エンプレスの敏感な耳が聞き取ったのは、低木の枝をかき分ける音だったらしい。彼女が指さす先を見ていると、やがて長身の男が森から姿を現した。

　漆黒の髪に、浅黒い肌。金色の目。

　特徴的なそれらは、気を失ったままの少年と酷似している。

「久し振りだな。覚えているか？」

　視線を向けられて、目を見張る。明らかに、こちらを知っているようだ。

　慌てて、記憶を辿ってみる。幼い頃の記憶の中に、確かにこの人は存在した。

「エンペラー、おじさん？」

　『おじ』と言っても、血の繋がりがあるわけではない。叔母の旦那だ。

「そうだ。隣りの子は、君の妹か？」

　話題に上がったと分かった途端に、エンプレスはこちらを盾にして隠れてしまう。腰に回された手は、硬く握られていた。あやすように、手を重ねてやる。

「エンプレスというの。歳は、１１」

「そうか。デスより、三つ下か」

　袖に付いた葉を払い落として、エンペラーが近づいてくる。やはり、背が高い。

　彼はデスの前にしゃがみ込むと、軽々と抱き上げた。

「おそらくエステスも、デスに会ったことがないだろう」

「そうね」

　この再会は、何年ぶりのことだろうか。

　頭の中で計算しようとするが、うまくいかない。目の前の彼は、記憶の中の男そのものだ。もう１０年近く会っていないはずなのに、まったく変わった様子が無い。

　視線の意味を悟ったのか、エンペラーが口を開いた。

「話は、森の中で。ここでは、あまりに目立ちすぎる」

　『ここでは』と言っても、周りには自分たち以外にいない。それなのに、目立ちすぎるとは、どういうことだろう。

　はっと空を見上げて、眉をひそめた。

「まさか。ペンタクル・エースに、何かあるの？」

「ああ。色々と、な」

　どこか含みのある言い方が気になるものの、ここにいても何の解決にもならない。

　テンパランスと目を合わせる。互いに頷き合うと、デスを抱き上げたエンペラーの後に続いて、森の中へと分け入った。

　広い背中を追っていくと、粗末な丸太小屋にたどり着いた。丸太の切り口は、やすりが掛けられておらず、大雑把な印象を受ける。出入り口に申し訳程度に付けられた庇（ひさし）は、斜めになっている。手作りなのだろう。

　中に入ると、微かに木の匂いがした。靴音と共に、床が軋む音がする。土間ではないのが、なんだか意外だった。

「ここが、エンペラーおじさんの家？」

「そうだ」

　水場だけが別室の、簡素な造りの家だ。エンペラーがデスを寝かせている間に、部屋を１周できてしまった。

「お、懐かしい顔だな」

　弾んだ声に、テンパランスの手元を見る。彼が手にした写真立ての中には、たおやかな女性の姿があった。自分より少し色素が薄い、柔らかそうな長い髪。垂れ気味で、父のものと同じ深い緑色の瞳。

　記憶の中の彼女が、顔をほころばせて「エステス」と呼んだ。

「ジャスティスおばさん」

「よく覚えている」

　背後から、エンペラーの声がする。笑っているのだろうか。森の外にいた時よりも、穏やかな声色に聞こえた。

「もちろん。とは、言い難いけど。華奢な手なのに、とても器用だったことは覚えてるわ」

　まだ島で暮らしていた頃に、髪を結ってもらった覚えがある。鏡に映った彼女はとても女性的で、優しい笑顔を浮かべていた。

　そんな彼女だが、意外にも、情熱的な一面があったらしい。今のエンプレスの歳の頃から、父と同じ研究者の道を志していたようだ。父の反対を押し切って研究所に入ったことは、大学生になって間もない時にワンドから聞いた。父と叔母は、衝突を繰り返していた、とも。

「ジャスティスおばさんは、元気なの？」

　自分としては、何気なく尋ねたつもりだった。

　しかし、振り向いた先のエンペラーは、険しい顔をしている。まるで、禁句を口にされたかのような表情に、こちらも怯んでしまう。

　戸惑う自分の肩に、テンパラスの手が置かれた。その手は温かく、けして責めているわけではないのだ、と言われているようだった。

「あのさ、エステス。彼女は数年前から、消息不明なんだ」

「え？」

　肩にある温度とは裏腹に、告げられた内容は冷たいものだった。そんなこと、母からもワンドからも聞かされていない。

「エステスたちに色々あったように、こちらでも様々なことがあった」

　エンペラーの声は、低く、落ち着いていた。

「義姉は、知らないのだと思う。ワンドは、仮に知っていたとしても、あえて知らせなかったのではないだろうか。事実、それどころではなかっただろう？」

　父の死。兄の失踪。妹の誘拐に、極度の弱視。母の入院。

　彼は事情を知っていて、責めることも頼ることもしなかったのだろうか。

「それに、こちらも。一時は、連絡を取れるような状況ではなかったしな」

　その言葉が気を遣ってのものなのか、本当のことなのかは、自分には測り知れない。しかし、もし後者だとするなら、連絡が取れないほどの何があったというのだろうか。

　家族のことも、身内のことも。実は、何も知らないのだということを、初めて思い知らされた。いや、見ないふりをしてきただけなのかもしれない。

　エンペラーは思い出したかのように自分たちに椅子を勧めると、お茶を用意してくれた。彼が椅子に腰掛けたところを見計らって、テンパランスが戸惑いながらも口を開く。

「あの。俺、早く、あいつを追わなきゃいけないんだけど」

「そう思うのは、最もだろうが。焦るな。焦れたところで、空の上に行く方法など無いだろう」

「でもっ」

　テンパランスが机に両手をついて立ち上がるが、エンペラーは動じない。

「レンなら、あいつがいるから、おそらく大丈夫だ。味方ではないかもしれないが、敵というわけでもない」

「あいつって、空飛ぶ男のことか？」

「いや。もっと上の人物だな」

　口振りからすると、エンペラーの知り合いだろうか。

「ランス。落ち着きましょう？　残念だけど、手が無いのは確かだし、時間もかかるかもしれないわ。空の上に行く方法を探し出すことも。レンが連れ去られた理由を知ることも。それに」

　ちらりと、板を跳ね上げるだけの小窓を見る。

「もう、日没が近い」

　おそらく森を抜けて、街に着く頃には、闇が支配する時間になっているだろう。そうなると、聞き込みをすることさえ難しくなるのは必至だ。学生や子供では、入れる店も限られる。

　ようやく、テンパランスが腰を下ろした。しかし、その目は鋭い眼光を湛えたまま、エンペラーに向けられる。

「とりあえず、エステスの言う通り、落ち着く努力は、する」

　一言一言、区切るようにして、彼は言葉を吐きだす。焦りや怒りを無理に抑えようとしているのが、こちらにも伝わった。

「まず、目の前にある、疑問を片付ける。デスを使って、レンをここまで連れてこようとした。その理由は、なんだ？」

「塔が突如、出現した。だから、義兄の縁者が。高い確率で、エステスが来ると思った」

「私が来たから、レンをさらった？」

　意味が解らず、髪に手をやる。まったく話が見えない。あさっての方向から責められているようで、驚くことも焦ることもできない。

「無論、起因であり、直接結びついているわけではない。一つの行動で、二つのことを読もうとしただけだ」

「二つのこと？」

「一つ。ストレングスは、何かを知っているのではないか、ということ」

「何かって？」

　聞き返すテンパランスに、エンペラーは金色の目を向ける。

「ジャスティスは、よくストレングスと会っていたからな。その行方だ。それと、これは勘でしかないが。おそらく、塔のことも知っているだろう。これは先の１件で、ほぼ確信となったが」

　先の１件とは、青年がストレングスを連れ去ったことだろう。

「普通の塔ならいざ知らず、砂漠の、墓の位置に突如現れたものだ。上が、放っておくはずがない」

　エンペラーの見解に、素直に頷く。

「そして、もう一つ。君たちを、試させてもらった。どの程度で、デスに追いつくことができるのか」

　思わず、テンパランスと顔を見合わせる。

「それは、どういうことだ？」

「それは」

　エンペラーが口を開きかけたところで、緊張感の無い音が部屋に響いた。

「悪い」

　腹を押さえたテンパランスが、顔を真っ赤にしている。完全に、緊張していた空気が霧散してしまった。

「少し早いが、先に夕飯を用意しよう。ここで休んでいてくれ。特に、エステスとエンプレスは、長旅で疲れているだろうからな」

　そう言うと、エンペラーは小屋の外へと出ていってしまった。言外に「手伝う必要はない」と言われてしまっては、見送るより他にない。

「ごめん、エステス。エンプレスも」

　テンパランスは、項垂れていた。この上なく、落ち込んでいるのだろう。

「２人が来るって聞いたからさ。張り切って掃除してたら、昼飯忘れてたんだ」

　良くも悪くも素直で直情的な青年は、心から自分たちを歓迎してくれていた。苦笑は浮かぶものの、責める気になど到底なれない。

「そこまで歓迎してくれてただなんて、嬉しいわ」

「ありがとう。ランスお兄ちゃん」

　２人でそう言うと、テンパランスに、ようやく笑顔が戻ったのだった。