第二章 二
「お前たちが兄としてしっかり支えてやるのだぞ。よいな」
賢優は物心がついた頃からそう言われて育てられてきた。賢優もそうであれば、士優はそれよりもっと前から言われてきただろう。そのせいか、士優は昔から年のわりに大人びているところがあった。
その日も雪が深く積もり、凍りつくほどの寒さに人々は震えていた。手を真っ赤にしながら雪を除け、侍女たちは舞台を飾りつける。村人たちは巫が来るのを待ちながら祈っていた。
「馬鹿者!何をぐずぐずしておるのだ!」
屋敷内で怒鳴り声が響く。士優は何事かと舞台を離れ、声がする方へ向かった。こっそりととある一室を覗く。
ごめんなさい、と謝りながらすすり泣くのは、まだ五歳になったばかりの小さな妹だった。おろしたての着物と金に輝く装飾がちらちらと反射し、いつもとは違う華やかな姿で袖を濡らしてしまっている。
「新年最初の大事な舞なのだぞ。寒いなどという理由で拒むとはなんと嘆かわしい!お前が生まれてから成長するまでどれだけ人々を待たせ、不安にさせたことか。再び清浄を取り戻すためには舞を踊らねばならない。まだそのことを理解できぬだろうが、今日だけは何としてでも舞台に上がってもらうぞ」
いいから連れて行け、と侍女に命じ、父上は去って行く。影に隠れていた士優は、早くなった鼓動を押さえながら真っ赤になって泣き喚き、侍女たちに羽交い締めにされる白露を目で追った。
その日、白露は音楽が奏でられる中、棒立ちで終わるまで震え続け、後に父にこっぴどく叱られてしまったのだった。
士優はいつも、そんな白露を泣き止むまで宥めていた。
「よしよし、いいこ、いいこ」
やはり、士優さまに安心しているのだわ、と世話をしていた侍女たちは言う。
「私たちが慰めても一向に泣き止まないのです。やはり士優さまを母のように思っているのでしょうね」
士優は、ただ自分の味方がいないことを白露は分かっているのでないか、と感じていた。意地悪をすることはなくても、侍女たちも衣装を着せ、無理やり舞台へ上げようとしてくるのだから。
あんな環境で、決して厚いとは言えないただただ重い衣の姿で、踊れと言う方が難しい。仮に自分が妹の立場でも、その年で我慢ができるほど賢くはなれないだろう。本当はみな察しているのに、大人たちは気づかないふりをして妹に強いている。
特に父は、村がいつも通りの日常を送れることを望んでいた。例外は決して認めず、融通はきかない。彼は過去の習慣にならうことが何よりも良いことだと信じていた。
十歳になると、白露はすっかり舞が上手くなり、着実に浄めの範囲を広げていった。
「兄さま。お
「どうした?何かあったのか」
廊下の角で、白露は俯いて指先をいじる。士優は膝を折って妹の頭を撫でた。
「誰にも言わないから、俺にこっそり教えてごらん」
「……怖い人、いるから」
「……どんな人だ?」
「わたしが、舞うの下手だから、死んだんだって。何で早く来なかったんだって、怒られて」
後で侍女に詳しく聞くと、家へお祈りしに回っていた途中で、組合に入っていた父を亡くしたある家に、責任を問い詰められたという。去年の祈祷巡りが原因だったという。
なぜ白露を庇わなかったのかと士優は怒ったが、一方で本当に白露のせいなのかと思い悩んだ。
こどもが未熟なのは悪いことではない。だがこの場合、どう弁明するのが正しいのだろう。
「大丈夫だ。俺がいてやるから、何も怖くないぞ」
士優はそう言って抱きしめてあげるしかなかった。白露は白露なりに懸命にやってくれているのに、どうして彼女を責めることができるだろうか。そんなのはあまりにも酷だ。士優は白露の心を守りたかった。
確かに彼は母親のような感情を白露に向けていたのだろう。同情や兄妹愛を超えたいっそう深い真心を、その内にひっそりと芽生えさせ、次第に膨らませていたのだ。
第一に自分は兄なのだから。誰よりも妹や弟を見ておかなければならない。
何があっても、せめてあの父親からは守ってやらねば。
「賢優、少しだけ白露と遊んでいてくれないか」
「うん。兄上は遊ばないの?」
「俺は勉強してから行くよ。仲良くするんだぞ」
「……白露、また泣いてたの?」
「ううん、わたし泣いてないよ」
だんだんと白露は人前で感情を隠すようになった。士優はそれをいい事だとは思わなかった。粛々とした態度で舞台に挑み、村人の前では毅然としていながらも慈悲を忘れず、それ以外では部屋にこもり気だるげに時間を過ごす。だんだんと兄妹の関わりが減っていくうちに、彼女はいつの間にかそうやって育ってしまった。
兄に甘えることもなくなった。我儘や愚痴を零すこともしなくなった。全て心に秘めて漏らさないようにしていた。それは大人になった白露の覚悟だったのかもしれない。
彼女が十三になった頃には、すっかりいじらしさも消え失せ、薄氷のような儚さをまとった少女に変わっていた。
「お前も大変だろう。年ごとに儀式も増えて、組合の奴らも怖がってお前を連れて巡ろうとしてくるし。体を壊すといけないから、俺がしっかり注意しておく。悪いな」
「もう、すっかり慣れました。私はやるべき事をやっているだけですので、気になさらないでください」
「それにしても、こうなってしまったのにはやはり理由があるんだろうな。祈祷の神聖さが欠けているのか、もう少し頻度を増やして信仰心も改めないと効果がないみたいだ。白露に負担ばかりかけていられないからな」
「……祈祷巡りは十分にやってくれています。兄さまたちが悪いわけではありません」
思い返すと、この時の白露は表情が少し違っていた。
「悪いのは山ではなく、穢れの元となる“ここ”が異常なのです」
ただの無表情とは別の、静寂そのもののような……。
「ここ、が?」
ぐらりと、地面が揺れる錯覚に陥った。
「私にはこの程度のことしかわかりません。ただ漠然と、そう感じているのです」
彼女が“それ”について言及するなんてあり得ない。
白露は知らないはずだ。覚えてもいないはずだ。聞いたことすらないはずだ。
しかし生まれ持った第六感が、本人に訴えかけている。
いつかはわかってしまうことかもしれない。それでも彼女の将来を思うととても口には出来なかった。
あわよくば知らないまま一生を過ごしてくれることを望んだ。自分の代で全てを終わらせると、士優は心に決めていたから。
「……そうか。それなら、これまで通りお互い頑張るしかないな。でも無理はするなよ。俺もできる限り協力するから」
必ず終わらせるのだ。士優はそのことで頭がいっぱいになっていた。
何があったとしても、必ず俺が。
そうして元服を過ぎた後も、家にいるうちのほとんどを彼は文台の前で過ごしていた。
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