第2話 迷宮学者は想い馳せ

 解雇通知を受けて、約一日。

 私は退去の準備に忙しなく動いていた。

 この場所は家兼研究所。当然ながら専門的な器具の数々と、膨大な量の研究レポートが散乱している。私の迷宮学における研究は未だ途上の状態だが、解雇されたのならばこの場所で研究を続けることもできない。

 一応私はこの学術分野における最前線の一人。私の研究が止まれば、他の研究者の研究も止まる可能性が出てくる。現に私はたった一人で迷宮学研究を進めているわけではなく、帝国のフレルコート賢者学院へ残してきた姉弟子と常に研究経過を報告し合っている。

 迷宮。簡単に説明するとそれは、濃度の高い魔素で満ちた危険な空間だ。特殊な魔物や植物が、その環境を形作っている。

 私が研究するのは、いわば迷宮とはどういった自然なのか。姉弟子が研究するのは、迷宮には、どのような生物がいるのか。

 私が迷宮の環境を研究しないと、環境が及ぼす生物への影響を研究できない。逆に姉弟子が迷宮生物の研究をしないと、魔物による迷宮の形成や維持の研究をできない。

 迷宮学は非常に様々な学際領域に跨っている。要約すると、他の研究者の迷惑にならないように迅速に研究を再開しなければならない。


「かといって、フレルコートに戻るのはなぁ」


 帝国における最高峰の学術機関、フレルコート賢者学院。

 私の出身はそこだ。姉弟子もいるため確かに研究は進みはするだろうが、また別の問題が浮上する。

 迷宮学は保守派が大半を占める。私のやろうとしている研究は挑戦的なものが多いので、邪魔される可能性が高くなる。

 さてどうしたものか。そんなことを漠然と考えながら荷物をまとめていると、研究室のドアがノックされた。


「はい」

「フィクスです」

「げ」


 よりにもよって、今一番来てほしくない人間が来てしまった。

 彼女は妙なところで勘が働く。私がいい感じの人がいて、講義のあとデートに行こうとしていた日にはにやにやとしながら授業を聞いていたし、提出させたノートの端に「先生、今度結果教えてくださいね」と書いてあった。因みに失敗した。

 私が街で買い物をしようとしていた時には、ふらっと立ち寄った古本屋でばったり出くわしたこともある。曰く、このまま本を選んでいた方がいい気がした。だそうだ。

 そんなわけでいつも通り、迷宮学の講義が廃講になったことを察したのだろうか。言い訳を考えつつ、とりあえずドアを開ける。


「おはようございます、先生」

「お、おはよう」


 ピンと張った背筋をゆっくり曲げるのは、ブランカ学園の制服に身を包んだ少女だ。

 目が隠れる程に伸びた焦げ茶色の前髪を揺らし、その隙間からは希望に満ちた若々しいヘーゼルのまなざし。三年生を示す深紅の差し色が入った紺のローブに、白いブラウスの胸元には比較的穏やかなふくらみ。ネクタイには学園の校章が刺繍されている。

 ひざ丈のスカートは紺を基調とし白の意匠が施されている。校則に規定はないが、スカートの丈をきっちりと毎日同じ長さに揃えているこの少女は、私が知る中でも学園で最も礼儀正しい学徒、メイ・フィクス。

 私の授業では、自主的な発言こそ少ないが理解が早く、テストを実施すれば毎回最も高い得点を獲得しているのは彼女だった。この前の迷宮創作の時のように、授業以外の時間もよく質問をしに来てくれた。

 その上性格に見合わず、母親は宮廷魔術師で父親が黄金等級の冒険者という、エリートの血を引いている。


「……どうしたの?」

「おとといの課題についてお聞きしたくて」

「あぁ、入っ……らないで。カフェテリア行こっか。奢るよ」


 いつもならばこのまま研究室に入れ、生徒の質問を聞くところだが今回に限ってはできない。

 なぜなら、既に多くの荷物の荷造りを済ませているからだ。

 幸いなことに、私は生徒たちに慕ってもらっている。私が去るとなれば、彼女は全力で私を引き留めるだろう。そうなった時、私の情緒が無事では済まないことは確かだ。


「教師と生徒として、情は持たないのが健全だよね」


 それが、私が別れの挨拶を告げない理由だった。

 研究室からカフェテリアまでは中庭を抜けていくのが一番の近道。と言うより、私の研究室が学園の中でも端っこ過ぎて中庭を通らざるを得ない。

 石畳の小道には、手入れの行き届いたヴェルゴニアの低木がある。丁度満開の時期だったか、綺麗に花開いている。私はこうして、むざむざと退去の準備を進めていると言うのに。


「はぁ……」

「先生?」

「あぁいや、何でも」


 いけない。

 廃講という事実を受け入れられず、花にすら劣等感を抱いてしまう。

 時刻は丁度昼休み。格式あるブランカ学園のカフェテリアは、学徒による喧騒が最高潮に達していた。

 高い天井に賑やかな声が反響し、若々しい笑顔に溢れている。厨房からは様々な匂いが漂って来ており、空っぽの胃を刺激した。普段は研究室で論文を読みながら食事をするのが常だが、たまにはこうして賑やかな場所で食事をするのもいい。


「奥の席が空いてますね。私、お水を持ってきます」

「うん、ありがとう」


 メイが確保してくれたのは、窓際の隅にある二人掛けのテーブルだった。

 周囲の喧騒から少しだけ切り離された、落ち着ける場所。彼女らしい細やかな気遣いが身に染みる。


「何食べたい?」

「あんまり高いものを頼むわけには……」

「はいはい遠慮しない。私マギレットのジェノベーゼにしよっかな。私頼んで来るね」

「じゃ、私も同じ物を」


 列に並び、魔力回復効果のあるハーブであるマギレットを扱ったジェノベーゼを二人分頼む。料理を両手に席へ戻った時には、彼女は教科書とノートを手に自習に励んでいた。

 真面目で勉強熱心なのは美徳ではある。だが、大人としてはもう少し青春を愉しんで欲しいと言うのが私の本音だ。

 研究に研究を重ね、青春を知らぬまま大人になってしまった人間として。


「それでおとといの課題……迷宮創作だっけ? どこが分からなかった?」


 迷宮学は複雑だ。

 そもそも迷宮学とは、「迷宮」と呼ばれる特異な自然環境を、科学的な手法で分析・解明する学問。神話や伝説としてではなく、物理法則や生態系として迷宮を理解し、その謎を探求することを目的としている学問だ。

 つまり迷宮とは、何故形成され、どのような環境を生み、どのような影響を及ぼすのかにある。

 ブランカ学園で私が担当する比較迷宮地質学で課した課題は、私が提示した環境条件を基に独自の魔物や植生を生態学的な根拠に基づいて創作し、レポートとして提出する。というもの。

 生徒別に環境条件は違う。それぞれコミュニケーションを取って、迷宮環境と生態系の相互理解を深めてもらおうと思い、課した課題である。

 確かメイに課したのは「雲海に沈む、巨大樹の化石骸」。迷宮を構成するのは世界樹とも言うべき巨大な木の化石であり、高高度故に周囲は雲海が取り巻く。つまり、供給される魔素は雷と水属性だ。

 パルーア迷宮と呼ばれる迷宮が存在する。超高高度の霊峰ファルザネルと、その山頂付近に存在するパルーア砦が放棄されたことにより変貌を遂げた迷宮。周囲の地脈の影響か非常に不安定な気候にあり、雷雲が常に迷宮を包み込んでいる。

 迷宮内では絶えず落雷が降り注ぐ。つまり、実在する迷宮をモチーフとした条件だ。


「はい。パルーア迷宮を参考にして蓄電苔っていう環境における生産者を創作したんです。でも、作ったはいいもののまずこの生産者がどこから来たのか分からなくて……。迷宮の成因プロセスの第一歩が分からないんです。そもそも、例えばオース・スモ迷宮は高密度の魔素が一定に掛かっている極限環境です。一体そのような状態で、どうやって生産者が現れたんでしょうか」


 実にいい質問である。迷宮がどのように構築されたのか、成立過程の妥当性を問う根源とも言うべき問いだ。

 彼女が日頃からよく授業を聞いているのが分かる。


「超いい質問。パルーア迷宮のパルファ草は独自の蓄電機構を持ってるけど、元々パルファ草はファルザネルの固有種であるファル草から、迷宮の環境で独自の進化を遂げたものだと考えられているの――」


 私の言葉にメイはこくりと頷いた。

 焦がしたカラメルのような長い前髪が揺れ、その隙間から覗くヘーゼルに探求の光がぼうと灯る。

 私の喋りを聞き漏らさぬよう、メイは手元のノートに私からの言葉を書き留めていく。その小気味いいペン先の音だけが、私達のテーブルを支配している。

 周囲の喧騒は、徐々に落ち着きを見せていた。

 カフェテリアの巨大な窓の外では、騎士学部の学生が木剣で打ち合いを始めている。周囲には、その勝負の行方に沸き立つ学生たちが群がり始めた。

 昼のピークが過ぎたのかカトラリーの鳴る音が増え始め、天窓から降り注ぐ陽光がメイのノートを照らしている。

 この学園の、ありふれた光景。

 だが、二度とは目に出来ない光景。

 静寂と本のページをめくる音しか存在しない研究室もいいが、こういった環境も悪くない。


「では……その、ファル草が、なぜ蓄電という性質を進化の方向として選んだのか。それが、次の質問です。雷に適応するなら、例えば無効化とかの方向性もあると思うんです」

「そう。そこが面白いところ。迷宮学はただそこに何があるかを調べるだけじゃない。なんでそうなったかを探るのが主なんだよ。ヒントを出すと、ファルザネルの地質には電気エネルギーを蓄えやすい特殊な鉱物があって……」


 そこまで言いかけた時だった。


「うわー! ティアちゃんがまた難しい話してるー! 折角可愛いのに台無しー!」

「ユリア、それにカークも」


 突風のように割り込んできた快活な声に、メイはびくりと肩を震わせた。

 短いスカートから艶めかしい脚を覗かせる、金髪のツインテールの彼女はユリア・デイブルーム。

 騎士家系の娘でありながら、研究熱心な少女だ。四人だけの授業であることをいいことに、何度も授業中に質問を飛ばして来たものだ。有難いが、まとめて質問して欲しかったのは内緒の話。

 黒髪のクールな青年、カーク・アルバロスはアルバロス子爵家の次男。

 代々魔術師を輩出する名門の家系だが、彼は魔術を勉強する上で迷宮の存在に興味が湧き、私に教えを乞う事にしたらしい。

 流石は名門の出身と言うべきか、独学の私に匹敵するレベルの魔術の腕を持っている。出来るならば助手にしたいくらいだ。

 メイ、ユリア、カーク。この三人が、私の比較迷宮地質学を選択した三人だ。

 騎士学部顔負けの量が乗ったプレートを持つユリアは、嬉々としてメイの隣に料理を置いた。カークは私達とは違うパスタを持ち、やれやれといった表情で私の隣に静かに腰を落とす。


「で、何の話してたの? 恋バナ!? ねぇ誰好きなの!?」

「話の展開が早すぎる」

「せ、先生に質問をしてたの。一昨日の課題の……」

「あぁッ! 私やってないそれ! ティアちゃん私の課題何だっけ」

「アストラ先生ね」


 一瞬にして、テーブルの上の空気は、いつもの賑やかなものへと変わった。メイの鋭い追及は、ユリアの登場によって幸か不幸か霧散してしまったようだ。


「お前の場合魔種生物学の課題もやってないだろ」

「あ!! 忘れてた!」

「フフッ」

「あぁ! ティアちゃん笑ったなぁー!」

「アッハハッ! 問題児じゃん!」


 三人の教え子に囲まれる中、料理が冷める前に私はパスタを口に運ぶ。

 迷宮学が廃講になるとベリア副学長は言っていた。

 だが、私の目の前には、迷宮学を心から愛し、その探求を楽しんでいる、三つの確かな才能がこうして集まっている。

 知識とは過去より未来へ受け継ぐもの。生物が進化するように、人は未来に今より少しだけ生きやすくなる糧を残す。それを累々と積み上げることこそが学問だというのに。


「はぁ」


 少し笑い疲れてしまった。

 水を少量口に含んでから飲み込むと、ついさっきまで忘れていた現実を思い出す。

 いや、学術的な話だけの問題ではない。私は何より、この四人での時間を楽しんでいた。


「情を持たないのが、健全、か」


 ほとんど吐息のような私の呟きは、三人分の楽しげな会話にかき消されて誰の耳にも届くことはなかった。

 そう、楽しくて仕方がなかったのだ。

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