第28話 余韻


 ザ・プラザのカーネギースイートからスティーブンが署に連行されると、犯行現場であるホテルの一室は嘘のように静かになった。


 そこへ、今度はFDNYの紺色の制服を着た救急隊員が入ってきた。

 ジョンソンは自分の警察バッジを見せて救急隊員に状況を説明し、ミゲルの体調を確認するよう救急隊員に指示した。

 ミゲルの意識ははっきりしており本人も特に不調を訴えてはいないが、くっきりと首に残る絞められた痕が痛々しい。


 応急処置を終えた救急隊員が「命に別状はありませんが、筋肉弛緩剤を使われているようなので念の為に病院で精密検査を受けたほうがいいと思います」とミゲルに告げると、「それでしたら当家には精密検査を行える主治医がいます。そちらで診てもらえるように手配しても構わないだろうか?」とロバートが提案してきた。

「ご本人がそれでよければ構いませんが、どうしますか?」と救急隊員がミゲルに尋ねる。

「彼の主治医に診てもらうよ」とミゲルが言うと、救急隊員は「分かりました」と応急処置をした器具を片付けて「それではお大事に」と言って部屋を出ていった。


 まだ弛緩剤が抜けきっていないミゲルは思い通りに身体を動かすことができないでいた。

 シーツに包まれているが、その下は全裸のままだ。


 ロバートがミゲルを抱きかかえ、立ち上がった。


「ジョンソン刑事、このままミゲルを家に連れて帰ってもいいだろうか。途中、私の主治医のところに寄って問題がなければそのまま帰宅したいのだが」

 ロバートがミゲルを抱きかかえたままジョンソンに尋ねる。

 ジョンソンは「ああ、構わない」と短く答える。「ただ、事情聴取をしたいので明日にでも署に来てもらえるか?」と続けた。

 ミゲルが何か答えようとしたが、それを遮ってロバートが少し強い口調で言う。

「署に伺うのは身体に負担がかかり過ぎる。私が責任を持って彼を保護するので、できればそちらが訪ねてきてくれないだろうか。私の家を事情聴取に使ってくれて構わない」

 ロバートの真意が読み切れず何か裏があるのではないかと疑っているジョンソンは返事を渋っていた。

「もし、どうしても署に足を運べというのであれば明後日以降にしてくれ。明日は少しでも休ませてやりたい」

 ロバートの言葉にこれ以上の譲歩はしないという意志を感じ取ったジョンソンは、「分かった。事情聴取は明日の午後お宅で行おう」とロバートに返した。

「では明日お待ちしております」と言うと、ロバートはミゲルを抱え部屋を出ていった。


 ロバートを見送ったジョンソンは、今まで自分がかなり緊張していたことを思い知らされる。

「ロバート・ブレン。あいつといるとどうも調子が狂う。表情から本心が読めないし、こちらの考えなどすべて読まれている気がして気味が悪い」

 ジョンソンはブツブツと文句を言いながら、鑑識チームの到着を一人部屋で待っていた。


     ****


 ロバートはミゲルを腕に抱え、ザ・プラザの豪華な廊下をエレベーターに向かって歩いていた。抱えられたままのミゲルは妙に大人しく一言も文句を言ってこない。不思議に思ったロバートがミゲルの顔を覗き込む。


「どうした、具合が悪いのか?」

 まだ弛緩剤が残っているのか、ミゲルは視線をロバートに向けただけで身体は動かさずに「別に」とそっけない返事をした。


「そうか、ならいい」

 そう答えたロバートの表情はほとんど変わらなかったが、微かに安心しているようにも見えた。

「今から私の主治医のところに行ってきみを診てもらう。何も問題がなければそのまま家に帰ろう。事情聴取は明日の午後のようだからそれまでゆっくり休むといい」

 ロバートは真っ直ぐ前を向いたまま淡々と言葉を続ける。ロバートの腕の中で下からロバートの顔を見上げていたミゲルとは視線を合わせることはなかった。


「両手が塞がっている。悪いがエレベーターのボタンを押してくれないか」

 そう言われたミゲルは無言で手を伸ばし、エレベーターの下矢印ボタンを押した。

 エレベーターが到着し、中に乗り込むと今度は「地下だ」と言うロバートの言葉にミゲルは素直に従って地下のボタンを押した。自分の腕の中でやっと懐いた野生動物のように振る舞うミゲルがおかしくてロバートの唇が少し綻んでしまった。それを見た勘のいいミゲルは、どうしてロバートがこんな表情をしたかをすぐに理解したが、助けてもらった恩があるので今日だけはロバートに突っ掛からず素直に言うことを聞こうと譲歩している。


 エレベーターが地下に到着してドアが開くと、ロバートは迷うことなく従業員専用の通用口へと向かう。警官やメディアでごった返している正面玄関からシーツに包まれたミゲルを抱えて外に出ようものならメディアの格好の餌食となってしまう。それを避けるためにロバートは従業員しか利用しない通用口を選んだ。高級ホテルでは有名人のお忍び行動の扱いも慣れたもので、先ほど突入の際に解錠してくれた支配人がさりげなく「お帰りの際は従業員の通用口をお使いください」と耳打ちしてきたのだ。


 通用口を抜けるとブレン家の運転手がリムジンのドアを開けて主人の到着を待っていた。

「あんたのところの使用人は本当に優秀だね」

 ミゲルが称賛とも嫌味とも取れるようなトーンで呟く。

「自慢の使用人、というより家族だね。私も彼らの良き主人であるために日々努力をしているんだよ」

 ミゲルの皮肉のニュアンスを感じ取っているにもかかわらずロバートは穏やかな言葉でミゲルに答える。


 ロバートはミゲルを抱えたままリムジンに乗り込み、運転手に主治医のクリニックに向かうよう指示する。

 リムジンが滑るように動き出すと、腕の中のミゲルが口を開いた。


「いい加減放してくれないかな」

「えっ?」


 そう言われたロバートは最初何を言われているのか分からなかったが、すぐに「ああ、そうか」と腕の中のミゲルを解放してシートに座らせた。全裸に薄いシーツだけを纏い、首には応急処置のガーゼが巻かれたミゲルは痛々しいのに、美しい姿勢で瞳は真っ直ぐ前を向き、「誰にも傷つけさせない」という鎧で精一杯虚勢を張っている。アドレナリンが大量放出されている今はその虚勢も保てているが、数時間もするとそのアドレナリンも潮が引くように減少して体調は悪くなるだろう。


 主治医のクリニックに到着し、ロバートがミゲルを再び抱えて運ぼうとすると、ミゲルはロバートの手をピシャリと叩き「自分で歩ける」と睨んできた。まだアドレナリンは効いているようだ。


 予め事情を伝えてあった主治医は手際よくミゲルを診察する。

 首の怪我に丁寧に処置を施し、他に怪我がないかを診る。いくつか擦り傷が見つかったが大きな怪我はなく、主治医は擦り傷にも大げさなくらいの処置を施した。ミゲルが「そんな傷なんか手当てしなくても大丈夫だ」と言ったが、ロバートの「ちゃんと手当てしてもらえ。その方が早く治るし痕も残らない」の一言で大人しくなった。普段のミゲルならロバートの一言で自分の意見を引っ込めることなどない。アドレナリンが切れかけ体調が悪くなってきているのだろう。本人にはその自覚はないようだが。


 帰宅後すぐにミゲルが眠れるようにロバートが主治医に鎮静剤を打つように頼んでも、ミゲルはジロリと睨むだけで文句を言ってくることはなかった。


 全裸のままだったミゲルに主治医が医師用のスクラブを貸してくれた。

「傷は大したことないけど裸のままでは風邪を引いてしまうよ。怪我よりもそっちの方が厄介だからね」と優しく微笑みながらスクラブを差し出した主治医に「ありがとう」と無防備な表情で答えたミゲルを見て主治医が意味深な視線をロバートに向けてきた。


(おいおい、ロバート。きみは一体どこでこの子を見つけてきたんだい?)


 主治医のそんな心の声が聞こえてきそうな視線をまともに浴びたロバートは、「先生、胡散臭い表情はやめてください」と口に出して制した。

 鎮静剤が効いてきたミゲルは少し虚ろな表情になっていた。

 主治医とロバートとの会話などもう耳には届いていない。


「ミゲル、立てるか?」

 ロバートがミゲルの顔を覗き込むと、ミゲルはとろんとした表情で「うん」とだけ答えた。

「家に帰ろう」というロバートの言葉でミゲルは何とか自分で立ち上がったが今にも眠りに落ちそうなミゲルの足元はおぼつかなく、ロバートが支えてやっと歩けている状態だった。

 ロバートに身体を預けて歩いているミゲルと彼を大事そうに支えているロバートを見送りながら主治医はニヤニヤと笑っていた。

 視界の端ににやけ顔の主治医を捉えたロバートは、主治医に鋭い流し目を送り「邪推は無用」と主治医の好奇の視線を一蹴した。


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