◇ ◇ ◇


 本日二度目の来店を告げるベルがカラコロと鳴った。僕がドアに目を向けると、痩せぎすの男性が重たい扉をくぐるところだった。僕はあれっ、と声を上げそうになった。

「いらっしゃい」

 出迎えたゆかりさんの神々しい美貌を前にした彼は今度は狼狽えることもなく、ふてぶてしさを感じるぞんざいな口調で問いかけた。

「なあ、ついさっき男が来ただろ。ソイツが売った本をくれ」

「かしこまりました。では、お返ししますね」

 ゆかりさんは先ほど引き取った『ジキル博士とハイド氏』の忌書を男性に手渡す。心当たりとは彼のことだったのか。しかし……

「ああ、お代は結構です。お預かりしていただけですから」

 ゆかりさんの言葉に、男性はにやりと不敵な笑みを浮かべた。ひったくるように本を奪い、店を後にする。

 扉が閉まるや否や、僕は振り返ってゆかりさんを仰ぎ見た。

「ゆかりさん、今の方って……」

 先ほど忌書を押しつけてきた客が戻ってきた。忘れ物でもしたのかと思ったが、どうやら様子が違う。おどおどした態度は鳴りを潜め、顔立ちも目つきも鋭くギラついていた。同一人物か疑わしいほどに。これではまるで――

「今のはハイドだろうな」

 つまり、ジキルが手放した忌書をハイドが買い戻しに来た……。

 僕が見た彼はかなりやつれていた。自覚しているかはともかく、病気のせいでかなり神経をすり減らしていたことが窺える。手放したはずの本が手元に戻っていると気づいた時、果たして彼は正気を保っていられるだろうか。

「忌書こそが彼の人格を切り替える変身薬だったのだろうよ。乖離性同一障害だったから忌書に惹かれたのか、忌書を手にしたことで人格が分裂したのかは定かじゃあないが。卵が先か、鶏が先かの話だからな」

 物語終盤には、ジキル博士は薬を飲まずともハイドに切り替わってしまっていた。そして客として訪れた彼も、変身薬である忌書を手放してなお別人格に乗っ取られている。ジキル博士のように悪に呑まれる前に自ら終止符を打つか、或いは完全にハイドに支配されてしまうのか。どちらにせよ彼に待っているのは身の破滅だけだ。

 後日、ホームレス殺害事件の容疑者と思われる男が自殺したというニュースを聞いた。公開された顔写真はおどおどとしたジキルのものだった。やはり彼は己の内に巣食う悪に打ち勝てなかったのだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る