第6話 それぞれの日常
〈1〉
へウォンは社長室で椅子にもたれている。
――どいつもこいつも勝手しやがって――
迷宮少年は満員御礼で無事にデビューを果たした。これはマーケティングのヴァネッリ、ミュージックのローシェ、エージェンシーのダミアン・ベジャールがいい仕事をしたという事だ。
――問題はオルソンだ――
カイエンを招いた。ファクトリーを発足させる。そこまではいい。
――エイミーをどうする? オルソンはどう考えている?――
ロビンの動画を見る限りオルソンは彼女に同情しているし、完全に断ち切るとまでは行かないだろう。
エイミーが社会的に窮地に陥ったのは事実だが、ロビンもタレントとして一線を超えた。
きれいでおしゃれな男性アイドルと、男性恐怖症のトランスジェンダーでは印象が違いすぎる。
会社にはジェンダーの自由を認めなかったのかという批判が殺到するし、ロビンも少なくないファンを失う事になる。
――代償が大きいのよ――
「お疲れですね」
「疲れもするわよ。こうも好き勝手に動かれたら対応が追いつかないわ」
紅茶を受け取って口に運ぶ。
そこでへウォンは気付く。オットーがいつも持ってくるのはアイスアメリカーノでは無かっただろうか?
「ごきげんよう。へウォン」
顔を上げたへウォンは絶句する。そこにあったのは会長のクリスチャンの姿だ。
――疲れすぎて幻覚でも見てるのかな――
そんな訳がない。紅茶の熱さまで偽物なのだとしたら自分も何かの病気だろう。
「こっ、これは会長! お疲れ様です!」
一体何の用だろうか? そう考えて先日途方もない話を聞かされた事を思い出す。
アルカディアという古代遺跡に行けという催促だろうか?
いつなら平穏なのかと問いたくはなるがウロボロスは目下平穏とはほど遠い状況にあるのだ。
「かしこまられると疲れます。へウォンが良くやってくれているので私は安心です」
ソファーに腰かけ紅茶を傾けながらクリスチャンが言う。
ドアの向こうではオットーが申し訳なさそうな顔をしている。
「まぁ色々とありますが……本日はどういったご用件で?」
「へウォンの顔を見に来たのです」
クリスチャンの言葉にへウォンの頭が漂白される。
――会長が私に会いに? 何の厄介ごともなく?――
「何度見てもそう変わる顔でもありませんよ」
へウォンはコンパクトを取り出してメイクを確認したい衝動をこらえる。
仮に今から直すとしても手遅れだ。
「ロビンの事は心配いりません。あの子は強い子ですから」
確かにロビンは華奢で弱弱しく見えるが芯が強い。努力家で行動力もある。そうでなければ迷宮少年の最終選考まで残っていない。
――ランナバウトがなければ普通にいいアイドルになっていたんだろうけど――
「ロビンはランナバウトの結果次第だと思います」
へウォンは敢えて物事のシビアな面に目を向ける。ライダーとして活動し始めればロビンのアイドル補正が消えるのは時間の問題だ。
その時にロビンが一端のライダーになっていなければ投資は全て無駄になる。
「あの子はランナーとの相性がいいのです。私が保証します」
クリスチャンが観念的な事を言う。
――でもこの人、観念的でなかった事の方が少ないよね――
とはいえ事ランナバウトについてはクリスチャンの言う事に間違いはないだろう。
セラフィムは壊れたままだし、千本桜はBクラスの改造だし、そもそも2.0対応の目途が立ってるのってまだできてもいない遮那王だけだし。
会長ご執心のランナバウトの方面には暗雲しかない。
「今は早急にランナーを用意できる状況になく……」
「ランナーがそんなに簡単にできるとは思っていません。模型ではないのですからどんなに短くても半年はかかります。私にとっては長い冬休みです」
クリスチャンが涼しい顔で言う。
――この人会議に出たり会長らしい仕事をする気は全くないんだ――
「カイエン氏を引き入れたそうですね。私の機体はオルソンに頼みたいのですが」
「それは重々承知です。必ずや最高の機体を用意させて頂きます」
「カイエン氏は腕はいいのですが犬の名前にされてしまうのは抵抗があります」
冗談とも本気ともつかない口調でクリスチャンが言う。
「カイエン氏にはギャラクシーの新型を依頼する予定です。その後はデビルキッチンとホウライが控えているので」
カイエンのスケジュールは既に過密状態だ。
ある程度オルソンに下請けに回さないと回らないだろう。
――半年後に本拠地のバレンシア朱雀で朱雀グランプリを開催する――
それまでに各チームに一機くらいは2.0の機体を配備しておかなければならない。
ウロボロスだけが全機2.0では顰蹙を買うだろう。
――普通にグランプリを開いてフリーダムのチームは来るんだろうか――
独立国だと言っているフリーダムにあるウィリアムズやジュラシックス、シューティングスター、キングダム、ラグナロクといったチームは参戦して来るのだろうか。
――一年半後のカーニバルもどうなるか分からない――
グロリーやヨークスターでのグランプリはどうするのだろうか?
別の国だからと入国制限や港で足止めを食らう事もあるのだろうか?
「開発ラッシュも一時の事でしょう。ランナーは建造より維持運用の方がはるかに骨が折れるのです。ラッシュが終わってもファクトリーはこの先休む暇もありませんよ」
「会長、カーニバルは開かれるのでしょうか?」
へウォンは訊ねる。カーニバルという大祭が無ければランナバウトの興行価値は著しく低下する。
「岸はカーニバルに参加したいと考えているでしょう。そうであるならカーニバルの開催に疑問の余地はありません。ただしそれが従来通りの公正なものになるかどうかは不明ですが」
「公正さが担保されなければカーニバルの権威は失墜します」
「フリーダムが大陸産のレアメタル製のパーツ持ち込み禁止を行ったり、2.0をサイバー戦争の道具だと言って使用禁止を求める可能性はあるでしょうね」
クリスチャンの言葉にへウォンはハッとする。
確かにクリスチャンの言う通りだ。全機2.0にしておいてカーニバルに挑んでグロリー、アルザス、ヨークスターの三大会で使用できない可能性もあるのだ。
――国って厄介なものね――
いずれにせよ、新型機は2.0準拠にすればそれでいいというものではない。
思わぬ所で思わぬ知見が得られたものだ。
「つまりは相手の土俵で戦うしかないと」
「国ができたという事はこれまでの私たちの概念で言うアウェイとは意味合いが全く異なるでしょう。しかし、そのカーニバルで勝利してこそ威風を示せるというものでしょう」
全12グランプリのうち3グランプリは落とす可能性が高くなった。
それでもクリスチャンは勝利を疑ってはいない。
――クリスチャンを支える社長が弱気になってどうすると言うのだ――
「万全の体制を整える必要がありますね」
へウォンは紅茶に口をつけて言う。
結局自分たちにできる事はそれしかない。フリーダムが何を考えていて何をして来ようとしているのか見当もつかないのだ。
「うちのへウォンはやはり頼りになりますね」
クリスチャンの言葉にへウォンは頬が緩むのを感じる。
――クリスチャンに頼られていると思うだけで馬車馬のように働ける――
「へウォンにはボーナスと休暇をあげないといけませんね」
クリスチャンが言うが、ウロボロスの金庫番はへウォンだ。
私的に利用できるような余裕はウロボロスにはない。
「私と一緒にアルカディアに行きましょう」
「へ?」
今この人は「私と一緒に」と言ったのだろうか?
二人で旅行をしようという事なのだろうか?
大平原と言えば往復するだけで一週間はかかるがそんなに会社を開けて大丈夫なものだろうか?
「今すぐでなくても構いませんが心の準備ができたら言って下さい。へウォンは私がエスコートします」
言ってクリスチャンが席を立つ。
――エスコートって……夢でも見ているんだろうか――
へウォンは冷めた紅茶を飲み干したが上気した頭は冷えそうになかった。
〈2〉
「あなた、何を言ったか分かっているの?」
エイミーが詰問口調で言う。オルソンは深夜の自室でエイミーと向き合っていた。
「君こそ何をしたのか分かっているのかい」
オルソンはエイミーの眼光に抗して言う。
一対一であればオルソンはそうそう人後に劣る事はない。と、自分では思っている。
「私は私の仕事をしただけよ」
「それは君が勝手に仕事と呼んだだけだ。遮那王は僕のものだ」
言ってから実感が湧く。ロビンが遮那王を自分のものだと言うのと同様、オルソンにとっても遮那王は自分のものなのだ。
「仕事は自分で見つけに行くものよ。自分の食い扶持を自分で稼いで何が悪いの?」
「君はマイスターだろう? 僕の機体を売り込む事がマイスターの仕事なのか?」
オルソンはエイミーに詰め寄る。マイスターとしてのプライドがあるなら他人の機体をプレゼンするなど屈辱でしかないはずだ。
「ランナー建造はチームプレイでしょ? 誰にでも得意な分野と不得意な分野は存在するわ。あなたに公式の場で発表する事なんてできないでしょう?」
悔しいが事実だ。ロビンのような理解者がいて、カメラがたった一つあっただけで緊張したのだ。
大勢の記者を前にカメラを向けられたら発作を起こして倒れるだけだろう。
「でもそれを君がやる理由にはならない。そもそも遮那王の発表をどうして一言相談してくれなかったんだ」
「あなたは開発をしていればいいのよ。他の事は全て私たちがやってあげるんだから。昔だってそうだったじゃない」
「僕は昔のままじゃない」
キャンピングカーで放浪し、ウロボロスに拾われ、それなりに交友もできた。
信頼され、仕事も任された。全てはこれからという時だったのだ。
「そうかも知れない。でも変わらない事、変えられない事っていうのもあるんじゃないの? 会議室で倒れた時の彼女、あの子はいつでもあなたを助けに来てくれるの?」
エイミーの言葉が突き刺さる。イェジはいつでも傍にいてくれる訳ではない。
しかも緊急時の対応ができる訳でもない。
「でも君より僕を理解して、理解しようとしている」
「本当に? そんなに私の事が嫌いになったの?」
「違う、そういう問題じゃなくて……」
好き嫌いの問題ではない。エイミーは行動に問題があったのだ。
「どうしたら私の気持ちを分かってもらえるのかしら。あなたの役に立ちたいのよ」
オルソンの首に両腕を回してエイミーが胸に顔を埋める。
「駄目だ。君は自分が見えていない」
ロビンは病院に行かせろと言っていたのではないか。
「僕は君の病気につけ込む気も、僕の病気につけ込ませる気もない」
オルソンの耳にエイミーの吐息がかかる。
「私だって自分が病気だって事くらい知ってる。でも言葉だけじゃなく支えあえる事ってあるって教えてくれたのはあなたでしょ?」
学生時代、オルソンにとってエイミーは高嶺の花だった。
しかし、人目を避けていた所、エイミーが薬を過剰摂取して倒れている所を発見してしまった。
それが全ての始まりだった。
エイミーの感触は肌が覚えている。
「エイミー、病院に行くんだ。僕は君を守る事ができない」
「でも私の孤独を埋める事はできる。違う?」
オルソンはエイミーに押し倒される。
「あなたが傍にいてくれるならちゃんと病院にも行くわ。私にはあなたが必要なの」
オルソンは全身が焼けつくのを感じる。込み上げる情動を抑える事ができない。
――エイミーが大人しくなってくれるなら……――
弱いもの同士、支えあって生きていく道もあるのかも知れない。
〈3〉
――推しが尊い――
キャサリンが言っていた。
ハンナはリングの上でロビンに稽古をつけながらもやっとした気分を感じる。
髪をショートでふんわりさせたのは自分だ。コンサートで見たアイドル補正がかかっているかもしれないがロングの時より数段可愛くなった。
――駄目だ。可愛い――
いろんな服を着せてみたい。喜ぶ顔が見たい。
これまで自分は濃い顔のマッシブな男が好きだったのでは無かったのではなかったか?
ロビンはその対極に存在する。
――これが推しが尊いって事なのか……――
ケブラドーラで抱え上げてヌカドーラでマットに叩きつけ……
腕が途中で止まる。
肩から落ちる筈だったロビンが頭からマットに落ちる。
ロビンがマットの上を転がり、起き上がろうとして足を滑らせる。
「おい! ハンナ! 何やってんだ」
ヒルダがロビンを慌てて抱き起こす。
「あ、ごめん」
咄嗟に言葉が出てこない。
「受け身失敗しちゃいました。多分軽い脳震盪ですよ」
「馬鹿野郎。首やってたらどうするんだ」
ヒルダがロビンを抱えて医務室に向かう。
ハンナはヒルダについて歩く。
――私のせいだ――
気を引き締めていなければいけないのにぼうっとしていたのだ。
「ハンナ、どうかしてるぞ」
ヒルダの言葉にハンナは項垂れる。
「なんかさ……いや、その、明日からロビンの相手変わってくれない?」
「はぁ? 何言ってんだ。もう秒刻みでショーのプログラムはできてんだろ」
ハンナはヒルダに反論できない。
ロビンをクロチートで投げ飛ばせる気がしない。
「とにかくしゃんとしろよ。興行まで二週間ないんだ」
ヒルダが医務室を出ていく。
ハンナはふと気付いて端末を取り出す。
『今日のヨナのお迎えですけど、今日もロビンが行けないのでバスで送ってもらっていいですか?』
ロビンがいるのが当たり前になってしまっている。
――あと二週間もいないのに――
ロビンの事を考えると頭がおかしくなりそうになる。
――こんな事で興行を成功させられるんだろうか――
ロビンがいなくなったらヨナはどんな顔をするのだろうか。
違う。
――私はロビンがいなくなった時の顔をヨナに見せられないんだ――
〈4〉
VCB議長アーヴィン・オーウェンは執務室で三国の成立と世の中の変化を感じている。
まず国家と通貨が異なる事により明確に為替というものが定義された。
フリーダムは株というものを法的に定義し、自己資本の少ない者でも資金を集められる仕組みを作った。
ヨークスターの農業メジャーは親会社であるグルメロワーヌに逆らって大量の株式を発行、ヨークスター政府が国債でこれを買った事で事実上の経営権はヨークスター政府になった。
これにより影響を排除する事はできないもののグルメロワーヌの一存で農業生産物をリベルタ大陸に送る事はできない。
グルメロワーヌは農業メジャーの株式取得を目指しているが、外貨準備としてヨークスターのイースの保有量が多い訳ではなく、ヘルの流出も抑えているために過半数の株式を取得する事はできないだろう。
――これで失地は巻き返されたという訳か――
とはいえ国家というものを作ったのは諸刃の剣でもある。
フリーダムの国家の定義に従うのであれば、同一の通貨と同一の法を用いる地域は単一の国と見なす事になる。
そうであるならリベルタ大陸とサンタマージョ白虎は九つの州ではなく、九つの州を持つ一つの連邦国家という事になる。
その人口と経済規模を考えるならフリーダムが優勢とはとても言えたものではない。
――リベルタ大陸をどう経済的に分断するか?――
岸は難民に不用品交換のアプリを持たせて通貨的な浸食を図っているが、早晩見破られる事になるだろう。
ポイントをドルと連動させるというのは面白い試みだが、リベルタの市民にとっての利便性はそこまで高くない。
「クララ・ルブランです。仮想通貨を運用する為の仮想空間のベータ版が完成しました」
室内に入って来たオーウェンの後輩でVCB理事を務めるクララが言う。
オーウェンが開発させたのはVRの仮想空間、一言で言えばメタバースだ。
この中ではゼニコと呼ばれる通貨が使用される。
主にメタバース内で使用される事を前提としているが、ゼニコを介して物をやり取りする事も可能だ。
国家の成立と為替に伴い、通貨を移動させる際には為替手数料がかかる。
しかし、メタバース内でゼニコで通貨を買った場合の手数料はゼロだ。
従ってドルでゼニコを買って、そのゼニコでヘルを買えば為替手数料無しでヘルが手に入るという訳だ。
税関は通す事になるもののリベルタの人々がフリーダムの商品を個人輸入する時にもゼニコを使えば為替の必要はない。
更にゼニコを発行するメタバースの銀行はリベルタでは禁止とされているレバレッジをかけた取り引きが可能だ。
現在通貨としての価値はヘルが最も高いし、フリーダムができたとはいえ基軸通貨となりえるのは実体経済の裏付けのあるヘルだけだ。
しかし、リベルタの人々がメタバースを利用してフリーダムと交易を行ったり、ゲーム内でデジタル商品の取り引きを行えば相対的にゼニコの地位は高くなる。
リベルタ大陸が規制を開始する頃には市民の間にすっかり浸透してしまっている事だろう。
――その段階で規制を開始すれば逆に市民の反発を招く事になる――
「リリースまではどれくらいかかりそうだ?」
「急ピッチで進めれば半年といった所です」
クララの言葉にオーウェンは頷く。
恐らく大きなランナバウトのグランプリが行われる時期にもなるだろう。
メタバース内の賭場でゼニコを賭けられるようにしておけば浸透の速度は早まるだろう。
「そうか。で、だ。いつまでも仮想空間だ、メタバースだと呼ぶ訳にも行かん。適当な名称はあるのか?」
「開発チームは零番街と呼んでいるようです」
クララが言う。その名称に特に異論はない。
「それでいいだろう。ゼロもゼニコも発音が似ているしな」
オーウェンは零番街の未来を考える。零番街はリベルタとフリーダムの二極対立から第三極として台頭する事ができるかもしれない。
そしてフリーダムのように過度にリベルタを敵視しなければより良いポジションを取る事ができるだろう。
――岸、リッシモン、俺を甘く見るなよ――
〈5〉
深夜の練習を終えたイェジはキッチンから良い匂いがして来るのに気付いた。
エイミーとセバスチャンが作る臭い飯ではない。
――ロビンの動画もあったしエイミーたち出てったかな――
「オルソンご飯……」
キッチンに顔を出したイェジはオルソンとエイミーが向かい合って食事をしている姿を見て言葉を失った。
「あら。オルソンのお友達。何か用かしら」
エイミーがアワビのパスタを前に言う。
「あ、あ、あんた」
この女はオルソンを騙してマイティロックを奪って、遮那王を自分の手柄にしようとしたのではないだろうか?
「私はあんたではなくエイミーよ」
エイミーが平然とした口調で言う。神経が鉄筋でできているのだろうか。
「オルソン、何でこの人がいるの?」
「もう勝手な事はしないって言うからさ」
気まずそうに顔を背けてオルソンが言う。
――何がどうなってんの?――
「勝手な事しないって……どうしてここに住んでんの?」
「私たち一緒に暮らす事にしたの」
オルソンの手を握ってエイミーが言う。
こっ、こっ、この……
――泥棒猫!――
こういう時に使う言葉だったのだ。
イェジは喉まで出かかった言葉を飲みこむ。
これまでオルソンとどういう関係だったのかと言われても返答に困る。
約二か月一緒に晩御飯を食べたり千本桜の改装があったりという程度でしかない。
「オルソン……それって会社の許可取ってんの?」
「寮は出るよ」
オルソンの言葉は素っ気ない。イェジとは話がしたくないようだ。
「色々まずいんじゃない? その、問題を起こした人だし……」
ロビンならもう少しマシな事を言えるのかも知れない。
「確かに問題があった事は認めるわ。だからオルソンの目の届く所にいないと」
「僕が見てる」
居心地悪そうにオルソンが言う。
「そ……そういう問題なのかな……私、頭悪いから分かんないや」
イェジは拳を握りしめる。コップの水をエイミーにかけてやりたいがオルソンが認めているならどうにもならない。
「私たち付き合う事にしたからあまり邪魔はしないで欲しいの。ラーメンに湯でも入れて出て言ってくれる?」
エイミーの言葉にイェジの血圧が一気に上がる。
湯でふやけたラーメンを頭からかけてやりたいがそれでは傷害事件だろう。
「私帰る」
イェジは肩を怒らせてキッチンを出ていく。
この怒りをどこにぶつければいいのだろうか。
――あの泥棒猫……――
どんな汚い手を使ったというのだろうか。
考えれば考えるほど泥沼にはまっていく気がする。
――少し走って来よう――
イェジは気分転換に走りに出かける事にした。
〈6〉
グルメロワーヌとの交渉は上手くまとまり2.0が無事発足した。
ロビンのサイクロン入門はランナバウトの為だとばれてしまったが、ロビンの火消しが早かった事もあって事なきを得た。
――これでサイクロンの興行が成功なら――
バレンシア朱雀本社に帰る事ができる。
ミニョンは事務所で頬が緩むのを感じる。
ボーナスは入った。マンションはまだ売れていない。
「ソ主任、嬉しそうですね」
オンジョが声をかけて来る。
この成功もオンジョのアシストがあればこそだ。
「もうすぐ朱雀に帰れるのよ」
ミニョンは端末を眺めながら言う。本社に戻れば企画3課チーム長は確実だろう。
――課長とまでは行かないだろうけど――
既にオンジョという腹心の部下もいる事だし、三十歳には課長になってという事も夢ではない。
と、端末が着信を告げた。
発信者はウロボロスエンターテイメント社長室とある。
――社長直々に何の用だろう?――
考えるより早く着信を受ける。社長を待たせるなど皮のふやけたチキンよりあり得ない。
「はい。企画3課ソ・ミニョンです」
『ウロボロスエンターテイメント社長カン・へウォンです』
ミニョンは鳥肌が立つのを感じる。若くして大成功を収めた立志伝中の人物と直接会話をしているのだ。
『グルメロワーヌとの交渉ご苦労様でした。サイクロンの経営も行った事で多くの知見を得られた事と思います』
「はい! 機会を与えて頂いたお陰です!」
ミニョンは端末に向かって頭を下げて言う。
どん底のサイクロンをプロデュースし、グルメロワーヌとの事前交渉を成功させた。
――あのアルセーヌ・リッシモンとも知り合いになったし――
今になれば実りの多い出張だったと思う。
『意欲があって何よりだわ。ソ主任はもっと大きな仕事をしてみる気はあるかしら?』
「はい!」
給料が上がればマンションに置ける家具のグレードが上がる。
本社まで歩いて十分どころかもっと近くのマンションが買えるかもしれない。
――それはそれで他の社員のたまり場にされそうか……――
『近々ウロボロスは競技用ランナー建造を行うファクトリーを発足させます。社長にはヴァンサン・バスチエ氏が内定しています』
――ファクトリー勤務になるのかな――
できる事なら本社から離れたくない。ギリギリまで寝ていられる距離に住みたいというのは人間の性というものだろう。
「バスチエ氏はUMSのマネージャー、社長ですよね?」
『ええ。ですからあなたに後任をお願いしたいと思っています』
――は?――
出かけた言葉をミニョンは飲みこむ。UMSの社長と言えば大出世だ。
しかし、ほとんど旅暮らしで本社勤務など夢のまた夢……。
「何故私に?」
考える時間が欲しい。給料は充分だ。仕事のやりがいも充分だ。
――そもそも社長だ――
出勤などと考えるからおかしいのだ。
四十代半ばまでバリバリ働いてアーリーリタイヤという選択肢もあるではないか。
『あなたの評価は先ほど述べた通りです。あなたさえ良ければマーケティングのヴァネッリ社長には私から話をしますがどうしますか?』
――マーケティングのヴァネッリ社長――
UMSの社長は雲上人だったヴァネッリ社長と同格だ。
「特別な条件はあるのですか?」
サイクロンの経営のように腰かけだったらたまらない。
『いいえ。あなたをウロボロスエンターテイメントグループの社長として、また常務の一人として加えるつもりです』
――聞きましたか皆さん?――
ミニョンは満面の笑みをオンジョに向ける。
連日栄養ドリンクを飲みながら頑張った甲斐があるというものだ。
「やります。やらせて下さい。ランナバウトの事は分かりませんが全力を尽くします」
『従来のスタッフもいるので実務的な部分で困る事はないでしょう。あなたにはUMSの経営の改善を断行して欲しいのです』
――改善の断行?――
かなり厳しい言葉ではないだろうか?
「ランナーの新造はかなり厳しいと思いますが」
それくらいの事は知っている。2.0発足で多くのチームが機体をアップデートする。
ファクトリーには多くの依頼が入るだろうし、自社の機体ばかり作っていたのでは2.0協定の企業との関係がまずくなる事だろう。
――グルメロワーヌのデビルキッチンの機体を作っているのはカイエン氏だったっけ――
ウロボロスが新調できるのは予算執行済の遮那王と会長機くらいなものだろう。
『カーニバルまでにそれなりに揃うならいいでしょう。それよりあなたには予算的な部分で活躍して欲しいのです。現在UMSは独自財源を目標としていますがスポンサーの獲得もままならず、UMSの運営はマーケティングの企画3課が代行してきました』
ミニョンは古巣の名前が出た所で得心する。
ルートルを用意したのもG&Tに相応の金を出させたのも企画3課だ。
ホウライとのエキシビジョンのようなプロレスをしたのも企画3課。
――UMSの社長は何をやっていたんだろう?――
「つまり企画3課の延長線でUMSを経営しろという事ですね」
『そうなります。後くれぐれも念押ししておかなければならないのは、UMSのライダーは会長だという事です』
へウォンの言葉にミニョンの全身から血の気が引く。
へウォンが雲上人ならクリスチャンは神だ。
UMSの社長の首など駄菓子屋のクジより安いだろう。
『追って会議で決定するつもりです。朱雀に戻る時には相応の覚悟をしておいて下さい』
言ったへウォンが通信を切る。
ミニョンはどっと息を吐いてデスクに突っ伏す。
「会長のお守りをしろと言われた訳ですね」
オンジョが声をかけて来る。言われてみればその通りだ。
会長は確かに現役トップクラスのライダーだが、それを脇に置いてもランナバウトにご執心だ。
一方でウロボロスエンターテイメントのカン社長はあまり金を出す気がない。
――結局会長の機嫌を取りながら、地べたを這いずり回ってスポンサーを集めろって話なのね――
そう考えるとUMSの社長とは厄介などという次元の話ではないように思われる。
――いいわよ。四十代のアーリーリタイヤの為だもん!――
ミニョンは興行当日の演出の為に演出家との打合せの連絡をオンジョに依頼する。
UMSにはオンジョを連れて行った方がいいだろう。
――そう言えばイェジとオンジョって幼馴染だったんだっけ――
奇妙な縁というものは存在するのだ。
〈7〉
迷宮少年は最高と言ってもいいデビューを迎えた。
ライブの観客は50万人、ネットでの同時視聴者は1000万人。
ミュージックのローシェ・フランセン社長もエージェンシーのダミアン・ベジャール社長もホクホクだ。
プロジェクト全体を管轄しているマーケティングのロゼッタ・ヴァネッリ社長も直々に訪れて一人一人と握手をして行った。
ファビオは公式にウロボロスのアイドルになった。
「……んで私には泥棒猫って言葉の意味が分かったのよ」
イェジが炭酸を飲みながら酔っ払いのような口調で言う。
深夜のピザ屋に呼び出されたかと思えば恋愛の愚痴だ。
「泥棒猫って……お前、付き合ってた訳じゃねぇんだろ?」
ファビオは言う。忙しい最中に好きな女に呼び出され別の男の話をされたのだから、少しくらい意地悪を言う権利はあるはずだ。
「だけどさ、自分たちだけ美味しいものを食べて私にラーメン食べろってひどくない?」
「お前はエイミーと一緒に美味しいものを食べて美味しいと思えんのか?」
ファビオが言うとイェジが大げさに頭を振る。
「絶対無理! あの女と同じ空気吸うなんて無理!」
イェジのエイミー嫌いは深刻らしい。
じっくり見た訳ではないがロビンの動画ではオルソンは事実を述べはしたものの、エイミーという人物に対して感情的に怒っているようには見えなかった。
盗作をされ、作品を奪われてもなお怒れないのだとしたら。
本人の沸点が元々低いという事はあるにせよ、エイミーという人物の事を嫌ってはいないという事だ。
「お前がどれだけ嫌だっつっても、オルソンが決める事なんじゃねぇの?」
ファビオが言うとイェジがピザを噛んで押し黙る。
「俺だってお前に好意がなけりゃこんな忙しくて重要な時期に夜食に付き合ってねぇし」
「そうなの?」
「そうなのじゃねぇよ! ロビンが久しぶりだから食事でもって言っても絶対いかねぇよ。今の状況で」
――片思いなのは分かってんだけど――
イェジは鈍感にも程がある。
「それにお前な……」
ファビオは言いかけて言葉を探す。
「……エイミーには怒れてどうしてオルソンに怒ってねぇんだよ」
――お前はオルソンに惚れてんだよ――
心の言葉を言ってしまえばイェジは一直線になるだろう。
「だって……オルソンは何も悪くないもん」
イェジが口を尖らせる。裏切った女に食事を作り仲良く夕食を食べている。
オルソンが悪いか悪くないかで言えば、プレゼン以外の事で言うならオルソンが気分を害していないなら誰も困らないのだから悪い事ではない。
プレゼンにしても仮にUMSの承認を経ていたなら、オルソンが何も言わないでいるより余程良かったはずだ。
その場合、エイミーとUMSに契約があれば良かったという事になるかもしれない。
「オルソンが悪いか悪くないかはUMSの姿勢のせいじゃねぇのか?」
元々UMSがオルソンと密に連携を取ってそれなりにプレスリリースをするなり、情報を社外秘するならするで徹底させておけばこの問題は起きていない。
「だよね。オルソンは悪くない」
「責任はゼロじゃねぇだろ。そもそも研究してる所に部外者を入れる神経ってどうよ」
脇が甘い。というより、元々オルソンはエイミーに未練があったのではないだろうか。
そう考えると一連の騒動に納得が行く。
「オルソンは友達を見殺しにできる性格じゃないよ」
「お前をキッチンから締め出したのにか?」
ファビオが言うとイェジが悔しそうな表情を浮かべる。
「これからオルソンにランナー作ってもらうのに気まずすぎるよ……」
「エイミーが間に入ってくれるんじゃねぇの?」
「絶対嫌! ファビオの意地悪!」
席を立ったイェジが飛び出して行ってしまう。
ファビオはおどろくほど不味い冷めたピザを口に運ぶ。
――俺ってば何やってんだろ――
好きな女に呼び出され、別の男の相談をされ、多少オブラートに包んで話をしているのに一方的に席を立たれて帰られる。
――まぁいっか――
イェジが本格的に失恋すれば少しは可能性があるかも知れない。
友達から恋人への昇格の可能性は低いと言われていようとだ。
〈8〉
「カレーまだぁ?」
何度目の催促だろう。鍋の中では溶けたトマトと肉からにじみ出たうまみが混じり合っている所だ。
ロビンはヨナの声を聞きながら秋野菜を包丁でカットしてオリーブオイルでさっと炒める。
付け合わせは繊維質を補うためのごぼうのサラダとわかめスープだ。
麦と玄米をいれたご飯の鍋からは甘い匂いがしてきている。
最小限の小麦とスパイスを炒め、たくさんのチーズと一緒にトマトと牛肉の鍋に溶かしいれる。
鍋の火を弱めて洗濯機から洗濯物を取り出して物干しざおにかける。
出しっぱなしの衣類やヨナのおもちゃを片付けて、掃除機で室内を軽く掃除してから気になる所を雑巾で拭く。
「ロビン遊ぼ」
「お片付けとご飯の用意ができたらね」
ロビンはヨナに答えて言う。
最初ヨナのお迎えの後ハンナの部屋に来た時には片付けて良いものか分からなかったが、本人が片付けて良いと言ったので何となく気になる所を片付けている。
ドアの鍵の開く音が響く。
「ママだ!」
ヨナが玄関に向かって駆けていく。
「ただいま~」
疲れた様子のハンナがヨナを抱えてソファーに腰かける。
「悪いね。ヨナにカレー作ってもらっちゃって」
ハンナの言葉にロビンは笑みで答える。
「食べてくれる人がいると料理が楽しいので」
「最初は誰でもそう思うんだ。でも男と付き合ってみな。毎日作ってたら嫌になるから」
おどけた様子のハンナの言葉にロビンは笑い声を立てる。
「さすがに毎日は大変ですね。美味しいお惣菜屋さんを探すのが良さそうですね」
「ロビンは話が分かるよなぁ~。料理しない人間はそこが分からないんだろうね」
ロビンはハンナに冷やしたサングリアを差し出す。
「これロビンが作ったの? 飲まないのに?」
ハンナがサングリアを口に運ぶ。
「食前酒はやっぱりいいなぁ~。筋肉食堂の酒は甘くないのばっかりだからさ」
ロビンはおつまみのエビとアボカドのクラッカーを皿に乗せて出す。
「明日はお腹がすいてまた困りますね」
「子供もいるんだし息をつける日もないとね」
つまみを美味しそうに食べながらハンナが言う。
「これくらいのペースだと料理も楽しいですね」
基本的に筋肉食堂だから週に二日の料理も少し凝る事ができるのだ。
毎日作れと言われたらロビンもそう凝ったものは作れない。
「ロビン、カレー」
ヨナの言葉を受けてカレーを味見してみる。
――これなら大丈夫――
ロビンは人数分のカレーをよそってテーブルに並べる。
「いただきまぁす」
ヨナが言ってカレーを食べ始める。
「美味しい?」
「何だかカレーっぽくない」
率直な意見だ。次に作る時にはもっと工夫をした方がいいだろう。
「お洒落な味だと思うよ。多分子供には分かんないよね」
ハンナが苦笑して炭酸水を注いでくれる。
「ハンナさんのカレーはどんな感じなんですか?」
「鍋に具材とルーをドボンするだけ。でも結構おいしいんだよ。今度作ってあげるよ」
「楽しみにしてますよ」
言ってロビンはハッとする。今度とはいつだろうか。
一週間後には興行があるが、体験入門は残り数日だ。
――でもライダーに戻る事は公表しちゃったんだし――
こんな夕食をあと何回囲めるか分からない。
ハンナといると何も気を使う事がない。髪のセットは元美容師だけあってすごく上手いし、一緒に服選びをするのも楽しい。
「あんたと結婚するやつはすぐに太っちゃうだろうね」
「僕は気持ちよく食べる人を見るのが好きですからね」
ロビンは苦笑して言う。
こんな時間がいつまでも続けばいい。しかしこの時間は賞味期限付きなのだ。
この時間に名前をつけるならどんな名前がふさわしいだろう。
これは恋なのだろうか?
ジェーンに対して抱いていたような感覚とは違う、一人でいるより自然体で安らぐ気持ち。
これがイニシエーションラブというものだったとして、
――その階段を上るのを止めたなら?――
ロビンは心臓が胸中で跳ねるのを感じてグラスを一気に空ける。
甘い果実の香りが口の中に広がる。
炭酸水と間違えてハンナのサングリアを飲んでしまったらしい。
「あんた飲めるじゃん。てか、アイドルが飲酒はちょっとやばくない?」
「いえ、ちょっと間違えて……」
アルコールが頭を巡る。こんなにふらふらするものを楽しそうに飲めるのは才能だ。
「間違えたって、一気は良くないって」
ふらついた上体がハンナに支えられる。
顔が近づき心臓が早鐘のように飛び跳ねる。
ハンナと視線が交錯する。ハンナは何とも思っていないのだろうか。
――罪な人だなぁ――
瞬間ロビンの身体はハンナに抱きしめられていた。
「何か……ごめん」
「今なら酔っていたって言い訳できますから」
ロビンはハンナの胸に額を押し付ける。
――イニシエーションじゃない――
多分僕はこの人が好きでこのまま時間を止めてしまいたいんだ。
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