第30話
魔力の注入は好きだった。
特に首都の結界は魔力量の消費が尋常ではなく、侯爵が2人分の魔力量を負担しているのなら、カインは3人分の魔力量を負担していた。
それだけの量を注入するとなると、さすがのカインも7日程度はぐったりするから、ジルダの魔力吸収を受けなくて済むのだ。
初めて首都の結界の維持を行ったのは1年前だった。
それまでやってきたもので一番疲れたのは、首都の北側にある、水源での揚水ポンプへの魔力注入だった。
カインの背丈ほどもある魔法陣で動くポンプは、カインの屋敷にあるポンプとは、大きさと必要な魔力も桁違いだった。
普段は魔力量の大きい者が常駐して管理をしていたのだが、病気でふた月ほど寝込んでいた際に、カインが代わりに魔力を供給しに行っていた。
その時も疲れはしたものの、2日後には魔力量はほとんど回復していた。
それだけ、この結果の魔法陣は桁違いなのが分かる。
とても疲れるけど、これで当分の間ジルダが魔力を吸収する必要はないのだ。
イレリアを迎え入れてからもジルダは3日に1度の務めを果たすため、侯爵邸を訪れていた。
もちろん、カインも使用人たちも、イレリア本人もジルダに会わないよう注意を払っていたのだが、ジルダは意にも介さないといった様子で、黙ってカインの魔力を吸収しては帰って行った。
いや、一度だけイレリアについて口論したことがあった。
カインがイレリアを連れて来て数日経った頃だろうか。イレリアが貧民街に帰りたいと言わなくなった辺りだ。
いつもの通り侯爵邸のサロンでカインとジルダはソファに隣り合って座り、手を握っていた。
「薬師見習いを連れ帰ったと聞きました」
使用人の誰かが告げ口したのだろうか。――いや、二人が成人となる来年に結婚を控えて、ジルダが侯爵邸の女主人のように振舞っていることは知っていた。
使用人たちもそのつもりでジルダに仕えていたし、屋敷のことを彼女に報告することは、おかしな事ではないのかもしれない。
「カイン様のお決めになった事に口を出す権利は私にはございませんわ。ですが、カイン様は次期侯爵でございます。その事をお忘れになりませんよう、お立場を弁えた振る舞いをなさってくださいね」
カインが考えていると、ジルダがいつも通り静かな口調でゆっくりと言った。
それが妙にカインの癇に障った。
いつもなら受け流していたのに。
「またそれか――君は本当に貴族としての僕しか見ていないんだな」
「貴族としての――とおっしゃられましても、カイン様は貴族でございますから」
またこれだ。母と同じような仕草で母と同じような事を言う。
「彼女は――貴族としての僕ではなく、僕自身を愛してくれているんだ」
カインの言葉にジルダは小さく溜息をついた。
「カイン様と薬師見習いのご関係に口を挟むつもりはございませんわ。ただ――物事には順序と節度がございますの。やりたいようにやりたい事だけなさるのは子供のすることですわ」
「そう言って君はイレリアに嫉妬しているんだろ」
「薬師見習いはお美しいですものね――私と違って」
ジルダはカインが毒を受けた時、そばにいた薄汚れた女性を思い出した。
汚れてはいたが、容姿は美しく、緑色の瞳は生命力に溢れていた。まるでジルダと正反対に思えた。
「そうだ。だが彼女は美しいだけではない。身をすり減らすほど働き、自分の稼ぎを貧民街の者達に分け与える慈悲深さを持っている。僕はそんな彼女の内面の美しさに惹かれたんだ」
「素晴らしい方ですわね」
「そうだ。僕は彼女と生涯を共にしたいと思っている」
まっすぐな目でジルダを見つめるカインに、ジルダは溜息をつく事さえ無駄な事なのだと理解した。
「でも、カイン様は私がいなければ生きていけないでしょう?」
「またそれか。侯爵夫人の座は自分のものだと、そう言いたいのか」
カインは顔を真っ赤にしてジルダを見つめた。
「そういうわけではありませんわ」
ジルダは握ったままのカインの手を黙って見つめた。
カインだってわかっているのだ。ここで手を振り払えない事は。
自分に何かあると無関係な人々まで巻き込んでしまうことを。
それを抑えられるのはジルダただその人だけであるということを。
一息の沈黙の後、ジルダは手を離し「終わりました」とだけ言って立ち上がった。
そして、部屋を去り際に振り向いて「カイン様――お忘れにならないでくださいませね。物事には順序と節度がございますのよ」と言った。
カインの手に残されたジルダの手の感触が、いつまでも消えなかった。
ジルダはどこまでも僕を馬鹿にしている。
魔法陣に魔力を流し込むカインは、集中しなければならないことはわかっていた。
だが、あの時のことが思い返されてカインの心を乱している。
国王命令の婚約だから破棄できないと高を括っているんだろう。僕の命を握って、僕を制御している気持になっているに違いない。
なぜ僕は今までジルダとの婚約に甘んじていたんだろう。
カインは意識が魔法陣から離れていることに気が付いていない。
子供の頃に決められて、誰に関心を持つわけでもなかったからジルダでも構わなかっただけだ。
彼女の能力は僕を救う。――そうだ。自分で制御できない魔力のために諦めていたんだ。
だが――イレリアに出会ってしまった。
彼女と過ごす時間は一瞬でさえ輝かしく、幸福だった。侯爵邸に来て栄養状態が良くなったからか、細いながらも肉付きが良くなった体を抱きしめて眠ると、ただ安心して夢も見ないほどぐっすりと眠れるのだ。
何より、あの嫌な頭痛が起こらない。イレリアがそばにいると何も考えずにただ幸せな時間を感じるだけでいい――ジルダとは違うんだ。
「カイン!」
侯爵の叫びにカインは我に返った。――そうだ、魔方陣に魔力を――おかしい。魔力が止まらない。
カインの前の前が微かに歪んだように見えた。
まずい。魔力が制御できない――。このままでは魔法陣が壊れる――いや、体から急速に魔力が失われていくのがわかる。このままでは死ぬ――
「――魔法陣が!」
宮廷魔導士の叫び声が聞こえて、誰かがカインに当身を食らわせた。
ここにいる者でそんな芸当ができるのはエスクード侯爵だけだろうとカインは理解した。
衝撃とともに魔力の放出が止まり、カインは痛みよりも安堵しなが、意識が遠のいていくのを感じた。
薄れゆく意識の中でカインが思い出していた人はイレリアではなかった。
カインが目を覚ましたのは王宮で用意された客間だった。
ベッドの横ではジルダが青白い顔でカインの手を握って眠っていた。
「気が付いたか」
ジルダの反対側からエスクード侯爵の声が聞こえて、振り向くと侯爵が心配げにカインをのぞき込んでいた。
「父上……」
掠れた声でカインは父を呼んだ。
「申し訳ありません。僕はまた制御を失ったのですね」
「横になったままでいい。今さっきジルダ嬢が魔力を入れ終えたところだ。まだしばらくは動けないだろう」
体を起こそうとしたカインを侯爵は手で制して、そのまま寝ているよう伝えた。
「ジルダ嬢は最近お前の魔力がおかしいと言ってな。今日は念の為に控えててくれてたんだ」
カインが担ぎ込まれるや、ずっとカインに寄り添って魔力を与えていたが、先程疲れたのか倒れるように眠ってしまったのだと、侯爵が説明した。
カインはジルダに握られた手に、懐かしい優しい暖かさを感じて、どことなく居心地が悪くなってそっと手を離そうとした。
しかし、ジルダの手は眠っているはずなのにしっかりと固く握られていて、カインは仕方なくそのままにする事にした。
「このままでは話したい話もできないだろう。私は議会での報告があるから先に帰っていてくれ――なに、時間はたっぷりあるさ」
カインの考えなどお見通しと言った表情で、侯爵はいたずらぽく笑い、立ち上がり際にカインの頭を優しく撫でると部屋を出て行った。
カインは1人残された部屋で、喉の渇きを感じたが、ジルダのせいで身体を動かす事ができない。
女中を呼ぶ紐にも手が届かなかったので、そのまま一刻ほど天井を見つめて過ごす事になった。
だが、不思議とこれまでのように苛立ちや不快感はなかった。
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