一切無いってそんなことあるのかしら?」

 ルインは何かを確かめるかのようにミリアンヌに断りを入れてから優しくその手を握る。

「……いや。少なくともそんな体質は初めて聞くな。もしかしたらマリアナのような特殊な体質なのかもしれないが、今は何とも言えんな。昔何かきっかけになるようなことはあったのか?」

「……昔、ですか。きっかけになるようなことは何も無かったと——うっ!」

「ミリアンヌさん⁉」

「ちょっと、大丈夫ですの⁉」

 記憶を探るように視線を彷徨わせていたミリアンヌだったが、不意にその身体が傾いた。傍にいたルインがすかさずミリアンヌを支え、サーリャとマリアナは心配そうにミリアンヌを覗き込む。ミリアンヌは頭に手を当てながら頭痛を堪えるかのように表情を顰めている。

「すみません。時折頭が痛くなる時があって、今回もそれだと思います。しばらくすれば治まりますので心配しないでください」

「少し無理をさせ過ぎたのかもしれんな。今日はここまでにして休んでいろ」

「ご迷惑をおかけしてすみません」

「……気にするな」

 横になるミリアンヌにルインは優しく布団をかけるのだった。


「へぇ~。そんなことがあったのね」

 体調が芳しくないミリアンヌの代わりにサーリャたちが食事を用意した夕食の席でミランは日中に起きた出来事を聞いていた。今日はミランが持ち帰ってきた猪肉を使ったクリームシチューだ。ゆっくりと食事を進めるマリアナやミランと違ってシオンは余程食事が気に入っているのかシチューを一心不乱に食べている。

「師匠。ミリアンヌさんの話を聞いていた時と同じ質問になりますが、魔力を全く持たないなんてことはあり得るのですか?」

 王宮の晩餐会に参加しているかのように上品にシチューを口にするマリアナはルインに意見を求める。マリアナの問いにルインは静かに首を横に振る。

「あまり考えられない症状だな。あの時も言ったが魔力が全く無いというのは普通では考えられん。どんな生き物にも少なからず魔力は宿っている。装着者の魔力を封じる魔道具でさえ結局は対象の魔力を吸い上げると言うだけで、体内にある魔力をゼロにすることはできないんだ」

「つまりミリアンヌさんの魔力も少なからず存在していると?」

「おそらくな。原因に関してはさすがに俺でもわからん」

 マリアナとルインの会話からすると魔力を失うような何かがあるはずなのだが、ミリアンヌは心当たりは無いと言っている。

魔力は物質として存在するわけでもなく、荷物のようにその辺に落とすようなものではない。見つからないのならばどこかで消費されているのが自然だ。

(ミリアンヌさんの魔力はどこに行ったのかしら?)

 そう考えながらサーリャは止まっていた食事を再開するのだった。



 夜中の教会内。皆が寝静まった時間帯にミリアンヌは備え付けられた浴室で遅めのシャワーを浴びて身を清めていた。温かな水が身体の汚れだけでなく精神的な疲れも一緒に洗い流していく。

「あぁ失敗しちゃったな~。こんなつもりじゃなかったのに……」

 汚れを落としたミリアンヌは新しく設置された浴槽の中で温まりながらミリアンヌは落ち込んだように一人呟く。落ち込む理由は当然日中の出来事だ。

 普段はうまくやれていたはずなのに、今日に限っては不覚にも大量の血を見て動揺してしまい、石のように固まってしまっただけでなく客人に手当てを任せる形になってしまった。それだけでなく男の人に抱き上げられ、ベッドにまで運んでもらうという醜態を多くの人に見られるなど羞恥以外の何物でもない。

 村には噂好きの人が多いので、確実に数日の内に村中に知れ渡ってしまうと思うとこれから出会う人から生暖かい目で見られるのは少し憂鬱だ。

「ルインさんには本当に助けられてばかりだなぁ」

 ミランやサーリャたちもミリアンヌのことを助けてくれるが、ルインは特に自分のことを気にかけてくれている。出会った当初は愛想が無くぶっきらぼうで何を考えているのかわからず話しにくい印象だったが、いざ向き合ってみると最初に抱いた印象とは違い隠しきれない優しさにミリアンヌは何度も助けられている。

 実はこの浴槽も元々は教会に無かったもので、ルインが井戸の改修を済ませた後に作ってくれたものだ。木の香りが石鹼の香りに混じってミリアンヌの鼻腔を刺激する。

(本当にルインさんはなんでこんなに優しくしてくれるのかしら)

 少なくとも彼とミリアンヌは今回が初対面のはず。しかしなぜかルインだけでなく周囲の者も反応がどこかぎこちなかった。ルミアと言う名前が馬車の中で出たのでその人が何か関係しているのかもしれないが、やはりその名前に心当たりはない。村に戻ってゴドウィンにも聞いてみたが、やはり心当たりは無いと首を横に振るだけだった。

 首まで浸かりながらミリアンヌはゆっくりと両手で湯を掬い上げる。指の間から湯がこぼれていき最後には自身の両手だけが残る。

 ルインに優しく握られた感触を思い出すかのようにミリアンヌは右手を左手で包み込みながら数時間前のやり取りを思い出す。

 魔法を使うことのできない今の体質は特にミリアンヌは気にしていない。周囲の反応を見ると魔法が使えないのは不便なのかもしれないが、大抵のことは魔法を使わなくてもこなせるし、どうしてもという場合は魔道具の力を借りればいいだけなので問題はない。

「昔……か」

 俯いたミリアンヌの表情に僅かだが影が差す。実はミリアンヌはルインたちに明かしていない秘密がある。今の体質に関係するようなきっかけのような出来事に覚えが無いと言ったことに嘘ではない。しかしそれはミリアンヌが範囲に限られる。覚えていなければ知らないものは知らないのだ。

(ルインさんに相談してみようかな……って何を考えているのよ私)

 こんなことを相談しようものなら余計に心配させてしまうのは明白。不意に湧き上がった衝動をミリアンヌは即座に否定するかのように首を横に振る。振った際にズキリと頭に痛みが走り、ミリアンヌは顔を顰めた。考え事に夢中になり過ぎて少し浸かり過ぎたのかもしれない。

 ザバリと音を立てながら浴槽から出たミリアンヌは水滴を落としながら脱衣所の方へと歩いていく。明日は元気な姿を見せるのだと意気込んでいるミリアンヌの背後には小さな鏡が備え付けられており、彼女の背中が映し出されている。

 背を向けているからこそミリアンヌは気づかなかった。

 白磁のように白い綺麗な彼女の肌の左肩から右脇腹にかけて——背中全体を覆うかのように大きな傷痕が走っており、色も僅かにくすんでしまっている。そんな痛々しい傷痕から陽炎のようにどす黒いナニかが漏れ出していることに。



 ソレは最後の痕跡に辿り着いた。駒だったものはすでに周囲の獣に食い尽くされたのかそれとも持ち去られたのかわからないが、姿が見えなくなっているがそれはさしたる問題ではない。

 周囲に散らばる木片を確かめながらそれは周囲を歩き回っていたがたいしたものは残っておらず、無駄足だったかと思い始めたところで——見つけた。

 大きな残骸の塊の端に布切れが引っ掛かっている。布切れは決して大きくなくほとんどゴミと呼ぶ程度のものだったが、それの鋭敏な嗅覚は決して見逃すことはなかった。布切れに付着した僅かな血。そしてその血に混じっているモノに。

 それは歓喜の咆哮を上げた。すでに失ったと思っていたものが見つかったのだ。これを喜ばずにいられるわけがないし、今度は決して見失うわけにはいかない。

 湧き上がる衝動に突き動かされるようにソレは匂いを辿りながら移動を始める。

 それが進む先には人間たちの暮らす村がある。



 アレンは一心不乱に木刀を振り続けていた。今日は村の騎士に見守られながら武器の扱いを学ぶ日だ。アレンの他にも何人かの子供たちが参加しており、全員が一列に並んで木刀を振り続けているがアレンほど熱心に振り続けている者はいない。

 アレンはこの訓練を一度として欠かすことなく参加しているので、参加メンバーの中では一番動きが自然だ。

「よし、今日はここまで。全員木刀を返してくれ」

 村で暮らす騎士の一人であるゼンが子供たちから一本ずつ木刀を回収していきながらケースの中に放り込んでいく。木刀をゼンに返した子供たちは「ようやく終わった」といったような表情で大きく伸びをしたりしている。

 アレンの木刀を回収しに来たゼンにアレンは何度目かになる意見を再び伝えた。

「なぁゼン。今度こそ俺も外で実戦の練習をさせてくれよ」

「またその話か……何度も言っているだろうアレン。実戦なんてお前にはまだ早過ぎる。今はまだ基礎を身につけている段階なんだから、そんな状態で村の外に連れて行くわけにはいかない」

「そんなことない!他の奴より俺が一番扱いが上手いのはゼンも知っているだろう。あとは実戦で勉強した方が早いはずだ。こんな素振りばかりじゃいつまで経っても全然強くなれないじゃないか」

 これまでと全く変わらない答えにアレンは怒りを滲ませながら必死に訴える。しかしそんなアレンの怒りを聞き流すかのようにゼンの反応は変わらない。

「実戦はアレンが思っているほど簡単な場所じゃないんだ。少し武器の扱いが上手い程度では生き残ることなどできない。今はまだ多くを学ぶことに集中するんだ。」

「でも!」

「話はここまでだ。前よりも動きは良くなってきているから練習は欠かさないようにしておけよ」

「おいゼン!」

 木刀が入った箱を持ったゼンをアレンが呼び止めようとするが、ゼンは止まることなくそのまま歩き去ってしまった。


「くそっ!」

 参加していた子供たちも解散し、一人残されたアレンは悪態をつきながら教会へと続く道を一人歩いていた。最近自分の周囲で起こっていることが気に入らない。

(どうしてゼンも他の奴らも俺を外に連れて行ってくれないんだ!こんな意味も無い素振りを続けるだけじゃいつまで経っても強くなれない)

 ゼンだけじゃない。自分たちの練習を見てくれている騎士全員にこれまでアレンは外に連れて行ってほしいと声をかけているが、どれも徒労に終わっている。まだ早いと皆が口を揃え、検討する素振りすら見せない。

 アレンが武器を手にするのはひとえにみんなを守るためだ。その為にも実戦は早い内から経験し、短期間でいっきに強くなるつもりだったが、その計画がここにきて上手くいかなくなってきた。

 参加している子供たちとの模擬戦では全勝し、もはやアレンは負けなしだ。より強くなるためにも村の外で経験を積みたいのに……。

 そんなことを考え、胸の中にある不満が大きくなり始めていたアレンは気づけば教会へと戻ってきていたが、敷地奥からミリアンヌの楽しげな声が聞こえてきた。普段とは違う楽しげな声に興味を引かれたアレンがこっそりと窺うと、孤児院と教会の間にある中庭でミリアンヌが洗濯物を干しているところだった。そしてそんな彼女の隣にまたしてもアイツがいた。

「ルインさんが手伝ってくれてとても助かります。一人だとどうしても手が足りなくて、まとめて洗えず何日かに分けないといけなかったんです。これなら今日で全部終わらせることができます」

「気にするな。これぐらいのことなら遠慮なく言ってくれ。魔法を使えばそれほど苦労するようなことじゃない。——こんな風にな」

「わぁ!」

 ルインが魔法を行使すると籠に入っていたシーツがふわりと浮き上がり、空にいくつもの白い幕が広がった。シーツは風になびかれながらゆっくりと下りてきて、用意されていた物干し竿へとかけられた。

 ミリアンヌはその様子を無邪気な笑顔で見守っている。笑顔なのは変わらない。しかし普段アレンたちへ見せる笑顔とは違う表情をルインへ見せるミリアンヌをアレンは見ていられず、アレンは逃げるようにその場から離れた。

 あいつは何かとミリアンヌのそばにおり、この村に来てまだ数日だがその間にミリアンヌから絶大な信頼を得るまでに関係を深めていた。

 ミリアンヌの負担を減らすために様々なところに手を加え、恩を押し付けるようなことはせず、さりげなく手を差し伸べている。アレンはそれが面白くない。姉のように接してくれる彼女を守るのは自分の役割だ。

 あいつからミリアンヌを取り戻すためには今までのことを繰り返すだけではだめだ。もっと大きなことを成し遂げて頼れる存在だと見せつけなければ!

「やってやる……俺はやれるんだ!」

 わずかに危険な光を瞳に宿したアレンは誰にも見られることなく早足で目的の為に動き出した。



 その日の夕方、いつものようにミリアンヌは各部屋に顔を出し子供たちの様子を確認し回っていた。客人である四人に子供たちはある程度心を許しており、あちこちで彼女たちを囲んで盛り上がっている。ルインに関しては井戸の改修で心動かされたのか、もの作りに興味を持ち始めた何人かが彼の元へと訪れている。しかし本人曰く説明が面倒だと言ってパーツのレプリカと図面を渡すだけで彼は子供たちから逃げてしまった。

 それでも子供たちには十分な刺激になっているようで、一室に集まってパーツを組み立てて似たような物を作ろうとしている。

 そんな子供たちを見て回っていたミリアンヌはあることに気がついた。

「誰か、アレン君がどこにいるのか知らない?」

「知らな~い」

「そういえば見てないね。どこに行ったのかな?」

 ミリアンヌは子供たちに聞いてみるが、誰もアレンを見ていない。水汲みに出かけたのだろうか?いや、水汲みはみんなが率先して汲んでくれたので今日はこれ以上必要ない。

 そんなミリアンヌの様子に気づいたサーリャが声をかけてきた。

「ミリアンヌさんどうしたんですか?」

「それが……アレン君の姿がどこにも見えないのですよ」

「いつものように剣の稽古をしているのではないのですか?」

「こんな時間帯に稽古は普段しません。普段ならアレン君はこの時間帯になると夕食の手伝いをすると言ってくるんですよ」

 思い返してみれば最近のアレンはどこか様子がおかしかった。焦っているのか少し思い詰めていたようにも見える。

「私も少し周囲を探してみます。ミラン様たちには私から言っておくので、子供たちの面倒は任せてください」

「お願いします」

 子供たちを心配させないようにと気を配りながらミリアンヌは早足で孤児院を出るのだった。



 ミリアンヌからの知らせを受けて周囲を探し回っていたサーリャだったが、結局アレンを見つけることはできなかった。見つからなかった代わりに、村の騎士から狩猟小屋に保管されていた剣が一本無くなっていると知らされたことで状況が変わった。

 これだけ聞き込みをしても足取りが掴めないとなると、アレンは村の外へと出ている可能性がある。さらに武器を持ち出したのがアレンならば当然、武装しなければならないような場所へ向かっているということになる。シオンに子供たちを任せ、ミランとマリアナも捜索に加わり少しでも手掛かりがないかと走り回る。

「最近のアレン君はどこか思い詰めていたような気がします。もしかすると何か悩みがあったのかもしれませんね」

 村の外を探し回っている途中でこぼしたミリアンヌの言葉にサーリャは歩みを止めて隣を歩く彼女を見た。気づけなかったことを後悔しているのかミリアンヌはわずかに俯き、肩を落としている。

 これまで子供たちの面倒を見てきたからこそ、今回彼女に何も言わずに行方が分からなくなったアレンの行動はショックなのだろう。

「今はアレン君を見つけるのが最優先です。見つけた後ゆっくりと二人で話をしましょう」

 慰めるべきなのかもしれないが、今は立ち止まっている時ではない。サーリャは引っ張るようにミリアンヌの腕を引くのだった。


 サーリャたちの必死の捜索も虚しくアレンを見つけることなく時間だけが過ぎていく。陽もだいぶ傾いており、これ以上長引けば見つけるのも困難になる。

 途中でミランと合流することができたが、ミランの方も成果は挙がっていない。

「ん?」

「どうしましたか?」

 見つからないことにサーリャが焦りを見せ始めた時、村とは逆方向——あまり遠くない山の方からわずかに反応があった。これは……。

「ミラン様。気づきました?」

「ええ……なんであんな所にいるのかしら?」

 ミランもサーリャと同じ心境なのか、心配よりも困惑した表情で反応が返ってきた山へと視線を向けている。

「すみません。アレン君がいるかどうかわかりませんが、少し行ってみたい場所があるのですけどいいですか?」

 歯切れの悪いサーリャにミリアンヌは首を傾げるのだった。


 サーリャとミランが道を切り開きながら三人は山の奥へと進んでいく。反応を手掛かりに進んでいたサーリャたちだったが、進先が僅かに騒がしくなっていることに気が付くと即座に身構え、万が一に備える。

 相手に気づかれないように三人は慎重に木の陰から様子を窺うと、そこには行方が分からなくなっていたアレンがなんと剣を構えて一匹の狼と対峙しているではないか!

「アレン君⁉」

「大変!今すぐ助けないと!」

 いくら剣を持っていても獣相手にアレンでは太刀打ちできない。危機的状況に青ざめ口元に手を当てるミリアンヌの横をすぐさまサーリャが駆け抜けようとするが、その前にミランがサーリャの肩に手を置きその動きを止めた。

「ちょっと待ちなさい。近くにルインがいるわ。状況が分からないから少し様子を見ましょう」

 アレンに気を取られていたが、確かにミランの言う通りルインがアレンから少し離れた切り株の上に腰かけている。ルインはアレンに視線を向けることなく手元の何かをナイフを使って削っている。

 サーリャが感じた反応。それはルインの魔力反応がこの山から出ていたからである。

(なんでルインがアレン君と一緒にいるのよ。村で会ったときは知らないって言っていたじゃない)

 村の中で捜索をしていた際、偶然出会ったルインにもサーリャは声をかけていた。あの時のルインはアレンの行方を知らないと言っていたはずなのに、今はそのアレンと一緒にこんな山の中にいる。

 何も言わずサーリャたちに協力してくれたのかと思ったが、ただ見つけたにしてはアレンを助けもせず静観しているのはおかしいので、確かにミランの言う通り状況が分からない。

(ルインはどうして助けないのよ!)

 武器の扱いに多少の心得があるといってもアレンはまだ子供だ。剣を構えてはいるが、木刀とは違い本物の剣なので支え切れておらず、ふらふらと切っ先が揺れており構えているだけで精一杯のように見える。

 怒りが沸き上がるサーリャだったが、様子を窺っているうちにあることに気がついた。アレンと対峙している狼だが、その胴体に魔力の糸が幾重にも巻き付いており、糸の先は地面へと伸びている。まるで繋がれた犬のようだ。

(あれじゃあアレン君に近寄れない)

 ルインに対して湧き上がっていた怒りの勢いが弱くなったところで「おい」とようやくルインが手元から視線を外し、頭を上げてアレンの方を見た。

「いったいいつまでそこに突っ立っているつもりなんだ」


 アレンは近くから聞こえる気に食わない声に自分の機嫌がさらに悪くなるのを実感する。

「うるさい!あんたは黙っていろ!」

 感情のままにアレンは即座に怒鳴り返す。そんなことは言われなくても自分自身が一番よくわかっている。

「威勢がいいのは結構なことだが状況が全然変わっていないぞ。お前はわざわざここまで生き物観察でもしに来たのか?それなら大人しく村の中で犬でも眺めていろ」

 一方のアイツはといえばこちらの感情をぶつけてもまったく気にした様子もなく、逆にこちらを煽ってくる。それがさらにアレンの感情を逆撫でする。

 もともとこの山にはアレン一人で入山した。周囲に気を配り慎重に山の奥へと歩みを進めていたアレンだったが所詮は子供。奥へと進むことに集中しすぎて木の陰からこちらを窺う存在に気づかなかった。小枝の折れる音が聞こえ振り返った時にはあまりにも遅すぎ、鋭利な爪がアレンの顔を切り裂こうとする直前でルインの魔法がその動きを止めるという間一髪のタイミングだった。

 情けない声をあげながら尻餅をついていたアレンだったが、ルインの目的が自分を連れ戻すのだと思い咄嗟に剣を向けたのだが、ルインは何も言わず近くの切り株に腰かけて自分の作業を始めてしまった。

 肩透かしを食らった気分だが、完全に無視というわけではなく時折こちらを怒らせるような言葉を投げかけてくるので鬱陶しいほどこの上ない。

(見ていろ。今すぐこいつを——)

「グルルルアアァァァ!!」

「っ!」

 助けられていことは非常に癪だが、相手はこちらに手を出すことができない。剣をしっかりと握り直し目の前の敵に向けて一歩を踏み出そうとしたところで、これまで間近で聞いたこともない方向が自分へと向けられ、踏み出そうとした足が止まってしまう。

 近づくな——幼いアレンでも理解させられてしまうほどの明確な敵意がそこにはあった。

 (本物の剣ってこんなにも重いのかよ)

 普段手にする木刀とは全く違う。両手で握っているにもかかわらず、まるで大きな鉄の塊を持っているかのように腕全体が重く、少しでも力を抜けば地面に落としてしまいそうだ。

 両手に伝わってくる冷たさはまるで全身を凍えさすかのよう。

「少しは変化が欲しいところだな。少し手伝ってやるからお前ひとりで何とかしてみろ」

「え?」

 何をするつもりなのか。アレンが問いかけるよりも先にアイツは軽く指を鳴らした。同時にこれまで狼の動きを縛っていた魔力の糸が霧散する。

「グルルルル」

「ひっ!」

 アレンの喉から引き攣ったような声が漏れる。もう相手を縛るものは何もない。襲い掛かる恐怖に足が震え始める中、狼は姿勢を低くし、今にも飛び掛かってきそうな態勢になる。

「グルルオォ!」

「うわあああ!」

 もう終わりだ。トドメのような咆哮にとうとうアレンは持っていた剣を放り出し、情けない悲鳴をあげながら頭を抱えてその場にしゃがみこんだ。もはや最初の威勢など欠片もない。

(……あれ?)

 しかしいつまで経っても自分の身体に牙が届くことも爪で切り裂かれることもない。恐る恐る顔を上げると狼は数歩ほど進んだあたりで動きを止めており、視線はアレンではなくルインへと向けられていた。ルインは切り株に相変わらず腰かけているが、目だけはしっかりと狼だけを捉えている。ゆっくりとルインは立ち上がると武器も何も持たないままこちらへと歩いてくる。

「おい何をしているんだ。お前武器とか持ってないのかよ!」

「黙っていろ。余計なことはせず動くな」

「うっ……」

 これまでのからかうような雰囲気はなりを潜め、有無を言わせない凄みにアレンは思わず黙ってしまう。ルインがこちらに近づいてくる度にじりじりと狼が後退を始める。相手は何の武器を持っていないにもかかわらずだ。ルインはまるで恐怖など感じていないかのように歩いてくる姿はこれまで見せたこともない一面で、その態度が理解できずアレンはルインに対しても少しながら恐怖を覚えた。

(こいつただの腰抜けじゃないのかよ。なんで狼を前に堂々としていられるんだよ)

 アレンの近くにまで寄ってきたルインはおもむろに手を伸ばすと何もないはずの場所で彼の腕が肘から先が無くなった。「うえっ⁉」と思わず声が漏れてしまったが腕を引くと無くなっていたはずの腕が現れ、その手には手頃な大きさの肉の塊が握られておりそのまま狼の方に放り投げた。

「こっちの都合に付き合わせて悪かったな。それはその詫びとして持って行ってくれ」

 狼は一瞬躊躇うような素振りを見せたが、やがてこちらの様子を窺いながら肉を咥えて木々の中へと姿を消した。

「おい、なんであいつを逃がしたんだ。お前ならあのまま倒すことだってできたはずだろう」

「勘違いするな。俺は狩りをするためにここに来たんじゃないんだ。不必要に命を奪うつもりはない。俺のことよりもお前こそどういうつもりなんだ?あれだけ大口を叩いておきながら結局お前は何もできなかったじゃないか」

「それは……」

 咄嗟に言い返そうとしたが、口を開くだけで言い返す言葉が見つからない。確かにこいつの言う通り自分は何もできなかった。チャンスはこれまでいくらでもあったはずなのに。

「しかも相手は行動を制限されてお前には手を出せない一方的な状況だったんだぞ。それで何もできないのならお前は何になら動けるんだ。自分に向かってくる相手のすべてがカカシだとでも思っているのか?」

 容赦のない厳しい言葉にさすがのアレンも歯を食いしばりながらルインを睨みつけ、そんなアレンをルインが冷たい目で見下ろしていた。そこにはこちらに対する同情や哀れみなどは欠片も含まれていない。

「最初から何でもできるはずがないだろう。少しずつ回数をこなせばお前から説教される必要もなくなるんだ!」

「……驚いたな。ここまで状況を理解していないとは。そんな思考力でよくそこまで強気でいられるな」

 こちらが怒鳴り返すとルインは最初こそ目を丸くするが、やがて呆れたような表情になった。

「なんだと!」

「わかっていないようだから教えてやる。『次がある』とお前は言ったが、俺がいなければここで死んでいたんだぞ?」

 アレンは頭を殴りつけられたかのような衝撃に襲われた。死んでいた?俺が……?

「襲われた時お前はどうしていた。背後から襲われて全く対処できずに無様に転がっていただろう。俺が止めなければお前は今頃獣の餌になっていたんだ。失敗した先に残っているのは『死』だけだ。失敗しても次があるという考えをしている時点でお前は間違っているんだ。だからこそそれを生業とする奴らは自身も狩られるという覚悟を持って武器を手にするんだ」

 アレンは思わずすぐそばに落ちている剣へと視線を向けた。敵と対峙した時に感じたあの重み。あれは剣だけの重さだけではなく、命を奪うという——背負うにはあまりにも大きすぎる重圧があったのだと今更ながらに思い知らされた。

 鈍い光を反射するその刀身が眼前に迫った爪と重なって見え、アレンは思わず身震いする。

「剣を振るうだけですべてが解決するわけじゃない。万が一負傷した際の応急手当てをお前は知っているのか?毒を受けている仲間がいた場合は?自分の役目は剣を振ることだと言って大切な相手が目の前で苦しんでいてもそのまま放置するつもりか」

 アレンの脳裏に大切な人の顔が思い浮かんだ。その顔が苦しみに歪みそうになる前にそれを振り払うかのように首を振る。

「……俺が間違っていたのかよ」

 これまでの自分のすべて否定されたような気持ちになり、地面に両手を付きうな垂れた。今までの努力がすべて無駄だったなんて……。

「すべてが間違っているとは言わん。ただお前は優先順位が逆なんだ。お前に今必要なのは力ではなく知識だ。医療、薬学、サバイバル、他にもいろいろとあるぞ?力なんてものはそのあとだ。……まぁ、お前にそのすべてができるとは思えんがな」

 挑発するようなルインの物言いにアレンの中で別の感情が沸き上がってくる。

(こっちの気も知らないで好き勝手に言いやがって!)

 これまでの自分の努力が空回りしていたのは変えることのできない事実。それをこれ以上無様に言い訳をするのはみっともない。悔しいがこいつの言うことは正しいのだ。今の自分にはあらゆるものが足りていない。

 そのうえでこいつは自分が挽回できることはないと決めつけている。ここまで言われてはこちらも黙っているわけにはいかない。

 顔を上げれば相変わらず気に入らないアイツの顔があり、こちらを見下ろしている。余裕そうなその顔を何としてでも歪ませてやる!

「助けてくれたことは……感謝している。でもお前に一つ言っておくことがある」

「なんだ?」

 こちらの姿を見て面白がるルインにアレンは決意を胸に、本心を遠慮なくぶつける。

「俺はあんたが嫌いだ」

「奇遇だな。俺もお前みたいなガキは嫌いだ」

 どうやらこいつとはどこまでいっても分かり合うことはできなさそうだ。

「さて。もう向こうでもお前がいないことは知られているだろうな。そろそろここにも探しに来ると思うが、そのままずっと転がっているつもりか?」

 そう言いながらアレンが見上げる先でルインはどこか別の方向に視線を向けるのだった。



「……どうやら何事もなく終わったようね」

「見ているこっちはヒヤヒヤしましたよ」

 陰から成り行きを見守っていた三人はそれぞれ安堵したように強張っていた全身の力を抜いた。サーリャも剣の柄に添えていた手を離して緊張で張りつめていた意識を解くのと同時に大きく息を吐いた。

 ルインが魔法による拘束を解いた時は流石に飛び出しかけたが、ミランに押さえつけられて動くことができなかった。結果的にルインが動いたので何事もなかったが、見ている側は流石に精神的に疲れた。

「それにしてもどうしてアレン君とルインさんはあそこまで仲が悪いのでしょうか?」

 ミリアンヌは二人の関係に疑問を浮かべている。

「まぁだいたいはアレン君が吹っ掛けているので本人は最初から何かしら苦手意識があるのでしょうね。ルインに関しては仲良くする気もないのだと思いますよ」

 どちらかというとルインは最初からアレンに関心を示していない。アレンが一方的にルインを嫌っているというのがサーリャの印象だ。

 そんなことを話している三人だったが、不意にルインの視線が木々に隠れているこちらへと向けられた。たまたまなのかと思ったが、ルインの視線は間違いなく隠れているサーリャたちを捉えている。

 ……確実にバレている。

 これ以上隠れている必要もないので少し時間を空けてから三人は木の陰から姿を現し、まるでたった今到着したかのように振舞う。

「あ!ようやく見つけたわ。こんなところで何をしていたのよ」

「アレン君心配したのよ。どうしてこんなところにいるの?」

 まさかずっと見られていたとは思ってもいないであろうアレンは慌てて立ち上がると地面に落ちていた剣を拾い上げて背中に隠す。さすがに武器を無断で持ち出したのはまずいと理解しているのだろう。

 ミリアンヌから問い詰められ口ごもっているアレンだったが、助けは意外なところから来た。

「村のすぐ外でこいつを見つけたんだが勝手にここまでついて来たんだ。ミランたちが来たのならこれで子守はしなくても済むな。あとは頼んだぞ」

「いやいや。そもそもなんでアレン君がルインについて行くのよ。二人って一緒に散歩するような仲でもないじゃない」

「せっかく遠出しているんだ。珍しい薬草の類があるか調べるつもりだったんだが、こいつが俺の行動を不審がって見張ると言い出したんだ。どうせついて来るなら社会勉強させた方が効率いいだろう」

 こちらからの指摘にも淀みなく答えるルインとは対照的にアレンはなぜ自分を庇うようなことをするのかわからず、疑惑の目でルインを見上げている。

「アレン君、ルインさんの言っていることは本当なの?」

「あ、ああ。フラフラと村の外に行くなんて怪しすぎるからな。俺が見張っておかないといけないと思ったんだ」

 ミリアンヌから問われたアレンはルインの思惑に乗るかどうか最初躊躇っていたが、これ以上状況を悪化させるのはまずいと感じたのか結局ルインの作り話に同調するように頷いた。

 それが嘘だということは本人以外の全員が知っていることだが、本人のプライドの為に誰も口にはしない。

「勝手に出て行ったのは褒められることじゃないけれど、とにかくアレン君が無事でよかったわ。本当に心配したんだから二度とこんなことはしないでね」

「……ごめんなさい」

 本来なら怒るべきところだが本人がしっかり反省しているのならばこれ以上言葉を重ねなくてもわかってくれるだろう。気持ちを切り替えるようにミランはパンっと軽い音を立てながら手を合わせた。

「さぁ。目的も済んだことだからみんな帰りましょうか。孤児院でみんなが私たちが帰ってくるのを待っているわ」

「そうですね。あ、アレン君。勝手に出て行ったことに関して私はこれ以上何も言うつもりはありませんけど、武器を持ち出したことに関してゼンさんがとても怒っていたので帰ったらお説教は覚悟しておきなさいね」

「うぇぇ~」

 このまま終わりだと思っていたアレンだったが、ミリアンヌのその言葉に情けない声が出るのだった。



(また助けられちゃったな……)

 村へと戻る道中、ミリアンヌは一番後ろを歩きながら一人物思いに耽っていた。心配させないように努めるはずが逆に助けられてしまうなんて、これでは正反対の結果になっているではないか。

「そんな辛気臭い顔をしているなんてらしくないな」

「ルインさん」

 いつの間にか歩く速度を緩めてルインがミリアンヌのそばに寄っていた。本当にこの人はさり気なく私を気遣ってくれる。そのことが嬉しくもあり申し訳なく感じてしまう。

「今回もルインさんに助けられてしまいましたね。アレン君を守ってくださってありがとうございます。今回の件でアレン君も考えを改めたと思います」

 ミリアンヌの視線の先ではミランやサーリャに質問をぶつけているアレンがいる。将来必要になる知識は何かと真剣に聞き入っている様子はこれまで目にしてきた彼とは少し違って見える。

「あいつは変に気合が入りすぎて空回りしてばっかりだったからな。もう今回みたいな馬鹿なことはしようと思わんだろう。……それよりもあんたは少し何でもかんでも背負いすぎているな」

「ミリアンヌです」

「ん?」

 ミリアンヌは子供に注意するかのように人差し指を立てて少し頬を膨らませる。

「ルインさんは私のことを一度も名前で呼んでくれないじゃないですか。今日初めて会ったわけじゃないんですから、そろそろ私のことはちゃんと名前で呼んでください」

 そう。ルインは会った時から一度として自分の名前を呼んでくれない。まるで呼ぶことを避けているかのようにも感じられる。それが距離を取られているように感じてミリアンヌはそれが不満に感じる。

「今更だろ?別にこのままでも——」

「名前で!」

「うっ……」

 ルインはこちらからの圧に思わずたじろぎ視線を彷徨わせていたが、ミリアンヌは姿勢を崩すことなく真っ直ぐ期待するような眼差しでルインを見続ける。

「……ミリアンヌ、さん」

「うん。それでよろしいです。これからはちゃんと名前で呼んでくださいね」

 ぎこちなく自分の名前を呼ぶルインにミリアンヌは満面の笑みを浮かべた。

「これを渡しておく。……ミリアンヌ、さんはもう少し楽に生きた方がいい」

 話題を変えるかのようにルインはこちらへと何かを手渡してきた。掌の上には小さな木製のアクセサリーが置かれていた。四角い枠の中に花の彫刻が施されている。

「ルインさん。これは?」

「俺の故郷で作られていたものだ。それを身に着けていればその花に引き寄せられて幸せが持ち主へと届くと言われている、まぁお守りみたいなものだ。村で育った奴はたいてい持っていたものだ」

「綺麗……」

 ミリアンヌは引き込まれるかのように手渡されたお守りを見る。木を削って作られたはずなのに表面は磨き上げられたかのように光沢を放ち、指でなぞっても引っ掛かりがないほどに滑らかだ。

「ありがとうございます。こんな綺麗なお守りは初めて見ます」

「……そうか。初めて見る、か」

「ルインさん?」

 嘘偽りない感想を言ったのだが、その言葉を聞いたルインはミリアンヌが思っている反応とは違った。傷ついたかのように表情をわずかに歪め、まるで泣き出しそうにこちらを見ている。

 どうして彼がそんな表情をするのかわからない。それでも彼の心を動かすほどの何かがあったのは確かだ。悲しげなルインの表情を見ると胸の奥が苦しくなる。

「もう、いい加減納得しないといけないな。——ミラン、サーリャ!」

 一人何かを呟いたルインだったが、何かを決めたかのように前を歩く二人を呼んだ。呼ばれた二人が振り返る中、ルインはミリアンヌが思ってもいないことを口にした。

「もうこれ以上はいいだろう。明日にはこの村を出るぞ」

「明日⁉」

「それは随分と急な決定ね」

「俺たちは二人をこの村に送り届けるのが目的だったはずだ。それはもう果たされたのだからいつまでもこの村に留まる必要はないはずだ。それぞれやることはあるんだからな」

「私たちはかまわないけれど、ルインはそれでいいのかしら?」

 ミランが何故かチラリとこちらを見てくる。

「ああ」

「そう……それなら帰ったらシオンにも伝えておかないといけないわね」

 三人が話を進める中、ミリアンヌはどこか現実味がないままそのやり取りを聞いていた。

 ルインたちは村の住人ではない。それぞれ帰るべき家があるのだからずっと村にいられるわけではないのはわかっていたはずなのに、いざいざその時がやってくると信じられない思いがミリアンヌの胸を満たし苦しくなる。

「あの……私たちのことは気にせずとも大丈夫ですよ。子供たちも皆さんに懐いておられますし」

 まだしばらく話をしたい。もっともな理由をミリアンヌは提案してみるが、ルインは首を横に振ることで否定する。

「あまり長居すればそれだけ別れが辛くなるだけだ。俺たちはこれ以上関わるべきじゃないんだ。それに——」

 ルインはミリアンヌへと僅かに笑みを浮かべた。

「別に今すぐ帰るわけじゃないんだ。明日までまだ話す時間があるのだから、それまでいくらでも話を聞いてやるさ」

 ルインの言う通りまだ彼らが帰るまで時間がある。それでも明日までという期限はミリアンヌからすれば短過ぎる。

(せっかく名前で呼んでもらえると思ったのに)

 もっとミランさんやマリアナさんとも話をしたい。自分に不器用ながらも優しくしてくれる彼と一緒にいたい。

「あの!」

 だからこそミリアンヌはルインの服の裾を思わず指先で掴んで引っ張る。切れそうになっている繋がりを少しでも繋ぎ止めたくて。

「実はルインさんに相談したいことがあるんです」

「ん?どこまで役に立てるかわからんが、話は聞けるぞ」

 この気持ちはもう止められない。これまで隠していた秘密を打ち明けよう。少しでも彼と一緒にいたくて。

「私、実は昔の記憶が——っ!」

 勇気を振り絞ったミリアンヌの言葉は最後まで言い切ることができなかった。突如としてルインがミリアンヌを強引に引き寄せ、包み込むかのように抱き寄せたからだ。

(わわっ!いきなりなんで⁉)

 ルインの胸に顔を埋める形になって顔を真っ赤にさせながら混乱するミリアンヌだったが、その疑問の答えはすぐに思い知らされた。何か固いものがぶつかる衝撃音がミリアンヌの耳に飛び込んできて、抱き寄せられたまま音のする方向へ顔を動かすと二人のすぐそばに淡い虹色の輝きを持つ壁が立っており、その壁に尖った木が刺さっていた。



「ミラン!サーリャ!」

 ミリアンヌを傷つけないようにと抱きしめるルインが鋭い声を発する。その声を聞くまでもなく二人はすでに行動を起こしている。

 ミランが前へ一歩進み出る中、サーリャは武器を手にしながらアレンを守るように近くへと引き寄せる。突然の襲撃にサーリャの中で警戒が最大限に高まる。

「攻撃⁉いったいどこから!」

「見つけたわ。十一時の方向、崖の上よ!」

 ミランの鋭い声にルインとサーリャが指示された方向を見た。こちらを見下ろすことのできる切り立った崖の上に何かがいる。

「魔獣?」

 目を凝らす先には一体の鹿らしき外見の獣がいた。立派な角を持つ姿はまさに鹿そのものだが、内側から盛り上がっている筋肉質な肉体は通常の鹿とは比べ物にならないほどで、淡い銀色の輝きを持つ巨体は遠くからでもわかる。

 相手の特徴からサーリャは一体の魔獣の名前を引き当てる。たしかスピアディアだったはず。

 相手の動きを観察していたミランが変化を確認し、全員に聞こえるように警告を発した。

「気をつけて!仕掛けてくるわよ」

 スピアディアの近くに立っていた木がまるで見えない力で操られているかのように丸ごと引き抜かれ、ルインとミリアンヌ——二人へと向かって撃ち出された。

「獣風情が!」

 普段と違い感情を露わにしたルインが右手でミリアンヌを抱き寄せたまま左手を軽く振り、魔法を発動させる。二人に向かって一直線に向かっていた木は向かってくる途中で全体をすっぽりと飲み込むほどの炎に包まれた。超高温の炎に焼かれた木はすぐさま灰となり果てた。

「いったい何なのよアイツは」

 縄張りを荒らしたわけでもないのに襲撃を受けていることも驚くところだが、先程からあのスピアディアはあきらかに。山で暮らす獣を狩りに来たアレンではなく、なぜ山に入っただけのミリアンヌを狙うのか。

 執拗にミリアンヌだけを狙った攻撃をルインはすべて的確に排除し、欠片ほどの脅威も届かせない。

「いつまでも鬱陶しい。ミラン!あいつを黙らせてくるからミリアンヌさんを頼む」

「落ち着いてルイン。いくらあなたでもここから今すぐ向かっても逃げられるわ」

 今にも飛び出していきそうなルインをミランが引き留めようとしているところでスピアディアからの攻撃が止んだ。そして空へと首を上げ、


 ルオオオオオオォォォ!


 スピアディアの声が周囲に響き渡る。新たな攻撃が来るのではとそれぞれが身構える中、予想外な異変が起こった。

「うあああぁぁ!」

「ミリアンヌさん⁉」

 見ればミリアンヌが苦悶の表情を浮かべ、ルインへとしがみついている。状況はそれだけにとどまらない。木々のあちこちからゆっくりと魔獣が現れ、サーリャたちを取り囲む。魔獣だけではない。その中に明らかに異質な存在が紛れ込んでいる。

「なんなのアレは?」

 姿形はこれまで何度も目にしたことのある獣の姿。しかし同じなのは姿形だけ。全身が青白く光っており、まるで影を前にしているかのようにわずかな凹凸があるだけで目玉や本来空いているはずの穴などもない。

「魔法生物?だとしてもこんな大量に使役できるはずが……。ルイン、ここは一度退くわよ。姫様だけでなく村も心配だわ。あなただってその状態のミリアンヌさんを抱えて戦えないでしょう」

「くそっ!」

 ぐったりとしているミリアンヌをちらりと見たルインは悪態をつくが、すぐさま撤退の為にミリアンヌを抱き上げる。

「行くわよ!」

「アレン君、私から離れないでね」

 サーリャたちが包囲網を突破し村へと戻っていくのを魔獣たちは追いかけることはなかった。

「……」

 サーリャたちが遠ざかっていく姿をスピアディアは黙って見送り、やがて見えなくなると踵を返してその場を離れるのだった。



 無事に村まで帰還することのできたミランたちはすぐさま村長や村の騎士を集め、状況を説明することになった。

 魔獣が集まっているだけでなく、未知の個体まで確認されたという話は部屋の空気を重くするには十分で、誰もが何を言えばいいのかわからず沈黙がその場を満たす。

「……以上が現状わかっていることです。統率する個体らしき存在も確認されている以上、この村に魔獣が押し寄せる可能性は十分に考えられます」

「わたくしも同意見ですわ。多少吹き飛ばしましたがすべてとはいかなかったので、再度ここに戻ってくるのは間違いないでしょう」

 サーリャたちが山中で襲撃を受けていたころマリアナとシオンが残っている村にも襲撃があったらしく、村の外にはあちこちに攻撃魔法の跡が残されている。幸いにも村に被害は無く、二人にも怪我一つ無い。

「マリアナ様、敵の規模はどれくらいだったのですか?」

 サーリャが尋ねるとマリアナは記憶を探るようにわずかに上を見上げる。

「だいたい五十体くらいですわ。初撃の攻撃魔法で大半が消し飛びましたが、残りはシオンにも手伝ってもらいましたから多少数にばらつきはあるでしょう。相手の強さですが、わたくしが見た限りでは一体一体はそれほど脅威ではありませんね。せいぜい中の下と言ったところですから、十分騎士で対応可能な相手ですわ」

 つまり防衛に徹するのであればそれほどの脅威ではない。サーリャを含めた今の戦力ならば問題にならない。

 しかし楽観視できない状況がまだ残っていた。これまで静かに話を聞いていたゴドウィンが不安気な表情で口を開く。

「わしからも一つ聞いてもいいだろうか。彼女の状態はどうであろうか?」

「それに関しては彼から説明してもらいます。——ルイン、ミリアンヌさんの容態はどうなのかしら?」

 壁に寄りかかりながら腕を組んでいるルインに全員の視線が集まる中、険しい表情のままルインが口を開く。

「……調べてみたが、身体に直接的な影響を及ぼすような外傷は見られなかった。俺の防御魔法が突破されていないことからもそれは確実だろう。ならば精神干渉系に近い類の攻撃を受けている可能性が高いだろう」

 今もミリアンヌは自室で臥せっており、今は眠っている。それでも気休めにしかならないのか顔色は徐々に悪くなっている。

「師匠。精神干渉系の魔法は受けてしまうと今回みたいに効果がいつまでも残るものなのですか?」

「いや。物理干渉しない分通常の魔法よりも射程は伸びるだろうが、発動し続けるとなると対象の近くにいる必要がある。解除するならば術者を倒すのが手っ取り早い。残された時間がどれくらいかはわからんが、何の訓練も受けていない彼女が長く持ち堪えられるとは思えん」

「そんな……」

「ならば、最優先で魔法を行使している個体の殲滅あるのみですわね!」

 彼女に残された猶予が僅かなことに蒼白になるゴドウィンに対し、そんな空気を打ち破るかのようにマリアナは明るく努め、状況を打破する可能性を口にする。

「ちょっと待ってください。そもそもその個体がどこにいるのかわからないじゃないですか。相手がどこにいるのか見当はつくのですか?」

「それをこれから絞り込むんだ。——この辺りで比較的安全で、魔獣たちの溜まり場になり得そうな場所に心当たりはないか?」

 中央に地図を広げ一同が候補を絞ろうとする中、その問いに真っ先に反応したのは村を拠点とする騎士たちだった。

「安全、とは言い難いですが候補として真っ先に思い浮かぶのは『嘆きの砦』ですね」

 代表としてゼンが地図の一点を指さした。隣の領へと続く山と山の間を通る細い道で、ちょうど山間部を抜けて道が広くなる部分にゼンの指が置かれている。細道を抜ければ村まではほぼ一本道だ。

「昔この辺りには旧国境があったようで、外敵からの進行を阻止する為に砦が置かれていたようです。国境線が変わったことで放棄されてしまったのですが、今はそこに魔獣が住み着き占拠している形になります。縄張り争いが絶えず、山から吹き込んでくる風が砦に到達した際に呻き声のような音を発するのでそう呼ばれています」

「ならばこの砦に目的のスピアディアがいる可能性が高いわね。準備ができ次第すぐに私たちは出発します。騎士の皆さんは村の防衛に専念。万が一に備えてルインを待機させて——」

「却下だ」

 ミランが手短に指示を飛ばすのを遮るかのようにルインが口を挟む。

「時間は一刻を争うのだぞ?ミランはともかく他の三人はそんな速度重視の行軍は慣れていないはずだ。三人に合わせてミランが速度を落とせば意味がない」

「確かにそうかもしれないけどミラン様一人で向かうわけにもいかないでしょう」

 ルインの指摘通りサーリャは今回のような時間的制約のある中での進軍は経験がない。それでも無詠唱で魔法が使えるサーリャや高火力の魔法が使えるマリアナ・鉄壁の守りを持つシオン。各々が持つ強みは他の騎士の追随を許さない。多少速度は落ちるかもしれないが、それでもミランを一人で向かわせるよりかは遥かにマシなはずだ。

 サーリャの疑問に対してルインの回答は実に簡単なものだった。

「俺が出る」

「え?」

「師匠が⁉」

 マリアナだけでなくミランも予想していなかったのか、驚きで目を丸くする。

「俺とミランで一気に道を切り開く。三人は少し距離を空けて後ろから追いかけて来い。村へ向かう奴らと背後から追撃してくる奴らの掃討がお前たちの仕事だ。村の騎士はミランの指示通りに村の防衛に専念していればいい」

「……それは助かるけど、あなたはそれでいいの?ミリアンヌさんの傍についていた方がいいんじゃない?」

 ミランの代わりに配置を決めていくルインにミランは気遣わしげな表情を見せるが、ルインは肩を竦めた。

「何もせずただ傍にいるだけなど俺が納得できん。万が一に備えて簡単な転移陣だけ設置してくるからそれまでに準備を済ませておけ」

 そう言って全員が唖然とするのをそのままにルインは部屋を後にするのだった。



 転移陣を設置し終えたルインはミリアンヌの部屋を訪れていた。ベッドの上では相変わらず顔色の悪いミリアンヌが横になっている。ベッドの傍にしゃがんだルインは少し乱れていた布団をミリアンヌが起きないように静かにかけ直す。

 外に出ていた左腕を戻そうと触れたところでミリアンヌが僅かに反応し、閉じられていた瞼がゆっくりと開かれる。

「……ルインさん?」

「すまん。起こしてしまったな」

「気にしないでください。もう十分寝ましたから、いずれ起きていたと思いますよ。お務めもせずにこんなにゴロゴロとできるなんて幸せ過ぎて癖になっちゃいそうですね」

「これまでが頑張りすぎだったんだ。ミリアンヌさんはもう少し自分を大切にした方がいい。別に少し楽をしたくらいで誰も文句など言わんさ」

 ルインと言葉を交わすミリアンヌは相変わらずこちらが目を細めてしまいたくなるような微笑みを浮かべている。それでもやはり辛いのか言葉に普段のような力は無く弱々しい。それを目にすると自分の不甲斐なさに怒りを覚える。

(あの時、精神干渉系の攻撃の可能性も考慮すべきだった。物理的な攻撃ばかりに意識を向けるなど鈍っているにもほどがある)

 長い間戦場から離れ、誰かを守るということをしていなかったので完全に意識していなかった自分の怠慢だ。これではミランのことを偉そうに言えない。

「ルインさんどうしたのですか?とても怖い顔になっていますよ」

 黙り込んでしまったルインにミリアンヌが心配そうに声をかけてきて、慌ててルインは思考の海から意識を浮上させた。自分の方が辛いはずなのに彼女はこちらの心配をしてくれる。

「あぁ、すまない。少し考え事をしていた。ミリアンヌさんの状態だが、魔獣からの干渉を受けているようだから、これから全員でその原因を排除してくる」

 その言葉にミリアンヌの表情が曇った。

「そんな……私は大丈夫です。私の為に皆さんが危険を冒すようなことはしないでください。きっと休んでいればまた元気になりますから」

「ダメだ。そんなこと言ったらいつまでも回復しないことは自分でもわかっているはずだろう。俺たちの心配よりもまず自分が元気になることを優先してくれ」

「それは、そうですが……」

 申し訳なさそうにするミリアンヌだったが、こればかりはルインも引き下がるわけにはいかない。ミリアンヌは強がってはいるが、確実に魔法はミリアンヌを蝕んでいるのだ。

 それは原因を取り除かない限りいつまでも彼女を苦しめる。そんな状態は一秒でも早く治さなければならない。どれだけの壁が立ちはだかろうともそのすべてを叩き潰すだけだ。

 ミリアンヌを安心させるようにルインは彼女の左手を取り自身の両手で優しく包み込む。

「大丈夫だ。命知らずな鹿に少し教育をしに行くだけだ。終わったらすぐに戻るから何も心配するようなことはない」

「ルインさん。どうしてここまで私の為に動いてくれるのですか?ルインさんとは今回お会いしたのが初めてですよね?」

「……」

 ベッドに横になったままのミリアンヌの瞳にルインだけが映し出される。引き込まれそうな澄んだ青い目が潤んでいる。彼女からすれば何故ここまでされるのかがわからないのだろう。

「俺には昔、姉がいた」

「お姉さん、ですか?」

 ルインは震えそうになる声を無理やり抑えつけ、努めて平静に話す。

「ガキだった俺を姉さんはいつも守ってくれた。だが、俺は守られてばかりで何一つ恩返しすることができなかったんだ。最期の瞬間まで俺は震えるばかりで何一つ動くことができなかった」

 それが何を意味するのか理解できたのだろう。突然の話にミリアンヌは絶句している。

「ミリアンヌさんは姉さんに似ているんだ。もちろん俺とミリアンヌさんは他で会ったことはない。申し訳ないと思うがどうしてもミリアンヌさんと姉さんが重なって見える。ただの独りよがりな願いだが、俺はどうしてもあなたには元気でいてほしい。だからこそ俺は今回あなたの為に動くんだ」

 これまで話さなかった想いをルインは伝える。本来なら話すことなく別れるはずだったが、その機会は失われてしまった。ならばあとは動くだけだ。

「ルインさん。辛い過去を話してくださりありがとうございます。戻ってこられたら私も話したいことがあるので聞いてくださいますか?」

 ルインは表情を緩め安心させるように笑いかける。

「ああ。すべてが終わったらいくらでも聞いてやるさ。だから待っていてくれ」

「はい。お待ちしております」

 そう言ってミリアンヌは包まれた左手をぎゅっと握るのだった。


 部屋を出る際にもう一度振り返ったルインはミリアンヌに笑いかけるとそのままゆっくりと扉を閉めた。数秒ほど扉の前に立ち尽くしていたルインだったが、顔を上げて外に向かって歩き出す。すでにルインの顔からは先程までの優しげな表情は消え去り、気迫に満ちたものへと変わっている。

(助ける。何があっても、絶対に‼)



 準備を整えたサーリャは村の入り口でマリアナとシオンを交えて今後の動きを確認していた。

「フォーメーションは私を前にマリアナ様が間。最後尾にシオンを置く縦列形態でどうでしょうか。これならば後衛のマリアナ様を前後から挟む形になるので向こうからの攻撃を通すことはないと思います」

「それではシオンがこちらのペースに追いつけなかった場合に引き離される可能性がありますわ。分断される可能性は排除する必要があるので、シオンを中心にわたくしが最後尾から全体の様子を確認して指示を出しますわ」

「わかった」

「わかりました。それではそのように編成しましょう」

 あくまでも目的は一点突破による目標の排除だ。余計な相手に時間を取られるわけにはいかない。

「魔獣だ!魔獣がこちらに向かってやって来るぞ!」

 村の外を監視していた騎士の一人が周囲に聞こえるように声を張り上げ、誰もが警告のあった方向に視線を向ける。

 見通しの良い平原——嘆きの砦がある方向からぞろぞろと魔獣たちが村へと迫ってくるのが見えた。

「……なんだか変な集団」

「種族も数もバラバラですね。普通ならああやって一緒に襲ってくるなんてありえないわ」

 通常のスピアディアやフォレストボア、中には普段温厚な性格で滅多にテリトリーから出てこないような魔獣も混じっている。捕食者と被食者が肩を並べて襲ってくるなど本来はありえない。

「報告にあった各地の魔獣の大移動とも関係がありそうですわね。いずれにしても立ち塞がるのであればまとめて敵ですわ」

 群れの中にはあの青白い姿の魔獣の存在も確認できる。ミランは一時的にこの個体を朧種と名付け、全員に注意を促している。

 背後から近づく足音が聞こえたサーリャは振り返るとそこには準備万端のルインとミランがこちらへと歩いてきていた。二人から発せられる気迫に誰もが息をのみ、自然と道を空け歩みを妨げるものは誰一人としていない。

 数年ぶりに二人の英雄が同じ戦場に揃った瞬間だった。


「使う系統は?」

 余計な装飾もなく身軽さを重視した戦闘服に身を包んだルインにミランは短く尋ねる。

「土と風だが面倒なら火で。土は以前と同じだ。そっちは昔と変わっていないな?雑魚はこっちで処理するからミランはとりあえず前へ進め」

「速度は?ブランクがあるなら少し落とす?」

 挑発するような言い方をするミランにルインはじろりと睨みつける。

「ふざけたことを聞くな。トップスピード以外選択肢はない」

「そう。なら私はいつも通りで行かせてもらうわ。ブランクで追いつけないとか言わないでよね」

「それはこちらのセリフだ。久しぶりだからと言って俺の足を引っ張るようなことはするなよ。遅れるようなら問答無用で捨てていく」

 互いに厳しい言葉を投げ合うが二人は特に気分を害した様子はない。まるで当たり前のことを話すかのようで、言葉とは裏腹に相手が足を引っ張ることなど微塵も考えてないようだ。

「師匠の凛々しい姿……久しぶりですが何度見ても眩しすぎます!」

 隣でマリアナがうっとりとルインに熱い眼差しを向けているのを横目にサーリャはルインの姿に目を奪われていた。普段のダラダラとした姿など微塵にも感じられず、近くにいるだけで気を引き締めなければと感じてしまうほどの雰囲気が全身から発せられている。

(これが本当のルインの姿なのね)

 サーリャたちの元へ二人が到着するとルインは三人を見渡した。その際にルインと目が合ってしまいサーリャの心臓が跳ねた。顔が熱くなり、なぜか気恥ずかしくなり思わずルインから顔を背ける。

「それじゃあ作戦を改めて説明するぞ。……サーリャは何をしているんだ?」

「な、なんでもないわ!私のことは気にせず続けてちょうだい」

 真っ赤になり舌がもつれながらも必死にパタパタと顔の前で手を振るサーリャにルインは首を傾げたが、それ以上追及することはせず大人しく引き下がったことにほっと安堵に息を吐いた。

「今回の目標は精神干渉魔法を行使しているであろう統率個体、スピアディアの討伐だ。俺とミランで道を切り開くから三人は俺たちが撃ち漏らした奴らを処理しながら追いかけて来い。雑魚に紛れて変異種が紛れている可能性もあるから一体も残すな」

「「「はい!」」」

「それじゃあ行くぞ」

 ルインはこちらに迫ってくる魔獣の群れに目を向けると魔法を構築し始める。ルインの目の前に巨大な魔方陣が現れ、その中心から紫電が漏れ始める。

「レイン・バースト」

 いくつもの枝分かれした雷がまるで生き物のようにうねりながら先頭集団へと殺到し、瞬時に対象を焼いていく。直撃していない魔獣は辛うじて息はあるが、強力な雷が体内で暴れ、痺れたようにその場に次々と蹲っていく。

 最後には群れの中央に大きな道が出来上がっていた。

「作戦開始だ」

 ルインとミランを追いかけるようにサーリャも駆け出した。



 サーリャたちが戦闘を開始してしばらく経った頃、ミリアンヌはベッドから抜け出し部屋の中で祈りを捧げていた。体調は未だ回復の兆しは無くこうして起き上がるのも辛いが、だからと言って祈りを止めるつもりはない。

 ミリアンヌがこうして祈り続けている間も自分の為に危険を冒して戦い続ける人たちがいるのだ。何もできない自分に歯がゆくなりながらも、せめて無事に戻ってくることを祈るぐらいはしたい。

「皆さん、どうかご無事で!——っ!」

 目を閉じ、より強く祈るために自然と合わせていた手に力が入ったところで突然頭に針を刺されたかのような鋭い痛みが走った。あまりの痛みに思わず身体がよろめき、片手を床につくことで何とか倒れそうになる身体を支える。

「また……何なのこの痛みは」

 頭痛はこれまで何度もあった。しかし最近その頻度が多くなり痛みも強くなっている。これも今自分を襲っている症状の一つなのだろうか。痛みに耐えながらも自然と目の端に涙が浮かんでくる。

(ルインさん……)

 ミリアンヌは首から下げていた木彫りのアクセサリーを握る。少し前に彼からもらったお守りだ。少しでも彼の優しさに縋ろうとするミリアンヌだったが、そんな彼女にさらなる変化があった。


 —————————。


「な、なに?」

 不意にどこからか呼ばれたような気がして、頭を上げたミリアンヌは周囲を見渡す。しかし部屋にはミリアンヌ一人だけで他には誰もいない。


 —————————。


 それでも遠くからはっきりと誰かが自分を呼んでいる。名前を呼ばれたわけではなく言葉にならない音のようにも聞こえる。それでも呼び声はミリアンヌの意識へと深く浸透していく。

「……行かないと」

 ゆらりと立ち上がったミリアンヌは熱に浮かされたかのようにフラフラと歩きだす。彼女の目は焦点が合っておらず左右に身体が揺れているが、自分を呼ぶ声に抗えずミリアンヌはわずかに開いていた窓を開けて外へと転がり出た。

 ゆっくりとミリアンヌが顔を上げると目の前の何もない空間が蜃気楼のように揺らめき始め、青白い光が出現するとやがて一体の鹿へと姿を変えた。

 目や鼻の窪みがあるだけののっぺりとした存在の異様に裂けた口がゆっくりと開かれ、自身へと近づいてくるのをミリアンヌは感情の宿さない瞳で見続けた。


 教会の一室。閉められた扉を小さくノックし、数秒後に扉が開くとアレンが慎重に何かを持って入ってきた。

「ミリアンヌ姉ちゃん。お腹空いてないか?ちびっ子たちとお粥を作ってみたんだ。初めてだったけど多分食べられると——」

 器に盛られた粥から湯気が立ち上る中、そこでアレンはようやく部屋の変化に気づいた。

「ミリアンヌ姉ちゃん?」

ベッドの上で寝ているはずのミリアンヌの姿はどこにもなく、もぬけの殻となっている。トイレか?いや……ここまで誰もミリアンヌが部屋を出た姿を見ていない。

 開け放たれた窓から入る風でカーテンが静かに揺れているだけだった。



 戦場の最前線。空から地上を見下ろせばいくつもの生物がひしめき合い、あまりの密集具合に誰一人としてその中を通り抜けることはできないと思うだろう。

 そんな集団の中に自ら突っ込んでいく一団がある。いや、一団というには規模があまりにも小さく、圧倒的な物量差に簡単に押し流されてしまいそうだ。

 しかしその一団はそんな戦力差など全く関係ないというかのごとく自分たちの目の前に立ち塞がる存在を例外なく薙ぎ払って道を作っていく。

 雷をまといながらミランは進行を阻むかのように立ちはだかった魔獣に剣を突き出し、まるで矢が貫通したかのようにその巨体に大穴を空けながら駆け抜ける。

 そんなミランを止めようと魔獣が集まり数の力で押し戻そうとする。

「跳べ!」

 たった一言。背後からの声にミランは振り返ることなく反応し、前方へ向けて大きく跳び上がる。着地先では早く下りて来いと言わんばかりに獣たちがミランを見上げて待ち構えている。

 そんな獣の集団はミランが見下ろす先で鋭利な何かで斬られ、身体が上下に分かれる。肉塊になった集団はそれだけでは済まない。まるで巨大な手で邪魔なものを払い除けるかのように左右へと無理矢理移動させられる。残ったのは新しく出来上がった道だけだ。

 誰にも邪魔されることなく着地したミランは速度を落とすことなくそのまま前へと走り出す。その隣には追い付いたルインが並走している。

 ミランは走りながらチラリと横目でルインを見る。彼はブランクなど無かったかのように昔と同じように自分の隣を走ってくれる。こんな状況なのにもかかわらずミランは今この瞬間を楽しんでいた。

 自分の後ろではなく隣で肩を並べてくれるような存在は今の王国には一人としていない。彼だけが唯一同じ場所を走ってくれる。

 ルインが何を考えているのかわかるように、彼もこちらの意図を読み取ってくれる。言葉を交わさなくても自然とお互いにやるべきことが分かる。それだけでミランの心が高鳴り笑みがこぼれる。

「もう少ししたら砦だ。気を引き締めろよ」

 どうやらこっそりと見ていたのに彼は気づいたみたいだ。些細な変化に気づいてくれていることがさらに嬉しく感じてしまう。

「任せて。さっさと終わらせましょう!」

 弾むように答えるその様子に説得力はない。それでも不安など無かった。

 彼とならどこまでも先へと進める。


 一方後ろから追いかけるサーリャは二人が切り開いていく道をただ突き進んでいた。

「遠距離攻撃来ます!」

「シオン、二時方向の頭上にフォートレスを二枚屋根のように掲げなさい。位置はわたくしたちの移動に合わせてその都度調整。砲撃先はわたくしが対処するのでサーリャはそのまま進みなさい」

「はい」「わかった」

 マリアナの指示を受けて二人はそれぞれ防御と攻撃を止めることなく先へと進む。弧を描いてサーリャたちへと降り注いできた攻撃をシオンのフォートレスが防ぎ、一つとして三人へと抜けるものは無い。酸の攻撃が含まれていたのか、攻撃の一つが地面へと落ちるとジュっと音を立てて石が溶けていく。

「勝利をわたくしに。贈るは燃えるような大輪の花。咲き誇りなさい——」

 遠距離攻撃の飛んできた先へマリアナが杖を向け、杖の先端にある宝玉が眩い光を放つ。

壮麗な花炎グローリー・ボルレシア

 杖の先から赤い魔力の塊が撃ち出され、先頭にいた魔獣に命中する。相手に大穴を空けることも爆発することもせず一瞬の静寂が相手側に訪れる。

 不発か?そんな考えが生まれそうになったところで命中した魔獣の身体が歪に盛り上がり、内側から巨大な赤い花の蕾が突き破ってきた。蕾はどんどん巨大化していき、突き破られた魔獣がすっぽりと入ってしまうほどに成長したところで巨大化が止まった。

 そして内側から爆発するかのように勢い良く花開く。周囲を飲み込むほどの大きなクレマチスの花弁が広がり、周囲にいる魔獣たちの頭上に落下してくる。花弁に触れた魔獣は一気に燃え上がり、その様子を見ていた周囲は急いでその場から離れようとするが、密集しているために身動きが取れない。

 あちこちに炎が広がる中、その中心にあるクレマチスの花は決してその魅力を失うことなく美しく咲き誇っていた。

「もしかしてマリアナ様は花がお好きなんですか?」

大地の葬送花グラウンド・フューネラル」や「壮麗な花炎グローリー・ボルレシア」などマリアナの魔法には花を冠するものが多く見受けられる。騎士は自分のスタイルに合わせて使用する魔法に特徴がみられるが、ここまで花を主軸とした魔法構成にしているのはマリアナが初めてだ。

「あら、今頃気づいたのですか?あなたの言う通りわたくしは花が好きです。土地や環境によって各地で特徴があり、たった一輪であっても力強く生きるその姿は気高く感じます。種類の多さも素敵ですが、気高く多様性を際限なく受け入れるその懐の深さはわたくしにとって見習うべきところなのです」

 大穴が空いた敵集団へさらにもう一発「壮麗な花炎グローリー・ボルレシア」を撃ち込んだマリアナから凛とした声が返ってくる。

「力が強いだけの魔法など美学がありません。力強くありながら美しさも兼ね備えるのがわたくしの目指すものですわ。——あっ、もちろん言っておきますがこれを誰かに強要するつもりなどありません。わたくしの美学があるならば人の数だけ美学・信念があるのですから。それよりも少し師匠たちから遅れ始めていますわ。二人とも少しペースを上げられますか?」

「……やってみる」

「こっちが遅れているというより、二人が速すぎるのですよ」

 前を行く二人の姿を遠くに感じながらサーリャは呆れと感心が混ざったような心情を吐露する。シオンもできるとは言わずに努力するという範囲でとどめている。

 ここに別の騎士団がいたのならばあっという間に置いてけぼりにされ、追いつくことは不可能だろう。だからこそ多少距離が開きながらも追いかけられているサーリャたちは十分健闘できていると言ってもいいが、それでもルインとミランのペースには劣る。

(これが本気になった二人の実力なのね)

 マリアナのように指示を後方から出しているわけでもなく、互いに役割を主張しているわけでもない。お互いに何をするべきなのかを理解し、何を相手に任せるのかを正確に把握しているからこそ声を掛け合う必要はない。最小限のやり取りだけで完璧な連携が取れている。

 そして何よりもめまぐるしく変化する戦場の中での状況判断が異常なくらいに早い。まるで流れ作業のごとく瞬時に判断し対処していく。今も二人の猛攻を避けるように後方のサーリャたちへ向かってくる個体が何体かいるが、ミランはわずかに首を動かし相手を確認するとすぐに興味を失ったかのように再び前を向いて新たな敵を屠り始める。

 ミランのわずかな隙を埋めるようにルインが何も言うことなくフォローに入り、速度を維持する。

 すべてを殲滅しながら進むのではなく、多過ぎもせず少な過ぎもない絶妙な量をサーリャたちへとまわしている。この加減のおかげで三人が何とかついて行けていると言ってもいい。

(まだまだ遠いわね……)

 強くなったつもりではいるが、まだまだ二人と並ぶには圧倒的な力不足。そのことを思い知らされたサーリャは剣を今一度強く握り直し、先へと進むのだった。



 嘆きの砦がようやく見えてきた。険しい山に挟まれる形で頑丈そうな砦が道の中央に存在している。所々崩落しているが、比較的被害が少なかったのかそれとも砦自体が強固だったのか、放棄されているにしては思っていたよりも綺麗に残っている方だ。

 砦が機能していたころに破壊されたのか、それとも放棄されてからなのか分からないが、正門があったはずの部分はぽっかりと穴が開いており砦の奥が見える。そんな正門後にはまるで守りを固めているかのように魔獣たちがひしめいていた。サーリャたちが接近してきたことに気がつくと次々と体を起こし、こちらに注目が集まる。

「ルイン、例の個体が今のところ見つからないわ。砦の奥に引っ込んでいるのかしら?」

「おそらくな。魔法を行使するために奥に引っ込んでいると仮定すれば、あいつらはそれを守る門番と言ったところだろう。数を減らして無理矢理にでも外に引っ張り出すしかない」

 ミランは頷くとサーリャたちへと振り返る。

「三人はここで周囲の魔獣たちを処理して退路を確保しなさい。朧種がどれだけ控えているかわからないから、できる限り魔力の消費は控えるように」

「了解!」

「ふん!そんなこと言われるまでもないですわ。シオンはわたくしのフォローをお願いします」

「任せて」

 ルインとミランが砦へと進んで行くのを見送りながらサーリャたちはその場にとどまり左右へと広がって迎撃を始める。サーリャは集団の中へ突っ込むようなことはせず中距離から魔法で魔獣たちを次々と狩っていく。空気中に含まれる魔力をできる限り使用し、自身の魔力消費は可能な限り抑えるがそれでも少しずつ消費はしていくことは変わらない。大規模な範囲魔法は使わず確実に一体ずつ処理していく。

 そんなサーリャの背後で大きな爆発が生じ、思わず振り返ってみれば紅蓮の炎が周囲一帯を焼き尽くし、魔獣が宙へ吹き飛ばされるのを眺めていると熱波が遅れてサーリャへと届いた。

「……本当に魔法の威力が桁違いね」

 魔力消費を抑えていてあれほどの威力を気軽に使えるのだ。いくらサーリャでも周囲を吹き飛ばすほどの威力を何度も使うとなれば自身の魔力を相当消費してしまう。にもかかわらず使うことができるのはひとえにマリアナが持つ特性による恩恵が大きい。

 範囲魔法で周囲を殲滅するマリアナの姿に呆れながらもその実力の高さに思わず見とれていたサーリャだったが、視界の隅に動きがあり意識を引き戻す。

 毒があるのかと思えるほどの色鮮やかな体毛を持ったデコイラビットが鋭利になった前歯を見せながらサーリャへと飛び掛かってくる。

 サーリャはデコイラビットの脳天に寸分違わず剣を振り下ろすが、剣はデコイラビットの身体をすり抜けていき真っ二つになることなく、その姿だけがかき消える。

(これは想定の範囲内よ)

 サーリャは動揺することなく素早く周囲に目を走らせる。サーリャの死角から地味なくすんだ色の兎が迫って来ている。

 色鮮やかな分身を作り出して注意を引きつけ、本体はその間にその場から離れる。本来は逃走用として使われるが、こうして戦闘の囮としても十分効果がある。

 サーリャは左腕をデコイラビット本体へ向けるとピアーズ・ショットを放つ。魔力で構成された針がデコイラビットへと飛んでいきその眉間へと吸い込まれる。デコイラビットは空中でビクンと体を震えさせるとそのまま力を失って落下していく。

 最後まで見届けることなく意識は次の敵へと向けられている。もう一体のデコイラビットが左から迫って来ている。

 サーリャは身体の勢いはそのまま、コマのように片足で立ちながら強力なまわし蹴りを繰り出す。サーリャの蹴りをまともに食らったデコイラビットはボールのように吹き飛ばされ、転がった先の止まった瞬間を狙って風の刃を放ち本体を真っ二つにする。

 休む暇もなく間髪入れずに何かが飛来し、サーリャはそれらを剣で弾きながらその内の一つを叩き切る。赤い軌跡を描きながら足元にボトリと細長い肉の塊が転がる。


 ギュエエエエェェ!


 少し離れた場所で苦悶の声を上げているのは二メートルほどもある巨大なカメレオンで、口から盛大に血をまき散らせている。傷ついた同族を守るかのように何体ものカメレオンが前へと進み出る。

「次は誰?何体でもかかってきなさい!」

 周囲に聞こえるようにサーリャは声を張り上げるのだった。



 サーリャの啖呵はマリアナの耳にも届いていた。

「随分と派手に暴れているようですね。まぁ彼女ならそれぐらいできて当然ですわね」

 満足そうにするマリアナとは違い、シオンの方は少し困ったような表情を浮かべる。

「それを言ったらマリアナも同じ。むしろサーリャよりも派手……」

 シオンの視線の先はまさに地獄さながらといった光景が広がっていた。見渡す限り炎で焼き尽くされており、大地は赤熱化している場所があちこちに出来上がっている。死体は尽く炭へと成り果てているので、残っているのは存在証明になる魔核だけだ。

 しかしこの惨状を引き起こしたマリアナは特に何も感じない。

「あら、そうですか?まぁこれがわたくしなので慣れてください。今回ばかりは人命救助が最優先なので手加減などするつもりはありませんわ」

「それはかまわない。でも、これ以上炎を広げないで。シオンの歩く場所が無くなってしまうし、暑い……」

 近接戦闘もこなすシオンからすれば足場が無くなってしまえば自由に身動きが取れなくなる。至極真っ当な意見だが、マリアナからすれば服の胸元を引っ張りながら口にした最後の一言が本音のように感じられる。

「それでは少し趣向を変えてみますから少し時間をくださいな。あまり離れすぎないのであればシオンも動いてもらって構いません」

 杖を軽く振り目の前の炎を消し飛ばすとマリアナは魔力を集めながら次の準備を始める。マリアナの言葉を受けてシオンはスカートの下に隠し持っていた二本のダガーを抜き放った。鈍い光を放つ刀身がシオンの魔力で包み込まれて魔力の刃が形成される。

 シオンはそのまま単身敵集団へと突っ込んだ。地を這うかのように姿勢を低くし迫るシオンを迎撃しようと体格のいい猿が前へと進み出る。発達した太い腕は捕まってしまえば小さな身体など簡単に粉砕してしまうほどで、その巨腕は足元に転がっていた岩を手に取るとシオン目掛けて投擲する。直撃すれば即死、掠りでもすれば身体の一部は持っていかれるであろう死の塊をシオンは感情が抜けたかのようにスッと目を細めた。

 すぐさま右へと進む方向を変え、直撃しない最低限の行動で岩を避ける。そのあとも岩が幾度となくシオンへ飛来するが、そのすべてを左右へ避けるだけで足を止めず距離を詰める。

 投擲が無意味だと悟った猿は一度足元に感情を爆発させるかのように腕を振り下ろす。地が震え、腕の下の地面が大きく凹んでしまっている。サルは足元に転がしておいた棍棒を手に取ると、向かってくるシオンを待ち構えるかのように構えるが、シオンは猿の周囲にいる魔獣の群れの中に飛び込んだ。自分よりもはるかに体格の大きい群れの中に飛び込んだことによってシオンの姿が見えなくなる。

 シオンは周囲の獣の陰の間を縫うかのように移動し、相手がこちらを見失った瞬間を見計らって飛び出すと相手の右足の腱を切り裂く。体毛に覆われた強靭な足に深い傷が入った感触が剣を通して伝わってくるのを感じながらシオンはそのまま次の群れの中に姿を紛れ込ませる。

 突然傷つけられたことで猿は叫び声を上げながら攻撃が飛んできたであろう方向を振り返るが既にシオンはその場所から移動している。残っているのは獣の群れだけだ。

 再度シオンは群れの中から飛び出し今度は左足の腱を深々と切り裂き、同じようにまた別の群れの中に姿を隠す。

 一撃離脱。シオンは決して正面から打ち合うようなことはせずに自身の体の小ささを最大限に活かしながら確実に攻撃を通していく。姿を隠す際に小型の魔獣に姿を見られてしまうが、こちらは駆け抜けざまに一撃でその息の根を止める。騒がれる前に処理するので、周囲の魔獣からすれば突如として仲間が死んだと映ってしまうので状況が分からない。

 両足の腱を切られたことでようやく相手が膝を地に着けた。

 好機とばかりにシオンは再び死角から飛び出し、今度は首を飛ばそうと剣を振ろうとしたところでぐるっと異常な速度で猿の頭が勢いよくシオンの方へと向いた。

「っ⁉」

 突然の動きにさすがのシオンも驚愕し目を見開く。先ほどまで確実にこちらを見失っていたはず。それなのに今回はシオンの位置を正確に察知してみせた。これが獣の直感というものなのだろうか。

 シオンの姿を捉えた猿は持っていた棍棒を大きく振りかぶる。シオンは攻撃態勢に入っているので空中に留まったままで方向転換ができない。これまで積み重ねられた痛みと怒りを全て乗せるかのような強烈な一撃がシオンへと迫る。

「……フォートレス」

 即死の一撃はあと少しでシオンに届くというところで大きな衝撃音が響き渡った。シオンと棍棒の間に滑り込むかのように一枚の盾が主への脅威を受け止め、残りの三枚はシオンを守るように周囲に浮かぶ。相当な勢いがあったはずだが、棍棒を受け止めた盾は少しも退くことは無い。

 まさか攻撃を止められるとは思っていなかったようで、振りぬいた態勢のまま相手の動きが僅かに止まり、その隙をシオンは見逃さない。自己強化魔法で自身を加速させ一気に迫る。

 弾丸のように一直線に突っ込んだシオンは猿の首のすぐ側を通過し、地面へと着地する。敵は固まったかのように微動だにしないが、やがて猿の首がゆっくりとズレ始め地面へと落下した。頭部を失った身体は切り口から盛大に血を吹き出し、遅れるようにして地響きを立てながら地面へと倒れこんだ。

 フォートレスがシオンの頭上へと移動し、まるで屋根のように広がると降り注ぐ赤い雨を受け止める。シオンには一滴とて触れることは無い。

「ありがとう」

 まるで親しい人に語りかけるかのように、シオンは嬉しそうに頭上の戦友を見上げるのだった。


 シオンが魔獣を倒したのを見届けたマリアナは安堵しながら、発動待機させていた魔法の一つを解除した。念の為にと思って用意していたが、彼女には必要無かったようだ。

 敵の注意がシオンへと向けられている間にこちらの準備も完了した。

「光よ、遥かなる高みからすべてを見渡せ。大地よ、命の鼓動を感じとり一つの願いを聞き届け。願うは護り——恐れを振り払う至高の灯火」

 両手で杖を掲げながら詠唱を始めるマリアナの周囲に変化が起こる。戦場のあちこちで地面から淡い輝きを放つシャボン玉のような光が浮かび上がってくる。マリアナの周囲も同じで、地面の中からゆっくりと光球が浮かび上がってくる。

 そしてマリアナの遥か頭上で巨大な魔方陣が展開され、鏡写しのように遅れて地上にも同じ大きさの魔法陣が出現する。戦場すべてとはいかないが、それでもかなりの範囲が魔法陣の中に収まる大きさだ。

「ちょっとちょっと!マリアナ様、この規模はまずいです!範囲内に私たちも入っていますからね⁉」

 魔法陣の範囲内にいるサーリャがギョッとしながらこちらに振り返ってくるが、気にすることなくマリアナはゆっくりと目を閉じる。閉じられた視界の先ではまるで空から眺めているかのように戦場が見え、仲間たちだけでなくも見える。

 自分自身を中心とした戦場を見渡しているマリアナは静かにその名を口にする。

夜明けの波紋アウロラ・フルクティクルス

空に浮かぶ魔法陣の中心からまるで朝露が落ちるかのように一つの光球が落下してくる。光球は真下にいるマリアナの杖の先端にある宝玉に触れた瞬間、光が弾けた。

水面に石を投げ入れたかのように全周囲に向かって光の波紋が広がる。戦場に浮かび上がっていた光球に波紋が触れると光が弾け、新たな波紋を作り出す。連鎖的に波紋が戦場を駆け巡っていく光景は空から、そして状況が違えば綺麗に映ったことだろう。

迫り来る波紋にサーリャはシオンが咄嗟に身構えるが、波紋は二人の身体を通り抜けるとそのまま通過していく。何の影響も起きなかった二人は困惑しながら光が出入りした自身の身体を触っているのが見える。

波紋は当然魔獣たちがひしめいている場所にも到達した。サーリャたちと同じように魔獣たちの身体の中にも波紋が吸い込まれていく。しかしサーリャたちと違って吸い込まれると同時に魔獣たちに変化が訪れた。

 あちこちで苦しむ声が上がり、苦しみに耐えきれないのか次々とその場で蹲り始める。そして砂のように指先から徐々に崩れ落ちていく。

 超広域迎撃魔法「夜明けの波紋アウロラ・フルクティクルス」——範囲内に存在するあらゆる敵を殲滅することのできるマリアナのオリジナル魔法。地上と空。双方から敵の位置を把握し、敵が地上にいようが空を飛んでいようが位置に関係なく相手に打撃を与えることができる。

 粒子レベルにまで最小化された攻撃は敵の体内に侵入すると、内部から細胞単位で崩壊させていくという見た目に反してなかなかに恐ろしい魔法である。

 夜が明け始め、闇が消えていくように派手な爆発も破壊音も響かせることなくゆっくりと崩れていく。

 圧倒的に見えるが、この魔法が〝迎撃魔法〟と呼ばれているのには理由がある。

 そもそもこの魔法は攻めることを主眼としていない。広範囲に探知魔法を展開しながら魔法で自身の視覚を上空に飛ばして敵味方の選別を行う必要があるので、乱戦となってしまえば一人も漏らすことなく識別することなど不可能である。

 これは退路を断たれ、周囲を敵に囲まれたような籠城戦を想定して作られている。それこそ周辺国に攻め込まれ、いよいよ覚悟を決めなければならなくなった時のような——。

 どんなに辛いことがあっても、幸せな日々が続いている時でも変わらず朝が来るように、希望の光を絶やさず最後まで戦う。王族として最後まで愛する民を守り抜くというマリアナの覚悟が込められている。

 本来なら複数の騎士を動員し、役割を分担してようやく行使できる魔法を単独で使えるのもマリアナの持つ特性ゆえである。

 最後の波紋がゆっくりと消え去ると、マリアナの周囲に敵は一体として残っていない。己を守るようにその場に立ち尽くすサーリャとシオンがいるだけである。

 唖然とするサーリャとシオンがこちらに視線を向けているのを感じながらマリアナはゆっくりと瞼を開く。周囲を見渡し結果に満足したマリアナは、

「完っ璧‼」

 そう言って胸を張るのだった。



 時間は少しだけ戻り、マリアナの魔法の効果はルインとミランのいる戦場にまで効果を及ぼした。

「またアイツは派手な魔法を作り出したんだな」

「それについては否定しないわ。でも、元はと言えばあなたが範囲魔法の良さを姫様に何度も言い聞かせていたのが原因なのだから、少なからずルインにも責任はあるわよ」

 他人事のような反応をするルインにミランはやんわりと責める。

 マリアナの持つ特性を最大限発揮するならば、今回のような大規模範囲魔法は確かにマリアナ向きである。しかしその教育者がルインとなれば通常では考えつかないようなトンデモ魔法を使いだすのは時間の問題だった。魔法の効果内容はマリアナの意思だが、それを可能にさせたのはルインが叩き込んだ魔法技術あってのことだ。

 二人の周囲にはあまり敵は残っていなかったが、それでも手を下すことなく数が減ったのは大いに助かる。ルインとミランが砦へと歩みを進めると、扉を失った正門からゆっくりと銀色の体毛を持つ獣が姿を現した。これまで相手にしてきた雑魚とは力もその身から放たれる風格も違っている。さすがに砦の内部までにはマリアナの魔法の効果は届かなかったようだ。

「ようやくお出ましか。さっさと片付けるぞ」

「気持ちはわかるけど焦らないで。見た目だけじゃなく朧種まで引き連れているのだから確実に通常個体じゃないはずよ。何を仕掛けてくるのか分かったものじゃないわ」

 そう言っている間にもスピアディアの周囲の空間が揺らめき、青白い炎がいくつも出現する。ゆらゆらと揺らめく炎はやがて獣の姿へと変わっていく。狼であったりヤギであったりと形作られた個体の種族は様々だ。

「そんなものすべて薙ぎ払えば済む話だ。俺は行かせてもらう」

 初めて遭遇した時のように前へ出ようとするルインを心配するミランだったが、そんなミランの心情を裏切るかのようにルインはたった一人集団へと突っ込んでいく。

「ちょっとルイン⁉」

 背後からミランの咎めるような声が聞こえてくるが、そんな声を無視していると迎え撃つかのようにスピアディアの前に何体もの朧種が集まって壁を作る。ルインは敵陣の左右に「ウインド・ストーム」を展開させる。巨大な竜巻は周囲にいる邪魔な朧種を次々と吸い込んでいき、吸い込まれた朧種は内部に配置した真空の刃で切り刻まれ命を落としていく。

 立ち塞がる邪魔な存在が消え去るとルインは竜巻が作り出す強力な吸引力を利用して一気に加速し、ボルクの上位魔法であるボルガストをスピアディアへと展開する。弾丸ではなく放射された紅蓮の炎が視界の先を一気に焼き尽くす。

 炎が晴れた先には——なにもいない。

 ボルガストを逃れたスピアディアはルインの左側へと移動すると力を溜めるように首を大きく後ろへ引く。

 そして力を一気に開放するかのように勢いよく角による刺突がこちらへと向かってきた。ルインは直前に地を蹴りその場を離れたが、直前まで立っていた位置を角が通過するとボッと空気が貫かれる音が聞こえた。まともに受ければ致命傷は避けられない。

 スピアディアは左右に角を振り回し、時折こちらの隙を見つけては強力な刺突を出してくる。スピアディアと言っても角の先端は鋭利なため振り回すだけでも当たれば相手を切り裂くことができる。

 ルインは態勢を低くし角を避けると、首を振り切った瞬間を狙って無防備な胴へ雷撃を放つ。貫通した雷撃は相手の体内を焼くだけでなく、体内に残留した雷撃が行動を麻痺させる。

 決定的な隙。その好機を見逃さないルインは決定打を放とうとするが、ルインの背後の空間が揺らぎ、朧種のスピアディアが二体姿を現した。どちらも刺突の予備動作に入っている。

「ちっ!」

 軽く舌打ちするとルインは背後に「サンド・ウォール」の魔法を展開し壁を作る。壁を構築し終えたと同時にサンド。ウォールに二つの大穴が空いた。土や岩ではなく砂によって衝撃を吸収させたにもかかわらずこの威力。

 しかし作り出された刹那とも言えるこの時間は両者の明暗を分けた。大穴の先でルインは緑に輝く二つの球体を浮かび上がらせていた。

 朧種の対応をするルインの背後からこちらも好機とばかりに銀の体毛を持つスピアディアが刺突を無防備なルインへと放つ。しかし、横から割り込んだ存在に阻まれた。

「まったく、人の話は最後まで聞きなさいよ」

 ミランが自分の盾を掲げてルインの背中を守る。衝撃でビリビリと盾が震えるが、貫通されることなく鋭利な角を弾き返す。

「結局何とかなったんだ。問題ないだろ」

「あなたが問題なくてもそれに振り回される私のことを少しは気にして欲しいのよ。その辺りは相変わらずなのね」

 背中越しにミランの声を聞くルインはふっと僅かに口角を上げながら、小さな真空の刃を無数に内包した「エアリアル・ボール」を今しがた出来上がった大穴から相手に向かって撃ち出す。

 頭を大きく前へ突き出したままの朧種二体に命中し、障害物を真空の刃で削りながら真っすぐ進む。サンド・ウォールが崩れていく先で、頭から尻にかけて一本の貫通痕が出来上がった二体が燃え尽きるかのように崩れ落ちていくのが見えた。


 ルインのあとを引き継ぐ形でミランは目の前のスピアディアの猛攻を捌き続ける。すべての攻撃を避けるルインとは違い、ミランは自身の持つ盾で角の軌道を逸らし生まれたわずかな隙を狙って剣を振るう。

 何度目かになる渾身の刺突が来ると察知したミランは盾を構えたまま一歩引くのではなく、逆に前へと踏み込む。

「ふっ!」

 魔法で身体強化したミランはインパクトの瞬間、盾を下から上へと跳ね上げる。盾を通じて攻撃の衝撃が左腕全体に伝わってくるが、引くことなくその場で耐えきる。勢いを上へ逃がされたスピアディアの前脚が地から離れ、ミランに無防備な胸を晒した。そこをミランが剣で一閃しようとするが、不意に背筋に悪寒が走り大きく後ろへ跳び下がる。

 スピアディアが前脚を下すのと同時に、先程までミランが立っていた場所の地中から土の槍が何本も突き出してきた。

 接近戦でやり合うのは危険と判断したのか自慢の角で突っ込んでくることはしなくなり、先程地面から生やした土の槍が魔力によって引き抜かれスピアディアの周囲に浮かぶ。しかしその槍はミランの背後から飛来した魔力弾によって一つ残らず砕かれた。

「突っ込め。狙うのは前脚だ」

「わかったわ」

 二人を近づけまいとスピアディアが周囲に転がる岩や瓦礫を引き寄せて撃ち出そうとするが、それらをすべてルインが叩き落し駆けるミランを止めようと何もない空間が揺らいで中から朧種が出てくるがミランの突進力に抗えず駆け抜けざまに次々と斬り捨てられる。

 ミランは懐から小瓶を一つ取り出すと、それをスピアディアへ全力で投げつける。一直線に向かっていた小瓶はスピアディアへと命中する前に、新たに出現した朧種のウルフ系が横から嚙み砕く。

 小瓶が割れると同時に小さな破裂音を響かせながら大量の黒煙が噴き出し周囲の視界を遮る。それでもミランは相手の魔力を正確に捉えているので視界が封じられた程度で足が止まることは無い。

 時間にしてほんの数秒。突如として突風が吹き荒れ、周囲に満ちていた黒煙が吹き飛ばされ互いの姿が視認できるようになった。自分の姿を見られてしまったが、それでもミランの口元は思わず口角が上がってしまう。

 剣の間合いまであと少し。もはやこちらを止められないと察したスピアディアが少しでも致命傷を避けようと首を後ろへ引き、ミランを踏みつけようと前脚を上げる。そのままミランの頭へ叩きつけようとしたスピアディアだったが、何かに気づいたのかその動きが一瞬止まる。

 スピアディアの視線が自分ではなくその背後へと向けられている。

 先程まで自分のすぐ後ろを走っていた相棒の姿はどこにもない。いるのはミランだけだ。

 目の前の脅威を排除しなければならない。しかしルインを見失っている状況を放置するのも脅威。どちらの対処を優先するべきなのか思考を巡らす無防備な相手に肉薄したミランは剣を一閃させる。切り飛ばされた前脚が宙を舞いスピアディアの悲鳴が響き渡る。

 痛みでおもわず空を見上げたスピアディアはようやく気付いた。太陽を背にして何かがこちらへと向かって来ていることに。

「今更気づいても遅い」

 ミランが作り出した黒煙に紛れて空高く跳び上がったルインは落下しながら右手に魔力を収束させていく。魔力が集まると同時に魔法の発動に備えて周囲の空気が圧縮されながらルインの右手に集まっていく。

 ルインの落下先から逃れようとするが前脚を失ったスピアディアは移動することすらままならない。そしてとうとう魔法の射程に入った。

破穿槌はせんつい


 高密度に圧縮された空気の塊がスピアディアに振り下ろされた。抗うことを決して許さない攻撃が地表に届くと、地面が跳ねたのではと思えるほどの振動と人など容易く吹き飛ばすほどの暴風が周囲へと広がる。

 サーリャは咄嗟に剣を地面に刺し、さらに魔力障壁も前面に展開させて迫り来る衝撃に耐える。圧縮されていたとはいえ、とんでもない空気の力に障壁を展開していても思わず身を縮こませてしまう。

 暴風が収まり周囲を見渡せばマリアナとシオンはフォートレスの陰に、ミランは着弾点から少し離れた所で盾を地面に突き刺して耐えていた。

 そして大きく地面が抉られ穴の開いた場所にルインは立っていた。足元には体の後ろ半分しか残っていないスピアディアだったものが転がっている。

「やったわねルイン。これでミリアンヌさんの魔法も解けたはずだわ」

「師匠お見事ですわ。シオンの盾に隠れることしかできませんでしたが、あれほどの威力の魔法を即座に構築できるなんてわたくしには到底真似できませんわ!」

 無事な姿を見せるルインの元へサーリャたちが集まってくる中、ミランだけは複雑そうな表情で突き刺していた盾を引き抜き土を払っていた。

「……そんな威力の魔法を至近距離で受ける私の身にもなってほしいわね。あなたのことだから大丈夫だとわかっていても生きた心地がしなかったわ。——ルイン?」

 ルインは振り返ることなく足元に転がるスピアディアの一部を見つめている。つられるように全員がルインの視線を追いかけると、あるものが目についた。

「これは……傷痕?」

「ん。でも最近できた傷じゃない。時期は特定できないけれど、相当前に付けられたものだと思う」

 何かに引っ掻かれたような傷が背中から尻にかけて走っている。シオンが言うように随分前に付けられた傷のようで、肌が少し歪になっているが完治している。怪我の影響からなのか傷の周囲の体毛は無くなって、肌が露出しているから傷が余計に目立っている。

「ルイン、この傷がどうかしたの?」

「……いや、なんでもない。とりあえず討伐はできたから急いで村へ戻るぞ。本当に精神干渉が解けているかどうか確認する必要がある」

 ミリアンヌの状態が気がかりであるが、ひとまず目的は達することができた。だからこそ皆が気を緩めてしまって反応が遅れてしまった。

 この場で絶対に聞くことのない声を——。



 真っ暗な闇の中でミリアンヌは一人立ち尽くしていた。いや、立っているのかどうかも今のミリアンヌには確認しようがなかった。下を向いても自分の身体を視認することはできず、どこを見渡しても闇が広がっているだけだ。視界だけが今のミリアンヌが自由に動かすことができる感覚だ。

「ここは?私って何をしていたの?」

 確か自分は自室で祈りを捧げていたはず。それなのにいつの間にかこんな闇の中で一人。いつ部屋を抜けだしたのかもどうやってこの場所にたどり着いたのかも覚えていない。そんなミリアンヌの問いに答えが返ってきた。

「それはここが現実の世界じゃないからよ」

「誰⁉」

 突然聞こえてきた女性の声に——身体があるのかわからないが——ビクリと大きく身体が跳ねたミリアンヌは周囲を見渡した。しかし周囲に目を凝らしても闇があるだけで人の姿は見えない。

「ここは深い意識の底にある空間。わかりやすく言うならばあなたの精神世界ということになるわ。この場所をあなたが知らないのはある意味当然のことよ。だって行きたいと思って気軽に行けるようなところじゃないのだから」

 まるで音が部屋全体に響き渡るかのように全方位から再び何者かの声が聞こえる。

「まぁそれは今気にすることじゃないから説明は省かせてもらうわ。偶然とはいえここにあなたが来られたのだから伝えたいことがあるの」

「伝えたいこと……ですか?」

 いったい自分に何を伝えるというのか。緊張するミリアンヌに届けられたのはたった一言だった。

「逃げなさい」

「えっ?」

 予想もしていなかった内容にミリアンヌは思わず聞き返してしまった。逃げる?何から?

「あなたは覚えていないでしょうけど、今外のあなたはとても良くない状況なの。このままだと最悪の事態になりかねないわ。……一度だけなら何とか助けられるかもしれないけれど、それ以上は私じゃどうすることも……できないわ」

「どなたか知りませんが、あなたの言いたいことはわかりました。とりあえず元の世界に戻ったら危ないことから逃げればいいのですね。それよりもあなたは大丈夫なのですか?とても辛そうにしていますけれど」

 声の主は何かを耐えるかのように辛そうな感情を滲ませている。少しでも助けになればと思い声の方向に近づこうとしたミリアンヌだったが、即座に「必要ない!」と叫ぶように拒絶されてしまった。

「私のことはいいの。それよりもあなたに伝えないといけないことがもう一つあるの。これは何よりも優先して。いい?目先の危険をどうにか出来たらあなたは急いで姿をくらませなさい。周囲には決してそのことを伝えず悟られないで」

「ちょっと待ってください!そんなこといきなり言われてもできるわけないわ。どうしてそんなことをしないといけないのですか」

 今自分の身に何が起こっているのかわからないが、到底受け入れることのできない内容にミリアンヌは腑に落ちず待ったをかける。村にはこれまでお世話になってきた人が大勢いるのだ。そんな人たちに何も告げずこれまでの生活をすべて捨てることなどできるわけがない。

 しかし相手はそんなミリアンヌの心情など気にする素振りすら見せない。

「それを説明している時間は無いわ。お願いだから言う通りに行動してちょうだい。そして絶対にには知られないようにして」

「彼?」

 彼とは誰のことを指しているのか。それを問おうとしたミリアンヌだったが、周囲が唐突に明るくなり始めた。真っ暗な空間から、今度は眩しいほどの真っ白な空間に変わり始める。

「時間ね……約束よ。絶対に私の言う通りにしなさい」

「待ってください!突然一方的にいろいろ言われても困ります。ちゃんと私にもわかるように説明してください。それに彼って誰なの?」

 周囲が明るくなるのに比例して姿の見えない相手の声が次第に遠くなっていく。少しでも会話を続けようとミリアンヌは声を張り上げるが変化は続いていく。

「誰のことを指しているのかはあなたにはわかるはずよ。私が言ったことを決して忘れないで。でないと——」

 あまりの眩しさに目を開けていられなくなり、目を閉じようとしたところで気づいた。自分だけしかいなかったはずの空間に誰かが立っている。黒い髪を持つあの子供は?

「取り返しのつかない結果になってしまうわ」

 最後に届いた不吉な言葉を最後に、ミリアンヌの意識はそこで途切れた。


 上下に激しく自分の身体が揺れている。あまりの激しさにミリアンヌの意識が徐々に浮上してくる。乗り心地は最悪で、馬車に乗っていてもここまでひどくは無い。

「うっ……」

 ゆっくりと目を開けたミリアンヌが最初に目にしたのは流れゆく地面の景色だった。どうやら何か馬か何かに乗せられているらしい。息が詰まりそうになるほどの振動から起き上がろうと生き物の体に手をついたミリアンヌは心臓が凍り付いたような感覚に陥った。

 自分を乗せている生き物の体が不自然なほど青白く光っている。光っているだけではない。手を通じて感じられる相手の体温が一切無いのだ。冷たくもなく熱くもない。そんな生き物などミリアンヌは見たことがない。

 いや、一度だけ見たことがある。しかもそれは決して穏やかな状況ではなかった。

「ひっ」

 引き攣ったような声が漏れたミリアンヌだったが、徐々にその身体がずり落ち始めた。鞍に乗せられているわけでもなく、ただ背に乗せられているだけなのでバランスが崩れれば当然ずり落ちる。

 すぐにでもしがみついて位置を戻さなければならなかったが、目の前の不気味な存在に自分から触れることをミリアンヌは躊躇してしまった。目の前の存在から少しでも離れるべきなのかそれとも落下しそうなこの状況を何とかするべきなのか。

 時間にしてほんの数秒。しかしその先の結果を大きく分岐させるには十分な時間だった。ミリアンヌはナニかの背から落下してしまい、勢いのまま地面をゴロゴロと転がる。

「あぅ!」

 全速力で駆けていたわけではないだろうが、それでも衝撃で意識と視界を大きく揺さぶる。

 何度転がったのかはわからない。勢いが無くなり弱々しく状態を起こしたミリアンヌは周囲を見渡したが覚えがない。遠くの方には石造りの砦のようなものが見える。

 カツっと蹄の音がミリアンヌのすぐ近くから聞こえた。ゆっくりと隣を見れば先程まで自分を運んでいたであろう鹿の姿をしたナニかがこちらを見下ろしていた。

「こ、来ないで!」

 じりじりと下がりながらミリアンヌは相手から視線を外すことなく何かを探すように右手を必死に動かす。やがて指先に硬い感触が当たり、ミリアンヌはすかさず拾い上げ相手に投げつけた。投げつけた石が鼻面に命中して顔が明後日の方向へ向いた。

 痛覚があるのかわからないが機嫌を損ねたのがはっきりと分かった。苛立たしそうに蹄で足元の地面を荒々しく削り、角を大きく振り上げたのを見てミリアンヌは咄嗟に右腕を突き出した。

 腕を突き出したとて何も変わらない。数秒後に右腕ごと貫かれると思っていたミリアンヌだったが、右手の先から眩いほどの光が放たれ、目の前の敵が消し飛んだ。

「え?」

 ミリアンヌは呆気にとられながら自身の右手をまじまじと見た。この力は一体何なのだ。自分は魔法が使えなかったはずなのに……。


 一度なら助けてあげられるかもしれない


 真っ暗な闇の中で聞いた言葉が蘇る。あのやり取りは夢ではなかった。姿の見えない彼女は言った通り自分を助けてくれたのだ。——しかし安心していられない。

(は、早く逃げないと!とりあえずここから離れなきゃ)

 助かったとはいえ、まだ危険な状況なのは変わらない。彼女の言う通りならばもう先程のような助けは無いということ。武器を持たない非力なミリアンヌでは対処できない。

 落下の衝撃で体のあちこちが痛むがそうも言っていられない。フラフラと立ち上がろうとしたところでミリアンヌの頭上に大きな影が入り込んだ。……雲の類ではない。

 ミリアンヌはゆっくりと背後を振り返り「そんな……」と口にしながら絶望の表情に染まる。振り返った先には一頭のクマが二本足で立ちあがった状態でミリアンヌを見下ろしていた。体毛はわずかに紫がかっており、ミリアンヌを映すその目は血のように赤い。短くはあるが額の辺りに一本の角があることからもただのクマでないことは一目瞭然だ。

「あ……」

 立ち上がろうとしていたミリアンヌは力無くその場に座り込んだ。顔を真っ青にしながらもその目は縫い付けられたようにクマに向けられている。これまでとは比べ物にならない恐怖に震えが止まらない。

 三メートルを超えるであろう巨体を支える足が一歩踏み出される動きを見つめながらミリアンヌは胸元のお守りを握りしめ、真っ先に浮かんだ相手の名前を叫んだ。

「ルインさん‼」



 スピアディアを討伐したサーリャたちは村に戻ろうとしたところで眩い光が戦場から離れた場所で生まれたことに気づいた。新手かと身構えたサーリャたちだったが、その光の中心にいる人物の正体に愕然とした。

「ミリアンヌさん⁉」

「そんな、どうしてこのようなところに⁉」

「全員すぐに救助を‼」

 何故教会の自室で身体を休めているはずのミリアンヌがこの場にいるのか。魔法を使えないはずの彼女が何故魔法を使えているのか。状況が理解できずその場に固まっていたが、ミランの一声ですぐさま我に返って動き出す。

 ミランとサーリャが全速力で駆けだす中、マリアナはその場で高速で詠唱を紡ぎ、シオンはフォートレスをミリアンヌへと飛ばす。しかしあまりにも距離が遠く気付くのが遅すぎた。

(遠い……でも絶対に助けないと!)

 自身を最大限に強化し駆けるサーリャは焦燥感を募らせていた。ミリアンヌは孤児院の子供たちにとって希望の光だ。彼女の優しさを受けているからこそ子供たちは毎日笑いながら明日の為に頑張れるのだ。彼女に何かあれば心に大きな傷を負ってしまう。

 そして何よりもルインの目の前でそれをさせてはならない。他人の空似であっても家族を失った時の記憶を呼び起こすようなことは!

 ミリアンヌの目の前に立つクマが一歩踏み出し、前脚を大きく振りかぶろうとして背筋が凍る。あんなものをまともに受ければミリアンヌさんは——。

「だめええええぇぇぇ!!」

 サーリャは絶叫しながら左腕を伸ばす。届かないとわかっていてもそうせずにはいられなかった。今にもその腕が振るわれようとする直前で座り込んでいたミリアンヌの姿が感度の悪い映像を流したかのように不自然にブレた。

(えっ?)

 変化は一瞬だった。サーリャが瞬きで一度目を閉じ、再び目を開けた時には座り込んでいたミリアンヌの姿は消え、代わりに彼女がいた場所にルインが立っていた。

「あれは!」

 かつてルインが見せてくれた魔法。まだ完成には至っていないと言っていたはずの魔法をルインは発動させたのだ。だがその代償は?

 獲物が突如として変わったことにクマは一瞬驚きで動きを止めたが、すぐさま怒りの感情を宿しルインへと襲い掛かる。ルインはすぐさまバックステップで距離を取ろうとするが、あまりにも相手との距離が近過ぎた。

 巨腕がルインへと振るわれた。



(成功したか……)

 バックステップで後ろへと下がりながらルインは直前まで自分が立っていた場所に目を向け、彼女がいることに心の底から安堵した。これでひとまずミリアンヌへの脅威は無くなった。

 こんな事態を想定したわけではないが結果的にミリアンヌへ渡したお守りが魔法を発動させる問題を解決し、彼女を守ることに繋がったのだからルインに不満は無い。むしろ過去の自分の行動を褒めてやりたい気分だ。

 ミリアンヌはルミアではない。そう自分に言い聞かせていたが、どうしても彼女に姉の姿を重ねてしまう。だからこそ今度は守りたかった。たとえそれが自己満足だとしても、あの日何もできなかった無力な自分とは違うのだと証明したかった。

(転移したばかりで魔法は使えん、か……直撃は免れんな)

 まるで他人事のように達観した様子でルインは自身の状況を確認する。使えないのは魔法だけではない。虚空に保管している武器も取り出せないので攻めることも守ることもできない。

 この時になってようやくルインは視線をミリアンヌから外し、眼前の魔獣へと目を向け——呼吸が止まった。

 視線の先でクマの魔獣が鋭い爪を持つ腕を振りぬこうと大きく引いている。しかしルインが大きく心を動かされたのはそこではない。

 自分よりもはるかに巨大な獣。こちらの命を容赦なく刈り取ろうとする巨腕。あの時の光景を再現するかのような状況にかつての記憶がフラッシュバックのように駆け巡る。


 大丈夫。何も心配しなくてもいいのよ


 姉の言葉が呼び起こされ、魔獣を背にして決して忘れることのできない少女の姿が見えた。あの時とは違い目の前に見える少女は悲しげに涙を一筋こぼす。その表情を見るだけでルインの感情はぐちゃぐちゃに搔き乱され、心が悲鳴をあげる。

 ルインの心の奥底からナニかが這い上がってくる。長い時間をかけて折り合いをつけ、自分の奥底に押し込めていた感情。この望みは果たされることは無いと諦めていた。——それが今、目の前に再び現れた。

「ああ……」

 歪んだ笑みを浮かべ、自然と口角が上がる。


 


 限界にまで引き延ばされた刹那の時の中で決定的なナニかが外れるような音が響くのと、凶爪が自身に届いたのは同時だった。



 夢を見ているのだとその場にいる誰もが思った。かくいうサーリャもあまりに信じられない内容に幻覚か精神干渉を受けたのではないかと疑うほどだ。

 だってそうではないか。どんな過酷な状況でも、強大な敵を前にしても常に涼しい顔で道を切り開くルインが敗れるなど……。

 そんなサーリャの期待を裏切るかのように視線の先で赤い軌跡を残しながら、ルインが弧を描くように吹き飛ばされていく。まるでスローで見ているかのようにはっきりとその動きを目で追い続け、ルインはそのまま受け身を取ることなく地面へと激突し動かなくなった。

「……師匠?」

 背後でマリアナが掠れた声で呟くのが聞こえた。その間もルインは倒れたままピクリとも動かない。その事実に自身の鼓動が速くなる。

 まさか……ルインが死——

「いやあああぁぁぁ‼」

 喉が張り裂けんばかりの悲鳴が背後から上がった。振り返れば転移前にルインが立っていたであろう場所にミリアンヌが最後に見た姿で座り込んでいた。彼女は顔面蒼白になりながら、かつてないほどの恐怖を目にしたかのようにその目は限界にまで見開かれている。

 ミリアンヌの恐怖が周囲に伝播していく。絶対的な信頼を寄せていた身近な人物が傷ついたことに動揺し、誰もがその場で石のように固まる。サーリャもその一人で、とめどなく涙を流すミリアンヌをただ見ていることしかできない。

「三人とも何をしているの‼まだ戦いは終わっていないのよ!」

 いつまでも動くことのできないサーリャの耳にミランの怒声が届き、ようやく我に返った。ミリアンヌから視線を外し、前に視線を戻せばミランが剣を振り続けていた。いつの間にか周囲にはおびただしい数の朧種が出現しており、ミランがたった一人で戦っていた。

「三人はミリアンヌさんを保護したあとルインの元へ向かいなさい。道は——私が作る!」

 ミランからさらに魔力が溢れ出し、雷撃を纏わせた剣が周囲の朧種を何体もまとめて焼き切る。

「サーリャはミリアンヌさんの保護をしなさい。シオンはわたくしと一緒にミランが作った道を維持しますわよ」

「わかりました!」

「わかった」

 先程までの遅れを取り戻すかのように三人はすぐさま行動を開始する。マリアナの杖の先端が輝き、シオンはフォートレスをフル展開させて近くの敵へと駆け出す。

 サーリャはミリアンヌの元へ辿り着きすぐさま彼女を立ち上がらせようとして言葉に詰まった。

「あ、あああ……」

 ミリアンヌは遠くで倒れたままのルインから目を話すことなく言葉にならない声を漏らすだけで、気が触れてしまったのではないかと思うほどの状態だった。

「ミリアンヌさんすぐに移動します。ルインの元へ行くので私から絶対に離れないでください」

 震えそうになる自分の声を必死に抑えつけながらサーリャはミリアンヌを半ば強引に立たせ、手を貸しながら二人はルインの元へ駆け足で進む。肩に手を置く左腕からミリアンヌの震えが嫌でも伝わってくる。

 合流した二人を守るようにマリアナとシオンが左右で並走しながら全員でミランが作り出した道を進んで行く。

 剣を振るうことができないので代わりに魔法で周囲の朧種を迎撃しながらサーリャは前を行くミランを見た。ミランの周囲では際限なく雷撃が迸り、壁のような敵集団に穴を空けながら前へと進んで行く姿が見える。

(やっぱりミラン様もルインのことで動揺しているのね……)

 誰よりも早く戦闘に復帰したミランの姿に最初はさすがと感じていたサーリャだったが、こうして全体を見ることができるようになってそれが間違いなのだと理解させられた。

 ルインとの付き合いの長さで言うならばこの中ではミランが一番だ。騎士時代から戦場で肩を並べていたのならば相手への信頼は揺るがないものだっただろう。そんな戦友が倒れたのだ。動揺するなというのが無茶だ。なにより、必要以上に雷撃が周囲にまき散らされているのがその証だ。

 朧種の数は少しずつ減りはしているが、なかなかルインの元へと辿り着けないことに誰もがもどかしく感じながら少しずつ近づいていく。そしてまだ距離はあるが遠くでルインの身体が僅かに動き、誰もがルインの名を呼びながら自然と進行スピードが速くなる。

 息があることは喜ばしいがまだ安心はできない。酷くゆっくりと上体を起こし始めているその動きから相当に傷は深いはずだ。サーリャたちがルインの状態に気づいたように、ルインに傷を負わせた魔獣もルインに気づいた。クマの魔獣——正式名称はブラッドベアだったはず——はゆっくりと近づいていく。

「させるかああああぁぁ‼」

 全身に雷撃を纏わせたミランが雄叫びを上げながら弾丸のように飛び出した。盾を前にして身体ごと相手にぶつかったミランは無理矢理ルインから距離を取らせた。ミランと共に飛ばされたブラッドベアは獲物を前に二度も妨害されたことに怒り狂い、対象をミランへと変えた。

 額にある角が輝きだし、輝きと同時にブラッドベアの周囲に何体もの朧種が出現する。

「あいつらはあの魔獣が生み出しているの⁉」

「てっきり朧種は先程のスピアディアが生み出していると思っていましたが違うようですわね。あくまでもスピアディアはその力を借りていただけで、本来朧種を生み出す力の持ち主はブラッドベアのようですわね」

「それでも不可解。自分の力を別の個体に分け与えるなんて聞いたことがない。力はあくまでも自分だけのもののはず」

 シオンの指摘にサーリャとマリアナは無言で同意を示す。新たな種族を生み出すという特殊な力がおいそれと周囲の別個体に分け与えられるはずがない。しかし山で初めて遭遇した際、確かにスピアディアは朧種を生み出していた。そしてあの場にはブラッドベアは近くにいなかったはず。……何かそれを可能にできるカラクリがあるはず。

「それを考えるのは後回しですわ。もうすぐ到着しますわよ」

 ミランから少し遅れる形で四人はルインの元へと辿り着いた。マリアナとシオンが周囲を警戒する中、サーリャとミリアンヌはルインへと駆け寄った。

「ルイン大丈夫⁉」

「ルインさん!ああ……なんてこと」

 ルインの胸元は大きく爪で切り裂かれており、咄嗟に庇ったであろう右腕も深い裂傷で力無く垂れ下がっている。傷の具合からしても明らかに重傷だ。あまりの状態にミリアンヌがぼろぼろとさらに涙を流す。

 しゃがみこんだサーリャはすぐさま腰に付けているポーチを開け、応急処置の道具を取り出していく。さすがにこの傷は放置すれば命に関わる。

 包帯やポーション。少しでも役に立ちそうなものを選別するサーリャの視界の隅でルインが動いたような気がしたがサーリャはルインを見ることなく話しかける。

「ルイン動かないで。とりあえず傷の手当てをするから——」

「ルイン……さん?」

 戸惑ったようなミリアンヌの声にサーリャはこの時になってようやく顔を上げた。顔を上げた先では周囲の朧種と対峙しているはずのマリアナが信じられないものを見るかのようにこちらを見ている。

 いや、マリアナはこちらを見ていない。見ているのはその隣。自分の隣に目を向けると、そこには先程まで倒れていたはずのルインが立っていた。血まみれで重症なことには変わりなく足元に血が滴り落ちているが、本人はそれすら気づいていないかのようにただ真っ直ぐミランと戦闘を繰り広げているブラッドベアに釘付けになっている。

「……ようやく見つけた」

 これまで聞いたこともない地の底から響くかのような低いルインの声がサーリャの耳に届いた。

「すべての元凶……村長を殺し俺からすべてを奪った存在。俺の家族を、姉さんを貴様が……貴様がぁ‼」

 感情が爆発し、ルインの身体から膨大な魔力が解き放たれた。ルインの感情に呼応し周囲に影響が出始める。足元の地面が砕け、大気が悲鳴をあげるかのように軋み空は鏡を砕いたかのようにひび割れる。

 暴風のような魔力を間近で受けたサーリャは耐えきれず思わず尻餅を付くが、ルインはそんなサーリャは眼中にもないかのように目もくれない。一歩踏み出した先の地面が蜘蛛の巣のようにひび割れる。

 嵐のように吹き荒れる魔力だったが、不意にその一部がルインの左腕に集まっていく。肩から指先にかけて鎧を纏うかのように魔力がルインの腕を覆いつくし、やがて人の腕とは違うナニかを形作る。

「あれって!」

 どす黒く濁った色に変わってしまっている魔力は一本の腕へとその形を変えた。サーリャが驚きを現したのはその形だ。

 あれは今まさにミランが戦っているブラッドベアの腕そのものではないか。

 見た目が獣の腕へと変容した自身の左腕をルインはゆっくりと上げ、鋭利な爪の先に魔力が収束していく。あまりにも集められた魔力が多すぎて周囲の景色が陽炎のように揺らめいている。

 異変を察知した周囲の朧種がルインへと殺到するが、ルインは欠片の反応も見せない。そしてその時は訪れた。

「死ネ」

 力を収束させた左腕が振り下ろされた。


 サーリャは最初何が起きたのか理解できなかった。ルインが何もない空間に腕を振り下ろすだけで、それ以上の変化は起こらない。

 いや、変化は遅れてやって来た。ルインが振り下ろした腕の先の景色にあまりにも不気味な一本の線が走った。まるで絵画にナイフを走らせたかのようにその長さを伸ばしていき——。


 空間が裂けた


 線を境界にして上下で位置がずれ始め、上半分がゆっくりと滑り落ちていく。ルインへと向かっていた大量の朧種たちもその先にある砦も——材質も距離も、生物か建造物なのかも関係無い。ルインの前にある全てが切り裂かれた。防御を許さない死の刃に朧種の大半が青白い光とともに消え去り、堅牢な砦は轟音と共に崩落し瓦礫と化した。

「ミラン様!」

 サーリャは血相を変えて思わず叫んだ。ルインの攻撃の先にはミランがいたはず。ルインはミランがいるにも拘らず警告無しで攻撃を放ったのだ。

「安心しなさい。ミランは無事ですわ」

 マリアナの指さす先には砦の崩落で土埃が舞っているが、その中にミランが地面に伏せている姿が見えた。間一髪避けていたことにサーリャは大きく安堵の息を吐いた。

 わずかに地面が震えると同時に土埃の奥で巨大な影が動いた。ゆっくりと土埃の中から姿を現したのはあのブラッドベアだ。

 まさかあの攻撃を避けたのか⁉そう思っていたサーリャだったが、よく見ると完全に避けていたわけではなく額の角が半ばで切り飛ばされている。角だけとはいえほぼ不可視の攻撃を避けているのは獣の直感が影響しているのだろうか。

 それでも角が切り飛ばされたことには大きな意味があった。半分ほど残っていた角から輝きが失われ、輝きが失われると同時に周囲にいた朧種が一体残らず消え去った。

「そうだ。簡単に死んデくれるナ。キサマにはまだまだ苦痛を受けてモラウ。絶望と地獄の果てに——オレが必ずコロシテヤル!」

「ルイン、待っ——」

調子が外れ、明らかに正気とは思えない状態にサーリャはまるで頭から氷水をぶっかけられたかのように身震いし、ルインへと慌てて手を伸ばす。しかしその手がルインの腕を掴む前にルインは魔獣へと突っ込んで行ってしまい虚しく空を切った。

 ルインは速度を緩めることなく突っ込んで行き、ブラッドベアも突進を避ける素振りを見せず身構えるように腕を引く。

 〝異形〟と〝異質〟二つの存在が正面から殺意むき出しでぶつかった。



 ルインが解き放った力の影響は遠く離れた各地で観測され、突然の事態に多くの人々を大混乱に貶めた。

 突如として発生した膨大な魔力は外敵からの脅威を監視している者からすれば寝耳に水で、他国からの侵攻、もしくは別の何か重大な兆候を見落としていたのではないかと何人もの職員が過去の報告書を片っ端からひっくり返す勢いで確認していき、状況の把握に全力を尽くしている。

 ルイリアス王国の王城も例外ではない。王城内を何人もの職員が慌ただしく行き交い、状況の把握に全力を尽くしている。

「つまり、現時点では原因となり得るような動きや事象は確認されていなかったということか?」

「はい。今回観測された異常な魔力ですが、それに繋がるような報告は届いておりません。仮にあれほどの膨大な魔力が地中深くに溜まっていたとしても、これまでその兆候すら出さないなど考えられません」

 玉座の間でルシャーナは目元を険しくしながら高官の報告に耳を傾けていた。

「他国からの侵攻という線はどうか?」

「恐れながらその可能性は低いかと思われます。あの辺りは旧国境線があった場所ではありますが、既にその意味を成さなくなっております。仮に他国からの侵攻だと仮定しても、軍事的要所でもないあの土地を全力で攻め落とす理由がありません」

「で、あるか……」

 ルシャーナはゆっくりと目を閉じ、もたらされた情報を頭の中で整理していく。今回の事態、王国はどう動くべきなのか。

 結局のところ突如として発生した異常事態に関して何もわからないということだ。自然現象でもなく他国からの干渉でもない。しかしきっかけもなくいきなり災害になり得るかもしれない事象が起きるはずがない。いずれにしてもこのまま何もせず傍観しているわけにもいかない。

 考えがまとまりルシャーナが目を開けると目の前の高官が緊張で身を固くする。有益な情報を提示できない彼の心情を思えばルシャーナは同情したくなる。

「報告ご苦労であった。突然の事態に混乱してそなたたちには多大な苦労をかけていると思うが引き続き調査を進め、何かわかり次第知らせてほしい。他国からの侵攻の可能性も考慮し騎士団には緊急招集をかけて待機させよ。各領地との連絡を密にし、情報の共有を務めるように知らせを出すのだ」

「はっ‼」

 高官が退室し、周囲の目が無くなるとルシャーナは疲れたように玉座に深く身を沈めた。普段よりも年老いたように見える彼の隣に宰相であるクレスは黙って立つ。

「クレスよ。此度の件、おぬしはどう捉える?」

「……判断に困りますね。彼の言う通り他国からの干渉という線は今のところ低いかと思われます。しかしながら自然発生したにしてはあまりにも突然すぎます。意図は不明ですが少なくとも何者かの影響を受けた結果と考えるのが自然でしょう」

「娘……マリアナが関与していると思うか?」

 ルシャーナの問いにクレスは即座に答えることなく沈黙で返した。王であり父であるルシャーナを前にこの問いはあまりにも答えにくい。何よりも最後の報告でマリアナの行き先が、まさに異常事態が発生しているであろう方角だと把握しているのだ。

 しかしルシャーナはそれをわかったうえであえて問いかけている。それは自身の右腕としてのクレスを信頼しているからだ。王相手に言いたいことも言えないのでは宰相など務まるはずがない。

 そして王からの信頼に応えるかのようにしばらく沈黙を続けていたクレスは眉間に皺を寄せ、険しい表情のまま口を開いた。

「可能性はゼロ……とは言い切れません。王女の持つ事情を加味すれば今回の事態を引き起こせるかもしれませんが、これほどの規模の魔力量を運用できるほど魔力を保持しているのか疑問が残ります。いくら魔力効率が良くてもそれを運用するとなると相当な技術が必要になります。それに、王女の性格からして無用な混乱を周囲に与えるようなことは良しとしないでしょう」

「そうだな。マリアナならば逆に、混乱を起こそうと画策している連中のところへ殴り込みをかけているだろうな」

「王女として、それもどうかと思いますけどね」

 気が強く王国各地を一人で旅しているマリアナだが、王族としての自覚は持っている。守るべき民を不安にさせるような行動はとらないだろう。悪党のアジトで大暴れしているかもしれない娘の姿を想像し、ルシャーナは可笑しそうに笑う。

「どちらにしても、今は続報を待つことしかできんか」

 ルシャーナは窓の外へと目を向けた。遠い地にいるであろう娘の身を案じるように目を細めるその表情は王としての表情ではなく、どこにでもいるありふれた一人の父親としての表情だった。



 各地がその動きを注目している戦場では激しい攻撃の応酬が繰り広げられていた。ブラッドベアが腕を振るい鋭い爪でルインを切り裂こうとするが、ルインはしゃがむことで自身へ迫っていた脅威をやり過ごし、逆にお返しとばかりに左腕を勢い良く突き出し相手の巨体を貫こうとする。

 ブラッドベアの尻尾が長さを伸ばし鞭のようにしなりながらルインの左腕を弾いた。あまりにも強烈な一撃に左腕だけでなく身体ごと吹き飛ばされそうになるが、ルインは即座に自身にかかる重力を何倍にも引き上げ強引にその場に留まる。あまりにも非常識な力にルインの身体が悲鳴をあげるかのように軋むが、ルインはそれすら感じていないかのように敵だけを見据える。

 ブラッドベアの前にまたしても幼い少女の姿が見え、涙を流しながらこちらを悲しげに見ている。

「ガアアアアァァァ‼」

 獣のような雄叫びと共に左腕をまるでハンマーを振り下ろすかのように真っ直ぐ振り下ろす。振り下ろされた先で地面に深く大きな裂け目ができ、その先にある山肌にも切れ目が新たに作られる。

 おおよそ単一の相手に向けられることのない出力の攻撃が周囲にまき散らされる。


 そんな両者の攻防をサーリャたちは少し離れた所からただ見ていることしかできなかった。

「なんなのこれは……」

「あれは本当にルインさんなのですか?」

 サーリャだけでなくルインの身を案じて涙を流していたミリアンヌですらルインのあまりの変貌ぶりに戦慄し、言葉を失っていた。

 周囲はルインの攻撃の影響であちこちがボロボロになっている。地面は裂け目だらけで、真っ二つにされた砦はあの後さらにルインの攻撃を受けたことでもはや瓦礫の山となっており、砦の面影など完全に無くなっている。

「……今のルインは怖い。あれはシオンの知っているルインじゃない」

「ミラン、師匠の全力はあれほどのものなのですか⁉ここまでの力を持っているなんてわたくしは聞かされていませんわよ!」

 付き合いの長いミランにマリアが掴みかからんぐらいの勢いで問い詰める。しかし今回ばかりはミランも動揺を隠しきれず大きく首を横に振る。

「そんなわけありません!たしかにルインは規格外の力を持っていましたが、それでもここまでではありませんでした、空間ごと全てを切り裂くなどありえません!これほどの力を持つなど……こんなの、これではあまりにも……」


 人の規格を超えている。


 ただそこにいるだけで周囲の空間が軋むかひび割れ、空を見上げればあまりにも放出されている魔力量が多すぎるのか黒ずんだ紫色に変わってしまっている。なによりも周囲の空間を漂う魔力がまるで怯えるかのように、どれだけサーリャが引き寄せようにも全く動かないのだ。

 つまりこれだけの事象をルインは自身の保有魔力のみで引き起こしているのだ。これだけの魔力を常時垂れ流し続けるなどありえない。

「まさか……」

 何かに気づいたようなマリアナに一同が目を向ける。マリアナは何か心当たりがあるようだが、その顔は青ざめて様子がおかしい。あまりの様子に全員が嫌な予感を感じるほどだ。

「かつて師匠はわたくしの力を解明するにあたり、それを再現できないかと考えました。再現できるのであればそこから解決の糸口が見えるのではないかと。……結果的にこの実験は失敗に終わりましたが、その過程で師匠は別のことに着目したのです。個人の魔力総量は日々の魔法鍛錬の結果少しずつ増えていくことはこの場にいる皆さんは知っていますわよね?」

 魔力は限界まで使い込み、身体に魔力不足を感じさせることで生み出される魔力量が増えていくという仕組みだとこれまでの研究で解明されている。ただ魔力を消費させるのではなく、必要だと感じるほどの想いがなければ魔力量は増えない。だからこそ、誰もが厳しい鍛錬を続けることで魔力を増やそうとするのだ。

 とはいえ永久的に魔力量が増え続けるのかと言えばそうではない。適性や才能など個人の能力で上限は決まってしまう。上限に届いてしまえばそれ以上の魔力量の増大は見込めない。あとは自身の魔力量をどうやりくりしていくのかの問題になる。

「師匠は魔力欠乏に陥るほどまで魔力を消費し、その状態の身体に高濃度の魔力を投与することで強制的に魔力量を増やすことができるのではと気づきました。高濃度の魔力は投与されたとしても濃度が高過ぎてそのままでは使用することはできません。高濃度の魔力を自身の魔力で薄めながら量を増やし、通常濃度にまで下がればようやく使えるようになります」

「姫様!たしかにその方法なら魔力量は理論上増えるかもしれませんが、それでは被験者があまりにも危険すぎます」

「どういうことですか?」

 マリアナの説明にミランは咎めるように口調が強くなる。あまりの剣幕ぶりにさすがのマリアナも何も言い返すことができず、口を閉ざしてしまう。

「いいですかサーリャ。消費した魔力は時間が経てば回復するわ。姫様が仰ったように努力を続けることで魔力量が増えることも間違っていない。でもそこに意図して高濃度の魔力を投与することが大問題なの。自身の許容量に加えて高濃度の魔力など与えれば器がどうなるかわかるでしょう?」

 そこまで言われてようやくサーリャはその拙さに気づき愕然とした。

「で、ですが許容量を超えたのならば余剰魔力として放出されるのでは……」

 実際サーリャは過去にルインのポーションでその状態に陥っている。しかし、しばらく行動不能になるだけでそれ以上の危険は無かったはず。

「普通ならそうなるかもしれないけど、魔力欠乏状態だと話は違うわ。高濃度の魔力であっても身体は何としても取り込もうとするわ。全身に取り込まれた高濃度の魔力は通常の過剰魔力接種と違って外に溢れることはないの」

 皮袋の中に水を入れるのだと仮定すればいい。すでに水で満たされている皮袋だが、時間が経つにつれて徐々に中の水が増えていく。多少であれば皮が伸びるので容量は増やすことができる。しかし量の見極めを誤り、容量を超えてしまえば皮袋は破れてしまう。

 皮袋——器の壊れた人間がどうなるかなど想像したくもない。

「この研究は初期段階で危険性に気づき、関係する資料は徹底的に処分しました。万が一外部に漏れたりしようものなら恐ろしい人体実験が世界中に広がるのは目に見えていました。そもそも高濃度の魔力を精製するだけでも必要な材料・設備で莫大な費用がかかり、割に合いませんでした。師匠も惜しむ素振りすらありませんでしたので、わたくしはてっきり……」

「それをルインは秘かに続けていたのね」

 顔面蒼白になるマリアナにミランはわずかに怒りを抑え、同情するように肩に手を置いた。

(ルイン、あなたはなんてことをしているのよ!)

 初めからルインは研究を手放すつもりなど無かったのだろう。研究資料は破棄されたとしてもその知識はルインの頭の中に入っている。再開するなど造作もなかっただろう。

 材料の心配も皆無だ。高濃度の魔力で満ちているルクドの大森林ならば少量の材料で簡単に精製できる。

 以前ルインは言っていた。ルインですら足を踏み入れるのを躊躇うほどの高濃度地帯があると。誰にも干渉されない地で自分の命を賭け皿に乗せ、長い時間をかけて魔力を増やし続けていたのだとすればあの規格外な魔力量も納得できる。

 そしてその行動の原動力となっていたのは——。

「そもそもどうしてルインはあんな状態になっているの?ミリアンヌさんが狙われていたにしても様子がおかしすぎるわ」

「そうですわね。ミリアンヌさんが師匠の傍で襲われたのは二回目なのでしょう?どうして今回はあんな状態になっていますの」

「ルインがおかしくなる直前、何か叫んでいたのをシオンは見た。シオンは聞き取れなかったけど……サーリャは知ってる?」

 三人の視線がサーリャへと向けられる中、サーリャよりも先にミリアンヌがおずおずと口を開いた。

「あの、ルインさんは『見つけた』と仰っていました。何のことなのでしょう?」

「見つけた?ルインは何を見つけたの?」

 何を指しているのかピンと来ないミランたちだが、間近にいたサーリャはその言葉の意味がわかってしまった。わかっているからこそ口にするのが苦しい。

「多分あれがルインのずっと探していた魔獣なんだと思います。あの魔獣がルインのお姉さんを……」

「「「っ‼」」」

 ルインの過去を知る三人が同時に息をのんだ。そう、ルインが探していた存在が目の前にいるのだ。感情的になるのは必然と言える。

 そして今回はただ出会ったわけではない。姉のルミアと姿が似ているミリアンヌを目の前で手にかけようとしていたのだ。感情的になるなというのは無理がある。ルインが我を忘れてしまうのは自然な流れだ。

 しかしだからと言ってこのままにはしておけない。戦闘が今も続いているのは実力が拮抗しているのではなく、ルインが片腕しか使えないからだ。左腕一本で戦うにはどうしても体勢が崩れ易く手数が少ない。

 会話を断ち切るかのように轟音が響き、全員が再びルインへと視線を向けざるを得なかった。たった今ブラッドベアがルインを押し潰すかのように両腕を地面に叩きつけ、それをルインが身体を回転させながら避けていた。

 衝撃で突風が吹き荒れる中、土や小石に混じって何かがサーリャの頬に当たった。自然な動きでサーリャは頬に付いたものに触れ、指先を見た。触れた指先は真っ赤に染まっている。鮮やかでありながら残酷なこの赤の正体は——。

「ルイン止まって‼これ以上はあなたの方が倒れてしまうわ!」

「師匠‼」

「ルイン‼」

 ルインは応急処置すらせず重症のまま戦いを続けているのだ。出血すら止まっていない状態をこれ以上続けてしまえば命を落としてしまう。全員がルインへと呼びかけるが、ルインは聞こえていないのかこちらに視線すら向けることなく魔獣との戦いを止めようとしない。

「このままではマズいですわ。サーリャ、わたくしたちも向かいますわよ」

「はい!」

「ダメよ。下手に出て行けば私たちが攻撃を受けて命に関わるわ」

「ではミランはこのままわたくしたちにここで見ていろというのですか!」

 たとえ周囲から魔力を集めることができなくても、自身の魔力は使える。二人が飛び出そうとしたところでミランに肩を掴まれ、それに対しマリアナは睨み返しながら怒鳴り返す。サーリャもこのまま傍観するなどできるはずもなく、今すぐにでもルインの元へ向かいたいがミランががっちりと掴んで離さない。

「落ち着いてください。何も私は助けるなとは言っていません。タイミングを見極めるべきだと言っているのです。今のルインはこちらに気づいていません。その状態で私たちが乱入すればあの切断魔法が意図せずこちらに飛んでくるかもしれませんし、もしかするとこちらを敵と判断してくる可能性もあります。……シオンはミリアンヌさんの護衛をお願いしてもいいかしら?」

「任せて」

「くっ!」

 マリアナはミランの言葉に頭が冷えたのか悔しげに表情を歪めながらルインへと視線を戻し、飛び出すのをぐっと堪えてその場に留まる。いつでも動ける状態で待機するサーリャたちがしばらく戦闘を見守っていたが、視線の先で状況が動いた。

 ブラッドベアと接近戦を繰り広げていたルインは大きく後ろへ跳び下がり距離を取ると、身体からさらに膨大な魔力が溢れ出し左腕へと収束していく。

「まだあれだけの魔力を出せるの⁉」

「そんなこと、これまでの師匠を見ていれば今更でしょう。それよりもマズいですわよ!」

 すべてを切り裂いたあの攻撃をルインは再び放とうとしている。しかも問題なのはその威力だ。

 込められる魔力が砦を切り裂いた初撃よりも圧倒的に多い。一度目の攻撃ですらあれほどの被害を出したのにもかかわらず、ルインはさらに威力を高めようとしている。

(どこまで切るつもりなの⁉)

 あれだけの魔力を集めてしまえば被害はここだけでは済まない。万が一射線上の先に人里があろうものなら、それらごと切り裂いてしまうのは明らかだ。

 近づくことすら叶わず遠く離れた場所から止めさせようと声の限り叫ぶが、ルインは止まらない。ゆっくりと左腕を持ち上げ爪の先に魔力が収束していく。

 そのまま勢いのままに振り下ろすというところで不意にルインの身体が傾いた。同時に周囲一帯を包み込んでいた魔力が制御を失い霧散していく。

「「ルイン‼(師匠‼)」」

 全員がタイミング同じくして飛び出した。致命的な隙を見せるルインからブラッドベアを強引に引き離すためにそれぞれがありったけの攻撃魔法を叩きこむ。制御が失われた影響なのか周囲の魔力を引き寄せられるようになっている。

「ルインどうしたの!私が分かる?」

「……」

 立っていられず片膝をついてしまった状態のルインは駆け寄ったサーリャの声にピクリと反応し、こちらにゆっくりと顔を向けるが、ルインの顔を見たサーリャは悲鳴を上げそうになった。

 血色の悪くなった顔でこちらに振り向いたルインの瞳は瞳孔が異様なほど開いている。振り向きはしたがこちらを認識しているのかも怪しく思えるほど無表情にこちらを見るルインは、普段の彼からすると別人のように思えてしまうほどだった。

 喉まで上がって来ていた悲鳴を何とか飲み込んだサーリャの視線の先でルインの瞳孔が徐々に狭まり元に戻っていき、合わなかった視線がようやく交わった。

「……サーリャか?」

「ルイン良かった、正気に戻ったのね。傷が酷すぎるわ。治療の為にひとまず退くわよ」

 まるで今までサーリャたちがいなかったような物言いで、話す力も弱々しくではあるが、正気に戻ったことに安堵する。

「……毒だな」

「毒⁉」

「心配するな。命に関わる類の毒じゃない。魔力制御を阻害する毒のようだな。……まったく使えないわけではないが、大規模な魔法を使うのは厳しそうだな」

 魔力が散ってしまい元の左腕に戻った自身の腕を見ながら呟くルインは掌に小さな炎を作り出すが、風が吹いているわけでもないのに不自然なほどに揺らめいている。

「サーリャたちはミリアンヌさんを連れて撤退しろ。俺がヤツの相手をする」

「馬鹿なことを言わないで‼そんな状態で戦うなんてできるわけないでしょう」

「サーリャの言う通りですわ師匠。今すぐにでも師匠は手当てを受けなければならない状態ですのよ」

「ルイン……退こうよ」

 誰もが退くことを促すが、ルインは決して首を縦に振らない。

「できるできないなど関係ない。ようやくヤツを見つけたんだ。ここで逃げるなどできるわけがない。たとえ刺し違えてでも俺は……ヤツを!」

「っ!」

 限界だった。サーリャはルインの胸ぐらを掴み強引に引き寄せると、右手で力いっぱいルインの頬を張った。パンっと乾いた音が響く。

 突然のことに呆然とするルインにサーリャはボロボロと涙を流しながらもう一度両手で胸ぐらを掴み上げる。

「何を言っているのよ。そんなことをみんなが許すはずがないでしょ!あなたに何かあればここにいるみんなが悲しむことになるのよ。刺し違える?自分の命を軽んじるようなことは二度と言わないで!あなたが傷ついていくのをミリアンヌさんがどんな気持ちで見ているのか少しは考えなさい!」

 ルインはこの戦いで死ぬつもりだ。蠟燭が最後の燃え上がりを見せるようにルインも命を燃やしながら戦うのだろう。すべてを失い、復讐に身を堕とした果てに辿り着いたのは一人孤独のままその生涯を終える。そんな結末はあまりにも、あまりにも報われない。

 この時になってようやくそのことに思い至ったのか、締め上げられながらルインは首を動かしミリアンヌを見た。ミリアンヌはサーリャと同じようにとめどなく涙を流しながら祈るように両手を固く合わせている。

 ルインの心情をすべて理解することはサーリャにはできない。自分の命を捨ててまで復習に燃えるような激情をサーリャは知らない。今も、そしてこれからも知ることは無いだろう。

 それでも目の前でルインが傷ついていく姿はまるで自分の心が切られるかのように痛み、悲しく感じる。これまでが悲しみに彩られ過ぎたルインにはこれ以上悲しみを増やしてほしくない。

 だからこそサーリャはもう一つの選択肢を作る。胸ぐらを掴んでいた手を離し、ポーチからいくつものポーションを掴むとルインの左手に乗せる。

「ルインが退けない事情は理解しているわ。だからこそこれは取引よ。このままここに残ってもかまわない、その代わり、私も残って一緒に戦うわ。それでもいいのならこの薬を使いなさい」

「サーリャ!あなたは何を勝手に——」

 咎めるマリアナにサーリャは頭を下げて詫びた。

「すみませんマリアナ様。私はルインをこのままにしておけません。処分は後日如何様にも」

 復讐は何も生まない——確かにそうなのかもしれないが、それはそれだけの経験をしたことのない者が安易に口にするのはただの綺麗事に過ぎない。どれだけ言葉を並べても所詮は上辺だけ。そんな言葉でルインのような過去を持つ人の心に何が届くというのだ。今のルインに必要なのはいつまでも過去に縛り付けている鎖を断ち切ることだ。

 その結果どんな処罰が課されるなど些末なことだ。

「そんなことを言いたいのではありません。わたくしが言いたいのはどうしてサーリャだけが残るような発言をしているのかということです!」

「えっ?」

 マリアナは杖を地面に突き刺し、腰に手を当てながら不満気にビシッとサーリャを指さした。

「わたくしは師匠の傷の手当てが最優先とは言いましたが、撤退などと言った覚えはありませんわよ。あなたばかりにいい格好をさせるわけにはいきませんからわたくしも残りますわ!」

「サーリャが残るならシオンも残る。みんなを守るのはシオンの役目だから」

「みんなが残るなら私だけ帰るわけにはいかないわね。ルインの無茶はこれまで嫌になるほど付き合わせられているから今更ね」

 誰もがサーリャと同じように共に戦うと意思を示している。サーリャが最後にミリアンヌを見れば、彼女は涙に濡れたまま微笑みを浮かべながら小さく頷いた。

 全員の想いは一つ。あとはルインが決めるだけだ。

 ルインは納得できないように頭をガリガリとかく。

「お前たちはどうしてそう関係ないことに首を突っ込むんだ。民間人を危険から守るのがお前たちの仕事のはずだろう」

「あら。それならルインも民間人なのだから問題ないじゃない。あなたの傍にいること、そして支えると決めたのは私たちの意思よ」

 ルインは全員を見渡し「いいんだな?」と問いかけ全員が頷いた。全員を見渡したあとルインは左手に乗せられたポーションの蓋を開け、一気に飲み干すと弱々しく立ち上がった。

「そこまで言うのならばお前たちの力を当てにさせてもらおう」

 ルインを中心に全員が共通の敵へと対峙する。視線の先でブラッドベアがさらなる変化を起こしていた。両腕の筋肉が歪に盛り上がり、内側から外へと押し上げていく。盛り上がってきた筋肉は岩のように硬くなり、最終的にはまるで小手を着けたかのように両腕を覆った。尻尾が伸びてきた時から感じていたが、魔獣とはいえあまりにも生物として変異しすぎている。

「師匠、あんなに何度も短時間の内に変異することなど有り得るのですか?」

「……いや。おそらくはアイツ独自の変異だろう。毒を扱うところから見て自分自身に毒を用いて変異を促しているんだろう。どれだけの毒を扱えるのかわからんが、まともに受ければ何かしらの影響を受けるぞ」

「……ルインは大丈夫なの?」

 不安が胸の中で大きくなるのを感じながらサーリャは心配そうにルインの顔を覗き込む。ポーションを飲んだとはいえあくまでも市販品。完全に傷を癒すほどの効果は無く出血が止まった程度の効果しかない。そんな状態で毒を受けているのだ。魔力への干渉以外の効果は無いと本人は言っているが、それでも気がかりなのは変わらない。

「問題ない。数分程度ならまだ動けるはずだ。とっとと終わらせるぞ」

 短く返事を返すルインの左腕に魔力が集まっていき、先程と同じように獣の腕へと変化する。魔力操作に支障が出ているのでいつものように虚空から武器を取り出すことができないようだ。

「基本はルインに合わせるわ。各自周囲に気を配りながら攻撃を叩きこみなさい。前衛組は位置を変えながら全方位から仕掛けるように」

「当然ですわ。後方からの援護はわたくしに任せなさい。とっておきを撃ち込む際には合図を出すので聞き逃さぬように」

 そうして全員が行動を起こした——すべてを終わらせるために。


「はぁ!」

「ふっ!」

 左右に分かれ一気に距離を詰めたサーリャとミランが初撃から全力で剣を振るう。岩さえも断ち切るかのような斬撃はブラッドベアの両腕にぶつかると硬い音を発しながら弾かれた。

「硬い!」

 あまりの硬さに思わずサーリャは呻く。岩というよりもこれは鋼鉄に近い硬さで、ぱっと見た限りではブラッドベアの両腕には目立ったような傷は見受けられない。

 ブラッドベアはサーリャとミランの攻撃を弾くとすぐさま反撃に転じる。サーリャを喰い千切ろうと大きく裂けた口を開きながら迫り、ミランへは長い尻尾がしなりながら振るわれる。先端が音速を超え、破裂音を響かせながらミランへと迫る。

 ミランは咄嗟に盾を構えることで防ぐことに成功するが、あまりの威力に大きく後ろへ吹き飛ばされ、サーリャは大きく身を捩りギリギリのところで鋭い牙から逃れた。

「お返しよ!」

 距離を取りながら即座に作り出したボルクを鼻面へと叩き込む。ありったけの魔力を込めた魔法が直撃すると爆炎が相手の頭部を包み込むが、すぐさま煙の先から——多少の焦げ目はついているが——相手の姿が現れる。

 両腕はすでに確認済みだが、他の部位も予想以上に打たれ強くなっている。

 そんな中、爆炎で生まれた死角からルインが姿勢を低くして迫っていた。二本足で佇むその腹に左腕を振るおうとするが、ブラッドベアは前脚を地に着けるとその巨体全てを使ってルインへと突進する。

「ぐふっ!」

「ルイン‼」

 正面からまともに受けてしまったルインは大きく後ろへ吹き飛ばされる。ブラッドベアは吹き飛んでいくルインを視界に捉えたまま左前脚を振るった、爪の先からまるで斬撃が飛ぶかのように赤黒い刃が三本ルインへと向かっていく。

「ルインはシオンが守る!」

 シオンの制御のもと、二枚のフォートレスがルインへと急行し、両者の間に滑り込み刃を受け止めた。爪撃はフォートレスに阻まれ、まるで水の塊が壁にぶつかったかのように四散し効力を失うが、四散した一部が地面に触れるとジュっと音を発しながら煙が上がった。どうやらあの攻撃にも毒を混ぜているようだ。

「いやらしい攻撃ね」

「魔法を撃ちますわ。発動まで三秒‼」

 マリアナの警告が響き渡り、攻撃を重ねていたサーリャはすぐさまその場から跳び下がる。

 地面が揺れブラッドベアの足元が隆起し、まるで獲物を飲み込もうと大口を開けるかのように土壁が周囲を取り囲む。内側に向かって棘を無数に生やしている土壁はそのまま口を閉じるように中心へと勢いよく移動する。轟音と共に姿が見えなくなると僅かばかりの静寂が訪れるが、サーリャたちは警戒を決して解かない。

 役割を終え、崩れ行く土壁の中で変わらずブラッドベアは立っていた。

「……本当にしぶといですわね。あれほどの強さならば王国の騎士団を複数動員するレベルですわよ」

「本当にそう思いますね。ここにいる全員で相手にしなければならないのならば、通常の騎士団ならば最低でも三つは欲しいところですね」

「……。」

 マリアナとミランが言葉を交わす中、サーリャは話に加わることなくじっと相手を見ながらあることを考えていた。敵の防御力は想像以上。生半可な攻撃では到底太刀打ちできない。

 しかしそんな相手にも必ず弱点はある。

「マリアナ様、数秒でいいので私が合図したら相手の動きを止めることはできますか?」

「……数秒くらいならば可能でしょう。でもそれでどうするつもりなのですか?いくらあなたでもあの守りはそうそう破れませんわよ」

「何か策があるのね?」

 サーリャは静かに頷く。

「このまま長期戦になればこちらが不利です。一か八かになりますがやってみる価値はあると思います。仕掛けるタイミングがかなり絞られてしまいますが、何もしないよりかはマシでしょう」

 うまくいく確証はない。失敗すれば戦線が崩壊する可能性だってある。それでもサーリャはあえて挑戦してみたい。

「そこまで言うならやってみろ。今は一つでも打てる手は打っておきたい」

「ありがとう——これまでとやることに大きな変更はありませんが、攻撃を絶えず与え続けて反撃の隙を与えないようにしてください」

 前衛組が再度駆け出し、激しい攻防が再開され剣戟と魔法が絶え間なく撃ち込まれる。戦闘がより激しさを増し、相手の懐へもぐりこんだルインが左腕を振るおうとしたところで、突然力が抜けたかのように膝が曲がり、体勢が崩れた。

「ルイン⁉」

 ミランが警告を発した時にはすでにブラッドベアはルインに左腕を振り下ろそうと腕を振り上げていた。

(今!)

「マリー!」

「任せなさい——アースガーデン!」

 マリアナの魔法が発動し、ブラッドベアの足元の大地が縄のように形を変え、対象へと何本も巻き付いていく。無数に伸びてきた拘束魔法によって動きが僅かに止まった。

 すぐさまサーリャも剣を一度鞘に戻してとっておきの魔法を発動させる。

 薄い水の膜が全身を包み込むのと同時に爆発的な加速がサーリャに襲い掛かる。

「っ!」

 かつて孤立した部隊を助ける為にルインがサーリャを砲弾に見立てて撃ち出した時と同等の加速にサーリャは歯を食いしばって耐える。一瞬でブラッドベアの眼前まで移動したサーリャは加速の勢いを利用し、剣を鞘から抜き放つ。

(狙うは一点。関節部分!)

 いくら外皮を強固にしようともそのすべてを硬化することはできない。可動部である関節はそのままにしておく必要があり、その可動域を確保しなければならない。振り下ろすために伸ばしている腕は今、保護されていない肘関節があらわになっていた。

 関節部分の隙間は狭い。僅かでも手元が狂えば剣は外皮によって弾かれてしまうだろう。

「これ以上は……縛れませんわ!」

 左腕に巻き付いていた拘束魔法がブチブチと音を立てながら引き千切れ、腕がサーリャへと迫ってくる。

ブラッドベアの左腕がサーリャを包み込んでいた水の膜に触れると膜は破れることなくその形を変えた。液体を掴もうとするのと同じで、そこにあるのに手にすることができない。

 そして変化はサーリャにも起こった。水の膜が巨腕の力で凹むのに連動して、その分だけサーリャは押し出されるように横へと移動する。

 ブラッドベアは足元の地面に腕を叩きつけるが、その拳の下にサーリャはいない。仕留めたと思っていた獲物が無傷のままでいることに対する混乱と、腕を振り下ろした直後だというのが合わさりブラッドベアの動きが止まる。そこへサーリャはすかさず剣を振るった。剣は寸分違わず肘関節へと吸い込まれていき、相手の肘から先が宙を舞った。

「ギュアアアアァァ‼」

 ブラッドベアの絶叫が周囲に響き渡る。まさか自分が傷つけられるとは思ってもいなかったようで、血が噴き出す自身の肘を見つめている。

「ナイスよサーリャ」

 すかさずミランが距離を詰める。ミランの作り出した雷撃と彼女の魔力が混ざり合い、刀身に収束していきながらミランは刺突の構えを取る。

「穿つは万物。雷鳴は彼方の果てまでその存在を知らしめる——」

 ピタリとミランの動きが一瞬止まる。そして狙いを無防備な腹に定めたミランは全力で剣を突き出した。

「エクリジア・サージ‼」

 ミランの剣が相手の外皮を突き破り、刀身が半ばまで突き刺さる。さらにミランは刀身に集めていた力を解放させ、刀身から放たれた雷撃が周囲を焼きながら背中を突き破る。

 内臓を焼かれブラッドベアは口から黒煙を吐き出しながらよろよろと後ずさるが、すぐさま何もないはずの場所で何かにぶつかりその動きを止めてしまった。シオンのフォートレスがブラッドベアの背後に移動し、背後から三方を囲んで退路を塞いでいる。

「逃がさない」

「あなたの舞台はここで幕切れですわ」

 準備を整えていたマリアナの魔法陣が赤く輝く。ブラッドベアはすぐさまその場から逃げようとするが、正面以外の三方を塞がれ、雷撃で痺れて満足に動かない身体では何もできない。

業火の花冠ボルウム・カローラ

 魔法陣から紅蓮の炎が放射された。炎はミランに貫かれた腹へと命中し、腹を焼きながら周囲へと拡散する。炎が拡散する姿はまるで咲き誇る花のように美しい。

 しばらく放射されていた炎が役目を終えて消え去ると、その先ではボロボロに成り果て満身創痍なブラッドベアが立っている。炎を浴び続けた結果、腹の外皮は大きくめくれ上がり、その先には表面が炭となっているが柔らかな肉が見えている。

 これで道はできた。

「「「「ルイン(師匠)‼」」」」」

 全員の声を受けてルインは力を振り絞るかのように突進する。左腕に纏う魔力が輝きを増すのと同時に相手も最後の抵抗とばかりに残っている右腕をルインへと突き出す。大きさは違えど同じ腕が交差し、両者の影が重なった。


「……。」

 全員が固唾を吞む中、ルインは腕を突き出した姿勢のまま目の前の存在を見上げていた。ルインの眉間には僅かコイン一枚分の隙間を残してブラッドベアの爪が止まっており、ルインの左腕は相手の腹に突き刺さり、肘近くまで埋まっている。

 左腕を引き抜いたルインの前でブラッドベアの身体がゆっくりと傾き、派手な音を立てて地面へと倒れこんだ。

 ようやく戦いに決着をつけることができた。その事実に安堵したサーリャたちだったが、遅れるようにしてルインの身体がふらりと傾いた。

「ルイン!」

「師匠!」

 サーリャとマリアナがすぐさまルインへと駆け寄り、両側から身体を支える。

「っと……すまんな。少し気が抜けてしまったみたいだ」

 取り繕う余裕もないのか、疲れ切ったルインの言葉にサーリャは苦笑する。

「気にしなくていいわよ。言っておくけれど本来なら絶対安静にしないといけないんだからね。ルインのわがままを聞いてあげたんだから、今度はこっちのわがままを聞きなさいよ」

「そうですわ。師匠はわたくしが治るまでの間離れることなく面倒を見て差し上げますわ。それと……どう言えばいいのかすぐに思いつかないのですが、ようやく終わったのですね」

「……ああ」

 三人は傍に倒れている存在に目を向けた。長い間探し続け、ルインを過去に縛り付けていた存在とようやく決着をつけることができた。失ったものは戻ってくることは無い。それでも今回のことはルインにとって大きな意味を持つ。

「ルインさん……」

 背後を振り返ればシオンと一緒にミリアンヌが少し離れた場所からこちらを見ていた。涙を浮かべルインの身を案じるその姿は彼に対し、特別な感情を持っているというのがはっきりとわかる。

 心配するミリアンヌにルインはようやく安心させるように笑いかけた。

「心配かけたな。これでもう狙われることは無いだろう」

「彼女の表情を見て、もう少しマシな言葉は無いの?」

「何を言っているのですかサーリャ。どんな時でも変わらないのが師匠の良さではありませんか」

「二人は俺のことを何だと思っているんだ」

 いつもの騒がしいやり取りにくすりと笑ったミリアンヌは自分もその輪の中に入ろうと一歩を踏み出したが、びくりと不自然にその身体が震えた。

「ミリアンヌさん?」

 こちらの声が聞こえていないのかミリアンヌは踏み出した姿勢のまま固まっている。その様子に全員が怪訝な表情になり、シオンがミリアンヌの腕を引こうとしたところでそれは起こった。

「ああああああああぁぁぁ!」

 ミリアンヌが絶叫し、自分の身体を抱きしめながら苦しみだした。

「「「「「なっ⁉」」」」」

 突然の事態に全員が驚愕する。

(どうして⁉魔獣は確実に殺したはず)

 改めてサーリャはブラッドベアを見るが、確かに生命活動は停止している。そんなサーリャの心情を裏切るかのようにミリアンヌの苦しみは止まることがない。そして白い神官服の隙間からわずかにモヤのようなものが漏れ出し始めた。清らかな神官服の色とは対照的な禍々しい色を持つあれは——。

「魔獣の魔力⁉」

「そんな⁉どうしてミリアンヌさんが魔獣の魔力を!」

 苦しみ続けていたミリアンヌだったが、やがて限界が来たのか意識を失い地面へと倒れこもうとするが、直前にミランが駆けつけて抱き留めるとゆっくりとその場にしゃがみこむ。その間も神官服の隙間からモヤが出続けている。

「ミラン!」

「わかっているわ。すみませんミリアンヌさん。少し服をめくらせてもらいますね」

 遅れてミリアンヌの元へ到着したルインは切羽詰まったようにすぐさまミランへと指示を出し、代わりに左腕でミリアンヌを抱き寄せることで役目を引き継ぐ。

 ルインへと預けたミランはすぐさまミランの体の向きを変え、神官服をめくり上げると息をのんだ。

「これは!」

「酷い傷痕……。ミリアンヌさんはいつこんな怪我を」

 ミランだけでなく傷痕を見た全員がミリアンヌの背中の状態に驚愕する。傷自体はつい最近にできたものではなく、相当前に付けられたのかすでに完治している。しかし背中に走る傷痕は彼女の白い滑らかな肌ではより一層目立ってしまい、痛々しく見える。

 モヤはそんな背中の傷痕から漏れ出すように漂っている。

「くそっ。事前に何か仕込んでいたのか!」

「どういうことですか師匠。原因はすでに取り除いたはずです。にもかかわらずどうして今になってミリアンヌさんに影響が出てくるのですか?」

「おそらく過去に彼女はヤツと出会っていたんだ。どういう経緯でそうなったのかは知らんが、その際に背中に傷を付けられたが一緒に毒も仕込まれていたんだろう。即時効果が現れるものではなく遅延型。しかも自身が死亡してから発動したことから道連れを狙ったものだろう」

「……なんて悪趣味な」

 死んでなお苦しめるなど、狩猟ではなくもはや悪意しかない。

「どうするのルイン。ありったけのポーションを使ってみる?」

「やめなさいサーリャ。そもそも体内に魔獣の魔力を宿している時点で異常よ。下手に手を出して状況を悪化させるのはまずいわ」

「ですが!」

 ミランからの制止に納得できずサーリャはさらに言い募ろうとする。

 確かに魔獣の魔力と人の魔力は相反するもの。水と油のように決して混ざることが無いのが常識だったのだ。それにも拘らずミリアンヌは体内に魔獣の魔力を宿していたのだ。ミランが警戒するのは至極当然の反応だ。

 確かにミランの意見は正しいが、それでも何もせずただ見守ることなどできない。

 誰もが対処法が分からず手をこまねいている中、ルインはゆっくりとミリアンヌの顔を見下ろした。ルインの腕の中でミリアンヌは意識を失っていながらも苦しんでいるのか表情は険しいままだ。

 そしておもむろにルインは左手をミリアンヌの左手へと伸ばした。あと少しで触れようとしたところで突如横から伸びてきた手に手首を掴まれ、その動きが止まった。

「……いったい何のつもりだ?」

 突如邪魔をされたことに嫌悪を隠すことなくルインは相手に殺気を込めながら睨みつける。

 ルインの視線の先では、ミランが真剣な眼差しでルインを見ていた。


 ミランの行動が理解できない中、ルインとミランの間には殺伐とした空気が出来上がっていた。

「もう一度問うぞミラン・リルコット。貴様は何をしている?返答によっては貴様でも今は容赦しないぞ」

「ルイン。あなたは何をしようとしているの?」

「くだらんことを聞くな。俺はミリアンヌさんを——」

「質問の仕方を変えましょうか。のに、彼女の中にある魔力をあなたはその左手でどうするつもりだったの?」

 サーリャはハッとなりルインを見る。ルインは睨みつけたまま沈黙を貫いている。

「ミリアンヌさんの身に起こっていることは明らかに異常なことよ。騎士団のトップとして在籍している私でさえ彼女の症状は初めて見るわ。あなたが騎士団にいた時に同じような症状を見たことはないし、森で一人暮らしているあなたがそんな情報を持っているとは考えられないわ。分野は違えど、あなたと私が分からないのよ」

 ルインの手を掴むミランの手にさらなる力が加わる。

「もう一度聞くわよ。あなたはその左手で何をしようとしているの?」

「……」

 沈黙が周囲を包み込み、サーリャとマリアナはハラハラしながら二人を見守ることしかできない。やがてルインが溜息とともに沈黙を破った。

「彼女の身体に何故魔獣の魔力が悪影響を及ぼさずこれまで残り続けていたのか理由はわからん。だが、ヤツの特性から考えて毒に由来するものだと考えられるから、解毒の応用で対応できる可能性がある。ミリアンヌさんにその類の対応は不可能だから、俺と疑似的なパスを繋いで原因の魔力を俺の方で排除する」

「つまり魔獣の魔力をルインへと移して、移した先で解毒するのね」

「確かに今のミリアンヌさんには荷が重すぎるのは理解できますが、そんなことをして師匠は大丈夫なんですの?」

 言葉にすれば単純だが、実際にはそう簡単なことではない。毒とは違って今回取り込もうとしているのは魔力なのだ。マリアナの懸念通り、取り込んだ際どんな悪影響が出るか分かったものではない。さすがにマリアナも不安になっている。

「解毒するからにはある程度影響を受け入れなければ効果はない。その辺の危険性は覚悟の上だ。……これで満足か?まさかリスク無しで何とかできるなどと思っていないだろうな?」

 しばらく思案顔になっていたミランだったが、やがてルインを掴む手の力が緩まった。

「わかったわ。とりあえずあなたのやり方を試してみましょう。でも危険と判断したら無理矢理にでも止めさせてもらうわ。彼女が助かって、あなたが犠牲になるようなことはこの場にいる誰もが望んでいないことを忘れないで」

「くれぐれも早まって邪魔をするなよ。とりあえずどんな影響が出るかわからんから、俺と彼女に触れるな——始めるぞ」

 ミリアンヌをしっかりと抱き寄せたルインは苦しむミリアンヌを優しげな目で見下ろし、静かに左手を重ねた。重ねられた手を包み込むかのように淡い青色の光が浮かび上がる。

「……なるほど。これがヤツらの魔力か。こんな状況でなければじっくりと研究してみたいところだな」

「ルイン、無理しないで」

「俺のことよりミランはミリアンヌさんの状態を監視していろ」

 心配するミランにルインは集中の為に目を閉じながら短く言い返す。

 ただ見ていることしかできない時間がしばらく流れるが、ようやく変化がミリアンヌに現れ始めた。背中の傷痕から漏れ出ていたモヤが少なくなり始め、心なしかミリアンヌの表情も和らぎ始めてきた。ルインの処置が効果的だったという事実に周囲で見守っていた四人は安堵と共に喜びの声を上げた。

 しかしそんな空気もすぐさまミランの一言で打ち消された。

「ルイン、今すぐ中断しなさい!」

 ミランの声に反応して慌ててルインの左手を見れば、ミリアンヌと触れている部分から黒ずんだ紫色の刺青のようなものがルインへと侵食している。ミランが袖を捲り、サーリャが襟を開くとすでに刺青は首にまで到達しようとしている。

「ルイン聞こえないの⁉今すぐ治療を中断して!」

 サーリャが大声で呼びかけるがルインは目を閉じたままで、額には珠のような汗を浮かべながら微動だにしない。

「ルイン、無理矢理にでも引き離すわよ」

「待ってくださいミラン様。それは危険です」

 どれだけ繋がりを深くしているのかわからないが、パスが繋がったままの二人を無理に引き離せばどんな影響が出るかわからない。

「このままこうしておく方が危険よ!」

 そう言ってミランは勢いよくルインの腕を引いた。ミリアンヌに重ねられたルインの手が離れると同時に両者の手を包み込んでいた光が消失する。

 二人の手が離れると首にまで迫っていた刺青が徐々に引いていき、最終的に左手の刺青まで消し去ったところでようやくルインがゆっくりと目を開けた。

「ルイン大丈夫?どこか違和感が残っていたりしてない?」

 ルインは額の汗を袖で拭った。

「……問題ない。だが、まだ彼女の中には魔力が残留している。このまま作業を進めれば完全に取り除けるはずだ」

「待ちなさい。あなたは気づいていないのかもしれないけれど、ルインへ移った魔力が身体を侵食していたのよ。このまま続けるのは危険すぎるわ」

 危機感の無いルインに不安を覚えたのかミランは口を挟むが、ルインは「何を言っているんだこいつは?」と言わんばかりにミランを見返している。

「解毒の前に体内に取り込む過程があるのだからそんなこと当たり前だろう。こうして俺に問題が出ていないのだから、ギリギリまで進めて今みたいにパスを切断すれば支障はないはずだ」

「それはそうだけど……」

 綱渡りに近いがそれ以外に対処が思いつかないミランは次第に言葉が尻すぼみになる。普段とは比べ物にならないであろう精密な魔力操作が求められるので、その分野に相当な技術がなければ対処できない。その言葉にサーリャは引っ掛かりを覚えた。

(解毒とルインは言っているけれど正確には魔力に近いもの。自身の内側の深い所まで潜ることのできる精密な魔力操作は必須……ううん。それだけじゃダメ。分離した魔力を外に放出しないといけないから周囲の魔力の特性も理解する知識も必要になる)

 そこまで考えたサーリャは一度思考を中断し、顔を上げた。もしかすると——。

「ねえルイン。ミリアンヌさんの解毒作業、私たちも手伝えないかしら?」

「なに?」

「ルインのしていることって簡単に言うなら魔力操作の一種でしょう?ここにいる全員魔力操作は長けているのだからやり方さえ教えてくれれば問題無いはずよ」

 使い方に差はあるが、ここにいるのは魔力操作に関してはトップレベルに近い技術を持つ者ばかりだ。十分その役割を手伝えるはずだ。しかしサーリャの提案をルインは静かに拒絶する。

「危険だ。確かに魔力操作に関しては他の奴らよりも上だろうが、魔力を取り込んだ際にどんな結果になるか予想がつかん。相手の魔力に耐えられず精神が飲み込まれる可能性だってあるんだ」

「でも師匠。それをクリアすればわたくしたちも手伝えるのですよね?それなら是非とも試してみたいですわ」

 手伝えるとわかるとマリアナは少しの躊躇いもなく名乗りを上げる。

「そうね。ルインにばかり負担をかけるわけにはいかないわね。ルインや姫様みたいに魔力特化ではないけれど、私だってそれなりに扱いには自信はあるつもりよ」

「ミラン、お前まで……」

 本来マリアナの行動を止めるべきミランまでもが参加すると言い出したことにルインは困惑と呆れが混じった表情になる。

(ルインは本当に優しいわね)

 ルインが頑なに助けを求めないのはひとえにサーリャやマリアナたちの身を案じてのこと。たとえ失敗しても犠牲は自分一人だけ済むからと考えているのだろう。そんな優しさに嬉しく感じながらも、同時に悲しさもある。

「ルイン、あなたは前に言ったわよね。一人でできることには限界があるって。足りないものは仲間に頼ればいいって。私たちは仲間として少しでもあなたの助けになりたいの」

 マリアナやシオン、ミランが同意するように頷く。ここにいる誰もがルインに助けられている。今度は自分たちがルインを助けるのだ。

「わかった。とりあえずやり方は教えるが、シオンは参加させない」

「っ!どうして……」

 自分だけ仲間外れされたことに大きくショックを受け、今にも泣き出してしまいそうになるシオンにルインは彼女の勘違いをすぐさま否定した。

「勘違いするな。別にシオンが役に立たないと言っているわけじゃない。確かに年齢的に幼いシオンは相手の魔力に飲み込まれる可能性が他の奴らよりも高いということもあるが、逆にシオンにしか任せられない役目があるから参加させないだけだ」

「シオンにしかできないこと?」

 シオンはその役目が思い浮かばず首を傾げる。

「そうだ。解毒作業中の魔力操作はかなりの集中を必要とする。自身の内側に目を向けなければならないから外の変化に気を回す余裕がない。血の匂いをまき散らしたこの場所は獣にとって無視できない格好の餌場になっている。大抵のヤツは戦闘の余波で近づいてくることはないだろうが、それでも確実とは言えない。最低でも一人は俺たちを守る役目を務めなければならん」

 確かにそれならばシオンが適任だ。あくまでもサーリャたちが復帰するまでの時間を稼ぐのが目的なので、向かって来る敵を殲滅する必要はない。シオンならば十分任せることができる。

「それでしたら確かにシオンが適任ですわね」

「シオン。私たちの命、あなたに預けるわ」

 彼女を信頼しているからこその言葉。だからこそ全員が迷うことなく自分の命を預けることができる。

 マリアナやミランからの言葉にシオンは先程までの悲しげな表情からやる気に満ちた表情へと変わり、フォートレスの輝きがより一層増す。


 ルインから解毒に関するレクチャーを受けた三人は準備のためにルインの傍に寄り、地面へと座り込む。輪になるように座り込んだサーリャたちの周囲を守るようにシオンのフォートレスが取り囲んでいる。

「やり方は理解したな?俺が最初に彼女から魔力を呼び込むから、三人はそこから対応できるだけの量だけ自分の中に引き込むんだ。初めから大量に呼び込む必要はない。必ず対処できる範囲に留めろ」

 ルインからの忠告に三人は真剣な面持ちで頷く。誰もが体内に魔獣の魔力を取り込むという経験したこともない作業を始めることに緊張を隠せないでいる。

「いいか。魔力を取り込み始めると相手の思念が流れ込んでくるだろうがすべて無視しろ。自我を強く持って必要以上に踏み込もうとするな。下手に踏み込めば最悪戻ってこられなくなる」

 ルインは最後にそれだけ言うとミリアンヌの手に自分の左手を重ね、その上にサーリャたちの手が静かに置かれる。その際にマリアナが直接触れ合いたいが為に真っ先に動いたことにサーリャは思わず噴き出した。

「始めるぞ」

 重ねられた手を包み込むように光が生まれ、ミリアンヌからルインへと魔力が移動し、さらに三人へと移動していく。重ねられた右手を通して入り込んでくる不快さにサーリャは表情を険しくした。

(これが魔獣の魔力なのね……)

 まるで自分の身体の中を無数の何かが蠢いているかのようで、落ち着かない。自身とは違う魔力にサーリャはできる限り冷静さを失わないよう努める。ルインというフィルターを通しているのにこの不快さなのだ。それを身に宿していたミリアンヌはどれほどの負担があったのか想像もつかない。

 目を閉じ自身の内側に目を向けたサーリャはゆっくりと着実に入り込んできた魔力を解毒し、体外へ放出していく。初めこそ戸惑いはしたが、コツさえわかればサーリャでも十分対応できる。

 取り込む魔力の量を増やし始めた所でサーリャはあることに気づいた。


 ———————。


(ん?)

 何かが聞こえたような気がして、サーリャは制御が甘くならないように注意しながら片目を開ける。

 マリアナとミランはサーリャと同じように目を閉じたまま解毒作業に集中し、シオンは周囲を警戒しているので誰も言葉を発していない。気のせいだろうか?

(もう少し引き込んでも大丈夫よね)

 開けていた片目を閉じ、解毒作業を再開するためにさらに魔力を自身へと呼び込んだところでサーリャの耳に大音量の音が飛び込んできた。あまりにも突然だった為、おもわずサーリャの身体がびくりと跳ね上がる。

(なんなの⁉)

 それは無数とも言えるほどの獣の声だった。あまりにも数が多過ぎて個体の判別ができないほどではあるが、共通していたのはどの声も苦しみを孕んだ声だということ。そしてその声は頭の中に直接響いており、耳を塞いでもまったく変化がない。

(まさかこの声って今まで犠牲になってきた生き物の声なの?)

 そう思ったところで、サーリャはいつの間にか頭の中に響く声に耳を傾けていることに気づいた。これはまずい。下手に興味を持ってしまえば飲み込まれる。

 作業に集中しなければ!意識を無理矢理にでも引き戻そうとしたサーリャだったが、無数の獣の叫び声の合間をすり抜けて別の声がサーリャへと届いた。

「まってよ~」

「えっ⁉」

 戦場では聞くことのない子供の声だ。予想外の声が聞こえてきたことに思わず目を開いたサーリャの視界に映ったのは仲間たちの姿ではなかった。

「ここって……どこなの?」

 仲間の姿はなく瓦礫となってしまった砦が近くにあったはずだが、その痕跡すら消え去っており、代わりにいくつもの家屋が立ち並ぶ村の中にサーリャはいた。座っていたはずなのにいつの間にか立っている。

「幻覚?それとも何かの精神攻撃かしら?ルインはこんなこと言っていなかったはずだけど……」

 周囲を見渡すが、まるで度の合っていない眼鏡をかけているように輪郭がぼやけ過ぎてはっきりと視認できない。なんにしても想定外のことが起きているのは間違いない。サーリャはいつ襲われても対処できるように全方位を警戒する。

 そして背後から小さくではあるが足音が聞こえてきたのに気がつくと、勢いよく振り返った。

「……子供?」

 村の子供だろうか。性別すら見分けられないほどにぼやけてしまっているが、一人の子供がこちらに向かって駆けてくる。身構えるサーリャだったが、あと少しというところで子供は足元の石に躓き、勢いのまま前へ倒れこむ。

「危ない!」

 咄嗟にサーリャは子供を受け止めようと。踏み込んだ瞬間、まるで霧が晴れるかのようにぼやけていた視界が一気にクリアとなり、倒れこむ子供は幼い男の子だとわかる。

 倒れこんでくる子供にサーリャ手を伸ばしたサーリャだったが、子供はサーリャの手をすり抜け地面へ倒れこむ。

「なっ⁉」

 触れることなくすり抜けてしまった事実にサーリャは驚愕に目を見開いた。

「うわあああん!」

「もう。なにをしているのよ」

 今しがた起きたことが信じられず手を伸ばした姿勢のまま固まってしまっているサーリャの目の前で男の子は大声で泣き出すが、さらにどこから現れたのか別の声がすぐ隣から発せられた。

 目の前で倒れている男の子と同じ黒い髪をなびかせながら一人の少女が近づいてきて、少年を起き上がらせながら優しげな手つきで服に付いた土を払っていく。

「ほら。お姉ちゃんが手を繋いであげるから一緒に行きましょう」

「うん!」

 先程まで泣いていたのが嘘のように一転して少年は笑顔になり、姉らしき少女に手を引かれてそのまま去っていった。その様子をサーリャは戸惑いながら見届けるしかできない。

 ——何か大切なことを忘れているような気がしたが、何を忘れているのか思い出せず、その疑問すら数秒後には霞のように消えてしまう。

 姉弟が去っていくと周囲の景色が切り替わり、今度はどこかの家の中にサーリャは立たされていた。狭い部屋の中には一つのベッドが置かれており、その中で先程見た姉弟がピッタリとくっついて眠っている。

「これは……記憶?たぶん二人のどちらかだと思うけど、これを私に見せて何がしたいの?」

 目の前で次々と見せられる光景は前後でまったく繋がりがなく時間も時期もデタラメで、適当に映像を継ぎ接ぎしたかのよう。共通しているのはどの場面でも姉弟が中心となっており、二人がその場を離れれば次の場面へと切り替わる。

 どの場面でも仲の良い姉弟が楽しそうに笑っている。

 干渉することのできないサーリャはただ見ていることしかできない。終わりはいつなのだろうかと思い始めた所で何度目かになる場面の切り替わりが起こるが、今度は少し様子が違った。

 これまでのような村の中とは違い、今度は森の中にサーリャは立っていた。何かに襲われたのか、周囲には馬車らしき残骸と積み荷が散乱している。

(二人に何があったの⁉)

 残骸の中に姉弟はいた。少年の身体の上にはいくつもの残骸が積み重なっており、気を失っているのか目を閉じたままピクリとも動かない。そしてその傍らで少女があちこち土に汚れながらも必死に弟の上に積み重なっている残骸をどかそうと必死になっていた。

「■■ちゃん目を覚まして!お姉ちゃんがすぐに助けてあげるからね」

 しかし幼い少女の力では少年を助けるにはあまりにも弱すぎる。少女が全力で持ち上げようとするが、大きな残骸はわずかに持ち上がるだけで、助けるには至らない。

それでも少女は必死に残骸を取り除こうと力を振り絞っていた。そんな状況をただ見ていることしかできないサーリャは自分のことのように感じて思わず胸を押さえる。


 グオオオォォォ


 どこからか発せられた咆哮にサーリャと少女は同時に反応し、顔を上げた。咆哮の大きさからしてここからそう遠くない。

 咆哮を聞いた少女は何か考える素振りを見せた後、すぐさま弟を助けようと取り除いた残骸を急いでかき集め弟の姿を隠すように積み上げていく。最後に弟の顔を隠すだけになったところで少女は慈しむようにそっと弟の頬に触れた。

「■■ちゃん・・・ごめんね」

 未だ気を失ったままの弟の顔を目に焼き付けた少女はゆっくりと頬に触れていた手を離した。弟のものではない鮮やかな〝赤〟が頬に残る。

 手早く弟の顔を残骸で隠した少女はふらつきながらも立ち上がり、ゆっくりとその場を離れ始めた。向かう先は開けた場所ではなく、見通しの悪い森の奥深くへと歩みを進める。自分の隣を通り過ぎていく少女にサーリャは叫び出したい気持ちだった。

(どうしてそっちへ行くの⁉そんな状態で森の奥に進んでしまったら……)

 幼い少女が一人で森を突破できるほど自然は甘くない。この先に待ち受ける少女の未来は容易く想像できてしまう。

 そう思っていたところでサーリャは気づいてしまった。これまで正面からしか少女を見ていなかったが、横を通り過ぎた少女の背中が見えたことで彼女がどういう状態かわかってしまった。

「背中が……」

 少女の背中は切りつけられたかのように大きな傷を負っていた。相当深い傷なのか破れた服が真っ赤に染まっている。この状態で森へ向かうなど、それではまるで——。


 これでいいの


 サーリャの思考を読んだかのように少女の声がサーリャの頭の中に響いた。少女が喋ったわけではない。彼女の想いが絶え間なくサーリャへと流れ込んでくる。

 このまま二人この場に残り続ければいずれ獣に見つかってしまうのは明らか。自分だけならばまだいい。しかし弟が犠牲になるなど断じて許容できるものではない。

 血の匂いを纏う自分が離れれば獣は弟に気づかずこちらを追いかけてくるはずだ。


 それに私はもう長くないから……


 血を流し続ける痛みの中、傷口から得体のしれない何かが入り込んでくるのが分かる。次第に意識も遠くなり始めている。

 それでも〝私〟は歩くのを止めない。サーリャはボロボロの身体を引きずるようにしてでも前へと進む。一歩進むごとに涙がとめどなく溢れ、頬を伝い視界が滲む。

(ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい)

 もっと一緒にいたかった。喧嘩をした時もあったけれど、それでも〝私〟にとってはかけがえのない大切な思い出だ。今すぐにでも弟の傍へ駆け戻り抱きしめたい衝動に駆られるが、それに勝る想いで無理矢理抑えつける。

 覚悟は決まっている。あとは行動するだけだ。


 ——!————‼


 だから〝私〟は前へと進む。前が見えなくなっても感覚の残っている足だけは動かし続ける。この想いは決して塗り替えられることはない。


 ——ャ。き————のか!


 弟のためなら……〝私〟の命など!


 サーリャ!目を覚ませ‼



「サーリャ‼」

 すぐ近くから大声で自分を呼ぶ声に気づき、サーリャは叩き起こされたかのように勢いよく目を開けた。目を開けるとわずかに遅れるようにして猛烈な頭痛と吐き気が襲い掛かり、おもわずサーリャは口元に手を当てた。ミランのハッキリとした声がすぐ近くで聞こえる。

「戻ってきたわ!サーリャ大丈夫?私たちがわかるかしら⁉」

 心配そうなミランに返事を返せないままのサーリャだったが、ふわふわと視界が揺れているような感覚が落ち着いてきたところでサーリャは改めてゆっくりと目を開けながら周囲を見渡した。

「ここ、は……?」

 座っていたはずなのにいつの間にかその場で寝かされていたようで、視界いっぱいに広がる青空に割り込むような形でミランとマリアナが心配そうにこちらを覗き込んでいる。

 どうして自分は寝かされているのだろうか。問いかけようとしたところで横になっているサーリャに軽い衝撃と共に誰かが抱きついてきた。

「サーリャぁ。よかったよぉ!」

 シオンが号泣しながらサーリャの胸に顔を埋めている。どうしてシオンが泣いているのかサーリャは思いつかず混乱した。

「私は——」

「相手の魔力に浸食されたんだ」

 少し離れた場所で座ったままのルインがサーリャの疑問に答える。

「途中まで順調だったはずなのに、いきなり浸食が始まったんだ。異常に気付いたシオンが知らせてくれたが、処置を始める頃にはかなり深い所まで浸食されていたんだ。ミランとマリアナがサーリャの体内に残留している魔力を浄化していなければ精神が飲み込まれるところだったんだ——あれほど注意しろと言ったのに不用意に向こう側へ踏み込んだな?」

「……ごめんなさい」

 心当たりがあるサーリャは素直に謝罪した。躓いた少年を助けようとしたあの一歩がきっかけだったのだろう。咄嗟のこととはいえ自身の迂闊な行動で仲間を心配させてしまったことが申し訳なく感じる。

「本当に迂闊だったわね。いろいろと言いたいところだけど無事に戻ってこられたから今は何も言わないわ」

「まったくですわ。シオンが泣き出した時は何事かと思いましたわよ。助ける者が助けられてどうするんですの」

 未だ胸の中で泣き続けているシオンを安心させるように頭を優しく撫で続けるサーリャにマリアナが小言を言ってくるが、その表情には明らかな安堵が含まれていた。

「っ!ミリアンヌさんは⁉」

「落ち着け。一応浄化は成功した。……だが浸食がどこまで影響しているのかわからんが、呼びかけても目を覚まさない。もしかすると精神に何らかの悪影響が残っている可能性がある」

「そんな……」

 悲し気に視線を落とすルインの腕の中では変わらずミリアンヌが目を閉じたままで、マリアナもミランも沈痛な面持ちだ。せっかく元凶を排除できたのに。

「とりあえず目を覚まさなければどうにもならん。彼女のことも心配だが、お前の状態も心配だ。混ざったことでどんな変調を起こしているのかわからん」

「サーリャはそのまま動かないでじっとしていなさい。シオン、少し調べるから離れてくれないかしら。サーリャが無事なのはあなたもわかるでしょう?」

「……うん」

 涙を拭いながら離れるシオンと入れ替わるようにしてミランがサーリャへと顔を近づけ、些細なことも見逃すまいと瞳を覗き込む。少しでも動けば触れてしまいそうなほどの至近距離で見つめられることにサーリャはドギマギするが、そもそもの原因が自分の不注意なのでぐっと我慢する。

 ミランに調べてもらっている最中、サーリャはあることを思い出していた。

(あの姉弟。もしかしてあの二人は——)

 ミリアンヌとルインを通して見させられた幸せそうに笑い合っている黒髪の姉弟。自分の中に流れ込んできた記憶がもしもミリアンヌの記憶の一部だったのならば、彼女は——。

「ねえルイン。もしかしたらミリアンヌさんって——」

「ううっ……」

 サーリャが最後まで言い終わらぬうちにミリアンヌが僅かに身じろぎしたことで話は中断し、全員がミリアンヌへと注目する。サーリャもミランとシオンに支えられてゆっくりと身体を起こす。

「ミリアンヌさん。俺の声が聞こえるか?」

 全員が固唾を呑む中、瞼が震え、ゆっくりとミリアンヌが目を開いた。

「ミリアンヌさん!」

「よかった!意識を取り戻したのですね」

 意識を取り戻したことに一同は喜ぶが、真っ先にルインとミランが違和感に気づき、遅れてサーリャたちもそれに気づいた。

「……。」

 目を覚ましたミリアンヌは周囲の声には反応せず、まるで夢うつつかのようにぼんやりとした表情で首だけを動かして周囲を見渡している。やがて自分を抱き寄せているルインへと視線が止まり、何も言葉を発することなくじっとルインを見つめている。

「ミリアンヌさん俺が分かるか?何か身体に違和感とかは残っていないか?」

 しかしミリアンヌはルインの呼びかけにも応えず、じっとルインを見つめている。

 まさか精神に後遺症が残ってしまったのではないか。誰もが最悪の結果を予想し表情を強張らせ始めるが、ルインは認めたくないかのように何度も必死にミリアンヌへと呼びかける。

「ミリアンヌさん頼む……何か言ってくれ!」

「違うでしょ」

 これまでよりも優しさが増したミリアンヌの言葉が紡がれる。抱かれたままの状態で愛おしそうに目を細める彼女の視線は、ルインから微塵も外れることはない。

「ダメじゃない私の名前を間違えるなんて。本当にるーちゃんはうっかりさんね」

 ルインの目が大きく見開かれた。


(まさか⁉)

 ありえないことに頭が理解できずルインは雷に打たれたかのように自分が抱き寄せている女性を見下ろす。

 もう二度と聞くことはないはずの呼び方にルインの感情は大きく揺さぶられていた。その呼び名を誰かに教えたことはなく、自分のことをそう呼ぶ者は世界にたった一人しかいない。そしてその名を口にしたということは……。

「姉さん……なのか?」

 動揺を抑えきれず震える声でルインはこれまで何度も聞きたいと思いながら言い出せなかった言葉を口にする。その言葉に成り行きを見守っていた四人に驚きの表情が浮かぶ。

「そうよ。るーちゃんのお姉ちゃんのルミアよ。お姉ちゃんのことを覚えていてくれて嬉しいわ」

「どう……して。だって目の前にいるのはミリアンヌさんのはずだ」

「そうね。確かに私はミリアンヌよ。でも、それと同時にルミアでもあるわ。うまく言葉にし難いのだけど、ミリアンヌとルミア、二人で一人の私を形作っているのよ。ミリアンヌだった時のことも私は覚えているわ」

 言われなくてもわかっていたことだ。話し方も細かな仕草も、自分に見せるその笑い方も。すべてが記憶のままで、腕の中にいる女性が自分の姉だと証明している。

「ミリアンヌを通して、るーちゃんのことはある程度知っていたわ。るーちゃんのことを覚えていなくても、ルミアという一面がどこかに残っていたから無意識に興味を持ったのね。街でるーちゃんが騎士になっていたということを知った時は、お姉ちゃんとても誇らしかったわ」

「……今の俺を知って姉さんは失望しただろう」

 騎士としての資格を失い、犯罪者として人目を避けて暮らす今の自分の姿に姉はさぞ落胆しただろう。自嘲するルインだったが、ルミアは微笑みながらゆっくりと首を横に動かす。

「そんなことないじゃない。お姉ちゃんの言ったことを忘れちゃったの?」

 同じ澄んだ青い目が真っ直ぐ自分だけを映し出す。

「誰がどう思うと関係ない。世界中があなたを嫌っても私は何があってもあなたの味方よ。だってあなたは私にとって大切な——大切なかけがえのないたった一人の愛する弟よ」

 ルインの中であの日の記憶が蘇る。姿が変われど、あの日と同じように姉は太陽のような温かい微笑みを浮かべている。そしてあの言葉の続きをようやく知ることができた。

「そうか。そうかっ!」

 ルインは肩を震わせながら俯いた。しかしこみ上げてくるものを抑えることができず、零れ落ちたものがルミアの頬を濡らす。

「ごめんね、ダメなお姉ちゃんで。約束を守れなくて……あなたを一人ぼっちにして。寂しい思いをさせてこんな怪我までさせちゃったお姉ちゃんを許して」

 ルミアの伸ばした手がルインの左頬に優しく触れた。ルミアの目から涙が溢れ、頬を濡らしていた雫と混じり合い一つになる。ルインは頬に触れる彼女の手を取り、謝り続ける姉の言葉を否定するように何度も横に首を振る。

 謝る必要など、どこにもない。今触れ合っているこの温もりがあるだけで、満足なのだから。



 サーリャは静かに立ち上がりその場を離れた。サーリャだけでない。ミランやマリアナ・シオンも示し合わせたかのように、何も言うことなく静かにその場を離れる。

 少し離れた場所に移動した四人だったが、サーリャは隣を歩いていたマリアナの様子に気がつき小さく笑う。

「ちょっと。なんで号泣しているんですかマリアナ様」

 サーリャの隣でマリアナは溢れ出る涙を止められず、何度も涙を拭っていた。

「だって……仕方ないじゃありませんか。こ、これが泣かずにいられるわけないでしょう!し、師匠のお姉様が生きていらっしゃって、師匠のことを思い出されたのですよ」

 涙を流し続けるマリアナは咎めるようにサーリャへと視線を向けた。

「そういうサーリャだって、そんな顔で言っても説得力がありませんわよ」

「えっ?」

 表情を確かめるように頬に触れたサーリャの指先は濡れている。いつからだったのだろうか。この時になってサーリャはようやく自分が涙を流していることに気がついた。

「な、泣いてなんかいませんよ。嬉しいに決まっているじゃないですか。姉弟がもう一度再開できたんですから……だからっ!」

 誤魔化すように取り繕っていたサーリャだったが、取り繕うとすればするほど感情が大きく揺れ動き、最後は堪えきれず嗚咽を漏らす。ルミアの記憶に触れてしまったからなのか、二人が再開したことに対して悲しさと嬉しさがごちゃ混ぜになった感情が涙となってとめどなく溢れてしまう。ミランもそれを察しているのか何も言わず、落ち着かせるようにサーリャの肩に優しく手を置く。

 そんなサーリャを見て僅かばかり感情が落ち着いたマリアナは「決めましたわ」と涙に濡れながらも覚悟を決めた表情になり、誰もがマリアナへと視線を向ける。

「王国に戻ればわたくしはこの件に関して専門の研究機関を設立しますわ。このような悲劇、もう二度と起こさせるわけにはいきません!ルイリアス王国王女であるマリアナ・ヘルオンスの名において、この場で宣言します!」

 ルミアが助かったのは本当に運が良かっただけ。ルインやミランやマリアナといった魔力操作のエキスパートが揃っていたからこそ実現できたことであり、他の騎士では対処できなかった。今回はうまくいったが、次同じように助けられるかと問われても即答できないのは身をもって思い知っている。

「ルインが家族に会えて本当に良かった。シオンの家族はもういないから、会うことができるのならその方がずっといい。でも、ちょっと羨ましい」

「あら、シオンは何を言っているのですか。随分と悲しいことを言ってくれるのですね」

「えっ?」

 キョトンとするシオンをマリアナは涙を拭いながら見下ろした。

「家族の在り方なんて様々ですわ。もちろん家族とは何かと聞けば多くの人がシオンのように血の繋がった間柄だと答えるでしょう。しかしそれは見方の一つでしかありません。一緒に喜びや悲しみを分かち合える関係ならばそれはもう『家族』と呼んでいいのではありませんか?」

「っ!」

 シオンの目が大きく見開かれた。マリアナが何を言いたいのか理解して、翡翠色の瞳が大きく揺れ動く。

「か……ぞく?シオンにも家族がいるの?……シオンが家族でいいの?」

「なにを今更。わたくしはここにいる皆さんよりもあなたと関わった時間は短いですが、それでもそう思うだけの関係だと思っていましたよ。サーリャとミランはどうですの?」

「そうですね。私もマリアナ様と同じ思いですね」

「シオン、姫様の言う通りよ。あなたは過去の自分を気にしているみたいだけど、私からすればそれはもう済んだことで関係ないわ。それにね、シオンのことをなんだか可愛い妹みたいに思っているのよ」

 身近な二人の言葉を聞いたシオンはくしゃりと表情を歪めると、そのままミランへと抱きついた。腰に手を回し、顔を埋めながらかすかに嗚咽を漏らすシオンの頭をミランは優しく撫で続ける。

「そういえばサーリャ。あなたどさくさに紛れてわたくしのことを『マリー』と呼びましたね?」

「あっ」

 サーリャは気まずげに視線を彷徨わせる。確かに自分は口にした。あの時は咄嗟のことで気にしていなかったが、許可なく王女を愛称で呼んでしまったのだ。さすがに無かったことにはできない。

 冷や汗を浮かべるサーリャをじっと見ていたマリアナだったが、ふっと真顔だった表情を緩めた。

「そんな顔をしなくても結構ですわ。公の場では許されませんが、それ以外の場ではわたくしのことをマリーと呼ぶことを許します。その代わりわたくしを王女のマリアナではなく、ただのマリーとして接しなさい!」

 ビシッと指さすマリアナにサーリャはたじろぎながらも再度確認する。

「マリアナ様はそれでいいのですか?」

「あなたもわたくしも能力が一定方向に尖っているのだから他の部隊にいられないのはわかっているでしょう。わたくしもミランの部隊に入るつもりですから、背中を預ける相手とは対等でいなければなりませんわ!……それに、あなたをこのまま野放しにしていてはいつ取られてしまうか心配ですもの」

 マリアナの言葉の最後は独り言のように呟いていたのでうまく聞き取ることはできなかったが、それでも彼女が自分を信頼していることは伝わった。

「わかったわ。それじゃあこれからよろしくねマリー」

「こちらこそ、よろしくですわ」

 二人が自然と握手を交わす中ミランは「えっ!姫様、私の部隊に入るの⁉」とギョッとしているのが見えた。


 やるべきことは終えたが、魔核は回収しておきたい。それぞれが動き出そうとしたところでサーリャは背後を振り返り、祝福の言葉を二人へと送った。

「良かったわねルイン」

 雲の切れ間から漏れる陽光が大地に降り注いでいる。その中心で照らされている二人はまるで物語のような——長い眠りから覚めたお姫様と騎士のように輝いていた。



 ある日の昼下がり。何度も経験してきた転移の光が消えると四人は魔法陣の消え去った地面から外へと足を踏み出す。向かう先は行き慣れた森の中に佇む一軒家だ。

「やっぱり便利な魔法ですわね。サーリャだけが自由に行き来できるのはやっぱり羨ましすぎますわ。今度師匠にお願いしてわたくしの部屋にも転移先を作ってもらいましょうか」

「さすがにダメでしょ。マリーが自由にルインの家に行けるようになったらずっと入り浸っちゃうじゃない。いきなり姿をくらましたらあちこち探し回る城の人が可哀想だわ」

「私からもお願いします。姫様がルインみたいに森に引き籠られては周囲からの非難が止められなくなります」

「言いたい者は勝手に言わせておけばいいのです。わたくしの行動を管理する権限など誰にもありませんわ!」

 転移先から庭を突っ切る四人は雑談に花を咲かせるが、自然と話題は最近起きたあの一件に移ろう。

「それにしても、ルミアさんって意外にすんなりと村を離れられましたね。事情を知っていた司教様はわかりますけど、ルミアさんならもう少し村の人たちから引き留められると思っていました」

「何も言わずに出て行くわけじゃないから理由を説明すれば応援してくれるのは当然よ。子供たちもその辺りは理解していたと思うけど、やっぱりいなくなってしまうのは寂しかったのね」

 あの戦いの後、無茶を重ねたルインはとうとう倒れてしまい、大慌てで村へと引き返すことになった。しばらく絶対安静と言い渡されたルインだったが、時間が必要だったのはルインだけではない。

 記憶を取り戻したミリアンヌ改めルミアは村に戻ると今後どうするのかの選択を迫られることになった。すでにミリアンヌとして村に溶け込んでいるのだから村に残るべきだと主張するルインだったが、ルミアは即座に反対し自分の願いを口にした——弟と一緒に暮らしたいと。

 ゴドウィンや村長を通じてその話が村人に広がると最初は寂しそうにしていたが、誰もがルミアの意思を尊重し盛大な送別会が執り行われることになった。それだけで彼女がいかに慕われていたのかがわかる。

 孤児院の子供たちも全員が泣いていたが、それでも最後は笑顔でルミアを見送ってくれた。なぜかシオンは残ってほしいと最後まで駄々をこねていたが……。

「あの赤髪の子供——確かアレンだったかしら?あの子、今思えばルミアさんのことが好きだったのでしょうね。師匠にやたらと突っかかっていたのも記憶を失っていたルミアさんが無意識に師匠の傍にいたのが原因でしょうし」

「まぁこればかりはしかたないわね」

 サーリャはアレンに同情するように当時のことを思い出す。

 ルインとは血の繋がった実の姉弟であり、今後村を出て家族の元で暮らすと言われた時のアレンは言葉で言い表せないほどに衝撃的な表情になっていた。何かを堪えるように拳を握りしめながらしばらく俯いていたが、瞳を潤ませながら顔を上げたアレンはルインを睨みつけ、「泣かせるようなことをしたら俺が許さないからな!」と言い放っていたのは鮮明に覚えている。

 彼にとっての初恋は終わってしまったのかもしれないが、まだまだこれから多くの出会いがあるのだ。頑張れアレン君。

「ルミアを大好きなのはルインも負けていない。ルミアのことを一番好きなのはルインだとシオンは思う」

 あの一件以来、ミランにべったりになったシオンが甘えるようにミランを見上げる。

「シオンの言う通りかもしれないわね。家族ってこともあると思うけど、彼のお姉さんに対する気持ちは誰にも負けていないと思うわ」

 姉の為に人の寄り付かない湖畔にあれほど幻想的な空間を一人で作り出したのだ。普段他人に対する反応が薄いルインを知っていれば、どれだけ彼女のことを想っているのかわかる。

 そこでサーリャはあることを想像しニヤリとする。

「ねえ、あれだけルミアさんのことを大切にしているならルインの態度も変わっているかもしれないわよ。どうする?あのルインが『お姉ちゃん大好き~』とか言って甘えていたら」

「師匠が⁉そんな姿なんて全く想像できませんわ。でも、そんな師匠もちょっと見てみたいような……」

「……ありえない」

「さすがにあのルインがそんなことを言うとは思えないわね。むしろそうなっていたら、これからルインとどう接していいのか分からないわ」

 サーリャの予想に三人はそれぞれ感じたことを口にするが、誰もが否定的な意見だ。提案したサーリャ自身もその可能性は無いと思っている。

「まぁそれももうすぐわかることですわ。久しぶりに師匠にお会いできるので楽しみですわ」

 あの一件から二週間近くが経過しているが、その間誰もルインとは会っていない。

 十年以上生き別れていた姉弟の再会なのだ。これまでの時間を取り戻すように傍にいたいし、話したいこともたくさんあるはず。そんな二人の邪魔をしたくないサーリャたちの配慮だ。

 しかし、あれだけの怪我を負ったルインの容態も心配だったので、今日四人で訪れることになったのだ。

 サーリャたちはルインの態度がどう変化しているのかで盛り上がりながら家へと歩みを進めるのだった。



 勝手知ったるルインの家に入りリビングへと辿り着いた四人。

「「「「……」」」」

 リビングに入ったところで四人は言葉を発することなく立ち尽くし、同じことを考えていた。——これはどういうことだ。

「ねぇる~ちゃ~ん。お姉ちゃんにかまってよ~。るーちゃんにかまってもらえなくてお姉ちゃんは寂しいわ」

「姉さん、さっきかまってやっただろう。今俺は本を読んでいるし、そうくっつかれるとページを捲れないんだが?」

「さっきはさっきでしょう。お姉ちゃんは今かまってほしいの!」

 ルミアはぷくっと可愛らしく頬を膨らませる。しかしすぐさま何かを思いついたのかパッと表情が明るくなる。

「じゃあこうしましょう!お姉ちゃんもるーちゃんと一緒に同じ本を読むわ。ページが捲りたくなったらお姉ちゃんがやってあげるから、わからないところがあったらお姉ちゃんに教えてくれる?」

「仕方ないな」

「ありがとう!」

 リビングでルインとルミアはソファーに座っていた。二人はラフな服装に身を包み、ルインは怪我の影響で右腕が吊られ、組んだ足の上に本を置いている。姉のルミアはそんなルインの左隣に座っているが、彼女のあらゆる所に突っ込み所がある。

 まずルミアの態度がミリアンヌだった時と比較にならないほど変わってしまっている。甘えるような声で、ルインに自身の身体をこれ以上は無理だと言わんばかりに密着させており、ルインの左腕をぎゅっと抱き寄せながら肩に頭を乗せてうっとりとした表情を浮かべている。

 ルインもそんな姉の態度を気にしていない。左腕がルミアの豊満な胸の谷間にすっぽりと埋まってしまっていても振り払うことはせず、されるがままになっている。

 姉弟というよりも恋人、もしくは夫婦のような空間が出来上がっていた。

「ああ、四人とも来たのか」

「ルイン、その状態はいったい……気にならないの?」

 変わらないルインの態度に再び衝撃を受けている四人の心情を代弁するかのようにサーリャは恐る恐る問いかける。

「ん?どれのことだ?姉さんのことなら前に言っていただろう。ちょっと俺にかまい過ぎる節があると。まぁいつものことだから姉さんらしいと言えば姉さんらしいな」

((((ちょっと?))))

 四人の心の声が見事にシンクロする。二人にとってはこれが当たり前なのか⁉

 サーリャが声をかけたことで後押しされたのかマリアナもおずおずと口を開いた。

「ミ……コホン。ルミアさん。少しくっつぎ過ぎなのではありませんか?姉弟でも過度な接触は羨ま……コホン。はしたなく思われますわよ」

 ルミアはルインに密着したままの状態でマリアナへと視線を向けた。

「マリアナ様それは間違いです。姉弟だからこそここまでできるのです。仲の良い他人とは違って姉弟は血を分けた家族であって、いわばもう一人の私と言っても差し支えありません。自分を愛せない者が誰かを愛することなどありえません。だから私は全力で私の半身であるるーちゃんを愛するのです。姉弟ならばこの程度のスキンシップなど当たり前ですよ」

「そ、そうなのですか!姉弟なら当たり前のことなのですね。わたくしの勉強不足でしたわ」

「いやいやマリー、そんなわけないでしょう。なにコロッと騙されているのよ」

「違うのですか⁉」

 少なくとも異性としての関係に見えるような姉弟が当たり前の光景など聞いたことがない。

「あら残念。でも私がるーちゃんのことを大切に想っているのは本当よ。るーちゃんが一緒なら私はそれだけで十分。この幸せが続くのなら、私はそれ以上望まないわ」

 イタズラが成功したことにころころと笑うルミア。それでも弟であるルインに対する想いは誰にも負けないという自信が伝わってくる。


 場を改め、姉弟と向かい合う形でサーリャたちは座った。ソファーにはマリアナとミランが。サーリャとシオンは空き部屋から持ってきた椅子に座っている。

 今度はルインに抱きついたりはせず用意した紅茶を口にし、居ずまいを正したルミアがサーリャたちを見渡した。

「あの時はちゃんとした挨拶ができなくてごめんなさい。隣にいるルインの姉でルミアと言います。この度は私や村の人々を助けてくださりありがとうございます。ミリアンヌとしての一面を持っていて記憶もありますが、今はルミアとして生きていますので、こちらの名前で呼んでいただけると嬉しいです」

 ミリアンヌと同じ、はっきりとした口調で話すルミアは軽く頭を下げる。互いに挨拶を済ませたところで話題は自然とルミア自身へと移る。

「ご無事な姿を見られて安心しました。お身体の方は大丈夫なのですか?」

「ふふ。ご心配なさらなくても見ての通り後遺症もなく過ごせています。逆に新しく手に入ったものもあるんですよ。えっと……こうかしら?」

 そう言ってルミアが前へ手を伸ばすと、掌の上に澄んだ空を連想するかのような青い光球が生まれた。ルミアが魔法を行使したことにミランを含めた全員が驚きの表情になり、「魔法⁉」「使えなかったはずでは⁉」とシオンやマリアナが思わず口にする。

「ルイン、どうしてルミアさんが魔法を使えているの?ミリアンヌさんだった時は魔力が無くて使えなかったはずよね」

「そうだな。これは俺も予想していなかったことだったんだが、姉さん——ややこしくなるからここではそれぞれの名前で呼ばせてもらうが、ルミアの存在が大きく関わっていると俺は考えている」

 そう言ってルインは少しずつ語り始めた。



 幼い頃、ブラッドベアの凶爪により大怪我を負ったルミアは傷口から毒が全身へと回り始め、身体を蝕んでいた。こうなってしまえばやがて毒が全身へと回り命を落とすか、人ではない化け物へと成り果ててしまうかのどちらかしかない。


 しかしルミアはそのどちらにも進まなかった。


 ルミアの体内に入り込んだ毒は彼女の体内で活動が止まったのだ。

「ルミアと言う存在は体内の毒が溢れ、拡がらないように自身の魔力のすべてを使って蓋の役目を務めたんだ。しかし常に変化する毒に対応するにはそれ以外に気を配る余裕はなく、自身の内側と外を同時に観測することはできない。だから——」

「だから内側を視るルミアさんの代わりに外を視る存在を作り出したのね。それがミリアンヌさんだと?」

 ミランの予測にルインは静かに頷く。

「そうだ。二重人格と似ているようだが、突き詰めればそこには明確な違いがある。精神を二つに分けるが、一方には不要となる情報は複製されない。あの日、ルミアと言う精神が内側へと向けられる際、これまでの記憶は不要と判断されて引き継がれなかったのだろう。そこまではルミアの思惑通り進んでいた」

 しかしそれは問題を先送りにしただけ。いくら強く蓋をしたとしても進行は止まらない。「ここからは私が説明するわ」とルミアが続きを引き継いだ。

「るーちゃんが説明した通り私は暴れようとする毒を何とか抑えていたわ。それでも時間が経つにつれて限界が出てきて、わずかな隙間をかいくぐって漏れ出していたの。身体への影響はまだ出ていなかったけれど、その代わりに周囲の注目を集めやすくなっていたわ。あなたたちと出会ったのはその影響が出始めていた時だから本当にタイミングが良かったわ」

 つまりサーリャたちが出会った時に二人が襲われていたのは偶然ではなく、体内から漏れ出していた毒が周囲の魔獣を呼び寄せていたということなのだろう。

「ルミアとしての私はミリアンヌの行動に干渉することはできないわ。せいぜい夢の中で注意を促すことぐらい。限界が近くなって今度こそお別れを覚悟していたけれど、るーちゃんや皆さんのおかげでこうして今も生きていられるの」

「元凶を討ち、俺たちが解毒したことで姉さんの魔力はそれまでの役目を終え、こうして自由に使えるようになったんだ」

 ミリアンヌとして出会った際、彼女から魔力が感じられなかったのは魔力が無かったのではなく毒を抑え込んでいたから。そう言われると納得できる。

「常に魔力を使い続けている状態だったから、姉さんの成長と一緒に魔力も際限無く増え続けていたらしい。魔力量に関して言えばそこらの奴らよりも圧倒的に多いが、ミリアンヌの一面を強く引き継いでいるから神聖魔法の適性が突出して高くなっている」

「怪我をした時はお姉ちゃんが治してあげるからね」

 そう言ってルミアは胸を張るのだった。


 それからルインはこれからのことに関しても話せる範囲で話してくれた。

 ルミアは今後もこの家で暮らすことになるが、ルインのように引き籠っていては何かと不便である。その為、ルミアが自由に外出できるように王都にある空き家を一つ買い上げる予定で、その中に転移先を設定しておけばわざわざ王都の外に出なくても行き来が可能になる。

 ルミアもゴドウィンから一筆書いてもらっているので、王都の教会で働くことができる。聞いた限りでは生活面で不自由することはなさそうだ。

「難しい話はここまでね。るーちゃんお姉ちゃん頑張ったでしょ?褒めて褒めて~」

「ああ。姉さんはここまで一人で頑張ってきたんだ。誰にでもできることじゃないから誇っていいぞ」

「えへへ~」

 清楚モードから再び甘えモードに変わったルミア。少し愛情が深過ぎる気もするが、これがルインに対する態度なのだと受け入れようとしたサーリャたちにすぐさま爆弾が投下された。

「それじゃあ頑張ったご褒美に今度こそるーちゃんはお姉ちゃんと一緒にお風呂に入りましょうね」

「「ぶっ‼」」

 サーリャとマリアナが同時に噴き出した。咳き込む二人をそのままにシオンは「仲がいいのはいいこと」と少しズレたことを口にしている。

「姉さん何度も言っているだろう。もう俺たちは子供じゃないんだ。この歳で姉弟一緒に風呂など無理に決まっているだろう」

「いいじゃない。家族と一緒にお風呂に入るのに年齢なんて関係ないわ。それにるーちゃんはこの間私の肌を見ているのだから今更でしょ」

 爆弾発言の熱が冷めやらぬ内にルミアは頬を赤らめながら次の爆弾をさらに投下する。

「し、師匠⁉」

「ルイン、あなたまさか……」

 この二週間、二人はいったいどんな生活を送っていたのか。サーリャの頭の中でピンク色の光景が作り出され、顔が赤くなる。マリアナも熱くなった頬を冷ますかのように両手を頬に当てている。

「……何を勘違いしているのか知らんが、肌を見たと言っても姉さんの背中の傷を消すために見ただけだ。姉さんも何故そこを自慢しようとするんだ」

「それは当然よ。るーちゃんからしてもらったことはどんなことでも自慢せずにいられないわ。それにこれぐらいいいじゃない。るーちゃんが女の人の肌を見るなんて私ぐらいなんだから」

「「……」」

 ルインはわずかな変化も見せることなく自然体のままルミアの話を聞き流しているが、サーリャはそうもいかなかった。当時は必要なことで不可抗力だったとはいえ、下着姿というあられもない自分の姿を見られてしまっている。その時のことを思い出してしまい、耳まで真っ赤になった顔を隠すようにサーリャは俯く。

 しかし、ルインに対する想いが強い二人の目は誤魔化せなかった。

「えっ?違うの?サーリャさんの肌を見たってどういうことなのるーちゃん!二人はどういう関係なのかお姉ちゃんに詳しく説明しなさい!」

「どういうことですかサーリャ!あなた師匠に何をしたのですか!」

 お互いガクガクと揺さぶられる中、ルインはされるがままになりながら大きな溜息をつくのだった。



 ある日の王城。その中の一室である謁見の間は、窓の外に見える快晴とは真逆の重苦しい空気で満たされていた。謁見の間には王であるルシャーナや宰相のクレスをはじめ、各方面のトップとも言える者たちが一堂に会しており、今回ばかりはマリアナも王女としてこの場に立ち会っている。

 サーリャはそんな謁見の間で騎士服に身を包んでマリアナの背後に控えている。本来ならばサーリャはこの場にいることすら許されないが、今回は近衛騎士とは別枠のマリアナ個人の護衛として参加が許されているが、なぜ今日この場にサーリャが呼び出されたのか説明されていない。

(なんで私がこんな集まりに参加しているのよ。ミラン様も朝から姿が見えないし……)

 表情に出さないように努めながら、サーリャは不安気に周囲を観察していた。そもそもこの場の空気自体がどこかおかしい。

 この場に集まる大半の者が緊張した面持ちなのに対し、一部の者は別の反応を見せている。

「それにしても今回の召集はいったい何の用件なのですかな?」

「まったくだ。貴公も知らないということは他の者も理由を知らされていないということだろう。つまり陛下に何かしらのお考えがあるということだろうな。もしかすると我らの功績を認められたが、他の貴族との軋轢を生まないための配慮なのかもしれん」

「おお!それならば納得できますな。下手に話してしまえばどこから漏れるかわかりませんからな」

 周囲の状況が理解できないのか騒がしく雑談を交わす一団がある。どう見てもこの場にいるはふさわしくない。

 やがて来客を知らせるノックが響くと誰もが話を切り上げて扉へと視線を向ける。様々な感情のこもった視線が集中する中、重厚な扉がゆっくりと開いていく。扉が開ききると二人の人物がゆっくりと入室してくる。一人はサーリャと同じように騎士服に身を包んだミラン。そしてもう一人の姿を認めた瞬間一部の者たちの顔色が変わった。

「っ!貴様は⁉」

「馬鹿な⁉なぜ生きている!」

 ミラン続いて入ってきた者——ルインの存在に謁見の間は騒がしくなる。そしてその慌てぶりを見ていたサーリャはようやく察した。

(この人たちが元凶なのね)

 ルインを罪人に仕立て上げ、彼からすべてを奪った者たち。

「わたくしがお呼びしました。師匠は騎士ミランの追撃を辛うじて生き延び、今日まで生きておられました」

 騒ぐ貴族の疑問に答えるようにマリアナが一歩進み出て注目を集める。これまでサーリャが見てきた姿とは違い、自分よりも年上の者に対しても物怖じしない凛とした態度はまさに人の上に立つ覚悟を持っている。

「師匠は少し前に発生した魔獣の大侵攻での活躍やその他のことでも王国は感謝を述べなければならないほどの功績を残しております。その事についての感謝、そして王国が過去にしでかした過ちを謝罪するためにこの場を設けさせていただきました」

「謝罪、謝罪ですと?あの者が王国にどれほどの混乱をもたらしたのか、姫殿下はお忘れか⁉悪魔の手段に手を染め、その技術を広めるだけでなく罪もない多くの王国民を手にかけたのですぞ!」

「グルバーズ伯の仰る通り。いくら姫殿下のご意思であっても罪人を招き入れるなど見過ごすことはできません。そもそも功績と仰っていますが、それがかの者の自作自演なのではありませんか?功績のように見せかけて、その裏で暗躍していたとあれば大問題になります」

 マリアナの言葉に多くの者が非難の声を上げ、捕縛せよだの処刑せよだの聞くに堪えない言葉を絶えず口にしている。その様子に眉を顰める者がいることにすら彼らは気づかない。

「まず初めに申しておきましょう。グルバーズ伯の仰る内容は事実無根ですわ。師匠は後ろ指さされるような手段に手を染めた事実はなく、また王国民を手にかけたというのも事実ではありません——そうですわね騎士ミラン?」

 王女としての立場から問われたミランは胸に手を当て真実を口にする。

「はい。私が調べたところ、そのような事実は確認できませんでした。逆に彼は自分のせいで余計な疑いがかからぬよう偽りの証言をするよう村の者に頼み込んでいたと確認もとれております。同じ証言がいくつもあることから虚偽ではないと判断します」

「ば、バカな……。罪人の言うことを信じるなど本気ですか⁉」

 未だ自らの過ちを認めず騒ぎ立てるその見苦しい姿にサーリャは嫌悪感を示す。

「彼のことよりもはっきりさせないといけないことがあなたたちにはありますね。随分と陛下に黙っていろいろとやらかしていますわね」

「……何のことですかな?我らは王国の為に尽力しているというのに、そのような疑いを向けられるなど心外ですぞ」

 シワが深く刻まれた貴族の一人が不快感を隠そうとせず、険しい表情でよりシワを深くする。その様子をマリアナは冷めた目で見返す。

「あくまでもシラを切りますか。それならかまいません。わたくし自ら教えて差し上げましょう」

 そう言ってマリアナは懐から一通の手紙を取り出した。

「貴方はパナエル男爵ですわね。あなたは王国で取引を認可していない毒草を秘密裏に仕入れていますがいったい何に使っているのですか?そしてグルバーズ伯は……禁じられている人身売買事業に手を染めているとはずいぶんと大胆ですわね。屋敷を調べればいろいろと余罪が見つかりそうですわね。次は——」

 マリアナは淡々と表に出せないような情報を開示していく。開示されていく度にこれまで顔を赤くしながらマリアナに非難を浴びせていた者たちの顔が青くなっていく。

 最後まで読み上げたマリアナは手紙をルシャーナへと渡し、自らも内容に目を通したルシャーナは不快そうに眉を寄せる。

「これは確かに見過ごすことのできぬ内容だ。そなたら、これについて申し開きはあるか?」

「お、お待ちください陛下!我らにそのような事実はございません。我らを陥れる偽りの情報にございます」

「そうです!そのような情報に惑わされてはなりません。姫殿下はどこでこのような情報を耳にしたのですか⁉」

「これはわたくしが個人的に調査したものです。すでにその道から足を洗い『元』が付きますが、裏の世界を知る者に情報を集めてもらいました」

 必死に無実を訴える者たちだったが、マリアナの口にした内容に動揺が広がった。

「なんてことを。姫殿下はそれが何を意味しているのかわかっておられないのですか⁉王族が裏の者たちと接触するなど許されるものではありません!王国の名を汚すばかりか他国に弱みを握られることになるのですぞ。その者からもどんな対価を要求されるか……」

 裏の人間に国境など存在しない。仕える国もなければ相手もいない。自分のことを第一に行動し、金次第でどんな汚れ仕事も請け負うことで知られている。つまり契約者よりも金を積まれれば情報が誰にでも知れ渡ってしまう。王族が関わったという情報は使い方次第で強力な交渉のカードとなり得る。

 しかし相手はマリアナなのだ。その程度のことに気づかないわけがない。

「言ったはずですよ『元』が付くと。本人も公表する意思はありませんし、相手から契約書を書いてもいいと申し出があったくらいです。対価を心配しているそうですが、『王城の職人が作る最高のクロワッサンを好きなだけ食べさせる』など軽いものですわ」

「は?クロワッサン?」

 貴族たちが理解できず目をぱちくりと瞬かせている。理解できなくてもいい。彼らにその先を知る術など今後訪れることはないのだから。

 これ以上抵抗しても無駄だと悟ったのか、グルバーズやパナエルらが膝から崩れ落ち、それを見たルシャーナの指示によって入って来た衛兵によって連れ出されていった。



 邪魔者がいなくなり静かになった室内でようやくルシャーナは本来相手をしなければならない者と向き合った。

「先程までの茶番につき合わせてすまなかった。そなたの来訪を我々は歓迎する。ミランもご苦労であった」

 ルシャーナは玉座から立ち上がり二人に声をかける。ミランは言葉を発することなく軽く頭を下げることで応え、そのまま邪魔にならないよう一歩横に移動し自身の役割が終わったことを示す。

「歓迎?おかしなことを言うもんだな。あんたらがそんな殊勝なわけがないだろう。せいぜい面倒事増えた程度にしか感じていないはずだ」

 礼節も敬意も微塵も感じられない棘のある言葉が叩きつけられる。にもかかわらず誰一人として𠮟責の言葉は挙がらず、逆に機嫌を損ねてしまったと感じて顔色を青くする。しかしルシャーナは気圧されることなく正面からルインを見据える。

「いや。そのようなことはない。本来であればこのような場を設けること自体が我らの間違いなのだ。責められるのは我らであって、そなたにそのような心情は持っておらぬ」

 ルシャーナは一旦そこで言葉を切り、自ら闇に葬った言葉を再び自分の手で掴み取った。

「こうしてそなたと話せることができて嬉しく思う。英雄、ルインよ」

 英雄と呼ばれたルインは感情を一切表情に出すことなく、探るように目を細めるのだった。


「それはあんたたちがゴミとして捨てたものだろう。今更そんなものを漁って無かったことにでもするつもりか?」

 不機嫌さを感じさせるように吐き捨てるルインにルシャーナは首を静かに横へと振る。

「そのような非礼をするつもりはない。此度そなたを呼んだのは、わしらのこれからを聞いてもらいたかったからだ」

「こんなものをわざわざ人を使って送りつけてくるんだ。当然それだけの理由があるんだろうな?くだらん内容だと判断すればその時点で俺は帰らせてもらう」

(あれって……)

 そう言いながらルインは懐から一通の封書を取り出して見せた。開封された中には一通の手紙が入っており、ルシャーナとマリアナとミランの名前が連なっている。少し前にルインの家を訪ねた際にミランが渡したものだ。緊張した面持ちでミランが手渡していることからよほどの内容だと察せられたが、まさか王国トップの名が連なっているとは思わなかった。

「当然だ。そのうえで聞いてほしい。かつて王国がそなたにしでかした数々の非礼とその所業を王国内外に向けて包み隠さず発表するつもりだ。もちろんそなたへ対する数々の罪状もすべて取り下げるよう手配するつもりだ」

 ルインの眉がピクリと動いた。サーリャもルシャーナが口にした内容の重大さに耳を疑った。

「本気か?そんなことをすれば相当な非難が向けられるぞ。他国からの非難はこの際雑音だと無視すればいいが、王国内はそうもいかん。下手をすれば国が割れる」

 騎士として多くの命を助け、第一次大侵攻の際はたった一人で魔獣の群れを足止めした英雄と呼ぶにふさわしい者を罪人に堕とし、国を挙げて命を狙ったなど信頼を木っ端微塵にするほどの大スキャンダルだ。

 王国民からの信頼は地に堕ち、場合によっては暴動に発展して反乱へと繋がるかもしれない。

「その可能性はあるだろう。しかし、わしは最後まで民への説明を続け、今後そのようなことはしないと約束したうえで王国を正しい道へと進めようと思う。その果てに王の座を引き摺り下ろされても、それが民の意志ならば従うつもりだ。この場にいる者もわしの決定に納得している」

「意外だな。あんたなら責任を取って自分の首を差し出すと言うかと思ったぞ」

「それはあまりにも無責任というものだ。わしの間違いで引き起こしたことに対し、自分はその人生に幕を閉じてあとは残った者に託すなど王として許されるものではない」

「そうだ。死など結局は目の前の苦しみから逃げる為だけの言い訳にすぎん。王ならばその言動に対し生き恥を晒してでも責任を取らなくてはならん」

 ルシャーナはゆっくりと階段を降り、ルインと同じ立ち位置へと移動する。

「すべてを無かったことにはできん。かつての弱いわしがそなたの王国を想う気持ちを踏み躙ったことは紛れもない事実。言葉で言い尽くせないかもしれんが、言わせてほしい——本当にすまなかった」

 ルシャーナはルインへ深々と頭を下げた。ルシャーナだけではない。マリアナやクレス、ミランも同じように深々とルインへ頭を下げる。

サーリャ以外の全員が頭を下げていた。仕方なく頭を下げているのではない。誰もが過去の過ちを反省し、心の底からルインへと謝罪をしている。

(ルイン……)

 マリアナから事前に頭を下げるなと言われていたサーリャは複雑な思いでルインを見ていた。

 過去をやり直すことはできない。失った時間を取り戻すこともできない。ただ謝罪の意思を示すことのできない彼らにルインは何を思うのだろうか。

「……ひとつ聞かせろ。なぜ俺を罪人として殺そうとした。悪魔と契約を交わしたなどと何故そんな荒唐無稽な話を信じた?」

「荒唐無稽な話を信じて罪人にしたのではない。罪人にしたいが為にあの話を頼ったのだ」

「……説明しろ」

 ルインに促されルシャーナは話し始めた。これまで明らかにされなかった真実がようやく語られることになる。


「無詠唱魔法。それをそなたが使っている話はわしの耳にも入っていた。誰にも扱うことのできない魔法技術を駆使するそなたは非常に有能な存在だった。解明できないものであっても十分王国の戦力として使える……初めはそう思っていた」

 しかしそうはならなかった。

「わしは怖くなったのだ。ミランと共に着実に戦果を挙げ英雄と持て囃されるだけでなく、娘もそなたに懐いておった。このまま進めば婚約話も持ち上がっていただろう」

 しかし人は弱い。どれだけ有能な力であっても理解の及ばないものには自然と恐怖を覚えるものだ。かつてサーリャがルインに抱いたものと同じように。

「そなたにもわかってほしい。無詠唱魔法はあまりにも規格外過ぎるのだ。詠唱を必要とせず、胸の内で思い描けば強力な魔法を周囲に悟られることなく放つことができる。人の胸の内など知りようがない。信じていたものが突然牙をむくやもしれんと考えると、そなたを信じていいのかわからなくなった」

「だから解明されていない俺の力を排除しようとした。根拠もない話をしていた貴族どもに同調する形で王であるお前があたかもそれが真実だと吹聴することで、俺の反論の場を潰した。そうだな?」

「その通りだ」

 真実が王の口から語られ、サーリャはその内容に強い憤りを覚えながらその怒りを拳を強く握ることで抑え込む。

(なんて自分勝手な!)

 ルシャーナの言い分もわからなくはない。王という立場は常に命の危険が付きまとう。事が起こる前にその可能性を排除するという動きも理解できなくはない。

 しかし相手の言い分すら聞かずいきなり排除を命じるなど、とてもこれまで王国に仕えてきた騎士に対する仕打ちではない。

 そしてサーリャは気づいてしまった。目の前で深く頭を下げるマリアナの身体が小刻みに震えていることに。口を固く引き結び、指の関節が白くなるほど強く握られた拳からは今にも血が滴りそうに見える。

 愚かな選択をした父に対する怒りなのか、それとも当時それを止めることのできなかった己の不甲斐無さなのか、あるいはその両方。少なくともこれが公の場でなければマリアナは怒りの感情に任せて暴れているのは容易に想像できる。

 そして今この場の決定権はルインに委ねられている。報復をするもしないもルインの意思次第だ。

 ルインは何も言わず頭を下げ続けるルシャーナを見下ろしていたが、「頭を上げろ」と端的に言い全員が頭を上げた。

「お前たちの言いたいことは理解した。だが、その過程でお前たちは俺に協力しようとした存在すら排除の対象にしたのは許されることではない。一歩間違えば大量虐殺に繋がる命令を出したのだからそれ相応の罰が必要だ——と言いたいところだが、今はそんなことをするつもりはない」

 なぜ罰を言い渡さないのか疑問を浮かべるルシャーナたちをそのままに、ルインはマリアナとその後ろにいるサーリャへとさり気なく視線を向ける。

「ミランからは個人的に謝罪は受け取っているし、他にも俺個人として恩を返さないといけない奴がいる。そいつらに免じて俺が動くことは今回だけは止めておいてやる」

 報復が無いことに安堵を浮かべる一同だったが、「しかし」とルインが被せることで緩み始めていた緊張感が再び戻ってくる。

「あくまでも今回だけだということを忘れるな。今後俺を利用しようと俺や、俺の親しい人たちに危害を加えようとするならば今度こそ容赦はしない。たとえ王国相手であろうと徹底的に潰させてもらう——それを肝に銘じておけ」

 周囲の魔力にルインの感情が乗り、それらが室内にいる者たちへ重力として襲い掛かる。真上から降りかかる重さに誰もが立っていられず膝を地につけるが、サーリャ・マリアナ・ミランの三人は意図的に外されていたので影響を受けずに立ち続けている。

「俺からの用件はここまでだ。しばらくは今の場所で静かに過ごさせてもらう。基本的にそちらからの要請に応じるつもりはないが、何か用があるなら俺と繋がりのある誰かに伝えておくことだな」

 時間にしてわずか数秒。ルインの周囲に向けられていた威圧が霧散すると、返事を待たずしてさっさと出て行ってしまった。

 嵐が通り過ぎたような出来事に誰もが呆然とする中、威圧を受けなかった三人はルインが歩き去った扉に向けて静かに頭を下げるのだった。



 人が容易に立ち入ることを許さないルクドの大森林。そんな森の奥深くにポツンと家が建っている。外の世界と切り離されたかのような寂しそうな外見とは裏腹に、家の中からは楽しげな声が外へと漏れている。

「るーちゃん、右腕が使えなくて不便でしょう?困ったことがあったらお姉ちゃんに任せてね」

「師匠。もう一度わたくしの師匠になってください!お義姉様にはわたくしと師匠のこれからについて相談がありますの」

「ミラン。このクロワッサンをミルス領にいる子供たちに送りたいのだけどできる?」

「そうね……そっち方面の仕事があるか明日確認してみるわ。でも、距離があるからあとでルインに跳べるかどうか聞いてみましょうか」

 リビングではサーリャの良く知る人たちが楽しげに過ごしている。ソファーに座るルインを背後から抱きしめているルミアと必死に傍で訴えかけるマリアナ。少し離れた所でクロワッサンをどっさりと抱えたシオンと思案顔になるミラン。

そんな様子をキッチンから窺っていたサーリャは時間を確認すると、備え付けのオーブンに手をかけゆっくりと開けた。オーブンの隙間から漏れ出していた料理の匂いが一気にキッチンへと溢れ出し、リビングへと流れていく。

料理を覗き込み、文句のない出来栄えに笑みを浮かべると最後の盛り付けを済ませていく。

「みんな出来上がったわよ。運ぶのを手伝ってちょうだい」

ルインと二人きりだった時とは違い、テーブルにはサーリャの自信作の熱々なグラタンとサラダが並べられ、食卓をこれ以上ないほどに飾る。

 そして席につくと全員の声が揃った。

「「「「「「いただきます」」」」」」

 以前のような寂しい食卓ではなく、それを本人がどう感じているのかわからない。それでもルインはこれまでと違い、柔らかな表情を浮かべているのだった。

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私は魔法と食事の為に腕を振るう 蒼月梨琴 @EndlessRefrain

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