第四章 五
士優はこれまで滝之雪の家を出ることを目標に生き、そのために努力を惜しまなかった。しかし白露が婚姻を受け入れたことにより、同時に滝之雪から離れることが叶い、自らの意志がなくとも目標は達成されることとなった。
そしていざ中央へ上がると、これまでの日常とは打って変わり、全てが充実した夢のような空間が士優たちを待っていた。新たな装いが仕立てられ、食事もあらゆる国からとれた産物を贅沢に使った膳が用意され、鍛錬をしたいと言えば道場を解放し、本が読みたいと言えば取り寄せてくれた。不足ない暮らし。ここに居さえすれば、何もかも手に入れられるのではないかと錯覚するほど、この屋敷での日々は満たされていた。
そして唐突に、士優は我に返った。目標もなくなった今、これから自分はどのように生きればいいのだろうと。
「情けないかもしれませんが、正直、役職を手に入れて権力を振るいたいかと言えば、そうでもないのです。俺は自分に関心がないので、これから何を目指して進めばいいのか……どうも先が見えず、与えられるがままにものを学ぶことに意味があるのかと、疑問を持たずにはいられないのです」
賢優は彼の心を読み解くようにじっと横顔を見た。
「どこまでも頭が固いな、士優」
阿嵐は、入り口の戸に預けていた背を離す。
「行動するのは得意だろうに、何を迷う必要があるんだ。ここに来た理由を覚えているか」
「阿嵐さまの条件を満たすために、」
「そうだとも。自分のために努力できないのであれば、その対象を作ればいいだけのこと。まだ俺と手を組む気になっていないのは残念だが、白露を助けるためでもいい。対象はいくらでもある」
上にのぼり、士優に近寄る。
「言っただろう。俺には味方が少ないと。だからお前たちが、信頼に値する存在となってくれたら助かるのだがな」
「親族や、傘下の家門は違うのですか」
あいつらか、と阿嵐は乾いた笑みを浮かべる。
「確かに東浪見に忠誠を誓っている者はいる。だがそれはほとんどが父上や阿久留へ向けられたものだ。長らく家を開けていた俺のことなど誰も見てはいない」
士優は眉をひそめた。
「どういうことです?みな事情を知っているわけではないのですか。何よりあなたは長子であるのに」
「妙だろう?だが東浪見に迷惑をかけてばかりいた俺に期待などしていられなかったのだろう。うちの連中は使用人も含めそろって阿久留が当主になるべきだと思っている」
長子だからといって、絶対的な地位を築けるとは限らない。
士優は滝之雪家での己の立場を思い出した。当主の座は巫の夫がもらい受け、自分は巫の兄妹であるにも関わらず、それを補佐するか別の務めを受けるしかない曖昧な立ち位置だった。だから少しでも権利を得ようと父上から仕事を学んでいた。
世襲制である中央貴族でさえ、立場が危ぶまれることがあるなど考えたこともなかった。阿嵐が特殊な環境で育っていようと、長男というだけで将来は約束されたも同然で、彼の自由で突飛な振る舞いはその余裕から生まれているとすら思っていたのに。
何気なく言っていた味方という言葉の重みが、今になってのしかかって来たような気がした。
「早いうちに心を取り戻して、戦が始まるまでにやつらを指揮できるようにしておかねば。他にも障壁はいくつかあるが、全て乗り越えるには味方は多いに越したことはない。だからお前たちを引き入れた」
それでも、田舎を出たばかりの彼らが、いきなり忠誠心を芽生えさせるのは難しいことだろう。
士優は、迷いが晴れないまま目を伏せた。同情したとて、それを理由に物事を判断するのは軽率に思えた。
「今はまだ、心に決めかねます」
「いいさ。焦らずいくらでも時間をかけて悩んでおけ。最悪の場合、他にやりたいことが見つかればその道へ行く手伝いもできなくはない。連れてきた責任は取るつもりだからな」
「そんなこと、するわけありません。まだ見届けてもいないのですから」
「そうか。まぁあまり、深刻になり過ぎるな。気持ちの赴くままやっていれば見えてくるものもあるはずだ。そのうち答えは出るだろう」
「……ええ。そうですね」
最後まで士優は、阿嵐と目を合わせられなかった。
士優は恐ろしいほど誠実な人間だ。ただ身分云々によって機械的に仕えるのではなく、仕えることや何かを始めることに意味を見出そうと真剣になっている。ここに来てしまった以上、何か壮大な目標を掲げることが課題のように思っているのだろうが、阿嵐は彼らに特別な能力を開花させることを期待しているわけではなかった。
護衛や戦闘の援護、お祓いの補佐などは鶴真たちがいれば補える。屋敷は阿久留や鳩代が中心になって管理しているから問題ない。立派な役職といえど、難しい仕事を押し付けるつもりもなかった。阿嵐は単に、いざと言う時に疑いなく頼れる人を傍に置いておきたかったのだ。
味方がいないという点においては、白露も同じなのだから。
「阿嵐さま」
道場から出た彼を追いかけて来た賢優が、透廊の手前で立ち止まった。
「……その。おれ、ちょっと能天気すぎたかもしれません。兄上でもあんなに悩んでいたのに、おれは強くなりさえすれば自分も使いようがあると思っていて、覚悟が足りていませんでした」
「兄弟で相談し合うなどはしなかったのか?」
「兄上はそれで自分の悩みを話すような人ではないんです。おれのこと気遣ってばかりで、ここに来てから頼ってしまっていた自分が悪いのですが、東浪見の一員となるからには、やはりそれなりの恩を返すのが筋だと思っています」
阿嵐は手摺に手をかけた。
「ということは、賢優は俺の味方になる気があるのか?」
「味方になるとがどういうことなのか、正直よくわかっていません。ですがあなた様に仕えるというのであれば、阿嵐さまという人がどんな人なのかをよく知っておきたいのです」
「もっともだな。無条件で仕えてくれるなら最初からお前たちを招いたりしない。俺が欲しいのは信頼だけだ。力や能力は二の次で、最終的に東浪見の貢献に繋がるのであれば何を身につけても構わないのだ」
でしたら、と賢優が一歩前に出ると、阿嵐は続けた。
「試しに、お前を阿久留の護衛に任命しよう」
「……え、護衛、ですか?」
まさかの役目に賢優は戸惑った。しかも相手はあの東浪見の次男坊、阿嵐の弟君である。
「阿久留は外に出ることは少ないから、経験がなくとも護衛しやすいはずだ。ただ傍についていてくれればいい。簡単だろう」
「ですが、いくらなんでもおれでは弟君の護衛は務まらないのでは」
剣が得意とはいえ本格的に剣術を学んだものと比べれば自分はたかが知れている。それなのに高貴なお人の身の安全を守るなど責任があまりにも重く感じた。
「阿久留には敵が少なく今のところ命を狙われるような心配はない。逆にお前は傍に侍ることはできても殺すことはしないはずだ。そんなことをしても何の利益にもならないからな」
大それたことだが、仮にそんなことがあっても一瞬で彼の首は落ちてしまうだろう。
「この護衛をしっかり務めれば、俺と阿久留の信頼を同時に得られる。剣術はその間に磨いておくといい。俺は屋敷にいる時は阿久留と会うから交流はできるし、経験も積める」
やってくれるか。と阿嵐が問うと、賢優は唇を軽く噛んで、それからはっきりと答えた。
「その命、引き受けさせていただきます」
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