後宮の軍師は眠らない

やなか

第1部 帝都入城

第1話(修正版) 夜明け前

 ここがもしも戦場なら、迷いは禁物だ。

 それは嫌というほど分かっている。


 にもかかわらず、わたしは迷いを抱えていた。このまま進んで良いものか。頭ではそうすべきと理解しているが、気持ちが納得していない。


 暗闇のなかで考え込んでいると、ふいに声が聞こえた。

「そろそろ夜明けか?」


 わたしのあるじである翠玲すいれいがいつのまにか目を覚ましていたらしい。わたしは声に向けて告げる。

「まだです。あと二時間くらいでしょう」


 ここは馬車の中だ。

 あん家の姫君、安翠玲が東宮妃とうぐうひ候補として都入りするための豪華な馬車だ。


 都まであと数十里のところで夜が更けた。街道沿いに馬車を止め、夜明けまで小休止している。


 荷物を積んだ馬車十台と護衛百騎も同行しているが、翠玲の馬車の同乗者は侍女のわたしだけだった。


 わたしたちは馬車の室内に布団を敷き、身を寄せ合っている。


「夜があけなければいいのに」

 翠玲がつぶやく。


 わたしもそう思っていた。

 永遠に続く夜の中で、翠玲とふたりで過ごすのだ。もちろん、そんなわけにはいかない。


「あけない夜はなく、やまない雨はありませぬ」

 自分を戒めるようにそう言うと、翠玲がくすりと微笑む気配がした。


「やまない雨なら、ここに居るではないか。雨雨ゆいゆい

 その言葉に、わたしも微笑んだ。


 わたしは、天小雨てんしょううという。

 姓はてん、名はゆい小雨しょううは通り名だ。


 翠玲だけは、わたしを雨雨ゆいゆいと愛称で呼ぶ。

 翠玲に雨雨と呼ばれるのは好きだ。しんとした夜に雨音に耳をすますような、静かな気持ちになれるから。


「雨雨、手を握ってくれ」

 翠玲の言葉に、わたしは手をとった。


 翠玲の手は冷えている。

 わたしは自分の両手ではさみ、もみこむようにして温めてやる。


「ああ、気持ちいい」

「手を温めるのは大事です」

「手など冷たくても良いではないか」

「手の不調は全身に通じます。わたしは自分の手を、泥の中で夜通し温めたことがあります」

「それは戦場での話か。面白そうだな」

「面白くはありませぬが、それでは寝物語に話しましょう」


  ✳︎ ✳︎ ✳︎ ✳︎ ✳︎


 わたしが軍師として指揮をした城攻めの話だ。


 その城は小さいながら堅牢だった。山岳地帯のため投石車などの攻城兵器が使い難い。わたしが参戦した時点で、攻めあぐねて既に数週間が経過していた。


 晩秋の雨の季節を迎え、両軍に厭戦えんせんの空気が漂い始めている。わたしは一計を案じ、降りしきる雨の中、夜毎に三日三晩攻め続けた。


 三日目の深夜、攻め手が退却した後、わたしは泥の中にいた。外壁のたもと、折り重なる死体に紛れ、竹筒をくわえて息をしながら——。


 わたしは翠玲に説明した。

「両手は羊の内臓でつくった手袋に入れておりました。寒さで凍えそうでしたが、指先を必死に動かして耐えたのです」


 翠玲は笑いをかみころした。わたしの泥にまみれた、みっともない姿を想像したに違いない。

「雨雨、それから戦いはどうなったのだ?」


 城の守り手は通常、敵が退くとすぐ城外に出て後始末をする。生き残った敵にとどめをさし、武具を拾い集め、死体を腐敗する前に埋めるのだ。


 だが、このとき守り手は城外に出てこなかった。とどめも城壁の上から矢をわずかに射ただけだ。雨も降っているし、疲れもたまっている。翌朝まで放置する構えだった。


 明け方近くになり、わたしの指揮で死体が動きだす。死体の半分は、死体に扮した兵だったのだ。我々は外壁にはしごをかけると、次々と城内に乗り込んだ——。


 翠玲がいつのまにか、わたしの腕を撫でている。

「そうか。雨雨のこの肌は、血と泥と臓物にまみれていたのだな」

「ええ、そうです。汚れた身なのです。わたしは」


 突然、翠玲がわたしの手首に舌を押し付けると、肘に向かって舐め上げた。


「何をなさいます!」

 わたしは思わず声をあげた。

「ふふふ。雨雨は汚れてはおらぬ。何なら、こうやって、きれいにしてやろう」

 わたしの頬が恥ずかしさに火照る。

「おやめください」


 いつもこうだ。

 翠玲はわたしの心を無遠慮にかき乱す。


「雨雨、つれないことを言うな。ほら」

 翠玲が暗がりで両手を広げた。

 わたしは抗えず、翠玲の胸に身を沈める。


「誰かに見られたら、男と同衾していたと噂になりますよ」

 わたしは翠玲の胸の中でそう言った。


 わたしは女だが、普段は男装している。もともと身体が細くて肉が薄い。男のなりをしていたら、女にみられることはなかった。


 誰かに見られる? 

 そんな心配は今さらだ。言ってみただけだ。わたしと翠玲は馬車の中で、すでに繰り返し身体を重ね、互いの熱を感じ合っていたから。幾日も。昼も夜も。


 それでも、わたしは流されそうになりながらも、このときは踏みとどまった。えいと思い切って身を離す。


「雨雨、何で離れるんだ?」

 不満げな翠玲に、わたしは告げる。

「まだ夜明けまで間があります。都入りに向けて、もう少しお休みください」


「雨雨も眠っていいのだぞ」

「いいえ、わたしは眠りません」

 翠玲もわかっているだろうに。わたしが決して眠らないということを。


  ✳︎ ✳︎ ✳︎ ✳︎ ✳︎


 やがて朝陽が昇り、馬車が再び走り始めた。


 わたしは馬車の窓を跳ね上げる。光とともに冷えた空気が吹き込んだ。


 翠玲が半身を起こし、光の中で髪をかきあげた。銀白色の髪、高い鼻梁、ろうのように白い肌、そして、蒼玉そうぎょくめいた瞳。


 翠玲には西方の夷狄いてき(異国)の血が混じっている。


「雨雨、髪をととのえてくれ」

 翠玲がそう言って振り返る。


 朝陽を浴びた翠玲は、美しさを通り越して神々しい。思わず見蕩みとれていたわたしは、あわててくしを手にした。


 都では、翠玲の人目をひく容姿は、間違いなく噂の的になるだろう。ただし、あまりにも異端すぎて、眉をひそめる者もいるかもしれない。


 異端と言うなら、わたしもそうだ。


 わたしは策子さくしと称する戦略家の一門に生まれた。幼少のころから軍師となるべく、女だてらに古今の戦略や戦術、用兵の法を叩き込まれて育った。


 そんなわたしが侍女になるとは、思ってもみなかった。薄絹よりも鎧の方が似合うだろうに。


 十八歳になる今日まで、渡り歩いた戦場は数知れない。翠玲の侍女になる直前の一年間だけでも、わたしは三つのいくさを勝利に導いている。


(なぜわたしが翠玲に仕えるようになったのか。翠玲との出会いについては、後ほど改めて語りたい)


「お嬢さま」

「雨雨、二人きりのときは翠玲と呼んでくれと言ったろう。お前はわたしの臣下ではないからな」


 綻びが出ないように二人きりのときも侍女を演じたかったが仕方ない。

「では、翠玲」

「ふふふ。雨雨、何だ?」

「本当に都に入るのですか」

「ああ、本当に入るぞ」

「入ってしまったら、後戻りはできませんよ」


 わたしは念を押す。都に入ることが何を意味するのか、分からないわけはないだろうに。


 翠玲がわたしを見つめる。


 目があった途端、その蒼眼の奥が鈍く光った気がした。しまった、と思った時には、もう遅い。


 翠玲が、

 そして、うなずきながら、つぶやく。


「ふうむ。騎兵に策子の者を二人紛れ込ませていたのか。その者らと服を交換し、馬で南方へ逃げる段取りか……。ふふふ、雨雨は手回しがいいな」


 わたしはそっぽを向いて答える。

「万が一のためです。道中、何があるかわかりませんから」


「雨雨、大丈夫だ。わたしは都に行くぞ。お父さまとの約束を都に入る前に破ったら、たくさんの人に迷惑がかかるからな」

「そんなこと、気にしなくて構いません」


 わたしは「あんな父親のことなど」と危うく出かかった言葉を飲み込む。


 翠玲は他人の心を読む能力がある。

 だから隠しごとが通じない。わたしの心によぎった翠玲の父親への不満も、読み取られただろうか。


 すると翠玲はわたしを見て微笑んだ。

 混じり気のない、無邪気な表情で。

「心配はしていない。だって、雨雨がずっと、そばにいてくれるのだろう?」


 翠玲の笑顔がまぶしすぎて、胸が痛い。

「そうですね。そういう約束ですから」


 覚悟を決めよう。

 いまは、前に進むしかない。


 翠玲を東宮妃選抜に出すという条件で、安家から連れ出したのだ。そもそも都入りするよりほかに選択肢はなかった。


 わたしは全身全霊をかけて翠玲を守り抜く。ただそれだけだ。進んだその先に、何があったとしても。

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