輝きが薄れてゆく。

　散り消えてゆく光の中心にあって、ゆるりと閉じられる黒い双眸。

　瞬間的なもろもろの無我を経て、

　いささか、やりすぎたというような事後感傷のもとに…――

　園平大陽は、鮮明でありながら、どこまでもあやふやで捉えどころがないその境地からぬけだした。

　うっそりと瞼を持ちあげた彼の瞳に映ったのは、へたっと藻類が貼りついていたりする高低差の極端な地形。

　さしたる衝撃もなく、すとんと。

　自（おの）ずから座りこむ感覚で腰をおとした地面は、温かな水気をふくんでいた。

　服を通りぬけた液体で、皮膚の表面……尻や手が濡れてしまったが、乗った泥の土壌がほどよい熱をおびていたので、さほど不快をおぼえなかった（そうしているあいだは）。

　それまで体がうったえていた息苦しさや辛（つら）さは微塵もなく……

　なごりすら残ってなかったので、じっさいにそうあったのか、わからなくなる。

　ゆらぐぬるま湯……透明な液体は地表をぬかるませる程度（レベル）だ。

　それよりなにより、まわりに空気があったから、大陽は、あたりまえのように呼吸をしていた。

　ぱっと、目に入ったのは、

　合わせをぱっかりひらいた二枚貝。

　近くの岩場に赤いカニがひっかかり、ひっくり返っていて…。

　巻貝、花虫（イソギンチャク）などが、強い流れにとり残されたように岩の間や、くぼ地にたまっている。

　地表を庇う透きとおる液体と、ところどころに散らばっている海の生物。

　その場所は、海岸のようだった。

(…ん……っと。なんで（なんだ）……？)

　彼がもまれた水は塩辛かった。

　ついさっきまで海中にいたのだろう……けれども、

　大陽の頭の中には、海に入ったおぼえも落ちた記憶もなければ、そういった場所を訪れた認識もない。

　わけがわからぬままに、あたりを見まわしてみる。

　その視野の先。

　さほど遠くない位置には、上部が深緑色の草や木立におおわれた切りたつ地殻があった。

　足もとには、多量の水をふくんで、ぬかるむ土壌。

　泥土が堆積した、けっこうな規模の谷底……否。

　彼がいるのは、はるか前方と後方に立ちあがる台地と台地の境目。

　ひらけた平地のようなところで、確認すべく見あげた高空（たかぞら）は、青暗（あおぐら）い灰色をしていた。

　微妙な光をおびているが、おぼろげで、星も出てなければ月もない。

　夜ではなさそうだが、昼でもないだろう。

　黄昏時か日没。

　もしくは夜明け前なのか――…？

　どれでもないような、理解しにくい予感もくすぶっていたが、ともあれ、視界がそこそこ利くレベルの中途半端な明るさはある。

　それはそれとしても（さておき）…。

　ついさっきまで彼を窒息させていた大量の塩水は、どこにいったのか、である。

　いま水は、平べったい地表に、うすく漂（ただよ）っているばかりだ。

　数瞬前のまれていた圧倒的な感覚あいまって、思考が状況に追いついていっていない。

　目に映るものを、ただ、だらだらと視認していた園平大陽は、そこではっと、腰を浮かした。

　その時、彼の足もとには、身により添うはずの影がきれいさっぱり存在しなかったのだが……。

　大陽が気をとられたのは別の事柄だ。

　生ぬるい温泉のようだった地面が、体積を増した水にひたされて温度を下げている――

　 水が戻ってきているのだ。

　こうして眺めているあいだにも、水嵩は確実に増していた。

　とっさに、これは月の潮汐作用か何かで起きた現象……

　海の満ち干だろうと思いこんだ大陽は、遠い上方にうかがえる緑をふりあおぎながら、一も二もなく駆けだした。

　そんな彼は、まだ思春期もはじめ。

　十代の半ばにも達していない未熟な少年だった。

　ぱしゃばしゃと、水しぶきをあげ、走りにくいぬかるんだ土壌を蹴ってゆく彼の体はいま。

　地面にじかに座ったことで濡れた部分と、駆けゆく過程で飛ばし散らかした飛沫にさらされた個所をのぞけば、すっかり乾いている。

　溺れたのは、夢だったのか……。

　あるいは知らないうちに、けっこうな時が経過していたのか？

　さらには。

　そうして目に映る物体（もの）、景観が何を示しているのか。

　暗い空と大地のあいだに広がる低い地面。

　足もとを洗い、もどりはじめた水……

　目に映るもののあり方は、おおよそ理解でき、目星もつけられるのだが、自分がおかれている事態・状況経過が把握できていなかった。

　そんな彼（そ）の視界を、ゆでられたように赤いカニやエビの死骸がかすめ、ゆき過ぎてゆく。

　くずれやすくなった身をさらす魚体が、ひとつ、ふたつ、満ちてきた水にさらわれ、ゆさぶられている。

　状況を考えれば、ただの潮汐作用ではないことはあきらかなのに、水が戻ってきているという現場から逃れべく奔走する大陽の頭は、目に映った情報の多くを軽視し、見過ごした。

　自分が水にさらわれることなく、とり残されていた理由。

　溺れていたはずなのに、服や髪がすっかり乾いていたわけも……。

　不思議に思い、異常と受けとめても、熟考するまでにはいたれずに。

　――とにかくいまは、水に吞まれなければいい。

　高いところへ、登らなければ……。逃れなければ！　と。

　しかし。

　そんな彼の焦燥に曇った思考――生命重視の目減りした理性でも、無視できない重大な疑問が視界に転がっていたのだ。

(…ここ……。ここは、どこだ？)

　経過を掌握できていないので、とうぜんといえば、とうぜんだったが……。

　眼前に迫る黒っぽい岩場に、とりつく手がかりを探しながら思案した大陽の黒目がちな瞳が、これという情報を求めて一帯をさまよう。

　溺れる前は昼間だった。

　そんな気がするのに上方に展開する空は遠く高さを感じさせるものの、薄霧にかばわれているみたいにぼやけている。

　たしか……、

　夏休みがあけてから、間もない九月。

　台風が沖縄近海をさまよっているニュースなら見たが、そんなのは遠い海の向こうのことで。

　その日。大陽が住む本土の街は、絵にかいたような快晴だった。

　真っ青な空の一角には、まばらな白雲が散らばっていたはず……。

　――それな（だという）のに、いま彼の頭上にある空は灰色おびた藍色をしていて、

　ぐるりと展開する大パノラマは、自然色豊かな別天地なのだ。

　上方をふりあおいでも、建物ひとつ、電信柱ひとつ、道路やガードレールさえ見つけられない。

　大陽が住んでいた地域とは、明らかに違う……過去の記憶にもない見知らぬ風景だ。

　着の身、着のまま、身ひとつで、自分は、何をしているのか？

　悩みとまどう彼の体毛……髪や眉毛は、日中の陽の輝きを彷彿とさせる、独自性の強い金色になっていた。

　さらには、

　そこかしこに横たわっている岩だなの起伏には、真上から光を受けているような暗い影が生まれているのに、彼の影だけが見あたらない。

　冷静に受けとめることができていたら、いくつも挙げられた異常。

　現実に追われ、あたふたしている大陽は、多くを目に映しながら、そこに見えていたおかしな事実のいくつかを見過ごしたのだ。