六記_彼女と出会った日

 『いつもここで勉強してるけど…』

 丁度、高一の五月頃、俺はぎこちなく声をかけたのを覚えている。

 いつも公園の東屋あずまやで勉強している少女。

 自分のためにしか時間を使わないと決めた俺がどうしてあの日、声をかけたのか。

 それは日が暮れるまでそこにいて、机にかじり付いているその姿が高校受験期の俺に重なったからかもしれない。

 広げられた参考書は数学。

 まどかの手はある問題で止まっていた。ノートには試行錯誤のあとが黒く残っている。

 『ちょっとシャーペン借りてもいいかな』

 そう言って俺は問題の肝を示しながら、解法を書き連ねる。

 『…ありがとうございます。…おにーさん、勉強できるんですか?』

 『まあ、人並みには』

 『おにーさん、嘘つきですね。その制服、ここらで一番頭のいい藤ノ宮のじゃないですか』

 『出来ないなりに頑張っただけだよ』

 『そうですか。すいません。嘘つきなんて言っちゃって』

 『いいよ、別に。君、いつもここで勉強してるよね?雨の日はいないけど』

 『雨の日はノートが濡れますから』

 『家には帰らないの』

 『…あんまり居たくない』

 ポツポツとした会話が続き、彼女は身の上を語り出した。どうやら家が離婚騒動に追われており、ギクシャクしているらしい。その雰囲気に居た堪れなくなり、なるべく外で過ごしているという話だった。

 『でも、外で勉強も大変じゃない?砂埃とか舞うし』

 『それは慣れました。けど、雨風はどうしようもないですね。だけど、それ以上に辛いのは…』

 まどかはそこで眉を顰め、目を潤ませた。

 『半年もやってるのに成績がまるで伸びないんです。参考書を買っても分からないことが多すぎて遅々として進みません』

 勉強しているのに伸びない。その苦悩はよく知るところだった。

 俺も元は出来ない側。周りに聞いても「書いてあることをそのまま読めばいい」と言われる始末。文章読解が出来ない。これが致命的だった。どの教科でもまず『問題を読んで理解する』という工程が必要だ。みんなが普通にやっていることが出来ない。

 中学当時、この事実に気づくだけで半年近くかかった。

 …俺なら、この子をどうにか出来るかもしれない

 『君はどうして勉強しているの』

 俺は問うた。物事には動機が重要だ。それも出来ないこと、自分が劣等感を抱えている事に向き合い、戦い続けるには相応の理由がいる。そうでないと折れてしまう。

 まどかは今にも泣きそうな顔で口を引き結んでから、わなわなと語り出す。

 『私、父も母も学がないんです。今もお金の事で揉めていて…。家に帰ったら謗り合い。最近は私にも隠さなくなってきました。それで私調べたんです。勉強出来るようになっていい大学いけば、それなりに稼げるみたいじゃないですか。私、あの人たちみたいに狭量がない大人になりたくないんです』

 悲痛な叫び。余程、辛かったのか涙が堰を切ったように流れ出す。口はひしゃげ、顔はぐしゃぐしゃ。ただそこには確かな意志があった。俺はまどかの目線まで腰を屈める。

 『俺に任せて』

 気づくと俺はそう言っていた。


 「どーしたんです、おにーさん?私のことそんなに見つめて。…まさか、好きになっちゃいました?まあ、私って可愛いですから?おにーさんの気を引いちゃっても仕方がないっていうか?どうしてもって言うなら——」

 長台詞をよくもまあ、噛まずにいられるなと感心しながら、否定する。

 「そういうのじゃないよ。ちょっとまどかと会った時のこと思い出してただけ」

 するとまどかは大きなため息をついた。

 「知ってますよー。おにーさん、歩夢さん一筋ですもんね。いや〜でもかっこよかったですよ。あの時のおにーさん。『俺に任せて』。きゃー」

 「まどか、あまり茶化さないでよ。あれ、思い出すと恥ずかしいんだ」

 その時の俺の顔を誇張したような芝居を打つまどかに苦笑する。

 そういえば、昔と違って感情をよく表に出すようになったなと思う。自分に正直になったというか。自信がついたというか。どういう表現が適当なのかは分からないが、一言で言うならそう明るくなった。

 「何か飲む?」

 「じゃあ、いつものお願いします」

 「ココアね。飲んだら、勉学に励むように」

 「はーい」

 それから俺たちは各自の勉強に精を出した。


 「それじゃ、まどか」

 「はい。おにーさん、今日もありがとうございました」

 「また明日…来るんだよね?」

 「勿論です!」

 …何故、自慢げなんだ

 ビシッと人差し指を立てる仕草を不思議に思いながら、返答する。

 「じゃあ、また明日」

 俺たちはお互いの家の岐路にあたる場所で別れる。時刻は六時手前。

 …もの入れてきて正解だったな

 今日は黒岩先生の診療所に行く日。俺はそのままの足でそこへと向かった。

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