第22話 朝靄

「はあっ……!」


 突き飛ばされるように夢から抜け出し、トヴァンは目を開けた。無意識に力を入れていたらしく、指先がこわばってかすかに震えている。ゆっくりと手首を回して血を巡らせているうち、辺りがもう明るくなっていることに気がついた。

 肌に触れる空気が、心なしか湿っている。恐らく雨が近いのだろう。酷くならないうちに、今日は距離を稼いでおきたい。そこまで考えて、身を起こそうとした瞬間――


「起きた⁈」

「ぐあっ!」


 まあまあの重みが思い切り胸にのしかかり、肺から息が絞り出される。悪夢の余韻も寝起きの怠さもまとめて吹き飛ばされ、トヴァンは目を白黒させながら腕を伸ばした。


「おっ、まえなあ……!」


 朝から何をはしゃぐ事があるのか、妙に元気のいい子どもの両肩を掴んで引き剥がす。それすらこの子にとっては楽しかったようで、輝く緑の瞳を細めてクスクスと笑った。


「……いいもんでも見つけたのか、ネノ」

「雲がすぐ近くまで降りてきてたんだ! もう消えちゃったけど」

「あー、霧か……昨日でそこそこ山道を進んだからな。ビビったろ、前が見えなくて」

「あの中ってそんな風になってるの⁈」

「……俺が寝てる間に勝手に踏み込まなかったことは褒めてやる。今日歩いてる間に霧が出ても、一人で突っ込んでいくなよ」

「えー」

「途方に暮れてお前を探し回る俺が見たいってんなら別だけどな」

「……ちょっと見たい」

「やめろ」


 軽いやりとりを交わしながら身を起こし、寝具を片付けて火の始末をする。ネノは珍しい景色を見た興奮が冷めないようで、鼻歌でも歌いそうな調子で朝食の準備を始めていた。まだ共に旅を始めて数日だというのに堂々と他人の鞄に手を突っ込みながら支度を進める遠慮のなさに、自然とトヴァンの口から笑いが溢れる。それを耳ざとく聞き留めたネノが、「どうしたの?」と彼の方をふり仰いだ。


「なんでもねえよ」

「余計に気になるよ」

「別に、遠慮のねえ奴だなって思っただけさ」


 手をひらひらと振って答えれば、子どもは少しの間を置いて言った。


「……トヴァンの鞄、開けるね?」

「遅えよ」


 あはは! と笑い声を上げて、ネノがこれまた遠慮も迷いもなく使っていたナイフを片付ける。気づけばパンも塩漬け肉も綺麗に切り出され、二人が手をつけるのを待つばかりになっていた。




 商人たちが去り、すっかり元の荒野に戻ったサラキアを発った二人は、エテリシアを目指してまっすぐ南へ進んでいた。

 三方を山に囲まれ、南に海を臨む国エテリシアへの道筋は限られている。大きく迂回して比較的平坦な街道を進むか、距離は短いが起伏のある峠道を行くか。気が逸るネノと旅慣れているトヴァンは、さほど議論になることもなく後者を取った。


「前に買った食べ物、そろそろ無くなりそうだけど大丈夫なの?」

「この峠を越えればエテリシアの領内だ。都まではまだ距離があるが、小さな町ならいくつかある」

「レヴィアタンがいる湖は⁈ 近い?」

「残念ながらもっと西だし、そもそもあそこは禁足地だったはずだぜ。神殿の司祭たちが近寄らせてくれねえだろ」

「……勇者でもダメかな」

「俺が司祭ならお帰りいただくだろうな。説得力があまりにもない」

「神種を見せたら?」

「おいおい、忘れんなよ。この大陸にいるのはほとんど、神種なんか楽しい昔話としか思ってない連中か、逆に心底焦がれて勇者の手から横取りしようと企んでる連中だぜ」

「そうだった……」

「ま、そうしょんぼりすることはねえよ。エテリシアはどこより人の行き来が多い国だ。特に首都のトリアイナには、綺麗なもんから汚いもんまで噂という噂が流れ込んでくる。お前が知りたいことだって、きっと見つけられるさ」

「リシアさんの手がかりも、トリアイナでなら見つけられる?」


 不意に飛び出した名前に、トヴァンの息が詰まった。ネノは変わらずきらきらとした瞳で、彼を見つめている。自分の探しものを気にかけてもらったのだから、今度は当然そっちの番だとでも言うかのように。


(あいつの名前を他人の口から聞くのは、新鮮な感覚だ)


 それだけの事なのに、自分でも驚くほど心が晴れる。応える言葉にも、空虚さが滲むことはなかった。


「……そう願ってるよ」




 ふっと目を細めたトヴァンを見て、ネノの胸に達成感に似た喜びが灯った。


(やった)


 彼がしょっちゅう――どころか、毎晩のように悪夢にうなされているのを、察せないほど鈍いネノではない。正面切って訊ねれば「お前が気にすることじゃねえよ」とかわされてしまうが、投げ出すように返される短い答えから知ったことはいくつもあった。


 彼の故郷が、戦争をしていた二つの国両方から狙われる地域にあったこと。

 ある夜突然、顔を覆って身元を隠した兵士たちに襲撃されたこと。

 村人のほとんどが殺され、残りは連れ去られたこと。

 偶然集落を離れていた彼だけが、見つからずに済んだこと。


 昔の話をこぼす時、彼は「今更文句をつけたって、誰かが別の人生と取り替えてくれるもんじゃない」と苦笑した。その言葉の通り、彼の過去を知ったところでネノがその頃のトヴァンに何かできる訳はない。それを思うといつかのように、くらくらするような気持ちに包まれる。

 だが、不思議とネノが聞きたいことを聞いて言いたい事を言うだけで、彼の気持ちは幾分か上向くようだった。


(じゃあ、いいや)


 トヴァンと話すのは楽しい。質問にすぐ答えてくれる時も素直に話してくれない時も、彼はきちんとネノに気持ちを向けてくれる。まだ知らないことも多いけれど、彼はとても正直だ。だから向こうも自分との話を楽しんでくれているなら、こんなに嬉しいことはない。


「――さて、霧がこの辺にも出てたってことは、雨が近いかもしれないな。とっとと食って、今日は早めに動き始めようぜ」


 そう言ってパンを齧ったトヴァンが、「この気の抜けた食事とも、もうすぐお別れだ」と肩をすくめた。


「もし何かに足止めされて、先に食べ物が尽きちゃったら?」

「そうなったら、その辺で釣りだな。――何しろエテリシアは、水龍が見守る慈水の国。水の恵みなら、他のどこにも負けやしない」

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