第4章 波のない海 ①


 ポケットに入っていたのは、焦げた折りたたみ式の物体。


 記憶にある羊革の財布より黒く、小さくなったようにも思えたが、構造はそのものだ。


 癒着しかけている財布を開く……というより、こじ開ける感があったが、ともあれ。

 札入れに見えた紙片のなれのはてをつまみ出そうと試みる。


 いくらか湿り気をおびた炭化しかけのそれは、彼の指先で、ぺりぺりと裂けた。


「うわ……(な)っんだよ、これ」


 なぜか少しも揺れを感じない、快適な舟の旅。


 進むことで大気が強めの風となり、行きすぎてゆくことをのぞけば、新幹線にでも乗っているような感覚だ。


 モーター音すら聞こえてこないが、この状況が幻想か現実か、確信をもてずにいる大陽は、やたら転がっていた不思議から目をそらす。


 出会って間もない相手を質問攻めにして煙たがられるよりは、本当に知りたいことに絞った方がよさそうだと考えたし――

 そこにいる男のこれまでの傾向からして、まともな回答をもらえるとも思えない。


 そんなこんなで、どうでもいいようなレベルの疑問は、無視スルーしがちになっていた。


 どこまでも広がる穏やかな海原には、彼らを乗せた舟の航跡がのびているだけで、波濤ひとつ見つからない。


 静かすぎて、少し不気味なほどだった。


 大海をゆくには不充分に思えた舟は、これという苦難にみまわれることなく、街があるという遠方の陸を目指している。


 船首を背にし、同乗者とむきあう位置に座る大陽は、特にすることもなかったので、数少ない所持品を確認しはじめたところだ。


 世界は、うすぼやけた闇に包まれているが、いっしょにいる男を中心に白熱電球顔負けの明るさが保たれているので、ものを見るのに苦労することはなかった。


 もろく、くずれた黒褐色の紙幣にあっけをとられた大陽は、せかせかと小銭が入っている部分の口をあけた。


 ちゃらっと、さぐってみた手に乗ったのは、五〇〇円が一枚と一〇〇円が2枚。

 それにくすんだ色の一〇円が1枚……。


 大陽の右手の上のコインは、一度、熱にさらされて溶け、ふたたび冷えて固まったように、輪郭が丸みをおびていた。


 新しめの銅色のコインには、五〇〇円玉がめりこんだらしいサイズの痕跡が、くっきりついていて、

 2枚、重なっている一〇〇円は、なかば融合している。


 そこで財布を掌の上で斜めにして、中に残っていた小銭を全部吐き出させてみた。


 小銭だけで、八六三円。

 ひとつとして、まともなものはなかった。


 無事かと思ってつまんだ一〇円は、裏の面の模様がつぶれてのっぺりしていたし、一円など、白濁した灰の塊のようになっている。


 去年の年明けにつくったヘアサロンのポイントカード。

 コンビニやレンタルショップのカード。

 見る影もないが、レシートと思われる灰色の紙切れ。


 大陽の財布は中身を道連れに黒くすすけて、炭化しかけの嫌な臭気を発している。

 むざんだが、それはまぎれもなく彼のもの。


 いつ、こうなったのか。

 奇怪だし、不可解だった。

 身に着けている衣類に、火にさらされたような痕跡はない。


 いっぽう。

 被害の産物は、燃えたというより、じっくり高温にあてられて変質したような印象だ。


 いずれにせよ、大陽は、焼け焦げた財布を後生大事にポケットに入れて持ち歩いていたことになる。


 見てわかるところで、四〇〇〇円足らずの損失。

 記憶でも、所持金はそのくらいだったと思う。


 大損害というには微妙な額でも、お金はお金だ。

 夢なのだとしても、彼の財産の一部。

 財布だって、カードのポイントだって、家の合鍵だって、ただではない。



小銭の残骸コレって、銀行で交換してくれるのかな?

 ばらけた紙幣が無理っぽいけど)



 なくしたと推測される記憶。

 壊れた品々もの

 どこにいったのかわからない携帯端末。

 いつのまにか、焼けていた金銭――。


 大陽は、自分がものすごく損をしているような気がした。


 現状を理解するほど、不愉快になってくる。

 むっつりと、所持品を睨んでいた彼は、コインを小銭入れにもどした。


 ほとんどゴミと化していたカード類も、ひろえるところはひろい、札をいれるところにつっこむ。そして、一瞬、迷ったが、

 もとのように、尻のポケットにおしこんだ。


 彼の左手に残されたのは、財布にはさみこんでいた家の合鍵。



(使えそうにない…。……)



 扁平に圧縮された印象で、輪郭がまるみを帯び、片側にストラップの金具がめりこんでいる。



(……帰っても、外まち決定か。母さんの次の休みって、いつだっけ? 斉藤ん家に邪魔しようかな……)



 大陽は、なんとなく見おろした鍵を一度、握りなおしてから、制服の胸ポケットにおさめた。


 思ったほど汚れて見えない手には、革と金属がまざりあった焦げくさい臭気がしみついている。

 ぱんぱんと、てのひらをはらい、ひと心地つく。


 そこで大陽がこぼしたのは、不景気な溜息だ。


 未知の土地で通用するとも限らないが、資本主義社会に育った彼としては、無一文という境遇は、かなりこころもとない。


 子供の身分なので、しっかりした大人がいれば、借りるなりいただくなりして、依存すればいい場面だが、いま、そばにいるのは、コレである。


 ようやく大人になったかならないかという年齢に見えたし、けったいなことを現実のように話す男で、経験の度合いも不明だ。


 この事態をまぼろしと思いたいのに、妙な臨場感があるものだから、その男が言った事実を頭から否定することもできない。

 だからといって、信じてはいないけれども。

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