第五章 四



「阿久留とは文字が書けるようになった頃から、時々文を交わしていたのだ。最初はぎこちなかったものの、慣れてくると会いたいとせがまれるようになってな。可愛いやつだろう」

 縁側に並んで腰掛け、しんしんと降る雪を見ながら、阿嵐は口元を緩ませた。

 白湯はすっかり冷めてしまって、菓子もほとんど手をつけられず皿に残っていた。庭が白く染まって行く様を無憂は黙って見つめている。その景色を背景に、彼の過去を思い浮かべた。

「断るわけにはいかないから、無理に時間を作って内緒で会うこともあった。日秀家は子に優しいのはもちろん、学問に不足がなく、矢颪家も弓の技術に長けた人がいて、阿久留に武芸を教えこんでくれた。みんなの助けがあって弟は立派に成長できた。だから感謝の気持ちがないとは言いきれない」

「阿久留さまに始めてご挨拶させていただいた時も、あなたのことをよく話されていました。理解してくれる人がいるのは、とても心強いことだと思います」

「ああ見えて聡い子なのだ。何事もなくここに帰ることができたのも、阿久留派の者たちが反発を起こさないよう、器用にあやしてくれていたからだ。まだ幼いところはあるが、みなが将来有望だと思うのは当然のことだな」

 阿嵐は両手を後ろについて姿勢を崩す。

「これでだいたいのことは言えたかな」

「……どうして全てを、明かしてくださったのですか」

 昔の記憶を掘り返さなくとも、他家との接点を掻い摘んで話すだけでよかったはずだ。しかし彼は、それをしなかった。

「君の身の回りのことをあれだけ嗅ぎ回ったというのに、俺だけ何も教えないのはどうかと思ってな。あまり聞かれることもなかったものだから、ついでに頭の中を整理しておきたかった」

 目まぐるしいものだ。いつの人生も。

 阿嵐は白い息をふっと吐き出した。

 振り返ると、一瞬で過ぎ去ったかのようなたくさんの出来事が宙に浮かんで消えていく。もちろん中には朧気なものもあった。魂は人間が覚えられる範囲の記憶しか刻まない。それでも彼は人より多くのことをよく覚えていた。過去を振り返ることは今の今までなかったが、改めると色々な思いが込み上げてくるようだった。

「そろそろ、中へ戻ろうか」

 これが感傷に浸るということだろうか。

「阿嵐」

 几帳に手をかけたところで、彼は振り向いた。

「あなたの父君は、まだ床に伏していらっしゃるのですよね」

「……ああ」

 病は現在もなお阿黎の体を蝕んでいる。痩せ衰えた肉体はもはや起き上がる力もなく、人の手を借りなければ水を飲むことすらできない状態だった。

「もう、先も長くないのだ。無憂にはまだ会わせてやれていなかったな」

 北対に接する透廊の一角には、山の傾斜に沿って伸びる長い階段が繋げられていた。その上には一時的に建てられた当主の寝所がある。

 軋んだ木の音が重なり合った。二人の後ろ姿は階段の向こうへと消えていく。俗世から引き離すかのように、階段は何度も折れ曲がり、高い場所へと彼らを誘う。建物が近くなると、ふと芥子の香りが鼻先に触れた。

 戸を開けると、中には世話役の女房が三人いた。東浪見家に長らく仕えている老齢の女性たちである。突然の訪問にも関わらず、阿嵐を認めるとすかさず頭を下げ、隅へ寄った。

「父上。お久しぶりでございます」

 綿を溶かしたような、誰も聞いたことのない暖かな声色だった。

 御帳台へ、足音を立てないようゆっくりと近づく。無憂は彼よりも遅い歩調で、それに続いた。

「ああ……阿嵐か」

 掠れた声が、弱々しく返る。

 御帳台の中へ躊躇うことなく入った阿嵐は、父のすぐ側に座ると、肩に触れて顔を寄せた。

「父上、この間お話した巫の姫君をお連れしました」

 ぼうっとした表情で瞼を閉じ、また開くと、そうか、と言って首を僅かに動かす。

「会わせて、くれんかの」

「白露の君」

 手前で待機していた無憂は、神妙にかしこまって御帳台へ上り、中を覗いた。

「大丈夫だ。こちらへ来るといい」

 彼の隣に腰を下ろすと、無憂はそのやつれように、思わず目を逸らしそうになった。

 全体的に顔色が悪く、頬はこけていて、乾燥した唇はひび割れてしまっている。首に力が入っておらず、枕にただ頭をあずけてぐったりとしている。病にかかる前は鍛えていたのだろうか、筋肉のあるはずの部分は衰えて緩み、垂れてしまっている。

 瞳だけを動かして阿黎は無憂を見た。

「おお……これは」

「白露と申します。当主さま、お初お目にかかります」

「これは……」

 わなわなと手を上げる当主の瞳に、光が差した。

「おお。阿嵐よ。…………。ああ、お前はようやく」

「先日、婚儀を終えたところでございます。様々な障害を乗り越えてやっとここまで参りました。その間、父上にもさぞご苦労とご心配をおかけしてしまったことでしょう」

 阿嵐は父の手を握る。

「もうご安心ください。この通り俺は、最後の準備を整え、白露を迎え入れました。昔ではとても考えられないほど、今は穏やかに過ごしております」

「お前は、幸せか」

「……ええ。とても」

 またひとつ、阿黎はまばたきをする。

「すまなかったな……、何も、してやれなくて。すまなかったなぁ……」

「何を言いますか。父上は俺の言葉を信じて待ってくださった。怒りを押さえ、恨みを忘れ、人を殺めることの虚しさを理解して、俺のために沈黙を貫いてくれたこと。心から感謝しております」

 皺の深く入った目尻から、涙が伝った。

「あなたは誰よりも、お優しい方だ。その厚い人情を持ち合わせながらも、これまで我らが東浪見家と、戌月領の堅牢な盾となって守られてきたこと、とても誇りに思っております」

 衰えながらも武骨で大きな手が、阿嵐の手を握り返す。小さな子どもを称えるように、声を絞り出した。

「よく頑張ったな、いい子だ……阿嵐……。御仏の片割れを見つけ……これでお前は、厄災ではなく救済をもたらす、者に」

「なってみせましょう。東浪見の名にかけて」

「……姫よ」

「……はい」

 無憂は目が離せなかった。

「私の息子も、救われてほしい」

 この瞬間を逃してしまえば、今にも魂が体から抜け出してしまいそうで、あまりにも儚くて、怖かった。

「私の分も……この先もずっと、傍にいてやってくれないか」

 手が、震えている。

「約束いたします」

 どうして彼は、ここまで息子を愛することができたのだろう。

 二人はともにいた時間も、交わした言葉も、触れ合った回数も、何よりも少なく、足りないほどだったというのに。阿黎が阿嵐に向けるものは、どれも息子を思いやる言葉ばかりだった。

 むろん親子であるのだから、絆があることは否めない。けれどこの言い表し難い気持ちは一体何なのだろう。

 自分が感じているこれは何なのだろう?

「やっと……家督を譲れるのだな」

 ふと、阿黎の表情が和らぐ。

「託すぞ、阿嵐」

「はい、父上」

 手はいつまでも、お互いを離さなかった。



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