第35話 ヒュプノスの午睡

ゴーレムマスター ザザ・グアルネッリの物語


 下町には、独特の匂いが溢れている。

それは、屋台の簡易的なかまどで焼き上がったばかりの麺麭パンの香りであったり、酒屋の店頭に並んだ麦酒エールから沸いた麦芽の芳香であったり、蒸留酒など強い酒精を醸造する際に発生するフーゼルオイルの香りであったりもする。

 鼻を衝く異臭は、精肉屋の軒先にぶら下げられた腸詰ソーセージのものだ。

人によっては、それは食欲をそそる香りであったろう。

 精肉屋の店主によって、骸炭コークスの炎で上手に焙られた腸詰ソーセージは、店の周りに全く魅惑的な匂いを撒き散らしている。

 駄菓子屋の店頭に子供たちが群がって嬌声を上げていた。

瘦せた黄色い犬が、何か食べ物をもらえないかと、通りを行きすぎる買い物客たちに視線をやっている。

 石畳の道には、荷駄を牽く牛馬の蹄の跡が残って、だらだらと轍が続いている。

思い思いに手作りの木札をかけた店からは、店主たちが、それぞれの商品を売り込むため、むせび泣くような独特の節回しで、呼び込みを繰り返している。

 ポーションと魔導書を売る店では、漆黒の夜の衣に身を包んだ老婆が、老眼鏡をずり上げながら、膝に乗せた稀覯本に視線を落としていた。

 買い物かごを抱えた小母さんたちが、店の軒下で井戸端会議に興じていた。

退屈した子供たちが、石畳の上を駆け回っている。

 ヴァルデス公国の公都ヴァイスベルゲンの巷というべき街並みであった。

一人の若い女性と、その妹か、姪っ子の様に思える少女が並んで歩いている。

 年かさで背の高い女性は、帽子から垂れたベールで顔を覆っているが、紗の薄絹越しにも、彼女が抜群の美貌に恵まれた女性であることが容易に伺われた。

 わずかに遅れて付き従う少女は、彼女よりわずかに背が低く、上品で端正な顔立ちは、少女の出自が貴族か、それに相当する高い身分の出身であることを如実に示していた。

 二人とも処女雪のような純白の肌をしていて、その淡い蒼の双眸は、彼女たちが

北方エフゲニアの血を享けていることを雄弁に語っていた。

 太陽の光を浴びて、少女の金色の髪が炎のように輝いた。

誰もが一目で魅了されるほどの、美しい容姿をした女性たちであった。

 それだけに誰もが危うさを感じたことだろう。

ヴァイスベルゲンの繁華街には、一歩、横道に入り込んだだけで、強力な武器や魔導書、禁止薬物を密売する店、公国では非合法とされる奴隷商や鑑札を持たない私娼窟など、怪しい店が軒を連ねていた。

 そんな猥雑とした巷に足を踏み入れるには、この二人の女性はあまりにも異質で、無垢であり過ぎるようだった。

 事実、日の差し込まない裏通りの影から、二人の女性を値踏みするかのような、鋭い視線が飛んできた。

 一見してまともな人間ではない男たちが、二人の女性に鋭い視線を飛ばし、何事か、ひそひそ声で話し合っている。

 もし、この二人の女性を手取りにできれば、獣のような欲望を吐き出す相手としても、誘拐して身代金を要求する対象としても、奴隷商に売り飛ばす商品としても、最高に魅力的な存在であったろうが。

 しかし、しばらく会話を交わしてから、この男たちは影の中に消えた。

あまりにもあからさま過ぎた。

 二人の高貴な女性たちの買い物の邪魔をしないように、隠密裏に護衛が付いていると考える方が、合理的であり、自然なことだった。

 ずっと危険と暴力の中で生き抜いてきた男たちには、まるで野獣の本能の様に、危険を嗅ぎ分け、それを回避する能力が自然に備わっているのだった。

 そして、男たちの判断は全く、正しかった。

この美しい女性たちは、ヴァルデス公国で内務省の重職を担うグアルネッリ伯爵家の一族であったからだ。

 現グアルネッリ伯爵家の当主、ギデオン・グアルネッリの妻、アリーチェ・グアルネッリは、傍らの少女ににこやかに笑いかけた。

 まるで、初春の微風そよかぜのように、温かく、優しい微笑であった。

「たまには下町を散策するのも、気分が変わっていいものね」

 少女が答えた。

「はい、義姉ねえ様」

 少女は、義姉を見上げて、白い歯を見せながら答えた。

その動きで、少女の金色の髪がさらさらと肩口に流れ、太陽の光を浴びて、燃え立つ炎のように輝いた。

 アリーチェが、ザザの髪に口付けした。

「あなたって、どうしてこんなに可愛いのかしら… 私ね、小さい頃から、ずっとかわいい妹が欲しかったのよ。私の家は、私の他は、みんな、男の兄弟しかいなかったから、姉や妹のいる友人たちが羨ましくて仕方がなかった」

 少女は、朱色の唇をうっすらと開いて笑った。

それは、まるで薔薇の蕾がほころぶかのようだった。

 その唇から、吐息のような甘やかな声が漏れだしてきた。

「お聞きしてもよろしいですか、義姉ねえ様」

 アリーチェは、少女にその薄青い瞳を向けた。

「何かしら」

「どうして、ギデオン兄様の誕生日プレゼントを買うのに、態々わざわざ、公都の下町まで足を運ぼうと思われたのですか。商人たちをお屋敷まで呼べばいいと思うのですが」

 グアルネッリ伯爵令夫人、アリーチェは、くすくすと笑った。

「だって、それじゃ、つまらないでしょう。あの人は、ギデオンはヴァルデス公国でも最も裕福な大貴族の家に生まれた人なのだから、物心つく前から、それこそ贅の限りを尽くした贈り物をもらってきたでしょうからね」

「そうですね」

「だから、今回は二人だけで、あの人への心のこもった贈り物を考えましょうってこと。ありきたりな品物ではあの人は驚かないでしょう。私ね、あの人が目を丸くするようなプレゼントを贈りたいのよ」

「分かりました、義姉ねえ様」

 語り合う二人の女性の姿は、名工の手になる一幅の絵画のようだった。

その時、うっすらとした霧が、足元に忍び寄ってきた。

 アリーチェが、怪訝な表情になった。

「……」

義姉ねえ様?」

 まるで白い幕が、建物や立木を覆っていくかのように、霧は少しずつ、濃さを増していき、街並みはその輪郭があいまいなものになっていく。

 遠景が白くぼやけていく。

ヴァイスベルゲンの下町は、少しずつ、乳白色の闇に飲み込まれていった。

 アリーチェ・グアルネッリと同行の少女は、湿気を帯びた空気が肌にまとわりつくのを感じた。

「この霧、魔力を帯びているわね…」

 アリーチェの美しく秀でた額に、皺が刻まれた。

「えっ」

 少女は、アリーチェの言葉の意味を図りかねてそう言った。

「あなたは『魔核』を持っていないから、知覚できないかもしれないけど… この霧は人為的なもの… 『闇』属性の魔術師マージが生み出した魔法の霧だわ…」

 ホワイトアウト。

まるで町全体が、白い絵の具で塗り潰されたかのようだ。

 両側から視界が少しずつ狭まり、真っ白な壁が左右から迫ってくる。

アリーチェともう一人の少女は、いつの間にか、自分たちの周辺から一切の異音が失われていることに気が付いた。

 二人は、まるで純白の深い穴の中へ落ち込んでいくかのような錯覚をおぼえた。

今や、濃密な霧の壁が、左右に立ち塞がり、二人の女性の前には、一本の細い小道が形成されていた。

 それは、二人を目的の場所へ導いているかのようだった。

少女の方も、尋常ならざる事態が出来しゅったいしていることを認識したようだった。

「どうしますか、義姉ねえ様」

「何者かの術中に落ちたことは間違いないけど、下手に動くとその方が危険ね。濃霧の中に入り込んで、視界を奪われるのは致命的でしょうし…」

「はい」

 アリーチェは、ほとんど氷のような冷たさを感じるほどの気品ある美しさをたたえ、その立ち姿は、冬枯れの庭園に咲く白い薔薇のようだった。

 アリーチェは、またくすくすと笑った。

「かなり腕のいい魔術師マージね… 遠くから、そいつの視線を感じるわ… 相当な距離から、魔法を仕掛けてきている… いわゆる工作のプロってやつかしら…」

義姉ねえ様」

「心配しないで。あなたは私が守ってあげるから」

 少女のペールブルーの双眸が丸くなった。


…僕を守るって?


 アリーチェ・グアルネッリともう一人の少女は、まるで二人のために敷かれたかのような「いざないの小道」を辿って、歩を進めて行く。

 明白な悪意を持った人物、それも一流と呼べる能力を持った魔術師マージの手中に落ちたことは間違いないのに、アリーチェにしても、もう一人の少女にしても、その顔におびえた表情は、全く見られなかった。

 視界が不意に広がった。

せり出すように左右に立ちはだかっていた乳白色の壁が、さっと後退した。

 二人の女性の前に、大きく扉が開け放たれて建築物が屹立していた。

恐らくは、何かの倉庫であっただろう。

 脅えた様子も見せず、アリーチェ・グアルネッリともう一人の少女は、黙ったまま、倉庫の扉を潜る。

「これは、これは…」

 下卑た歓声が、二人の女性を歓迎した。

「あの男の言ったとおりだぜ。ここで待っていれば、俺たちが見たこともないような美女と美少女が向こうからやって来るってな…」

 倉庫の中には、霧は入ってこない。

アリーチェ・グアルネッリは、自分が十名ほどの野卑な男たちの視線を浴びていることに気が付いた。

 どこから見ても真面まともな生き方をしている男たちではなかった。

男たちの一人が、血走った目を剥いて二人の女性を見詰めていた。

「こいつァ、上玉だ… こんな綺麗な女ども、これまで見たことがねェ…」

 別の男が生唾を飲み込む音が聞こえてきた。

アリーチェ・グアルネッリは、静かに声を発した。

「あなた方、私たちがグアルネッリ伯爵家の人間であることを分かっているのかしら。グアルネッリ家は、代々、ヴァルデス公国の内務卿を務める大貴族なのよ。その私たちに不埒な行動に及んだら…」

 嘲笑が返ってきた。

一人の男が、腰に佩いた皮の鞘から、ナイフを引き抜いた。

 アリーチェに見せ付けるように、ナイフの背に舌を這わせる。

「それがどうしたよ? 貴族が怖くて、ヤクザ者が出来るかよ」

 どうやら、首魁らしい男がアリーチェに視線をやった。

「態度に気を付けるんだな、アリーチェ・グアルネッリ伯爵夫人。あんたらの運命は、今、俺たちのたなごころの上にあるってことを忘れるな」

「…人違いってことはなさそうね。それで、あなた方、私たちをどうしようっていうおつもりかしら」

 首魁は、フンと鼻を鳴らした。

「あんたの肝が太いってことだけは、認めてやるぜ。まァ、あんたら大貴族にとっては、俺達なんぞ、足の下の泥にしか見えねェんだろうけどな… 心配するな、殺しゃ死ねェよ。売春宿に売り飛ばしたりもしねェ。ま、いわゆるかどわかしってやつだが、グアルネッリ伯爵家に身代金を要求したりもしねェから安心しな」

「…私たちそのものが、目的という事ね。さしずめ、私を誘拐して、私の夫、ギデオン・グアルネッリ伯爵を脅迫しようという事かしら」

 首魁の男は、腹を揺すって嗤った。

「察しがいいな。賢い女は嫌いじゃねェぜ。あんたほどの美形なら、尚更だ。悪いことは言わねェから、黙って言う事を聞くんだな。でねェと…」

「でないと?」

「俺らみんなして、あんたの隣にいる娘を凌辱してよ。その後、その娘をあんたの目の前で、ばらばらに斬り刻んでやるぜ。あんたにゃ、辱めを受けるくらいなら自決する覚悟があるかもしれねェが、そのせいで、自分の妹? 姪っ子? どっちにして大事な人間が最悪の死にざまを晒すことには、我慢が出来ねェだろう?」

 首魁は、アリーチェの傍らの少女に目をやった。

こんな状況なのに、くだんの少女の目には何の恐怖も怯えもうかがえなかった。

 それが、少しだけ気になったが、自分たちの方が圧倒的に有利な条件にあることには間違いなかった。

「あんたに選択肢はねェぜ、アリーチェ・グアルネッリ伯爵夫人。おっと、魔法は無しだ。あんたが魔法で俺たちを何人か斃せたとしても、こっちには十人からいる。痛い思いをするだけさ。ツァイガーとかいう毒針も捨ててもらおう。でねェと、あんたが見ている前で、その娘を輪姦まわして、その後、手足をバラバラに切り刻んでやる。はったりだなんて、思うなよ」

「…あなた方の中に、魔術師マージはいないようね。この霧を張り巡らせた魔術師マージがあなた方にこの誘拐を指示した黒幕ってことらしいわね。私たちをここまで誘導し、あなた方にこの場で待てと指図した人間がそいつね」

 首魁の男は、舌打ちした。

「俺ァ、学がなくてよ… 長々とくっちゃべるのは得意じゃねェんだよ。お喋りはこれで終了だ。確かにそいつからまとまった金をもらって仕事を受けた。アリーチェ・グアルネッリには絶対に手を出すなって条件でな。しかしな、そっちの娘に関しては、何の指示も受けてねェ。俺ら、ここんとこ、女日照りでよ。まァ、俺らだと女と遊ぶにしても、精々、安い売春宿の淫売くらいだ。俺ら、誰もその娘みたいな、若くて上等な女を抱いたことがねェ。この俺にしてから、その娘を見てると、堪らねェ気分になってきやがるぜ」

 しかし、少女の薄青い双眸は、自分が置かれている状況が全く分かっていないかのように、澄んだ湖のような静謐さを湛えたままだった。

「……」

 金髪の髪の少女は、倉庫の内部にちらと視線をやった。

倉庫の片隅に、建築用と思われる土砂がうずたかく積まれている。

 朱で掃いたような少女の唇が、薄らと開かれた。

「…第一質量マテリア・プリマ

 首魁の男が、少女の言葉を聞き咎めた。

「何だと? お前、今、何と言った?」

 アリーチェが、少女の横顔を見やった。

「お頭、もういいでしょう。俺ら、もう我慢がならねェ…」

「ああ、こんな上玉を前にすりゃ、もう辛抱なんかできねェや…」

 情欲に身を焼かれた男たちが、舌なめずりをしながら、金髪の少女を取り囲む。

「お頭、そっちの貴族の奥様にゃ、手出しが出来ねェんでがしょ?」

「せめて、こっちの娘は俺らの自由にさせてもらっても罰は当たらねェでしょ?」

 金髪の少女が、ふっと嗤った。

それは汚れない天使のような微笑であった。

 それがさらに獣のような男たちの欲望をそそった。

「生憎だけどね…」

 金髪の少女がそう言って嗤った。

「僕は男に乱暴される趣味は持ち合わせていないのでね…」

 男たちは、息を飲んだ。

それは、少女の声ではなく、まだ十代と思しき少年のものであったからだ。

「ザザ君」

 アリーチェが、少女に声をかけた。

それは、少女ではなかった。

 ゴーレムマスター、ザザ・グアルネッリは、隠密行動をとるとき、女装することが多い。

 それは、その存在を秘すべきゴーレムマスターとして、ザザが活動の際によく採用するやり方であった。

 「アリーチェ義姉ねえ様を脅迫した罪は、万死に値する… 死んでもらうよ、お前たち…」

 首魁の男が怒鳴った。

「そいつは、グアルネッリ伯爵家のゴーレムマスターだ。殺せっ、殺すんだっ、そいつがゴーレムを起動させる前にっ」

 だが、手下の男たちは逡巡した。

今までその少女に乱暴しようとしていたのだから、事態の急変に頭が付いていかなかったのだ。

 少女に扮したザザ・グアルネッリの唇から、ゴーレムを起動させるための「鍵言キーワード」が発せられた。

「tessara panton rhizomata(テッサラ・パントーン・リゾーマタ)…」

 続いて、ザザは「第一質量マテリア・プリマ」を励起させる「鍵言キーワード」を唱えた。

「クリエイト・サンドゴーレム」

 そして、ザザは最終的な「命令オーダー」を与えた。

「殲滅せよ」

 倉庫の片隅に積まれていた土砂が、うねうねと蠢き始めた。

命なき土塊、砂粒がゴーレムマスターによって、仮初めの命を吹き込まれ、ゴーレムマスターの命令を実行すべく、地上から起き上がった。

 ゴーレムマスターに与えられた最初の命令、「殲滅せよ」しか理解出来ず、その命令を完遂するまで決して止まることのない人工の怪物、ゴーレムがゆっくりと男たちに向き直った。

 首魁の男が、眼を剥いた。

「ああああああ… 御終いだ…」

 何処から見ても、幼さを残す美少女にしか見えないゴーレムマスター、ザザ・グアルネッリが莞爾と笑った。

義姉ねえ様、しばらく目を瞑っていてくださいますか」

 しかし、アリーチェ・グアルネッリは言下にそれを否定した。

「駄目よ、ザザ君。義姉ねえ様、そんなことは許しません」

 あまりに意外な返答に、さしものザザ・グアルネッリは耳を疑った。

「えっ」

「ザザ君、少なくとも私の見てる前で、あなたに手を血で汚すような真似をさせる訳にはいきません」

 アリーチェ・グアルネッリは、瞑目して呪文を唱えた。

「『闇』系魔法、ヒュプノスの午睡ごすい

 ザザ・グアルネッリは、息を飲んだ。

「アリーチェ義姉ねえ様、一体、何を…」

 ザザは、自分が猛烈な眠気に襲われるのを感じた。

ザザは、自分を囲む男たちがばたばたと倒れ伏すのを感じた。

 「ヒュプノスの午睡」は、魔法の六大属性のひとつ、「闇」系の魔法で、その場にいる者たちを深い微睡まどろみに陥れる補助魔法である。

 攻撃魔法を補佐するものとはいえ、熟練の魔術師マージが用いれば、それは相手を致命的な状況に追いやる。

 何しろ、眠りに落ちるという、全く無抵抗な状態へ相手を追い込むからである。

「アリーチェ義姉ねえ様…」

 深い催眠魔法にかけられ、その場に崩れ落ちようとするザザの身体をアリーチェが抱き留めた。

「ごめんね、ザザ君… でも、私はあなたが人を殺すところを見たくないのよ…」

 ザザ・グアルネッリが魔法の眠りに陥ることで、ザザが起動させたサンドゴーレムもゴーレムマスターから与えられた疑似生命を失って、元の土砂に還ってしまった。

 打撃でも魔法でも、いかなるダメージを与えることが出来ないゴーレム。

このゴーレムを撃退する方法は、その創造主、ゴーレムマスターを殺すか、失神させるかしかない。

 つまり、ゴーレムマスターの意識を途絶させるしか方法がないのだった。

そしてそれは、ゴーレムマスターを眠らせる事でも同じ効果を得られるのだった。

 首魁の男を初め、アリーチェ・グアルネッリとザザ・グアルネッリ、大貴族グアルネッリ伯爵家の一族を誘拐しようとした男たちは、鼾をかきながら、寝汚いぎたなく、床に転がってしまった。

 アリーチェは、自分たちがいる倉庫を囲む魔力の霧が、急速に後退していくのを感じ取った。

 霧の魔法を行使した術者が、それを解除して逃走を図っているのだ。

アリーチェは、艶然と嗤った。

「あらあら、今更、逃げ出すおつもりかしら。あなたには色々と聞きたいことがあるのだけどね、おほほ」

 アリーチェは、右手の掌を上に向けて、フッと息を吹きかけた。

その掌から、黒い蝶が舞い上がった。

 黒い蝶は、アリーチェの頭上を離れ、倉庫の屋根を超えて彼方へ飛び去った。

その方向には、犯行の失敗を確認して逃走を図る一人の魔術師マージがいた。

 闇色の寛衣ローブに身を包んだ男は、身を翻して、複雑に入り組んだ下町の裏通りを駆けに駆けた。

 黒い蝶が、その男の背中に張り付いた。

これもまた、「闇」系の魔法のひとつであった。

 やがて、ヴァルデス公国内務省の最高責任者、内務卿の地位を襲うギデオン・グアルネッリ伯爵の令夫人、アリーチェ・グアルネッリ。

 彼女もまた、公国の闇に住まう怪物の一人であることは間違いなかった。

「……」

 アリーチェは、安らかな寝息を立てるザザの顔を愛おしそうに見詰めた。

あどけない表情で夢の世界に漂う義弟、ザザ・グアルネッリは、嫋やかな少女の姿をとっているだけあって、全く天使そのもののようだった。

 このあどけなさを残している少年が、ゴーレムマスターとして、これまでどれほどの苦痛を味わってきたか、それを思えば、哀れさと愛しさが心の裡に溢れてきて、アリーチェは、もう一度、ザザの身体を優しく抱き締めていた。


 事件の顛末を聞いて、ギデオン・グアルネッリ伯爵は激怒した。

あろうことか、伯爵がこの世で最も愛する二人の人間がとてつもない危険に晒されたのだ。

 それは、国内の治安を管理する内務省の次期最高責任者であり、ゴーレムマスターであり、「エメスの指輪」の所有者であるギデオン・グアルネッリ伯爵、つまりはこの国で最も危険な男の瞋恚いかりであった。

 内務省の職員たちは、普段は全く温厚な上席者であるギデオン・グアルネッリ伯爵が、家族を傷付けられそうになった時、正気を失うほどの怒りに駆られることを良く知っていた。

 内務省に連行された男たちは、あろうことか、ギデオン・グアルネッリ伯爵が溺愛しているアリーチェ・グアルネッリ夫人と腹違いの弟、ザザ・グアルネッリをかどわかそうとし、更には、凌辱まで試みたのだった。

 ヴァイスベルゲンでも、そこそこ名の通った破落戸ごろつきどもの集団と、それを使嗾したらしい魔術師マージの男。

魔術師マージの男は、アリーチェ・グアルネッリが行使した『闇』系魔法によって追跡され、破落戸ごろつきどもと日を置かず、内務省によって捕縛された。

 アリーチェ・グアルネッリが放った「黒い蝶」が、それであった。

 こいつらの目的が、アリーチェとザザを使って、ギデオンを脅迫しようとした以上、この国の転覆を試みる闇の勢力の一味と断言してよかった。 

 男たちへの尋問は、苛烈を極めた。

エフゲニア帝国時代から受け継がれた、ヴァルデス公国で最も残忍かつ効果的な拷問が、容赦なく男たちに加えられた。

 ギデオン・グアルネッリ伯爵の怒りが自分たちに向かないよう、担当者たちは血眼になって、男たちの口を割らせ、何とか情報を引き出そうとした。

 しかしながら、どれほど痛めつけられても、男たちからは何も引き出せなかった。

それは仕方のない事であっただろう。

 アリーチェとザザを誘拐しようとした男たちは、大金を貰っただけで重要な情報は何も教えられていなかったからだ。

 また、霧の魔法を行使した魔術師マージは、強力な魔法で意識を封印されていたし、いかなる苦痛にも耐えられるように痛覚を含む感覚を遮断されていた。

 それを部下たちから知らされても、ギデオン・グアルネッリは怒りを治めようとはしなかった。

 連日に及ぶ過酷な尋問で、息も絶え絶えになった男たちを冷然と見下ろしながら、ギデオンは、男たちの上に左手をかざした。

 ギデオンの左手の指で、金色の指輪が怪しい光を放った。

「エメスの指輪」の起動であった。

 内務省の職員たちは、息を飲んだ。

ヴァルデス公国が誇る四つの「魔神器」、その一つである「エメスの指輪」が実際に用いられるのを見るのは、当然、初めてのことであった。

 「エメスの指輪」から、一片の金の光が放たれ、男たちへ向かってゆらゆらと漂い始め、やがて光は身体の一部に付着した。

「…金砂サビア・ドラータだ」

 職員の一人が、恐怖に強張った喉から声を絞り出した。

ギデオン・グアルネッリは、氷のような双眸で男たちを眺めた。

「もう、こいつらには用はない。外に捨ててこい」

 職員たちは黙って、ギデオンの命令に従った。

「エメスの指輪」がどのような「魔神器」で、「金砂サビア・ドラータ」 にどのような作用があるのか、職員たちは代々の先輩たちから聞き及んでいた。

 それは背筋が凍るほど恐ろしいものであり、男たちの運命がどのような顛末となるかは、想像もしたくない事だった。

 

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