本の思い出③はてしない物語
※映画版『ネバーエンディングストーリー』ラストのネタバレ(しかもネガティブな感想)があります。未視聴の方、映画版がお好きな方はご注意ください。
※原作のネタバレもちらほらありますが、軽微です。
小学三年生の時、発熱して学校を休んだ。
といっても、高熱のピークは前日に過ぎており、悪化の心配もなさそうなので、両親は昼食だけ用意して出勤していった。
静かな家に一人残され、既に散々寝込んだので、これ以上眠るのも辛いという状況。
チャンスだ! と、私は思った。先日図書館から借りてきた分厚い本を、「ご飯よ」「お風呂に入りなさい」「寝なさい」といった言葉で中断されず、一気に読めるチャンス!
その本は、あかがね色の布張りの装丁で、中の文字は二色刷りになっていた。
表紙には二匹の蛇が互いの尾に噛みつく浮き彫りの模様……と、ここまで言えば、ピンと来る方も多いのではないだろうか。
ミヒャエル・エンデ作『はてしない物語』。
図書館で運命のように出会ったその本を、私は胸に抱えて家に持ち帰り、最初から最後まで没頭して読める機会を、今か今かと待ち望んでいたのだ。
この物語に出会ったのは、実は、実写映画の方が先だった。タイトルは『ネバーエンディング・ストーリー』。いじめられっ子の少年バスチアンが、古書店で盗んだ本の世界に入り込み、勇者アトレイユと一体になって、壮大な冒険を繰り広げる物語だ。
この映画に登場する幸運の白い竜ファルコンや、儚げで美しい「幼心の君」、岩を食べるユーモラスな怪物が大好きだった。
でも、最後まで見終わった時、途中で放り出されたような気分を味わった。
あれ、これでおしまい? あんなに苦労して、力を合わせて、勇気を出して困難を乗り越えてきたのに、こんな場面で終わり?
映画の結末はこうだ。幸運の竜が現実世界に飛び出して、バスチアンをいじめてきた少年たちに復讐する。バスチアンを背中に乗せたファルコンがいじめっ子たちを追いかけて、大きなゴミ箱へ逃げ込ませて、バスチアンが快哉を叫んで終わり。
正直言って、がっかりだった。
どう考えても、今まで堪能してきた美しい世界に合わない終わり方だった。
もしこれまでの冒険が本物なら、バスチアンは、幸運の竜にいじめっこへの復讐をさせて満足するような、つまらない少年になっているはずがない。
映画版ラストを気に入っている方には申し訳ないけれど、私は非常にショックを受けて、こう思った。
この物語にはもしかしたら、続きがあるのではないか。
親に聞いてみると、このお話は元になった本があるから、そっちに続きがあるかもしれないという。
私はホッとした。じゃあ、その本を読めば、絶対に納得する結末が待っているはずだ。
当時住んでいた家は山を切り拓いて造成されたばかりの新興住宅地にあり、最寄りの鉄道駅は単線で駅員無し。バスは走っているのを見たことがなく、道路には頻繁にタヌキの死骸が転がり、徒歩圏内にコンビニエンスストアは一軒もないという田舎ぶりだった。
当然、本屋などあるわけがなく、本の虫だった私は父に車を出してもらって、山一つ越えたところにある小さな図書館に本を借りに行くのを、毎週の楽しみにしていた。
何しろ小さな図書館で、一人で借りられるのはほんの数冊。毎回、家族六人分の図書貸出カードを全部使って、借りられるだけの冊数を借りて帰ってきた。
本屋に行けるのは、隣町の大型スーパーに家族で出かける時くらい。映画の元となった本を、まずは図書館で探そうと私は思った。
でも、少し不安だった。あの図書館のことなら隅々まで知っているけれど、『ネバーエンディング・ストーリー』なんて題名、今までに見かけたことがない。
実際に足を運び、書棚を端から端まで探してみたけれど、案の定、見つからない。
がっかりしている私に、父が「図書館の人に聞いたら」と助言をくれた。
事情を話すと図書館の人は、たぶんこれではないかと、あかがね色の表紙の本を手渡してくれた。
いくら探しても見つからないはずだ。題名は『はてしない物語』だった。
私は布団の中で本を開いた。
学校の物置で一人きり、毛布を肩にかけて、古書店から盗んだ本を開いた主人公のバスチアンと、奇しくもよく似た状況になっていた。
鮮やかな二色刷り、古めかしい文章、指先に触れる装丁の凹凸、章の初めに現れる装飾アルファベットと、緻密な線の扉絵。
これぞ物語の入り口と言わんばかりの、隅々まで行き届いた素敵な装丁に心が躍った。手の中に一つの世界があるという、ずっしりとした紙の重み。
読んでみて、幸運の竜の名がファルコンではなく、本当はフッフールだと知って驚いた。なぜキャラ名を変える必要あったのだろうか……。
だけど、そんなことは些細な違いである。何よりものすごく衝撃だったのが、分厚い原作は前編と後編の二部構成になっており、映画版は前半をまとめたものに過ぎなかったということだ。
やっぱり、続きがあったんじゃない!!
しかもしかも、読んでみてさらに愕然としたことには、この物語で最も肝要なのは後半部であるということだった。後半のために前半があると言っても過言ではなく、後半を読まずしてこの物語を読み終えることは、作者に対する冒涜と言ってもいいほど物語の解釈を違えてしまうものだった。少なくとも私はそう思った。
後年、大人になってから、作者のミヒャエル・エンデが映画版一作目のラストに対して、自分の意に沿ったものになっていないと、訴訟を起こしていたことを知る。
ものすごく我が意を得たりの気分だったし、原作者も怒っていたのだと知って、良い顛末ではないのだけれど、何やらホッとしたのを覚えている。
そう、そうなんだよ! あんなラストは絶対におかしいんだよ! それを小学生の自分が肌感覚で察していたことには、誇りめいたものすら覚えた。
誤解のないように言い添えておくと、私は、映画版のラストは嫌いだけれど、その他の映像美や物語構成はいたく気に入っている。壮大でオリジナリティ溢れる美しい世界観を、よくぞここまで! と思うほど緻密に忠実に再現していたと思う。物語世界を目に見えるものにしようという愛情はとてもよく感じられたし、未だにあの映像の数々は目に焼き付いているほど大好きだ。
ただし、映画版の二、三作目はお勧めしない。以上。
近年、とあるドラマの原作者が、契約にない勝手な改変を苦にして、自死を遂げてしまったという事件が起きた。
それ以前から、映画化やドラマ化された原作付きの物語であるのに、やけに原作者が軽く扱われていることに、私は少々疑問を覚えていた。
映画化されるとその作品は〇〇監督の〇〇と紹介されるようになる。
ドラマ化されると脚本家の名が出るようになる。
東〇圭吾さんのように有名作家だと、むしろ原作者の名が前面に出されるようだけれど、あまり有名でない原作者の場合、後から「原作あったんだ」と知って驚く……というようなことがある。
原作者は?
無から有を生み出した原作者の存在は?
原作あったんだと知って読んでみると、あれあれ全然違うじゃんということも往々にしてあって、キャラ名改変くらいなら百歩譲ってマシだけれど(正直それもよほどの理由がない限りすべきではないと思うけれど)、その物語で訴えたいこと、重要な登場人物の性格などが、まるで違ってしまっている場合も、結構ある。
監督インタビューなどでたまに聞かれる、原作に忠実な作品づくりを行って、とにかく意図を違えることのないよう、何度も相談して仕上げましたという台詞。
当たり前のことではないでしょうか。なぜ美談風?
監督の作家性を出すなと言うつもりはないし、媒体の変化により見せ方を工夫する必要があることも理解できるけれど、改変されて当たり前という意識が前提にあるような物言いには、違和感を覚える。
もちろん、改変していいですよって、原作者が言った場合は、別ですよ。
あと、シェークスピアなどの有名古典作品を、思い切った改変で新しく蘇らせるのもいいと思う。原作の内容を多くの人が既に知っているという土壌があって行われることだし、古い時代の話を現代人の目線から新たに解釈し直すというのは、その物語をより深く読み込む行為であって、蔑ろにする立場とは一線を画している。
改変だろうがなんだろうが、メディアミックスによってその作品が一般に広く知られ、今まで手が届かなかった層にまで普及するという効果は、もちろんあるだろう。
かくいう私も、映画版を見なければ『はてしない物語』の原作を探そうとはしていなかったかもしれない。映画の恩敬に預かった者の一人である。
また、予算や尺や業界の微妙なパワーバランス等、大人の事情が山盛りあるだろうことも重々承知だ。夢だけでは食っていけない。夢をビジネスにするには、お子さまに想像できない生臭い処置がたんと必要なのは間違いない。
だけどその過程で、無から有を生み出した全ての始まりであるはずの存在が、人知れず痛めつけられるようなことがあってはならないと思う。
話を戻そう。
『はてしない物語』の本当の結末だ。
文字の奥にどこまでも広がる世界を自分の足で歩き、味わい、やがて現実世界に戻る瞬間が来た時、私はぼろぼろと泣いた。
想像よりずっと豊かで複雑で、世界の本当の美しさを教えてくれる結末が、そこで私を待ってくれていた。
ファンタジーって、ファンタジーって、ファンタジーって凄いと、私は思った。
物語の力を思い知らせてくれたのが『ああ無情』なら、ファンタジーの持つ偉大な力に目覚めさせてくれたのが『はてしない物語』だ。
たとえ現実にあることが一つも出てこなくても、物語全部を使って、目に見えないけれど本当に大切なことが何かを、簡単に言葉にできない全てのことを、心に直接沁み込ませるように教えてくれる。それがファンタジーなのだと、私は理解した。
バスチアンのように、行って帰ってくることができた人たちが、両方の世界を健やかにするのだと、作中のとある人物は語る。
きっと、二つの世界を健やかにする人に、私もなれるだろう。
高校生の時、帰り道にふと立ち寄った古本屋で、『はてしない物語』を見つけた。
どきっとして、中を開いてみる。箱もついている。あかがね色の例の装丁も記憶そのままで、二色刷りの文字は発色がものすごく綺麗。
いつか自分で買おうとぼんやり思っていたから、これはきっとチャンスだと思った。自分のお財布から出せる金額で、コレアンダー氏の古書店ではないけれど古書店で、新品のように綺麗な本を買うチャンス!
二五〇〇円くらいだっただろうか。アルバイトもしていない高校生が出すにはなかなかの金額だったけれど、買わなければきっと後悔するだろうと思って即決。
電車と歩きで一時間半の道のりを、ずっしり重い本を抱えて帰った。
ファンタージエンへの入り口は、今も書棚の、手を伸ばせばすぐ届くところにある。
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