第一章 六


 阿嵐とその従者にはそれぞれの部屋が用意され、兄妹たちは分担して案内をすることになった。その間も侍女たちは行ったり来たりの大忙しである。

 士優と賢優は従者らに部屋の説明や屋敷での規則を一通り教えると、改めて床に座して向かい合った。

 広間で会った時には、老人は凪白亀、少年は鶴真と名乗っていた。山に現れたと同時にいとも容易く物怪を退治してみせたのを見るに、どうやら只者ではないらしい。さすがは東浪見に仕える者といったところか、その選良な気風に兄弟は圧倒されるばかりだったが、気を引き締めて口を開く。

「どういう目的で近づいたのか、詳しく聞かせてもらうぞ」

 凪白亀はふんと鼻を鳴らしただけで答えない。鶴真はそれを横目に焦りを覚えたのか、間を置いて代わりに答えた。

「霊地の下調べのため、ここ数日山に入らせていただいておりました。祓魔二十四家は元々、霊地保護の義務がありまして、土地の所有者が侵入を禁ずることができないということを、まずはご理解いただければと」

 朝廷が定めた掟や法は、一般に向けられたものから祓魔専用のものまで様々あることを士優は何となく知っていた。しかし権力が行き届かない田舎ではそれらを覚える利点はなく、記憶にある霊地保護という言葉にひとまず頷くしかなかった。

「もちろん土地を荒らしに来たのではなく、清浄な地に戻し物怪の発生を防ごうと考えて山を巡回し、祠などに異常はないところまで確認しました。穢れの原因というものがそこになかったので、次は村長に会い話を伺おうとしていたのですが、そんな中であなた方と出会い、ここに来たわけです」

 なるほど筋は通っている。まるでここに来たことが自然であったかのような口ぶりだ。それでも納得するにはまだ早い。一番大事なところが、抜けているのだ。

「仮にその理由でここへ来たとしても、お前たちには別の目的があったのではないか?」

「……そうだよ。おじいさんあの時、前から巫を知ってるかのように言ってた。俺はそこに引っかかってるんだ」

 弟が同じことを考えていたとは知らなかった。いつもはのらりくらりとしているように見えても、彼は実は誰よりも場を弁えてよく周りを観察している。

「この際、はっきり言ってもらいたい。お前たちは巫を手に入れようとしているな?」

「……そうだ」

 真一文字だった凪白亀の口がようやく動く。鶴真はどうして、と言いたげに彼を見たが、もう誤魔化しても意味がないと判断してか、諦めた様子で顔を伏せる。

「なぜ余計なことばかり……」

「わしは元より隠す気などなかった。いずれ時が来れば明らかになること。隠すとかえって不審に思われるだろう。勝手に取り繕いよったのはこやつだ」

 鶴真は頬を赤くして睨んだ。

「な、なんて言い草!凪白亀殿が黙るから僕が説明して差し上げたというのに。まさかそんなことを言っていたとは思いもしなかったのですよ!?巫を奪う不届き者と勘違いされぬよう、必死に言葉を選んだ挙句……こんなのあんまりではありませんか!」

 隣で憤慨し大声を出されても、凪白亀は一切反応を示さない。何があっても心を乱さぬその様は、まるで地蔵のようだと士優は思った。

「静かにせい。お前がせっかちなのだ。念のため言っておくが、我々は巫の意志を蔑ろにして連れ去ろうなどと考えているのではない。務めとして若は真剣に山の問題に取り掛かろうとしておる。全ては事の運び次第だ」

 恐れていたことがこんなに早く訪れるとは知らず、士優は心が追いつけていなかった。こめかみに鈍い痛みを感じながら、彼は言葉を絞り出す。

「どうしても、白露でないといけない理由はあるのか」

「あの巫こそ、若が探し求めていたものだろうからな」

「若君は力を欲しているのか?」

「いいや。力とはもっと別のもの。これはあなたが想像しているほど単純な話ではないのだ。事情は物怪の世よりも複雑で厄介なもの。この場で話しても余計な混乱を招くだけだろう。今はただ待て。それくらいしか言えぬ」

 聞きたいことはいくらでもあったが、それ以上しゃべることはない、という意図を察し、士優は大人しく引き下がるしかなかった。



 部屋の案内を終えた白露は、庭を見てみたいという阿嵐の要望に答え、椿の低木のある場所へ連れてきた。

 彼の遠慮のない自由な振る舞いはまさに貴人そのものだった。五大御祓家ごだいみはらや東浪見とらみは物怪の時代の地盤を築いた貴族の中の貴族。彼らの活躍は歴史の中で最も凄まじく煌びやかで過激なものばかりで、そういった本を読む限りでは、そこから連想する人物像と彼は少し印象が違っていた。

 物怪を倒した時もそうだったが、阿嵐の心は、池の水面みなものように常に沈黙している。浮世離れした風貌のせいか、彼はそういった背景を感じさせない柔らかく繊細な雰囲気を持ち合わせていた。

「綺麗に咲いているな。白い雪に赤はよく映える。君も花が好きなのか」

 安定した感情が地続きになっているといったところだろうか。中身まで水のように透き通っていて掴みどころがないのだ。そんな彼とどう関わるのが正しいのか、白露は考えあぐねていた。

「……はい。椿以外にも色々と植えられております。この景色は私の楽しみの一つなので。町から村にない花の種を仕入れることもあるのです」

「つまり、花の種類には詳しいと」

「中央の姫君には適わないとは思いますが」

 では、これは知ってるか、と阿嵐は低木に手を伸ばしながら言った。

麝香撫子じゃこうなでしこ

 何かを期待するような瞳が向けられる。

 白露は頭の中にある引き出しからできる限り花の名を上げていったが、当てはまるものは見つからず、曖昧な笑みを返すしかなかった。

「流行りの花なのですか?」

「……知らないのだな。やはり、そういうことか」

 何か得心した様子だったが、白露はその意味がわかりかねた。どう受け取ればよいのか、しばし逡巡する。

「麝香撫子は、今の世にない架空の花だ」

 それきり口を閉ざして彼は庭を歩いた。機嫌を損ねてしまったのか、別の話題を振るべきなのか慎重になっていると、阿嵐は落ちていた椿を拾い、こちらを振り返った。

「君は村を救いたいか」

 唐突な質問に、白露は少し考えた。

「若君さまは、どこまで見えているのでしょうか」

 そうだな、と阿嵐は指先で花をいじる。

「全てとは言わない。だが穢れの温床がここであることははっきりしている」

「若君さまにはわかるのですね」

「君は、感じることができないのだな。だからこの事態になるまで放っておくしかなかった、と。辻褄は合うが理解しがたい。君の力は決して弱くはないはずだが不安定でもあるようだ。内側にある温床から村を守りながらも、それを認識するに至っていない」

 根元を辿ろうとしても途切れてしまうのは、それだけ穢れの大元がこの近くにあるからだと予想していた。だがこれは白露の能力不足だからと結論づけるには不自然だった。正常に力か働いていないと考える方が普通だろう。

「籠の内側にいることに気づいていないのだ」

 庭をぐるりと見渡し、最後に白露へと視線を落とす。無意識に手を胸の前で握っていた白露は、その空にあいた深淵のような瞳が自分を写す度、不安を覚えた。彼は自分ではなく、自分を通したもっと先の何かを見ているのではないだろうか。

「どういうことでしょう」

 白露の景色とはまた違う、鮮明で奇怪な物怪の世界が彼のいつも見ている世界だとしたら。

「俺には君が穢れに縛られているように見える」

 わかっていながらも、何も無い手元を見下ろす。

「……私が?」

「そうなってしまったのには理由があるはずだ。何年もかけて穢れが生まれ続ける根本的なきっかけとなるもの。例えば一揆や打ちこわしなどの紛争や不作による飢饉。この村は町にも近いからか、どの田舎よりも豊かなようだが、とにかく不吉な出来事は人間の念が残りやすい」

「不作や洪水は記録で読んだことがあります。山の土砂崩れで今の場所に移動し、一から村を立て直したこともあったそうですが、それ以上の大きな出来事は書かれていません」

「本当にそれだけか」

 白露は静かに頷いた。

「ふむ……穢れが溜まるには十分だが、君との繋がりが強いわけではなさそうだな。もっと君の近くで起こった事はないのか」

 記憶を遡り、手がかりを探す。

「刃傷沙汰も争いの一つだ」

 手のひらを包み込む。深い赤。刃傷。……争い。

 刃傷……?

 いいや、“血”だ。

 血が流れているのだ。

 それが見える。

 どこで。いつ。どうして流れた血だ?

 ちかちかと、視界が眩む。固く目を閉じて思考を止めた。

「……ごめんなさい。私にはわかりません」

 見えるようで、見えない。記憶の奥底には確かに妨げとなる何かがあった。白露は認識するべきものが認識できない。だから気づくはずのものにも、気づいていないのだ。

 まるでそれを彼女から遠ざけるように……。

「籠はかなり頑丈にできているらしい。やはりこの件は君と大いに関係がある。鍵となるものが見つかれば、先へ進めるはずだ。まずはそこからだな」

 阿嵐は椿の花を白露の手のひらに乗せた。

「記憶も力も、俺が目覚めさせてやろう」

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