5 車窓
学校を出発してからしばらく、先生は何かに追われるように運転し続けた。サービスエリアで休憩したのは、夕食がわりに軽食を食べた一回きりだった。先生は車内で、暑いですか、とか、寝てもいいですよ、とか、事務的な最小限の話しかしなかった。それも最初のほうだけで、あとは無言の時間が続くようになった。いろいろ尋ねても、先生にははぐらかされるだけだろうと思い、僕から話しかけることもなかった。スピーカーから流れるラジオの音楽に耳を傾けながら、僕は車窓の外を眺め続けた。
こうして車に揺られていると、家族で旅行に出かけたことを思い出す。それもずいぶん前のこと、僕が小学校低学年だったと思う。父が運転し、僕が助手席、母と兄が後部座席に座り、隣県の温泉に一泊二日で泊まりに行ったはずだ。僕はまだ陸上を始めてなくて、からだが弱かったのか、三半規管が弱かったのか、とにかく酔いやすく、四人で車に乗るときはいつも助手席だった。そのときも、僕は長距離移動の助手席で気持ち悪くなって嘔吐してしまったのだ。
酸っぱい匂いが車に充満し、兄は「くさい」と騒ぎ、母親は後部座席からティッシュを何枚か僕に渡し拭くように言ってくる。父は僕を一瞬横目で見つめ、「吐く前に言えばいいだろう」と大きく溜息をついた。鼻まで抜ける胃液の強い匂いに、僕は家族から見えないように涙を流した。
それ以来、家族旅行は行かなかった。母親がたまに思いついたように家族旅行に行こうと提案するが、僕はその頃から地元の陸上クラブに所属して土曜日にクラブ活動があったし、父は新聞に目を通しながら「それに、満は車に弱いから遠くは無理だろう」と言って、結局家族旅行の話は無くなるのだった。兄はテストの成績が良かったために自分だけ買ってもらったゲームをしていれば満足だったようだ。高校生になったいまでは、遠征のバスで長距離走っても酔いはしない。そのことを、父も母も兄も知らないだろう。
僕は、もう思い出すのはやめようと、頭を空にして目を閉じた。レース前に、待機所のテントでよくやっていた。視界も音も遮断して、自分の心にも目を向けず、ただ空虚に浮かんでいるような気持ちで呼吸する。そうしないと、僕は眠ることすらできないからだになっていた。
どのくらいの時間が経ったのだろうか。からだ全体を揺らす振動と右膝の痛みで、僕は身をよじった。その拍子に、左すねをダッシュボードに打ちつけた。「痛え」と、思わず声が漏れた。
「大丈夫ですか?」
オレンジの光が瞬いて、もういちど目をつむってから「大丈夫です」と答えた。エンジンの音で、僕は先生と車に乗っていることを思い出した。
高速道路の端に等間隔でならんでいる街灯が、彼女の横顔をオレンジに照らしてはまたすぐ影が落ちる。先生の車は軽自動車のなかでも小さいほうで、助手席をめいっぱい後ろにさげても僕の膝やすねがすぐにダッシュボードに当たってしまうのだった。僕は腰を浮かせて座り直し、あらためてなるべくからだが痛くない姿勢を探り当てようとする。
「すみません、寝ちゃってて」
「いえ」
ダッシュボードのまんなかでしずかに光るデジタル時計を見ると、夜中の二時を過ぎていた。助手席側の窓から、煌々と輝く月が見える。先生はもう休憩を挟みながら四時間以上運転している。もちろん自分で車を運転したこともないから、先生がどれほど疲れているのかはわからない。
シワのついた制服のポケットに手をやり、スマートフォンを取り出した。特にやることも思いつかなかったけれど、その動作はもう癖になっている。起きぬけの目にはきつい光が灯る。画面に通知のポップアップが出た。母からのメッセージだった。
『どこにいますか? 返事をください』
「帰ってきなさい」ではなく、「返事をください」というのが母らしい、と思った。僕があの家にいなくても、夜遅く帰ってきた父に「満はここにいる」、とさえ伝えられればいいのだ。メッセージの吹き出しの横に既読の文字が表示される。これで、僕が死んだり事件に巻きこまれたりしていないことはわかるだろう。ただ、警察に通報されるような面倒くさいことだけは避けたい。
なんと返すべきか。「先生に連れ去られています」とでも言えばいいのだろうか。僕は未成年だし、状況が状況だからいちばんバレたくないのは先生だろう。でもそれは、僕も同じだ。死のうとして、先生に殺してもらおうとして、先生についてきたのだ。先生が犯そうとしている罪の片棒を担ぐと約束して。結局僕は、この状況が誰にもバレないように先生についていくしかないのだ。母からのメッセージは、ただただ僕を問い詰めてくる。入力欄をタップする。
『友だちの家』
それだけ返して、スマートフォンの画面を閉じてポケットに入れた。とてつもなく指が疲れたような気がして大きく息を吐く。フロントガラス越しに正面を見るフリをして、先生の横顔を盗み見た。助手席でスマートフォンをいじる僕のことを、先生は気にしているだろうか。
先生の横顔は、まっすぐ前を見据えていた。その表情に焦りなど一切なく、外灯の光を受けて影になったり、白く光ったりしている。まつげの影がたまに一瞬、頬に落ちる。なんていうか、しずかだ。運転席と助手席はこんなに近いのに、まるで凪いでいる海のように、ただそこにあるだけのように、先生がいる。僕は先生の邪魔をしないよう、黙ってまた窓の外の景色を眺めることにした。
窓の外は夕方までとはまったく知らない風景へと変わっていた。暗闇のなか、月あかりに照らされる田んぼの青い苗が風に吹かれてそよいでいる。田んぼのまんなかには大きな看板が立て続けにならび、そのうち高速道路の脇にそなえつけられた無機質な壁しか見えなくなった。いまはラジオも音楽も鳴っていない。ただ軽自動車のタイヤが苦しげに回る音と、ときおり隣を過ぎ去る大型トラックの唸り声が聞こえるだけだ。僕はまた、しずかに目をつむるしかできなかった。
もう、なにかから逃げなくてもよかった。死が窓越しに後ろへ遠ざかっていく、こんな夜は初めてだった。そのまま、もういちど眠りの海へゆっくりと沈んでいった。
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